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ハンカチ  作者: 森とーま
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出会いと誘い

 赤波あかなみまさめが生まれた時には、既に赤波家の子供は六人いた。一人は生まれると同時に死んでしまったが、残りの五人は生きていた。上から順に二十一歳の兄、十九歳の兄、十八歳の姉、十六歳の兄、一番若い姉が六歳だった。父親は朴杜ぼくとという名前だったが、自分の名前の左側が気に入っていたので、子供達にも必ず木偏の付く名前を付けていた。七番目の子供が生まれた時には、流石に漢字が思い付かなくて漢和辞典を取り出した。そうして「柾」の字を選び、出生届に「柾目(マサメ)」と書くはずだったが、その場で急に気が変わって目の字を取り消した。これが赤波柾の歴史の始まりである。

 幼稚園、小学校と通う間は、聡明で真面目な少年だった。少々変わり者ではあった。歳離れた末息子として、大人の間で育った為か、子供じみた馬鹿騒ぎを嫌った。クラスの他の男子が悪ふざけをしているのを、白けた目で傍観している事が多かった。そのくせ、ふと思い立つと酷くあざとい悪戯を計画した。計画は必ず実行された。柾はよくクラスのガキ大将達を唆して手伝わせた。いつも大成功するので、ガキ大将達は柾と柾の計画する悪戯を気に入っていた。大人に呼び出されて怒られる時、誇らしげに自分が主犯だと名乗り出て謝る所も、男子達の気に入った。しかし、女子からは嫌われた。一般に女子は男子ほど無邪気ではない。女の目から見れば、柾の小賢しさは鼻に付いた。人付き合いが悪く、話し方がぶっきらぼうな所も女子達のお気に召さなかった。柾自身、家では六歳上の気丈な姉に世話を焼かれていたからだろう、女は口うるさくて煙たいものだと感じていたようだ。割と美男子なのに、女子との相性はすこぶる悪かった。しかし、中にはそういう彼に却って魅力を感じた少女も、まあ結構な数いたのかも知れない。何かそういった流れの末に、柾のクラスの女子達が二派に分かれて大戦争した事もあったが、当人は自分が原因だとは知る由もなかった。

 中学生の時に初恋をした。隣のクラスの女子だった。結果は散々だった。彼はその方面については余りにも不器用だった。その上、その事を相談した男友達も同じ女子が好きで、次に相談した女友達は柾の事が好きだった。そんなこんなで、とんでもない事になって、とうとう陸上部を辞める騒ぎになった。彼の自信と自尊心は地に墮ちた。小学生時代の聡明さやあざとさは薄れ、彼は次第に不器用で冴えない、いじけた少年に成り下がった。

 高校は進学校に入った。柾と同じような変わり者が沢山集まる学校だったので、その事が彼を随分と安心させた。しかし、恋愛と運動部には懲り懲りだった。彼は女友達を何人か作ったが、決してそれ以上の距離には近付かせなかった。一番地味な文化部に籍だけ置いて、授業が終われば真っ直ぐ家に帰った。男友達との付き合い方も推して計れよう。雨陰信条に出会ったのは、そんな頃だった。

 柾が籍を置いた文化部は、総合技術家庭部といった。音楽でも美術でもない。強いて言うなら、年に一度の文化祭の時に行うチャリティーバザーの主催が、主な活動だった。全校生徒やその保護者達から手芸品や簡単な工作物を集めて、家庭科室に並べて売り出すのだ。売り上げを慈善団体に寄付する。流石にそれだけでは部活動としての恰好が付かなかったのだろうか、年に二回ほど、顧問の教師が部員を集めて適当な美術展や何かに連れて行った。帰って来てから、藁半紙を配って感想を書かせる。「面白かったです」これで万事解決。

 県内高校生の美術作品を展示した作品展が行われたのは、秋の初めだった。総合技術家庭部の顧問が部員に集合をかけ、欠席した生徒は部活動評点を「不可」にすると通達した。進学校の生徒は大概が傲岸不遜で計算高い。義務や倫理を振りかざしても動かないが、成績と評点を持ち出せば途端に優等生だ。全員が時間通りに集合した。やる気の無い美術展見学ツアーはこうして行われた。

 実を言えば赤波柾は美術展のようなものが嫌いではなかった。初めから何も見る気が無い他の部員達がぞろぞろと通路を辿って行く中で、彼は遅れがちだった。それでもはぐれないように気を付けていたはずだったが、ある作品が彼の足を床に縫い付けてしまった。

