第1話 天国
「次――東屋幸助」
「……はい」
「輪廻への復帰を許可する。右の扉から出て行きなさい」
ドンッ、と大きな音を立てて何かの書類に判が押された。俺の顔写真の貼られた書類は隣に山となっていた紙束の上に重ねられ、次の男が入場してくる。俺の順番はもう終わりらしい。
ここはどこでなんなのか、まだ理解できていない。気付けばふわふわした気分で裁判所のような建物で名前を呼ばれるまで順番待ちをさせられていた。
「あのー……」
「質問は向こうで担当の者にしなさい」
「ああ、はい」
事態不明のまま、裁判長の迫力に押され、妙に軽くなった体で言われた扉をくぐる。しかし扉の先には誰もいない。
担当がつくとか言われた気がしたけど、この階段を上がった先だろうか。目の前には終わりの見えない巨大な階段が空に延々続いている。
今立っている場所もお空の上っぽいが……何と言っても雲の上だし。足元の雲は不思議なもので、どうしてだろう、足が沈まない。天国なのか夢の世界なのか判断がつかない。
ともあれ、他になにもない場所のようなので階段を登り始める。
そして階段を登りながら考える。
俺は――東屋幸助は死んだ。そう、死んだはずだ。
確か歳は61才だった。なぜか体が若い頃のものに戻っているが、老いと病で働けなくなるまで精一杯生きた……とは思う。記憶がぼんやりとしてやや自信がない。
まあ死んだのは早いと言えば早いという程度。十分生きたと言える年齢だろう。病院のベッドで家族に囲まれて死んだ気がする。死に方も多分悪くなかった、と思う。……しっかり思い出せないのは何故だろう。適当に記憶を探る。
「にしても長い階段だな」
登れど登れど階段の終わりは見えてこない。
実はここは地獄で、罪を償うまでこの階段を登り続けなければならないのだろうか。不安が浮かぶ。
救いは体が若返っていることだ。疲れがまったくない。最後に比べて視界もきれいに広がっている。生前を思い出そうとしても記憶は出てこないものの、考え事はしっかり出来ている。
節々の痛みや狭くて暗い視野、いつも股間に残っている残尿感、そういった煩わしいものが消えている。若い体ってのはそれだけで素晴らしい。
変わらない景色に意識を放り捨てて歩いていると、いつの間にか階段は終わっていた。一瞬意識が空を飛んでいた間に景色が変わった。広々とした平坦な雲の上を歩いている。後ろを振り返っても階段はない。周囲には知らない人達がくつろいでいた。なぜだかどこを見ても二人一組になっている。
柔らかな雲の上で寝転がる人。
展望台にある双眼鏡のようなもので下を覗いている人。
何もしないでベンチに座って青空を眺めている人。
二人組の内の一人はそんな感じでぼーっとしている。
もう一人は変なお面をつけて、そのぼんやりした人を……監視しているのか見守っているかしている。
何故顔を隠しているのだろうか。聖書や昔話に出てくる天の御使いとは大分印象が違うが、いわゆるそういう存在なのかもしれない。
一つだけ言えるのは、俺と同じ死人みたいな人も、お面の人も、みんな暇そうだってこと。あまりに暇すぎて生気が無いといった様子だ。祭りの片付けを終えた後の公園のような物寂しい無常観が漂っている。
とりあえず誰か捕まえて聞いてみよう――考えていたら、向こうからこれまた天国らしくないお面をつけた男が手を振りながら走ってきた。
「いや~、出迎え遅れちゃってすいません。もっと時間がかかると思っていたもので~」
「……あなたが担当の人?」
「はい、案内人を務めます、親しみを込めてセイとお呼び下さい。セイテンのセイですハイ。ハハハ、日本の天使っぽい名前でしょう?」
縁日の出店で売っているようなお面の男は、おちゃらけた年若い声で答えた。
人気ゲームのキャラクターでもなく、戦隊モノの主人公でもなく、今日日見なくなった古臭いデザインのお面。
体格から性別は分かっていたが、中身までふざけた男が天国の案内人とは……なんとも狐か狸にでも化かされている気分だ。
俺が隠すつもりもなく怪訝な視線を向けてやっても、セイはまったく意に介さず説明を始める。
「さきほどの階段は死を認識するためのものです。自分の死に際を混乱なく自覚すると、ここに来るようになっています」
「幻覚のようなものか」
「んー幸助さん、その言い方はよろしくないですね」
セイは「ちっちっちっ」と舌打ちをして指をふる。
死んだことは理解しても受け入れられているかは別の話。そう言った死人への配慮は見られない。案内人を名乗る割に、神経を逆撫でする人をおちょくった声と話し方だった。
しかし俺は天国と言われても来たばかりで何が何やら分からない。案内人の機嫌は損ねても面倒が増えるだけ。手が出ないように腕組みをして話の先を促す。
「ハイ、そしてここが第六転生門前、憩いの広場でございます」
「憩い……休んでいるというより放心している廃人にしか見えないが」
