入学前日
「なあ、どっか出かけないか?」
俺が速水にそう提案したのは、入学式前日。つまり四月五日の日曜日のことだった。
「どしたの、藪からスティックに」
「明日、入学式だろう?」
「そうだね」
「入学して数日で、俺は別の部屋に移動するだろう?」
「うん。少しだけ寂しいかもしれない」
「あんた、入学したら部活より先にバイトの申請するとか昨日電車で言ってたし、バイト始めるんだろう?」
「そうだね。お母さんから仕送りはもらってるけど、少しは自立しないとなと思ってる」
「殊勝な心掛けだと思う。で、俺も入学したら野球部の練習で忙しくなる。なんでも、野球部は入学式の日当日から体験入部を開始するそうだ」
「やっぱり野球部に力入れてるんだね。……で、何だっけ?」
「どっか、出かけないか? 今日、これから」
再び言うと、速水は目を丸めていた。
「どうして?」
「俺達、同じアパートで同じ学校なわけだけど、入学したら当分、お互いに忙しくなるわけだ」
「名残惜しいとか?」
「そう。そういうことだ」
ようやく俺の意図を理解した速水は、しばらく目を丸めた後に高笑いを始めた。
率直な気持ちを伝えて、惜別のための行いをしようと思ったのに、どうして俺は今この女に笑われているのだろうか。
「ごめんごめん。センチメンタルになるあんたがおかしくて」
速水はそう言いながら、涙まで流して笑っていた。
「失礼な奴だ。折角人が誘ってるのに」
「だからごめんって。でも、やっぱりあんた本当にセンチメンタルは似合わない。ククク」
「まあ、いいか。どっか行くことは問題ないんだろ?」
「うん。是非、お願いします」
そうして、俺達は速水お手製の昼ご飯を食べた後、徒歩二十分の駅までの道のりを談笑しながら歩いた。
今日は一時間くらい電車に揺られて、隣県のターミナル駅に向かった。
どこに行きたいか、という質問に対して、速水の望んだ場所がそのターミナル駅付近にある海辺の公園だった。
地下鉄を乗り換えて、ようやくその公園の最寄り駅に辿り着いた俺達は、エスカレーターで地上に上がり、高層ビル群の隙間を縫って公園に向かったのだった。
高層ビル群の先には、この景観とは一周回ってそぐわない木々が立ち並んでいた。
「あそこだね」
速水が指さしたのは、まさしくその木々の方向だった。
逸る速水を落ち着かせながら、ゆっくりとその公園に入ると、目の前に広がったのはいくつかの船と風力発電機、そしてお目当ての海が見えた。
「すっごーい」
「こりゃあ絶景ですな」
「本当だね、来て良かったでしょう?」
「うん。少し歩こうぜ」
そうして、少し楽しんでいる気持ちを抑えながら、俺達は公園内を散歩した。日曜日ということもあってか、公園内で遊んでいる人は多かった。
ただ心なしか、どうも同じ年ごろの男女が多いような。
「忘れてた」
同じ頃、速水も同じ疑問を抱き、何かを思い出したのか、照れたように苦笑していた。
「ここ、デートの定番スポットだった」
「なんて場所連れてきてくれたんだか」
「ま、まあまあ。あたし達も端から見たらカップルにしか見えないから大丈夫!」
慌てた速水は、よくわからないことを宣っていた。途端、彼女の顔が羞恥で赤く染まった。
「ほ、ほら、あそこのホテル。あのマッカーサーも泊まったことがあるホテルだよ。すごいホテルだよね。すごいすごい」
「へえ、そうなんだ。それはすごい」
恥ずかしがって取り乱して言う割には、意外とためになる情報を教えてもらってしまった。
「そ、それでどこ行こうか。とりあえず公園出る?」
「早い早い。照れるなって。どうせ誰も俺達のことなんて見てないから」
「そ、それはそれで悔しい気もする」
なんでだよ。
混乱する速水に、俺は思わず苦笑していた。
「ほら、そんなに早く移動したいならさっさと巡ろう」
埒が明かないと思った俺は、速水の手を掴んで足早に歩きだした。
「うわっ、ちょっと」
ホテルの方から、船の方めがけて俺は歩いた。
しばらくして、なんだか大それたことをしている気がしてきたが、向こうが何も言わないからと心の中で言い訳して、俺は無心で歩いた。
そして……。
「水上バス?」
俺は、面白そうなものを見つけたのだった。
「ああ、水上バスも有名だね。ここからあの駅まで戻れるらしいよ」
「航海しながら、か」
言いながら、景観も何もない地下鉄を移動するより、よっぽど趣がありそうだと俺は思っていた。
「ねえ、乗ってみないか?」
「武田、こういうの好きなの?」
「ああ、好きだな。知らないものに触れるってのは」
「本当、ぶれないな」
言い方が気に入らなかったのか、速水はそんな文句と共に苦笑していた。
そんな彼女を見ていると、俺もなんだか可笑しくなって、微笑んでいた。
しばらく微笑みあって、俺達は手に伝わる温もりに気付いて、手を繋いでいることを思い出すのだった。
慌てて、俺達は手を離した。
「えぇと……」
居た堪れない気持ちになりながら、俺はなんと言っていいものかわからず、唸っていた。
「と、とりあえずさ。水上バス、乗ろう?」
「そうだな」
受付でチケットを二枚買った俺達は、しばらく次の水上バスが来るのを待った。それから数分後、エントランスの向こうからたくさんの降車客が楽しそうに現れた。