 出展作品は油絵が殆どだった。他に、彫刻と塑像が少し。しかし、柾の足を止めたのはそのどれでもない。巨大なハンカチだった。

 作品名が「ハンカチ」だった。したがって、それが風呂敷並に大きい布だったにしても、作者の意図を汲んでハンカチと呼ぶべきだった。柾は唖然としてその作品に見入った。隅から隅まで、鮮やかな原色の糸で細かい刺繍が施されていた。全体として、それは一枚の風景画だった。一人で作ったのだろうか、と真っ先に疑った。どれほどの気力と根気が必要なのだろう。これだけの大きさの布を、計算し尽くされた細やかな刺繍で埋め尽くす事が、果たしてできるのだろうか。何年掛かって? しかし、複数人で作れたはずがない。作品からは、はっきりとした作者の意志が読み取れた。複数の人間が流れ作業で作ったような、御座なりな空気が無かった。

 後ろから声を掛けられたのは、大分経ってからだった。時間を忘れて見入っていたので、急に現実に引き戻されて何か後ろめたい感じを味わった。

「こらお前」

「えっ」反射的に振り返った。真後ろに男が一人立っていた。同じ歳くらいに見えた。

「いつまでそこに立ってるんだ?」男はにやにや笑っていた。腿から下がずたずたに引き裂かれたジーパンを履いていた。それが当時の流行りだった。襟がだらしなく伸びたセーターの、左胸に校章が留めてあった。それで彼が隣の区の私立高校の雨陰あまかげ信条しんじょうという生徒である事が分かった。派手な服装の割に髪型は大人しかった。ピアスも無い。校則が厳しいのかも知れないと柾は思った。裂けたジーパンは最近流行り出したばかりだから、履いてはいけないという校則がまだできていないのだろう。

「見ない顔だな。学校どこ?」雨陰は柾の左胸に鋭く目を走らせ、そこに校章が無いのを見て「東一か」と言った。「一年?」

「はい」とだけ柾は言った。

「それ気に入ったの、ずっと見てるけど」雨陰は「ハンカチ」を見やりながら、殆ど聞き取れないほどの早口で聞いた。

「あ、はい、すみません」邪魔になったかと思い、柾は立ち位置を移動した。本当なら立ち去りたかった。所属する学校が違う事は、この年齢の若者にしてみれば非常に大きな違いだった。喋り方や歩き方にさえ、こまごまとした習慣の違いがはっきりと現われる。特に、県内随一の進学校である柾の高校と、授業料を持ってくれば犬でも入れると陰口される雨陰の高校とでは、住む世界が違うと言って良かった。因縁をつけられるのではないかと柾は内心警戒した。

 雨陰は「ハンカチ」の方には目もくれず、じろじろと柾を眺め回した。時々、素早く目を細める癖があるようだった。視力が悪いのだなと柾は思った。雨陰があまりいつまでも黙ってじろじろ眺めるばかりなので、痺れを切らした柾は「あの」と言った。しかし続きが出ない。何か御用ですか、では生意気と取られるだろう。何処かでお会いしましたか、では変だ。俺の顔に何か付いてますか。俺が誰かに似てますか。この服ですか。そこの百貨店のバーゲンで母親が勝手に買ってきただけです。東一高にも校章はあります。付けなくても怒られないから誰も付けないだけで。もう、行ってもいいですか。他の部員達が出口で待ってますから。

 何を言っても相手を怒らせそうで、仕方なく柾は自己紹介をした。「あの、東一高の一年の赤波と言います」

 てっきり馬鹿にされるかと思ったが、雨陰は頷き、すかさず「何部」と聞いただけだった。

「ソウカ部……総合技術家庭部です」

「あ?」雨陰は呆れた顔で聞き返した。「総合なに?」

「帰宅部です。年に二回だけ、美術展を見学して、活動した事にするので」

「ああ、はあん」雨陰は何故か天井を仰いだ。「さっきの阿呆面の軍団か。なあんだ。美術部って答えたら馬鹿にしてやろうと思ったのに。絵の見方も知らねーのかって」

 柾が返答に困っていると、雨陰はいきなり柾の肩を掴んで無理矢理下がらせた。「ほら、これくらい離れて見るんだよ、その方が綺麗だろ? 知らなかった?」

「あ……」柾はもう一度真正面からハンカチと向き合った。確かに下がって見た方が、風景画としての作品全体の雰囲気を見渡せた。刺繍の細かさばかりに気を取られていたが、風景画としての構成や色遣いも独特で印象的な作品だった。どうしてハンカチなんて下らない作品名にしたのだろうか、と思って札を見たら、出品者の欄に英鏡学院高等部・三年・雨陰信条と書いてあった。

