001 社畜たちの夜
「お先でーす。」
「お疲れしたー。」
定時になったことで次々と人がいなくなっていく。
オフィスには最終的に男女が一人ずつ残るのみとなった。
「チッ」
社員が退勤する様子を眺めていた男が舌打ちをする。
「あぁ……あ゛ぁ゛っ!あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ!俺もたまには定時で帰りてぇなぁっ!」
「っ!」
大音量の悪態がオフィス中に響きわたる。
それにびくっと反応したのは、オフィスにもう一人残っているメガネをかけた女だった。
男は席を立ち、女の方へ向かって歩いていく。
「冴島さぁ。コード書くしか能のないプログラマ風情がプロジェクトのボトルネックになってんのおかしいと思わねえの?」
「す、すみません。精一杯頑張ってはいるんですが――」
「精一杯頑張ってたら俺はとっくに帰れてんだよっ!!頑張ってねえから俺は帰れてねえんだろうがっ!」
男は近くにあったデスクに拳を叩きつけ、冴島の謝罪などなかったかのように怒鳴り散らす。
「……すみません。」
「謝ってねえで手を動かせよ、ドン臭えな。だいたいお前は――」
(また始まった……)
女、冴島凛は、最近オフィスから人がいなくなると毎日のように上司である山崎から叱責を受けていた。
開発が遅いという内容だったが、しかしその根本的な原因は凛にはなかった。
山崎と凛が担当しているプロジェクトは、当初ベトナムにオフショア開発を依頼する予定だったのだが、山崎が評価面談に向けた実績づくりのために無茶なスケジュールを組んでしまい、その結果開発を受けてくれる企業が見つからなかったのだ。
それでも規模的には小さいプロジェクトだったので、少しの無茶――会社に3泊4日――をすればやれないこともない作業量だった。
しかしこの話はそこで終わらず、先方からの追加要望が次々にあがっていることが凛を苦しめていた。
本来ならスケジュールを伸ばして対応するか、追加要望を跳ね除けるという対応が必要なのだが、山崎はあろうことか何の条件もなしに追加要望を全て受け入れてしまったのだ。
そうした背景があったため、定時後わざわざ別プロジェクトに、ましてや揉めることが十中八九確定しているプロジェクトのヘルプに入ってくれるような者は現れなかった。
「おい聞いてんのかっ!」
「……すみません。」
手を動かせと言ったり、話を聞けと言ったり支離滅裂な言動に辟易としていたその時――
「山崎さん、それパワハラですよ?」
誰もいないと思っていたオフィスだったが、隅のデスクでキーボードを叩く男がいた。
「あまりにも直球ど真ん中なパワハラだったんで録音しちゃいました。」
男はキーボードから手を離すと、録音中のスマホを山崎に見せるように持ち上げた。
「蜂谷、てめっ――」
「冴島さん。」
「え?は、はい。」
蜂谷は山崎の怒鳴り声を遮り、凛に話しかける。
「そのプロジェクトのドキュメント、全部僕に送ってくれる?」
「え、なんで――」
「まあまあ、良いから良いから。」
「おい蜂谷てめえ何考えてんだ。つかさっきの録音消せや。」
再度山崎が凄んでくるが、蜂谷はそれすらも取り合わずデスクの缶コーヒーをあおる。
「あの、送りましたけど……」
「ありがとう。」
そう言ったきり、静かにドキュメントに目を通していく蜂谷。
凛はいたたまれない気持ちになって席を立ち、蜂谷のデスクまで歩いていきひそひそ声で話しかけた。
「蜂谷さん、何をされてるんですか?」
「仕様を把握してるんだよ。」
「仕様を、ですか?」
凛には蜂谷の言っていることが理解できず、困惑は更に深まっていく。
すると突然、蜂谷は目線はそのままに山崎へと声をかけた。
「山崎さん。先方からの追加要望って昨日受けたのが最後ですか?」
「あ?なんでそんなことお前に教えなきゃ――」
「あー、そういうのいいんで。言わないと録音データ消してあげませんよ。」
蜂谷はスマホを指でつまんでヒラヒラと揺らして見せる。
「ぐっ、くそが……昨日のが最後だよ。」
「ふむふむ。冴島さん、追加要望を含めた全体の進捗は何パーくらいですか?」
「え?えーと……追加要望を全部含めると40%くらいです。」
「オーケー。納品はいつ?」
「それは……」
蜂谷の問いかけに凛は言葉をつまらせる。
無理もない、それはあまりにも無謀な挑戦だった。
「あ、明日です。」
「何時?」
「え?」
てっきり呆れられると思っていた凛は、蜂谷から即答で追加の質問がくることなど予想できず、とっさに聞き返してしまった。
「明日の何時まで?」
蜂谷の再度の問いかけによって凛の脳が再起動し始める。
