同居生活、終わりました。
「ただいま」
練習終わり、夜の十時くらいに、俺はアパートに辿り着いた。部屋の外からも香ばしい匂いが嗅ぎ取れて、空腹に飢えた腹が大きな音で鳴った。
「おかえり。遅かったね」
「ずっと練習してたぞ」
「うわあ、初日から? そりゃあ大変だったね」
「え、なんで? すごい楽しかったけど」
目を丸めて言うと、速水は俺に対して、そういえばこういう奴だったなとでも言いたげにため息を吐いていた。
「まあいいや。ご飯食べよ?」
「あれ、あんたも食べてないのか」
「うん。待ってた」
「えぇ、別に待たなくても良かったのに。お腹空いてただろ」
「まあね。だけど、折角なら二人で食べたいじゃん」
はにかみながら言う速水に、俺は曖昧に頷いた。そうかなあ。腹が減ったらすぐに満たしたくなるけど、俺なら。
「今、まったくあたしの話に納得してないでしょ」
「おお、なんでわかった」
「あんた、すごい顔に出るんだもの」
なんだか照れるな。
俺は頭を掻いた。
「とりあえず、お風呂入ってきなよ。ご飯よそっておく」
「ありがとう。そうするよ」
速水と微笑み合って、俺は着替えを持って風呂場へ向かった。
数十分汗を流して温まって。
風呂から上がると、居間の机にはご飯が並べられていた。
「今日はシチューだよ」
「おお、本当か」
「なんだかいつもよりも嬉しそうだね」
「俺はこの世でシチューが一番好きだからな」
胸を張ると、速水は呆れたように苦笑していた。
「そっか。また今度作ろっかな、そんな話を聞いたら」
「そうしよう、そうしよう」
ピンポーン
……今後への期待を膨らませる、そんな真夜中の来訪だった。
「誰だろ」
「出てくる」
速水の返事もそこそこに、床から立ち上がった俺は、扉の方へ向かった。
扉の前にいたのは、
「木下さん」
このアパートの大家、木下さんだった。
「良い匂いね。シチュー?」
「はい。速水が作ってくれたんです」
「あらまあ。良かったわねぇ」
木下さんは、人の良さそうな微笑みをしていた。
「あ、木下さん。こんばんは」
「凛ちゃん。こんばんは」
「夜分に、どうかしましたか?」
「ん? 大切な話を持ってきただけよ?」
首を傾げる木下さんに倣って、俺も首を傾げていた。
「あらあら、忘れちゃった? ほら、部屋の話よ。明日で丁度一週間でしょ」
「あ」
背後の速水が声を出した。
すっかりと忘れていた、と言えばウソになる。
だけど、日数が経つにつれて仲良くなった彼女とのこの時間を、俺は……いいや、俺達はいつの間にか、生活の一部として受け止めていたのだと思った。
だから、俺達は二人して、木下さんの告げた台詞で雷で撃たれたような衝撃を浴びたのだった。
「今日予定通り、前の契約者が退去しましてね。明日、クリーニング業者が部屋の清掃をするから、明後日には武田君もそこに入居出来るわよ」
木下さんは、自分のミスをようやく取り返せたからか、少しだけ安堵しているように見えた。
「本当に、今回はご不便をかけて、申し訳御座いませんでした」
木下さんは扉の前で俺達に向かって粛々と頭を下げた。
* * *
部屋の鍵を受け取った後、木下さんを見送った俺達は、部屋で黙々とご飯を食べた。
本当に、互いに何かを口にすることはなかった。時計の針の音がやけに耳障りだったことを覚えている。
「……野球部、どうだったの?」
しばらくして声をかけたのは、速水だった。貼り付けたようなぶっきらぼうな微笑みをしていた。
「ああ、一年の中では俺が一番上手いな、ありゃあ」
「何言ってるのよ、あんた。普通科のくせして」
速水は信じていないように笑った。
本当なんだけどなあ。
「あたし、あんたと同じクラスってわかった時には驚いちゃった。だってあんた、スポーツ科だと思ってたんだもの」
我が校のスポーツ科の生徒は、全員七組に集結する決まりになっていた。
「中学時代までの俺は無名もいいところだったからな」
「そういうことは早く言ってほしかったな。そうすれば、少しは見る目変わったかも」
「見る目? ……ああ、アームバンドの件か?」
「うん。信じなかったかもなー。あんたのプロになるって夢」
