琥珀色に揺れる
スーパーで買った、変な味のする安いウイスキーを舐めながらネットサーフィンをしていると、ふと机の上のスマホに着信があった。机の上で振動するそれを取り上げて画面を見ると母からだった。普段はほとんど連絡してこないのにどうしたんだろうと思い、通話ボタンをタップする。
「もしもし、なに?」
『あんた、ミキちゃんのこと聞いた?」
「ミキちゃんって、あのミキ?」
『そうよ、その様子だと知らないらしいわね』
僕はグラスを持ち上げ、溶けた氷によって薄くなっているウイスキーを舐めた。いきなり電話をしてきたと思ったら、元気だったの一言もなくミキの事を言ってくるなんて、何かあったのだろうか。
母が僅かに声のトーンを落とし、言う。
『あの子、亡くなったらしいわよ』
僕は危うくグラスを取り落としてしまいそうになり、慌ててテーブルに戻しながら「え?」っと声を出した。
ミキが死んだ?
「亡くなったって、なんで?」
『あの子、少し前から闘病してたらしいのよ。ほら、小さい頃から身体弱かったじゃない』
「……葬式は?」
『身内だけで済ませたらしいわ』
「そう」
それから母は、ご飯食べてる? だとかたまには帰ってきなさいよとか、母親の定型文のような事を言って通話を切った。僕はスマホを落とすように机に置き、椅子の背もたれに全体重を預けて黄ばんだ天井を仰ぎ見る。照明の人工的な冷たい光が目を刺激してじんっと鈍い痛みを感じた。
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ミキとは幼稚園からの幼馴染で、家が近いこともあって幼い頃はよく二人で遊んだりしていた。公園の裏の小さな雑木林の中を探検してみたり、小川に石を投げ込んで橋を作ってみたり、そんなことをして遊んでいた。小学校に上がり、病気がちでよく学校を休んでいたミキにはあまり友達が出来なかった。そんなミキに友達が出来るように手を引っ張って鬼ごっこに無理矢理参加させたりした。
同い年で、血は繋がっていないけれど僕とミキは本当の兄妹の様だった。
僕が兄で、ミキが妹。身体が弱く、自分の殻に籠ってしまいがちな妹を引っ張っていく頼りがいのある兄。それが僕達だったと思う。
やがて小学校も卒業して中学校に上がった。その頃になると今まで男も女も混ざって遊んでいたのに、いきなり壁が出来上がったように男は男で、女は女でグループを形成して生活をするようになった。必然的に僕とミキも今まで程一緒に行動することはなくなった。
ませた奴らは恋愛なんてものをし始めて、僕も例にもれず異性を――否、ミキを意識し始めた。前髪を伸ばし、制服を着崩し、精一杯にミキの気を引こうと足掻いていた。今思い出すと背中に変な汗を掻き、そこらを転がりまわりたい衝動に駆られてしまう。結局ミキに想いを打ち明けることがないまま、中学生の時期もあっという間に過ぎ去ってしまった。
高校は別々になった。僕は家から一番近い公立高校に、ミキは元々頭が良かったから少し遠い私立の高校にそれぞれ入学した。その頃になるともうほとんど一緒に遊んだりすることはなくなって、家を出る時間も違うから滅多にミキと顔を合わせなくなった。それからしばらくして家の近くのコンビニでミキを見かけた。しばらく見ない間にミキは驚くほど綺麗に、可愛くなっていて、髪も長くなっていた。そして、その横にはミキと同じ学校の制服を着た知らない男が立っていた。男は僕なんかじゃ到底かなわない位整った容姿をしていて、その上さり気なくミキの事を気遣っている様子で、優しそうだった。楽しそうに談笑する二人をしばらく眺め、僕は何も買わずにコンビニを出たのを覚えている。
そして、あの男が彼氏なのかただの友達なのか確認できないまま、僕は県外の大学に入学した。そこでもミキとは離れ離れだった。
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今思い返すと、あのコンビニで見たミキが最後の姿だった。あの年相応に成長し、そして可愛くなっていたミキの姿を思い出そうとするが、しかしそれは朽ちかけた写真のように細部がぼんやりと朧げになってしまっていた。それなのにミキの隣に居たあの男の子とは鮮明に思い出すことが出来る。お洒落な髪型に高い鼻、すらりとした長身痩躯の身体に同性の僕から見ても魅力的な優しい笑顔。
ふと、ある事を思い出し、スマホを手に取った。通話履歴を遡っていく。
「あった」
半年ほど前、一度だけミキから電話が掛かってきたことがあったのだ。その時は期限が明日に迫ったレポートをかたずけることに必死で手を離すことが出来ず、後で掛けなおそうと思って放置してそのまま忘れてしまっていた。
……もし、この電話に出たのならミキが死ぬ運命を変えることは出来なくとも、会うことが出来たのではないか? そんなふうに思い、僕は過去の僕自身をぶん殴ってやりたくなった。そんなレポートは放っておいて今すぐにその電話に出ろ。そう言ってやりたくなった。
グラスの中に残ったウイスキーを一息で飲み干した。強いアルコールが喉を灼き、一瞬にして身体が火照ってくる。こみあげてくる吐き気を無理矢理に殺して、空になったグラスにウイスキーを注いだ。琥珀色の液体が揺れ、そして収まった。
ミキは死ぬ間際、愛する誰かに看取られたのだろうか。家族か、あるいはあの時に見た男か。それともあの男ではない、別の知らない男なのか。もし男だったのなら、何故それは僕じゃないのだろう。弱った彼女の、その白く柔らかく、とても小さな手を取って涙を流せなかったのだろう。
もし過去、何処かでミキに想いを打ち明けていたのなら、未来は違っていたのだろうか。お涙頂戴の恋愛小説のように、寄り添って彼女の最期を看取ることが出来たかもしれない。
いや、そんなことよりもミキと幼馴染じゃ無ければ、ミキの事を好きにならなければ、僕とミキは関わることなく何処かで他人が死んだだけの事になっていたのではないか。
小さく溜息を吐いた。何はともあれ僕の中で長い間ずっと燻っていた小さな火種のような恋は叶わなくなってしまったのだ。
僕はウイスキーを舐めた。やっぱりこのウイスキーは変な味がする。薬品のような、変な臭みと言うか独特の味がするのだ。ボトルを持ち上げ、商品名を読んだ。もう、このウイスキーをリピートすることはないだろう。