「雨陰……さん?」肩を掴まれているので振り返れなかった。「この作品を……」

「今気付いたような言い方なに?」雨陰は早口で切り返した。「面白い奴だなお前……名前なんつったっけ?」

「赤波柾です」緊張で顔が赤くなりそうだった。「あの、この作品、お一人で?」

「当たり前だよ、先公に手伝って貰うと思うか?」

「あの……あの、凄いですね……全部、手で刺繍を?」

「ミシンも使ってるよ。原始人じゃあるまいし。刺繍ができるミシン、あるだろ? 機械でできないとこは手で」

「あの……凄いですね」

「それはもういいよ。他に言う事無いの?」

「ええと……雨陰さんは、美術部ですか?」

「あー、いや、手芸部。……男子は俺一人なんだ。いいだろう」

「……あ、はい」

 柾の煮え切らない返答に呆れたのか、雨陰は「まったくよう東一は」と言って肩を掴んでいた手を放した。「調子狂うよな。ノリが悪いんだよ優等生は。でもお前、赤波だっけ、東一ん中でも浮いてる方だろ。顔に出てる」

「あ、はい……」

「『あはい』はもういいって。本当にしょうねえ奴。お前、他の僕ちゃん達行っちゃったのに、一人でここに居ていいの?」

「あ、ええと」本当は良くなかったが、追い掛ける気になれなかった。「いいんです……用があれば向こうが呼びに来ますから」v 「へー」雨陰は意外そうに柾の顔を見た。「ふてえ奴だな。顔に似合わず」

「あ、でも東一の生徒は皆そうです」

「バッカだなお前」雨陰は声を立てて笑い出した。「何処の高校生だって皆そうだよ。知らないのか?」

 柾はまた返事に困って黙った。通路の向こうから顧問の教師が彼を呼ぶ声がした。柾が応えようとすると、その口をすかさず雨陰の手が塞いだ。

「おい、面白い事しね?」雨陰は低く囁いた。「今から俺と、ここ抜け出すんだ。遊びに行こう。阿呆面軍団にはせいぜい無駄骨折らして探させようぜ」

 柾はなんとか相手の手を口から退けた。「それはできません」

「なんで。やっぱ駄目、センセーには逆らえないの。東一だし?」雨陰の目は軽蔑しているというよりは面白がって挑発しているようだった。「俺とセンセーとどっちが強そうだ? お前、今ここで俺に本気で逆らえる?」

「あの、人に迷惑を掛けてはいけないんです。俺がここを抜け出したら皆が迷惑します。だから……」

「ゆーうーとーうーせーいー」

「俺が、あの……一回でもそういう事をしたら、先生は俺をもう信用しなくなります。あの、東一には校則は殆ど無いし、あっても誰も守らないですけど……人に迷惑を掛けたら、許しては貰えません。謝っても駄目です」

「信用ってそんなに大事?」

「信用されていれば、自由にさせて貰えます」

「あそう……じゃ、ま、俺んとこなんかは、最初っから信用されてねーわけだ」

「でも、謝れば許して貰えるでしょう?」柾は思わずじっと相手の目を覗き込んでいた。

 雨陰は一瞬笑いかけてから、とまどったような顔をした。「……ああ、うん、そうかな……」

「あの、俺……この作品すごく好きです。雨陰さんの他の作品も見てみたいです。……失礼します」

 結局、赤波柾は決められた時間までに展示場を出ず、集合時間を守らなかった廉で顧問の教師から怒られた。が、道に迷ったと言い逃れてどうにか信用を繋ぎ止めた。柾はどきどきしていた。最後の最後にあんな風に楯突いて良かったのだろうか。英鏡学院の先輩があんな説明で東一の価値観を理解できたとは思えない。今頃腹を立てているかも。本当に因縁付けられたらどうしよう。やってしまった事は取り消せない。そもそも、本人の居る前でその作品を何分も凝視していたのが間違いだったわけだが、しかし他にどうしようも無かった。あれは本当に、ちらりと見て通り過ぎるだけでは済まされない作品だったから……。