速水は少しだけ残念そうに唸った。
だけどしばらくして、
「……いいや、多分なかったな」
と微笑みだした。
「あんた、いつでも自信ありげだし、多分結局あんたの口車に乗ってた」
「おいおい、それだと俺、オオカミ少年みたいじゃないか。俺は無闇やたらに妄信的に自信ある発言はしないぞ。根拠があって自信を持つぞ、俺」
「わかってるよ」
速水は続けた。
「そういうあんただから、あたしはもっとあんたのこと、知りたいと思ったんだもの」
なんだか永遠の別れを切り出してきたみたいな不快感を覚えて、俺は速水の言葉に口を挟むことが出来なかった。
「あーあ、明後日で終わりか。この生活も」
「名残惜しいか?」
「まさか。清々するよ」
「そっか」
「うん。まあちょびっと、ほんのちょびっとだけ、寂しいかな」
「なら、いいや」
「あんたは?」
「俺?」
速水は黙って、頷いた。
「俺は……」
俺は俯きながら、続けた。
「不安かな」
「不安?」
「ああ」
頷いて、俺は噴き出した。
「あんた、本当に一人暮らし出来るのか?」
「あー、また馬鹿にしてー」
速水は不貞腐れたようにそっぽを向いた。
「大丈夫。……かはわからないけど、心配はかけないようにするよ」
「大丈夫って言いきってくれよ」
俺は笑った。
速水は面白くなさそうに歯ぎしりしていた。
「あんたこそ、どうなのよ?」
「何が?」
「ご飯よ、ご飯。あたしの手料理食べられなくなって、本当に生きていけるんでしょうね? 空腹で倒れたりしないでしょうね?」
「大丈夫だ」
「なんでよ」
「学食あるからな。夕飯も食ってくればいい。今日も、実は食べてから練習した」
「へえ」
速水を論破したことに、俺は胸を張った。
「ねえ、気になったことがあるんだけど」
「何か」
「じゃあ、なんで今夕飯食べてるの?」
「そりゃあ、あんたのご飯が美味いからに決まってるだろう」
率直な気持ちを伝えると、速水は急に頬を赤く染め始めた。
「あー、本当。清々するなー。このお馬鹿さんがいなくなるなんて」
しばらくして、速水は大きめの声で宣った。
俺は、今のこの女の態度がなんだかあほらしく思って、笑った。
「明後日、荷物出すの?」
「おう。明後日は練習も休むよ」
「そう」
そう言った途端、速水は俯いた。
「あのさ……」
「何か?」
「えぇと……」
「……なんだ、どうした?」
急かしたのが良くなかったのか。
急に気でも変わったのか。
それは俺にはわからない。
「ううん。なんでもない」
でも今、俺に対して苦笑気味に顔を横に振ったこの女の顔は、言っている言葉とは裏腹に全然大丈夫には見えなくて。
だけど、俺には多分、今のこの女の気持ちを解き明かすことは出来なくて。
俺は、少しだけ居た堪れない気持ちになっていた。
その日から二日経った引っ越し当日。
予告通り、野球部の練習を休んだ俺は、速水の部屋から自分の荷物を全て引き出して隣の二〇四号室にそれらを移した。
手伝ってくれた速水は、なんだかいつもの彼女とは違って見えた。
声色は明るかったが、なんだか空元気のように見えたのだ。
荷物を移し終わって、速水が出て行って、俺は一人部屋に取り残された。
俺の父親は転勤族だった。
おかげで小さい頃から、日本各地を転々として、決まった定住地というものは持ち合わせていなかった。
だから、両親は海外転勤すると決まった際に、元住んでいた賃貸をさっさと引き払い、必要な物以外は捨てて行く、という選択肢を取ることが出来た。今の両親の本籍地は、このアパートになっているくらいだ。
そんな元住んでいた賃貸で俺が与えられていた部屋は、六畳一間。
室内でバットを振ることは出来ない。
練習器具を置くには、ベッドが邪魔でスペースが足りなすぎる。
そんな不都合で窮屈で、ただ狭いと感じた六畳一間。
奇しくも、このアパートの間取りも、当時の部屋と同じ六畳一間。
だけど、このアパートの六畳一間は……。
「広いなあ」
どうしてか、とてつもなく広く感じた。
鬼メンタル主人公のつもりで書いていますが、今後の流れを考えると、鈍感鬼メンタル主人公になりそうや
次話は今日中アップします。




