つまりルーティーンはイチローではないってことだろう。
昼ご飯を食べた後、俺は二人分の食器を洗っていた。
ご飯を振舞ってもらった恩で、というわけではない。速水の奴、平然と食器をシンクに重ねたままにしようとしたから、たまらなくなった俺が自発的に始めたことだった。
「悪いわね。片付けしてもらっちゃって」
「構わん。浴槽とトイレも掃除しておく。あとで掃除機もかけるから、その時は今みたいにぐうたらしていないでくれよ」
「何よ、これから掃除するの? 昨日入居したばかりなのに」
「関係ない。休みの日に部屋の隅々を掃除するのが、俺のルーティーンだ」
俺は食器を洗い終わり、水を布巾で拭いて、食器棚に片づけた。
そのまま手を拭いて、風呂場の手前に置いてある浴槽掃除用の洗剤とブラシを持ち、風呂場に入った。
「ルーティーンって……。おバカな武田君、ちゃんと意味わかってる?」
「あたぼうよ」
さすがにそれは、俺をバカにしすぎではなかろうか。
「つまり、イチロー、ってことだろ?」
風呂場で、少しだけ大きめな声で俺は返事した。
遠くから誰かのため息が聞こえた。
そんなどうでも良い会話はおいておいて、俺は先ほどの宣言通り部屋の隅々を掃除して回った。今俺がしている行為がルーティーンかはいざ知らず、それでもこれから暮らすことになる部屋が清潔である状態が保たれるというのは、それだけで清々しい気持ちになるものだった。
……って、俺一週間もすれば、この部屋から退去するじゃん。
その重大事実に気付く頃には、すっかりと部屋の掃除は終わり、後には埃一つない清潔な部屋だけが残っていた。
「満足した?」
居間から出てもらっていた速水が、壁にもたれながら少しだけ優しい声で俺に言った。
「……さっきまでは」
「さっきまで?」
「俺はなんとバカなのだろう」
自分の頭の悪さが、少しだけ恨めしかった。
速水は、何を今更と言いたげに、ため息を吐いていた。わずか一日と少しの付き合いだというのに、どうやら彼女はすっかり俺の性格を理解しているらしかった。
* * *
周囲が薄暗くなる頃まで、アパートの庭でバットを黙々と振り続けた。アパートの住民と度々すれ違っては挨拶をしていたおかげか、既に数名の住民は俺を見かけただけで優しい眼で会釈をするようになっていた。
多分、熱心な野球坊主、くらいに思っているのだろう。
ワンルームのこのアパートは、当然一人暮らし専用だ。……特例を除いて。
それなのに、こうして接しやすい人柄の住民が多いというのは、不動産屋の広告ではわからないこのアパートの利点だと思った。
「ただいま」
「ん」
部屋の扉を開けると、速水は既に夕飯の支度を始めていた。昼間とは違い、とびきり大きな悲鳴を上げることはなくなった。ようやく俺が部屋にいるという状況に慣れたのかもしれない。
と思ったが、このアパートに入居してから俺はといえば、庭でバットを振るか、ランニングで道に迷うかしかしていないな。
「マーボーナス?」
「正解」
速水は黙々と調理を進めていた。さすが、シェフを目指すだけあって、彼女の料理捌きは手慣れたものだった。思わず、見惚れてしまいそうだった。
「昼間見て、あんたの食べる量見誤ってたから、少し多めにした」
「さすがっす」
重そうなフライパンを振り回す速水に、俺はグーサインをしていた。
「でも、電気コンロで良かったのか?」
ふと思い、俺は言った。
「どういうこと?」
「いや、シェフを目指すような人なら、電気コンロじゃなくてもっと火力のあるコンロで調理したいとか思わなかったのかなって」
「ああ、そういうこと」
速水は調理しながら、続けた。
「本当は家でなんて調理する気、あんまりなかったからね」
「なして?」
シェフを目指してる癖に、それでいいのか。
「調理をするのは好きよ。だけど、洗い物は大嫌い」
「あんた、シェフ向いてないんじゃないのか」
「だまらっしゃい」
と言われても、シェフって別に、調理だけするわけじゃないんじゃないの。良く知らないけど。
「一人分の洗い物って、結構面倒じゃない。スポンジに洗剤染み込ませても、それこそ洗い出したら数分で終わる。そのためだけに色んな準備をして、なんだかとんでもなく無駄な作業をしている気分になるの」
「へえ」
「でも、二人分なら話は別。量もたくさん作れるし、誰かさんは洗い物もしてくれるし」
「俺、来週にはいなくなるけど」
「じゃあ、洗い物と夕飯だけは食べに来ていいわよ」
速水は笑いながらそう宣言した後、何故だか頬を突然染め出した。
「か、勘違いしないでよね」
「何を?」
「あたしは別に、あんただからご飯に誘ったわけじゃないから。別に、二人分作ることになるなら誰でもいいの。わかった?」
「おう。わかってるけど」
この女、突然何を捲し立てると思ったら、そんなこと言われるまでもないではないか。
「……そう素直な反応されるのもムカつくな」
「何? 声、小さくてわからない」
「聞かなくていいわよっ」
速水は、コンロに向かいフライパンを振りながら、背後を指さした。
「まだもう少し時間かかるから、お風呂入ってきなさい」
「えぇ、ご飯食った後も走り行くんだけど」
「いいから。あんた汗臭いっ!」
そうかなあ。
ジャージに鼻を当てて匂いを嗅ぐも、自分では中々自分の体臭はわからなかった。まあ、同居人を不快にさせるわけにもいかないと思ったので、俺は渋々言われた通り、風呂場に着替えを持って向かった。
「ああ、あとそうだ」
調理する速水が、俺に声をかけてきた。
「まだ、何か?」
「あんた、この後また走りに行くんでしょ」
「そうだけど」
「ご飯食べた後で、スマホのアプリの地図の使い方教えるから」
「なんで?」
「これ以上、道に迷われてもこっちも困るの」
「そういうもん?」
「そういうもん」
「ふーん」
そういうもの、か。
「じゃあ、頼もうかな」
まあ、覚えて損なものでもないだろう。
「ありがとうな」
俺は風呂場に入る間際、速水に向けてお礼を述べた。
「世話が焼ける人だなあ、もう」
速水の言葉は、フライパンの上に乗るナスの焼かれる音でほとんどかき消された。俺の耳に届いたのは、彼女の声色だけ。
どこか楽しそうな、声色だけだった。