 柾の住む土地は冬が厳しかった。突風と共に分厚い雪雲が押し寄せる。大雪の降り頻る日は真昼でも夕方の暗さだった。街中の道路はヒーターが埋め込まれて雪を溶かすようになっているが、それも追い付かない。除雪車が回るが、雪を捨てる場所が無い。ブーツで歩くよりスキーでも履いた方が速いのではなかろうか。そんな悪路を自転車で進もうとする強者もたまに居たりして、自転車用のタイヤチェーンは無いのだろうかと柾は考える。その日はそんな朝だった。

 週番が授業変更の連絡をする。クラスに回って来た模試や募金やオープンキャンパスの連絡を読み上げる。その中で特に重要な物は担任が補足説明をする。それが「朝の会」だ。生徒達は机の下で漫画を読んでいるのが常だった。クラスに何人か少年漫画誌を買っている奴が居て、皆でそれを回し読みする。三年になるとこれがチャート式英文法とかどこそこの過去問題集に取って替わるわけだが、今はまだ未来の憂いを知らない一年生だった。赤波柾も友人から借りた漫画を読んでいた。少女漫画だった。貸してくれた友人が少女(自称)だったからだ。一人の女主人公の周りに、女性が男装しているとしか思えない顔と性格の、気味の悪い美少年が五人も六人も群がる。学園物コメディー。これが世に聞く逆ハーレムか、と呆れて頁を繰っていると、担任教師の声が切れ切れに耳に入ってくる。

「……放課後……同窓会館の二階……美術部……交流会……展示……学院の手芸部で……」

 手芸部?

 赤波柾は顔を上げた。担任の説明は終わっていた。一時間目の授業が始まる前に、黒板の隅に張り出された掲示物を見に行った。今日の放課後、同窓会館の二階で本校の美術部と英鏡学院の美術部並びに手芸部が、交流会を開催。

「強引な」柾は思わず呟いた。聞いた事の無い暴挙である。こちらは公立の進学校、向こうは私立の……勿論、進学する人もいないわけではないが。しかも、どう見ても手芸部は余計だ。

 一般生徒に向けた簡単な展示会も行うので、興味のある人は是非見に来て下さい。待ってます☆

「………」

「マサやんどうした?」後ろからクラスメートに背中を叩かれた。少女漫画を貸してくれた少女だった。

「いや、それ……」柾は読んでいた掲示物を示した。「英鏡と交流会なんて、珍しいな」

「ああ、美術部でしょ? 毎月やってるよ。うちって結構美術部が盛んらしいけど、今、公立の進学校で美術なんかに力入れてるとこ少ないでしょう。英鏡は昔から芸術系は凄いから。なんか交流会とか言ってこっちに呼んだりあっちに行ったりやってるんだって。メッコが言ってた」

 メッコとは誰だろう。きっと美術部員なのだろう。もしかしたら、大川メグミさんの渾名かな。

「手芸部も毎月来るの?」

「はい? 手芸?」少女は掲示物を覗き込む。彼女も相当視力が悪いらしい。三十センチほどに顔を近付け、なおかつ目を細めている。「ほんとだ、手芸部だって? そんなのあるの? 何それ! ヤッベー!」彼女、大興奮。爆笑。箸が転げても可笑しい。若さゆえ。

 赤波柾は無論、放課後に同窓会館へ行った。まあ、ちらりと様子を見て帰ろう、という後ろ向きな気分満々であった。コートを着込み、マフラーと手袋を装着してリュックを背負い、今すぐ帰れる状態で展示会を訪れた。訪れようと思った。が、同窓会館に入った時点で、柾の気力は萎えていた。建物全体に、全くひとけが無い。自分の興味の無い事には徹底的に無関心な東一高生達である。朝の会を通して全校に通知したくらいでは、誰も見に来るはずが無いのだった。一人でのこのこ出掛けて変な奴だと思われるのは絶対に嫌だと、柾は情けない打算を巡らせた。

「赤波君?」本気で帰ろうと思って回れ右をしかけた時、男に呼び止められた。知らない生徒だった。この寒いのに半袖短パン姿で、汗をだらだら流している。部活動中のようだ。外は大雪だから、校舎内で自主トレーニングなのかも知れない。

