002 そして、蜂谷はいなくなった
次の日の17時。
「テストはどうだった?」
「と……とりあえず……全部通った……みたいです。」
蜂谷の問いに、疲労困憊という様相で凛が応える。
「よしっ!いやぁAI様様だな。AIがテストコード全部書いてくれてなかったら流石に間に合わなかったよ。」
国会答弁の資料をAIがつくる今、人間がテストコードを手で書く時代は終わりを告げようとしていた。
「本当ですよね。ネットじゃ私たちが手でコードを書く最後の世代なんて言われてますよ。」
「ははっ。それは胸熱だね。」
軽い冗談を言い合えるほどには余裕が出てきた蜂谷と凛。
ふたりは当然の如く一睡もせず夜通し作業を行い、何とか納品の1時間前にシステムを完成させることに成功していた。
「それじゃあ、あとは任せても良いかな?」
「もちろんです!蜂谷さん、この度は本当にありがとうございましたっ!!」
「はーい。冴島さんも今日はゆっくり休んでねー。」
深く頭を下げる凛に背を向け、オフィスから出ていく蜂谷。
「よし。」
蜂谷がオフィスを出たのを確認して頭を上げた凛は、先方への納品作業を終わらせようとデスクに戻った。
するとそこに話しかける者がいた。
「冴島さんも蜂谷にヘルプしてもらったの?」
相手はあまり話したことはない、凛の向かいのデスクの先輩社員、小野寺だった。
「小野寺さん。はい、そうですけど……私も?」
凛は小野寺の言葉に少しひっかかりを感じた。
「あー、知らなかったんだ。蜂谷ってさ、仕様把握するスピード半端なかったでしょ。」
小野寺が訳知り顔でニヤリと笑う。
蜂谷の能力を間近で見た凛は共感の意を示した。
「そう……ですね。最初は冗談か何かだと思ってたんですけど、短時間で複雑な仕様を把握しちゃって、それがきちんとコードにも落とし込まれてて、正直――」
詰まる凛の言葉。
その続きを口にしたのは凛ではなく小野寺だった。
「人間業じゃない。」
「っ!?ど、どうしてっ!」
目を丸くして狼狽る凛に、小野寺は笑って返す。
「はははっ。蜂谷にヘルプ入ってもらった人はみんな口を揃えてそう言うんだよ。」
「蜂谷さんってそんなに色んなプロジェクトのヘルプに入っているんですか?」
凛は、昨日あの場に居合わせた蜂谷が特例的に別プロジェクトのヘルプに入ってくれたのだと思い込んでいたが、違った。
「そうだよ。どんなに複雑な仕様でもすぐに理解しちゃうからバグにもよく気付くし、再利用性高いコード書くから、全体の進捗がどんどん上がっていくんだよなぁ。」
蜂谷にとって、昨日から今日にかけての作業は日常の一コマでしかなかったのだ。
それはあまりにも異質であまりにも異常なことだった。
「たしかに。私も蜂谷さんの書いたコードのおかげですごく開発スピードが上がりました。」
「あれってさあ、俺たちが必死で歯車作ってる間に、蜂谷はスポーツカー作ってるような感覚になるんだよなぁ。」
小野寺の表現はストンと凛の胸に収まった。
確かに蜂谷と自分にはそれほどの差があり、見ている景色が別次元と言えた。
「蜂谷さんってそんなにすごい人だったんですね。」
凛は蜂谷に対する評価を更に大幅に上方修正する。
しかし、それに対して小野寺の反応は芳しいものではなかった。
「まあだからこそ便利に使われちまってんだけどな。」
「どういうことですか?」
意味深な発言に食いつく凛。
「あいつの徹夜さ――」
少しのためを置いて放たれた言葉は――
「昨日で何回目だと思う?」
「っ!」
――凛にとっては衝撃的なものであった。
「ぶっはあぁぁぁぁ!!」
エレベーターホールでエレベーターを待ちながら、蜂谷は大きく息を吐き出していた。
「4徹で体力の限界とは……これが三十路の壁か。」
後輩である冴島の前ではカッコつけていたものの、既に蜂谷は限界を迎えていた。
到着したエレベーターに、蜂谷は身体を引きずるようにして入っていく。
「学生時代はここから満員御礼の居酒屋バイト行ったりしてんだよな。昔の俺、化け物だな。」
学生時代の自分の無双っぷりに戦慄を抱きながら、1階行きのボタンを押下する。
「にしても冴島さん、毎回あんな嫌味言われてたのかな。いっつもイヤホンして作業してるから気づけなかった……可哀想なことしたなー。」
昨日、山崎からの嫌味に耐える冴島さんの顔を思い出しいたたまれない感情になる蜂谷。
昨日も一昨日もその前もオフィスの隅っこで作業していたにもかかわらず、イヤホンから音楽を流しながら作業していたため周りの音など全く聞こえていなかったのだ。
「明日は久しぶりの休暇だし、寝溜めでもするかー。」
16連勤な上に最後は4徹までしてしまったため、蜂谷の身体は細胞レベルで睡眠を欲していた。
久しぶりに味わえる自宅のベッドの心地よさを思い浮かべていると――
――唐突に、視界が激しく揺れた。
「うおっ!地震か?」
あまりの激しい揺れに地震を疑う蜂谷だったが――
「あれ?」
揺れているのは間違いないが、それは蜂谷の視界に限定されていた。
(揺れてんのは俺……か……)
経験したことのないほど激しい目眩に襲われた蜂谷は立っていることができず、その場に受け身も取れず倒れ込んだ。
(流石に無茶しすぎたかぁ。)
その思考を最後に、蜂谷は意識を手放した。
社員が意識を失って転倒。
本来であれば即刻救急車を呼ぶべき事案ではあるが、果たしてそうはならなかった。
なぜなら、1階に到着したエレベーターの中には――
――誰の姿もなかったのだから。