「えっと、えーと……じゅ、18時です!」
「よし。ギリギリ間に合うね。じゃあ僕が追加要望のとこ全部やるから、冴島さんは元々開発予定だった機能をお願い。」
期限を聞いた蜂谷はてきぱきと作業分担をして、キーボードを打ち始めた。
「そんなの無茶ですよ!わ、私が言うのもなんですが、最低の最低でもあと3日はないと形にもなりません……」
勢いで反駁し始めたはいいものの、絶望的な状況を再認識したことで凛の声は次第に萎んでいった。
「そ、それに、今回のプロジェクトは追加要望の方が仕様が複雑で大変なんです。ドキュメントを眺めたくらいですぐに開発するなんて不可能ですよ。」
凛が言うように、このプロジェクトは追加要望の方が元々作る予定だった機能よりボリュームが大きくなっていた。
それもこれも開発コストなど何も考えていない山崎のせいなのだが、そんなことは意にも介さず蜂谷はキーボードを叩きながら口を開いた。
「俺、昔から仕様把握だけは得意だったんだよねー。」
「……?昔から、ですか?」
「うん。どんなゲームでもどんな家電でも、説明書パラっと見たら操作できたんだよ。」
「それは、すごい……んですかね?」
蜂谷の言っていることがすごいことなのか分からなかったため、思わず疑問形になってしまう。
「ははは、まあ特技としては微妙だよね。でもこの業界だと役に立つんだなこれが。」
システムの開発において、仕様をしっかり把握せずにコードを書くとバグが混入する確率は高くなるものである。
仕様が複雑であれば複雑であるほどその確率は跳ね上がる。
だからこそ素早く、完璧に仕様を把握できるという特技は、IT業界においては確かに重宝されるものであるといえた。
今回のプロジェクトでいえば、数日かけて徐々に説明していかなければ頭が追いつかないであろうほどに、仕様は複雑なものとなっていた。
「いや、ですからっ――」
「まあまあ、良いから良いから。とりあえず冴島さんは今できることを全力でやってくれれば問題なし。」
更に食い下がろうとした凛を、蜂谷はどうどうと落ち着けて作業に戻るように促した。
「……それもそうですね。作業に戻ります。」
今言い争っても何の生産性も無いと気づいた凛は、蜂谷の言う通り、今自分ができる精一杯を出し切るために席へと戻って行った。
「おいおい、なに話まとめようとしてんだよっ!おまえなぁっ、いきなり――」
これまで黙っていた山崎だったが、話が終わってしまいそうだったので慌てて怒鳴り込むも、またしても蜂谷に言葉を遮られてしまう。
「あれ、まだいたんですか?山崎さんにできること無いんで帰っていただいて大丈夫ですよ?ていうかなんで今まで残ってたんですか?」
「おまっ!くそがっ!蜂谷てめぇっ!勝手に首突っ込んできといて明日終わりませんでしたなんて言ったらぶっ飛ばすからなっ!」
そう言って山崎はオフィスを出ようと蜂谷たちに背を向ける。
「はーい。あ、そうだ。明日1日僕と冴島さんに話しかけてこなければ録音データは消しますのでー。」
早足で歩いていく山崎の背に、蜂谷が思い出したように告げた。
その言葉を聞いた山崎は一瞬静止するも、本日3度目の「くそがっ!」を放ってオフィスの扉を乱暴に閉めながら去って行った。
凛は、山崎が完全にオフィスを去ったのを確認し口を開いた。
「蜂谷さん、私が言うのも何ですが、録音データ消しちゃっても良いんですか?山崎さんのことだから嫌がらせとかありそうですけど。」
山崎の性格上、パワハラの証拠となり得る録音データさえなくなれば、自分を脅した蜂谷に対して嫌がらせを仕掛けかねない。
凛は暗に、録音データは消さない方が良いのではと蜂谷に助言していた。
「え?あぁ。録音データは消すよ。約束だからね。ただし――」
「ただし?」
「社長に録音データを送らないなんて約束はしてないから。ほいっと、セット完了。」
蜂谷は芝居がかった動きでエンターキーをターンと鳴らした。
「……?何をしたんですか?」
蜂谷の意味深な動きを疑問に感じた凛が尋ねる。
「明日の18時に録音データが社長に送られるようにセットしたんだ。早く送りすぎても面倒なことになりそうだからね。」
「……たしかに。」
録音データを今すぐに社長に送ってしまっては、関係者として呼び出され事情を聞かれることになるだろう。
そうなってしまってはプロジェクトの納品に間に合わない。
だからこそ蜂谷は、納品期限である明日の18時にメールが送られるようにセットしたのだと凛は推測した。
「それじゃ邪魔者も消えたところで――楽しいデスマーチの始まりだ。」
そう嘯く蜂谷の目が笑っているように見えて、凛は底知れぬ恐怖を抱いた。