「あ、俺、一年八組の高月です。赤波君、江向井中の陸上部だったよね?」

「あ、うん」柾は中学総合体育大会や新人戦を必死に思い出そうとした。コウヅキ? そんな奴いたかな。俺を知ってるという事は長距離ランナーか。陸上部の思い出は全て、あの騒ぎの為に苦いものになってしまった。

「あの多分、知らないでしょ。俺、短距離しか出てないから。遠藤って覚えてない?」

「二中の?」

「そう! そいつが俺の友達。遠藤ちゃんが、赤波って凄い選手がいるからって教えてくれて。勝手にライバル扱いしてた。三年の総体、出なかったよね?」

「辞めたから」

「辞めたの! 勿体無い! 怪我か何か? ……人間関係?」

「そっちの方」

「そっかあ……そっかそっかー」高月君はにこにこ笑って頷いた。「俺、今は剣道やってるんだ。この上の階の、第二体育館で。赤波君、何部?」

「帰宅部」

「そうなの? 何かやればいいのにー。剣道来ない? 少人数だから皆仲いいよ。上下関係も緩いし。今日はどうしたの? 剣道部の見学だったら、いつでもどうぞ。あ、呼び止めちゃってごめんね」

 喋り方が忙しない奴だと柾は思った。しかも何か、全く何の用も無いのに話し掛けて来ただけ。柾はそういうのが苦手だった。

「どこか行く予定だったんじゃないの? 今から帰り?」

「ああ、ええと……二階で美術部が展示会やるって聞いて」柾はぼそぼそと言った。来なければ良かったと思った。

「え、そうだったっけ。美術部? 赤波君そういうの、興味あるの?」

「いや、知り合いが来てるから、義理で」この学校に居ると嘘ばかり上手くなる気がした。

「そうなんだ。じゃ、見終わって気が向いたら、剣道部も見に来てよ。ほんと部員足りなくてさ。赤波君が入ってくれたらほんとに嬉しいんだけど。陸上の話もできるし。……あ、じゃあ俺、戻らなきゃ!」高月は身軽に階段を駆け上がって行った。本当にただ話し掛けてきただけか、と柾は胸の内でぼやいた。何か意味があったのか? 今のシーン。

 気乗りしないまま階段を上がり、展示会が行われているはずの多目的室へと向かった。廊下の向こうから、聞き覚えのある女性教師の声が聞こえる。ちょっと石田君と沖君、校舎の方に回って客呼びしてくれない? 本当に一人も来ないなんて、ねえ。折角この大雪の中、英鏡から大作を持って来て貰ったのに。場所が悪いですよ。校舎と別棟ですもん、来るわけないでしょ。美術室でやれば良かったのに。だって机とか椅子とか移動が。パネルも運ばなきゃいけないし。古い建物だから天井も低くて。ドアも小さくて。だって誰も来なきゃねえ。

「じゃちょっと知り合いとか探して……」「無理矢理引っ張って来ますよ」石田&沖らしき二人組が廊下に出て来た。廊下に突っ立っている柾を見付けて二人は不思議そうな顔をした。

「やめろやめろ」もう一人、男子生徒が多目的室から飛び出してきた。石田と沖の腕を乱暴に掴み、殴りかからんばかりの勢いで怒鳴った。「バーゲンセールじゃねーんだよ。興味の無い奴なんかに来て欲しくない!」派手な服装だ。七色の縞模様のセーター、黒地に銀色でお経みたいな漢字の列が刺繍されたジーパン。これも最近の流行り。まだ英鏡の校則では禁止されていないのだろう。

「雨陰さん」思わず微笑んでしまった。

 男は柾を振り返った。「おう」雨陰の目は得意げな風に煌めいた。「ほら、来たじゃないか」

「俺が第一号ですか?」

「いーや、冷やかし客が五六人」

「俺も冷やかし客です」

「そんなん駄目だ、お前の為に持って来たんだぞ、お前が見たいって言うから」雨陰は柾の腕を掴んで歩き出した。多目的室と反対方向である。柾は手袋とマフラーを外しながら、何処に連れて行かれるんだろうと少し警戒した。