「皆さん自分の人生を見つめ直しているのでしょう。転生門をくぐるには生前の未練を自力で解いてからでなければなりません。魂に漂白が必要なほど大罪を背負ってなくても、魂が穢れていないとは限りませんからね」
なるほど、と言いかけたところで、お面の奥の目が笑っていないのに気づく。
セイに言われるまで、転生門と呼ばれた巨大な門の存在を認識できなかったことと、その門に向けて足が一切動こうとしないことにも。
「死んだ時とは違う姿で、かつ自然に門をくぐらずこの場で止まったということは、幸助さんにも解消すべき未練があるということですね、ハイ」
セイに指摘され、胸の引っかかりが今の状況ではなく、思い出せない記憶にあるのだと気がついた。確かに何か思い出さなければいけないという想いが胸に渦巻いている。
しかしそれが未練なのかどうか、死ぬ直前のこと以外、記憶に靄がかかってどうしても思い出せない。
考え事をする時の癖で眉間にしわを寄せて視線を下げていると、セイが体を曲げて顔を覗き込んでくる。
「いるんですよねぇ~自分の未練すら分からないって人。でもまあ、よろしければ望む物を用意致しますよ。あちらの方々のように地上の様子を見ることもできますし」
足元の雲から生えた双眼鏡で雲の下を見る人達が示される。
下界――天国から人の住む世界が見られるらしい。
「……いや、まずは一人静かなところで考えたい」
「コーヒーでも飲みながら?」
「そうそう、ってよく分かったな」
「ありますよ~幸助さんに合いそうな場所、それではついてきて下さい」
そう言って、セイは雲の絵が描かれた三角の小さな旗を取り出した。ツアーガイドのような軽快な足取りで「迷子にならないでくださいね~」と歩き出す。
態度もアレだが無駄に足が速いのもムカツク。若い頃の体で置いて行かれないよう早歩きをしていたのに、どんどん放されそうになる。
セイが色々な方向を指さしながら、天国を紹介するようなセリフを吐いていても全然頭に入ってこない。気づけば俺は息を荒げてセイの背中を追うのに必死になっていた。
「ハイ到着~」
「はぁ……ここは…………ファミレス?」
「ですね、見ての通り」
案内された目的地、見かけは日本中どこにでもよくあるファミリーレストランだった。
「こんな雲の上に建っていると違和感がすごいな」
「一応、第六転生門は昭和30年から50年代に生まれた方のための時代形態をとっているのですけどね」
セイの後に続いて中に入ると、席はやっぱり普通のファミレスのものだった。ビニールレザーの安っぽいソファーがテーブルを囲みボックス席になっている。席の敷居が天井まで届き壁となり全席簡易な個室のようになっていた。
「そう言えば、広場でもみんな会話もなく一人だったな……もしかして案内人以外と話したらいけないのか?」
「来たばかりの方はそうですね。自らの未練を理解するまでは誰かと話すのは禁止です。最低限、自分の魂は自分で磨かないといけません」
「へー」
そういうものか、と適当に返事をかえす。
まずは、お店の体を取っていたのでメニュー表を開いてみる。するとそこには大きく『ドリンク無料セルフサービス!』の寂しい一文があるだけだった。
「飲み物だけ……しかもセルフか」
「まあね、天界はのんびり飯食わす場所じゃありませんので。ここではお腹も空きませんし」
確かに小腹が空いていたわけでもない。話していると、喉が渇いたような気分になるだけだ。
それでもわざと肩を透かされた、やり場のない感じにイライラが溜まる。こういう時はコーヒーだ。砂糖を山盛り入れたコーヒーにかぎる。席を立ち、奥のドリンクバーでホットコーヒーを淹れてくる。俺はスティックシュガーを三本破いてかき混ぜた。
向かいの席では、セイが砂糖もミルクも入れずにブラックで静かにコーヒーを飲む。お面を上に半分ずらして見せる口元が、妙に楽しそうな笑みを浮かべていることに気づき、無性に苛立ちを掻き立てる。
「ふぅ……それでは準備も出来たようなのではじめましょうか」
「ん?俺が生前を思い出すだけじゃなくて、お前と何かするのか?」
「いいえ、ワタシは案内人。輪廻の説明以外、死者にかけるべき言葉は持ち合わせておりません。ただ幸助さんは後悔が強……記憶にかかった霧が深いようなので、道具に手助けしてもらいましょう」
そう言ったあと、どこから取り出したのか、セイはテレビのリモコンを握っていた。
またまたふざけた声色で「スイッチオーン!」などと叫ぶと、天井からこじんまりした薄くて小さいテレビが降りてきた。ファミレスというより個室シアターのようだ。
「この施設に備わったテレビでは生前の様子を見ることができます」
「……テレビで?」
「はい、これは天の記録から死者の未練に関わる出来事を映すテレビです」
セイの操作で画面が点灯すると、目つきの悪い若い男が映し出された。