朝の一幕
「哲郎。哲郎ってば」
「……うぅむ」
遠くから速水の声が聞こえたような気がした。だけど、視界は真っ暗だった。
「哲郎。遅刻するよ、哲郎?」
速水の声は、とても心配げだった。
いやはや、珍しい夢を見るものだ。
「哲郎ってば! 遅刻するよ」
「あいたっ」
頬に走った痛みで、唐突に俺は眠りから覚めさせられた。驚きながら周囲を見れば、呆れ顔の速水が制服姿で俺の前に座っていた。
「もうっ」
速水は怒っていた。
「昨日の試合で疲れたことはわかっているけど、遅刻するよ」
速水は言った。
しばらく思考がまとまらなかったが……突然、俺は笑い出した。
「アハハ。そうか。これは夢か?」
「は?」
「だってそうだろう。俺、いつももっと早起きだぞ。いつもあんたより早く起きていたし……そうだ。これは夢なんだ」
「夢じゃない」
「なら、なんであんたが先に起きてる?」
「今日の朝練習、試合明けだから休みだってあんたが昨日言ったじゃない?」
「そうだったか?」
そうだったかも。
「それで、たまにはゆっくり寝たらって昨晩あたし言ったじゃない」
「……そうだったかも?」
そういえば、昨晩そんな話があったような。
「あれ。じゃあ今は……」
恐る恐る時計を見ると、時刻は確かに速水が心配する通り遅刻ギリギリの時間を示していた。
「わおっ!」
「わおっ、じゃないでしょ。早く着替えないと」
「そうでした」
これまで体験したことがない世話しない朝に、俺は凄く慌てながら身支度をした。
「ほら、行こう」
「おう」
玄関で速水を待たせて、思えば初めて二人並んで学校に向かった。時間がギリギリということもあって、少しだけ小走りだった。
遅刻ギリギリの電車に乗り込むと、速水は息を切らして扉にもたれていた。
「あんた、小走りで息あがっているじゃないか。もっと運動した方がいいぞ」
「遅刻しそうになった男に言われたくない」
「うむ。正論だな」
俺は同意しながら頷いた。
速水は呆れたようなため息を吐いて、俺の顔を見て何かに気付いたようで、背伸びしていた。
「ほら、短髪のくせに寝癖付いてる」
「ん、そうか?」
速水の手櫛が、俺の髪を数度撫でた。俺の寝癖は頑固なようで、速水は眉をひそめながら苛立った顔でしばらく俺の寝癖を直すために格闘していた。
丁度その時、電車が次の駅に滑り込むため、減速を始めていた。
「うわわっ」
速水は背伸びしていたためにバランスを崩して、俺の胸にダイブしてきた。
「大丈夫か」
慌てて、俺は速水の腕を掴んだ。
「え、ああ。うん」
「もういいよ。学校着いたら水で直す。ありがとうな」
「そ、そだね……」
速水の顔が赤かった。
「どしたの」
「えぇと……近いなあって思って」
俺は首を傾げた。
「寝癖直そうとした頃からこれくらいの距離だったぞ。何を今更」
「忘れて。そして離れよう?」
「え、ああ。うん」
彼女の腕から手を離すと、途端に彼女は俺に背を向けた。
なんだ。
小走りくらいで息を切らすから体力不足を心配したが、意外にも俊敏に動けるではないか。
ガハハ!
それから当分、無言で電車に揺られて、最寄り駅に辿り着いた俺達は電車を降りた。
それからは、速水もようやく快復したのか快活に世間話を行った。
学校へは、なんとか間に合うことが出来た。
そんな学校で一番に目を引いたのは。
校舎に『祝 野球部甲子園出場!』の横断幕が下げられていたことだった。