 雨陰は適当に会場から離れた所で、柱の陰に腰を下ろした。「ふう!」

「手芸部はいつもこんな事を?」柾はリュックを下ろし、コートも脱いだ。

「座れよ」雨陰は自分の隣を示した。

 柾はおずおずと腰を下ろした。「あの」

「大変だったんだぞ、持って来るの。美術部の顧問と交渉して。いつもこんな事やってるわけねーだろ阿呆じゃないの? 俺の身が持たねーって! 総合技術家庭部も呼べって頼んだら、帰宅部ですからって断りやがった。やる気ねーのな、お前んとこの顧問! 呆れた」

「本当に帰宅部ですから……あの、本当に俺が見たいって言ったからなんですか?」

「そうだよ、他に何かある?」雨陰は面白そうに柾を見返した。

 柾は顔が熱くなるのを感じた。「あの……俺は」

「社交辞令? とは思えなかったけど?」

「あのでも……ここまでやる人っていないです」

「だから?」

 柾は俯いた。知らず声が震えた。「びっくりしました。……俺をからかってるんでしょう?」

「冗談でできるかよ」雨陰は立ち上がって怒鳴った。「こんな事冗談でできるかよ。俺んとこ東一みたいに自由じゃねーんだよ。冗談でこんな事できるか、馬鹿野郎」

「信じられない……」顔を上げられなかった。「普通、こんな事しませんよ」

「殴るぞ」

「殴って下さい」

 本当に殴られた。というか蹴られた。側頭を思いきり。でもないけど。衝撃がキンと後を引いて骨身に染みた。頭蓋骨が陥没するかと思った。柾は俯いて座ったままでいた。本当に痛い。頭が悪くならないといいが。というか殴れって言われて本当に殴る人がいるとは。まだ痛い。

「大丈夫? 痛かった? 生きてる?」雨陰は流石に心配そうに屈み込んだ。「おい、泣くなよ、男だろうが。本当に悪かったよ、な、俺が悪かったから泣くな、赤波」

「泣いてないですよ」柾は吹き出した。それでもあまり痛いので涙ぐんでいた。「ごめんなさい」

「それは何について謝ってる?」

「いえ、あの……全部です」

「お前さ、喧嘩売ってんの?」

「違います、違います」この男の前でどうしたらいいのか分からなかった。竜巻みたいな人だと思った。とかく物凄い勢いで何もかも巻き込んでいく。「覚えててくれたんですね、俺の事」

「お前は忘れてたのか?」

「いいえ、あの、……凄い人だなと思って。俺は、大した奴じゃないですから」

「お前は大した奴だよ」雨陰は妙にきっぱりと言った。「俺よりずっと大した奴だよ。自分じゃ気付いてねーんだろうけど、俺には分かる。分かるんだよ、才能ある奴って、目で分かる。スポーツと違ってさ、この世界は、顔見た瞬間に負けたって分かっちゃう。俺はお前が嫉ましいよ」

「俺は絵なんか描けないです」

「描けよ。きっと俺より上手くなる。帰宅部なんてな、馬鹿げてるよ」雨陰は柾の腕を引っ張って立たせ、多目的室に向かって歩き出した。「土曜日来いよ。公立は土曜日休みなんだろ? 土曜日のな、二時に来い。美術室。英鏡の場所分かるよな?」

「はい……多分。今週の土曜日ですか?」

「毎週だ、馬鹿」雨陰は明るい声で笑い出した。

「本当に絵なんか描いたこと無いんです。陸上部だったんです。中学の時」

「結構結構。それで、今は陸上もうしないの?」

「あの……途中で辞めてしまって。なんか、色々トラブルあって……いられなくなって」

「仕方ねーだろ、それは」雨陰は窘めるように言った。「そういう、いじけた言い方すんなよ。ああいうのは、誰かハブかれないと収まんないんだから、たまたまお前だっただけだろ。自分の所為だなんて思うのは、自意識過剰。誰でも良かったんだよ」

 こういう人もいるのか、と柾は思った。今まで想像した事の無い種類の相手だった。

 初めて英鏡学院の校舎を訪れた時は、手が震えるほど緊張した。左胸に東一高の校章を付けて行った。校章を使うのは入学式以来だった。来客用玄関からなるべく平然とした顔で入り、勝手にスリッパを借りて上がった。靴はスリッパの下の段に突っ込んだ。誰かに会ったら言い訳をして美術室の場所を聞こうと思ったが、誰にも会わなかった。こんな事でいいのだろうか。誰にも会わないうちに美術室が見付かってしまった。人の居る気配がする。ノックをして入った。部活動中のようだった。中に居た十数人が一斉に顔を上げる。誰が何をしに来たのだろう、とあからさまに不審げな顔。