まもなく、アナウンスの指示に従って、俺達は水上バスに乗り込んだ。
「うわあ!」
進みだした水上バスは、一度大きくふ頭の方へ旋回してから、短めの船旅を始めたのだった。左手にはこの地域のランドマークタワーとふ頭の姿があった。海から見るこの建物達の姿は中々新鮮で、俺は思わず唸ってしまった。
「綺麗だね」
隣の座席に腰かけていた速水は、興奮しているのか身を俺の前まで乗り出して景観を拝んでいた。
「そ、そうだな」
その距離感の近さに、俺は珍しくおかしな気持ちに襲われていた。このくらいの距離、この同居生活でも極稀にあったというのに、どうしたというのだろう。
「ね、後ろのオープンデッキの方にも行こうよ」
「そうするか」
少しだけ重い気がした腰を上げて、俺は後方のオープンデッキに向かった。
そこには、より海を近くから見ようとする客がちらほらと見れた。
「海はあんまり綺麗じゃないな」
近い分、濁った海がよく見て取れてしまった。それでも、微かに香る潮の匂いに、ここが確かに海であると思わされた。
「綺麗でも汚くてもいいよ。楽しい!」
先ほどの取り乱した姿から一変、速水はすっかりと興奮気味に水上バスからの景色を楽しんでいた。
「はしゃぎすぎるなよ」
「しないよ。子供じゃあるまいし」
そういう割に、彼女ははしゃぎながらデッキからの景色を楽しんでいた。
「フフフ」
そんな俺達の様子を見て、楽しそうに微笑む夫婦がいた。
俺達は二人して、その夫婦の方を見ていた。
「あら、ごめんなさい。あまりにも微笑ましかったものだから、ついね。悪気はなかったの」
奥さんは釈明気味に言った。顔を見れば、そこまで申し訳ないと思っていなさそうだったが、確かに悪気があったわけではなさそうだ。
「初々しいわねぇ。付き合ってどれくらい?」
「つ、つき……っ!?」
奥さんの問いかけに、俺達はうろたえた。
「別に、付き合っているわけじゃないです」
「あらそう? お似合いだと思ったのに」
「……あのねぇ」
文句の言葉でも言おうと思ったが、速水が俯いていることに気付いて、それもやめた。
「あ、あの、一つお願いしてもいいですか?」
速水はしばらく迷った後、夫婦に言った。
「はいはい。なんでしょう?」
「この人との写真、撮ってくれませんか?」
「はあ?」
思わず、驚きの声を出していた。
「いいわよ。勿論」
「ありがとうございます」
俺の戸惑いの声にも介さず、女二人はスマホを手渡したりさっさとやり取りを進めていった。
「ちょい、何もそこまで」
「あんた、言ったでしょう?」
「何を?」
「……もう少ししたら、お互い忙しくなって中々会うことも出来なくなるだろうって」
「そ、そこまで言ったっけか」
記憶はどうも曖昧だった。
「だから、こ、これは思い出。これを見るたびに、こんなことあったなって思い出すことが出来るでしょ。頑張ろうって思えるでしょ」
「……そういうもんか?」
「うん。そういうもん」
「そっか」
俺は、少しだけ抵抗しようと思ったが、この場の流れを汲んで素直に言い含められることにした。
「いいかしら?」
「はい。お願いします」
速水は未だ戸惑い気味の俺を見つけて、手を引っ張った。
「ほら、近づかないと写んないよ」
その声色は、どこか楽し気だった。
「はい。それじゃあ……彼氏さん。彼氏さん」
奥さんは、困惑気味に俺に視線を寄こした。
「何か?」
「顔、硬いわよ」
「顔が硬い?」
つねってみたが、俺の顔はいつも通り柔らかかった。
「そうじゃなくてね」
「いいんです」
困惑気味の奥さんに、速水が言った。
「この人、あまり感受性豊かじゃないから」
「おい、その言い方は酷くないか?」
「本当のことでしょ?」
「否定はしない」
「ほら見たことか」
しばらくそんな不毛なやり取りをしていると、奥さんがこらえきれずに笑い出した。
「お互いのこと、良く知っているのね」
少しだけ羨ましそうに、奥さんが言った。
「そりゃあ……」
同居していますからね。
言いかけて、俺は黙った。
そうだ。
そうだった。
もうまもなく、この生活は終わる。
本来、こんなことが起こることは考えられもしなかった。
俺達はあくまで、同じアパートに住み、同じ高校に通うだけの間柄になるはずだった。
それが、一つの手違いで同居して。
気付けば、わずか数日の内に、俺は彼女とのこの生活を受け入れることが出来た。速水という人間の生態は、未だ全て解明しきれていないが、それでも彼女の性格、スキルに助けられてきた。
同居生活の終わりを、名残惜しいとすら思った。
これは名残惜しいとすら思った同居生活の思い出、か。
「……ぶっきらぼうな笑顔ね」
奥さんは少しだけ困ったように微笑んでいた。
余計なお世話だと思った。
「はい。チーズ」
ランドマークタワーをバックに、俺達は二人だけの写真を撮った。
これまでの同居生活の思い出として。
これからの生活への道しるべとして。
「後で、画像送るから」
「……頼んだ」
その会話を最後に、俺達は再び座席に戻って、船内からの景観を楽しんだ。
明日から高校生活がスタートする。
そして、それから少しして、この同居生活も終わりを告げる。
……やっぱり、どこか心の奥で胸騒ぎのような名残惜しさがあることに、俺は少し苦笑した。