「東一高の……」回れ右して帰りたくなるのをぐっと堪えた。「赤波と言います。手芸部の雨陰先輩に、来るように言われて……」

「本当に来たの」眼鏡を掛けた女生徒が立ち上がって、呆れたような目で柾の事を、文字通り頭の天辺から爪先まで眺め回した。「雨陰なら準備室。ここの隣。いったん出て、そっち」女生徒は黒板の方向を指したが、柾がもごもごと礼を言って下がろうとすると鋭く呼び止めた。

「ちょっと君」

「あ、はい」

「これは親切で言うんだけどね、あいつとはあまり深く関わらない方がいいと思う。うちの部でも何人も『被害』受けて辞めてるから」

「被害?」

「何て言って呼ばれたのか知らないけど……絵の才能あるとか、目を見れば分かるとか、そういう風に言われたら真に受けない方がいい。あいつ、誰にでもそう言うよ。これだけは覚えてて。後の事は責任取らない」

「あの、意味がよく分かりません」

「すぐに分かるよ。本当に、うちは責任持てないから。部も違うし、君は他校の子だし、本当に知らないから。今度から、もし来るんなら、いちいちこっちに挨拶入れないでね。知りたくないの」

「……分かりました、すみません」全く意味が分からなかったが、そう言うしか無かった。「お騒がせしました。失礼します」

 釈然としないまま廊下に出て、隣の美術準備室に入り直した。今言われた事で頭が一杯になっていて、ノックを忘れた。雨陰はくすくす笑って出迎えた。

「すげえ言われ方だな。丸聞こえ。あの部長さん、怖いだろ」

 準備室は埃っぽく薄暗かった。油絵に使う揮発油の匂いがしっかりと染みついていた。それに、紙の匂い。柾の背丈ほどもある乾燥台が幾つも並び、壁は棚で埋まっていた。何に使うか知れない様々な道具や、真新しい紙の束や、美術関係の本。色々な物に取り囲まれた奥に、古ぼけた応接セットが一組。雨陰はソファの背もたれを跨いでそこに収まり、柾に向かいのソファを勧めた。背の低いテーブルの上には、描きかけのカンバスと油絵の道具がばらばらと広がっていた。

「いつもここで、一人で描かれるんですか?」

「え、俺? まあ男一人だと居づらいし、油絵は家庭科室でやらないでくれって言われてるから。ミシンを使いたい時だけ向こうに戻る。美術部からもこの通り締め出し食らってて」

 最初に会った時、柾の顔を見て浮いているだろうと言い当てた彼を思い出して、柾は微笑んだ。

「なんで笑う?」

「雨陰さんも俺と同じですね」

「何が?」

「学校で浮いてる」

「俺は浮いてねーよ。恐れられてるんだ。お前さあ、失礼だぞ?」

「すみません」

「だから、笑うの止めろって」

「『被害』受けたってあの人言ってましたけど、何の話ですか?」

「ああ」雨陰は少し嫌そうな顔をした。「赤波は知らなくていい」

「誰かハブかれないと、収まり付かないですからね」

「そういうんじゃねーよ。ガキじゃあるまいし」

 雨陰は準備室を漁って、一度も使われた形跡の無い、黄ばんだクロッキー帳を引っ張ってきた。一頁目を捲って、黒いコンテと共に差し出す。「何でもいい。好きなの描け。ただし、この部屋にある物な。想像は駄目。本物そっくりでなくていいから、現実に即して描くように。消しゴムも駄目。失敗したと思ったら頁を捲れ。それからな、なるべく大きく描く事」

 柾は頷いて白紙に向かったが、全く集中できなかった。雨陰は彼の向かいに座り直し、自分の油絵を続ける。暫くは互いに無言だった。

「美術部のさ」筆を洗って、溜め息をつきながら雨陰が急に言った。「何人かの後輩に、指導したんだけど、そいつら全然やる気無くてさ。俺の指導が厳しすぎるってんで、付いて来れなかった。俺、やる気無い奴にはすっごく冷たくしちゃう。俺が指導した奴は、結局みんな美術部辞めてった」

「じゃ、元は美術部だったんですか?」

「まーな。追い出される形で、近い事やれるかと思って手芸部行ったけど、絵の具使えないのは正直辛い。結局ここで描いて、美術部からはもう出品して貰えないから、ミシンで同じ絵を描き直して、手芸品て事にして無理矢理手芸部から出品して貰った。あのハンカチのやつ。なんか……馬鹿だよな、俺」

「刺繍が凄く丁寧なのでびっくりしました。物凄く細かくて……」

「当たり前じゃん、だって、絵の具だったらこれくらい細かく色入れられるんだぜ?」雨陰は自分の描いている物を筆で示した。「どんどん重ねていける。特に油絵はな。こうやって描きながら色混ぜてくんだよ。繊細なんだよ。ミシンでやる刺繍なんて、幼稚園児の塗り絵と一緒。情けないし悔しいし……引きちぎってやろうかと思った」

「この前持って来て下さった作品は?」

「全部引きちぎってやろうかと思った。あれが一作目と三作目。美術展に出したのは二作目。本当に、あの日てめえを殴り殺したかった。俺の苦々しい情けない塗り絵を、馬鹿みたいに口開けて何十分も眺めてる阿呆が居ると思った」

「何十分もじゃないですよ……本当に、凄いと思ったから、目が離せなくて……」

「馬鹿みたい」雨陰は吐き捨てるように言った。「そいつの顔覗き込んだら、分かっちまった。俺より才能あるって」

 柾は美術部の眼鏡の部長の言葉を思い出す。才能あるとか、目を見れば分かるとか、あいつ、誰にでもそう言うよ。これだけは覚えてて。後の事は責任取らない。

「俺、雨陰さんの期待には沿えないかも知れません」やんわりと予防線を張った。「やる気もあまり無いかも」

「そう」雨陰はパレットに新しい色を置いた。「じゃ、帰れば」

 柾は返事に詰まった。

「来いって強制したつもり無かったんだけどな。悪かったな。帰っていいよ」

「来たくて来たんです」

「やる気も無いのに?」

「雨陰さんに会いたかったので」

「そう? それで、会ってガッカリしたんなら、帰れば?」

「がっかりしてません。どうして……」

「だってそうだろ? なんで今になって俺を怒らすような事言うんだ? 嘘でもやる気満々だって言っとけよ、それが礼儀だろ? 本当に俺に会いに来てるんならな」雨陰は早口で捲し立てながら顔を上げた。「何が気に入らねーんだよ。小賢しい。ガキの分際で。俺が頭悪そうだからって馬鹿にしてんの? 部長に言われた事がそんなに気に入らなかった? 自分だけが特別じゃなきゃ嫌か。俺が、他の男の子にも同じ事言ってたのが、そんなに気に食わないか」

「すみません、そういう……」柾は焦った。「あの、本当にすみません。……ごめんなさい」

「何について謝ってんだよ」

「調子に乗りました」

「それで?」

「……すみませんでした」

「帰るか?」

「いいえ」

 雨陰はまた溜め息をついた。口元は少しだけ笑っていた。手を伸ばして柾からクロッキー帳を取り上げ、暫く無言で頁を見つめた。「……これ、誰を描いたの?」

「雨陰さんを」柾はぼそぼそと答えた。

 雨陰は深く溜め息をついた。「……神様の決める事だよな。絵が描けるか描けないかって」

「え?」

「初めてとは思えない」

「美術の授業で何枚か描かされましたけど」

「そんなんで上達する奴はいない」雨陰は顔を上げ、目を輝かせて笑った。「勿体ねーな、お前。本当に絵には興味無い?」

「……これから何枚か描いたら、興味を持つかも」

「だから、ここに来たんだろ?」

「はい」

「ほら、やる気あるんじゃねーか」雨陰は立ち上がってテーブルを回り込んだ。柾の隣に腰を下ろし、クロッキー帳を膝の上に置く。「そういうの、やる気あるって言うんだろ? ちゃんと本気でここに来てんじゃねーか。ぐちゃぐちゃ拗ねるなよ。部長の言った事は忘れろ。覚えてて気が散る事は、忘れるしかねーだろ」それから雨陰はクロッキー帳の中の自分を指差しながら、人物をスケッチする時のポイントを指摘し始めた。背骨を意識して重心を考える事。骨格と関節の位置をはっきりさせる事。体の各部分の大きさを正確に知る事。例えば、手を広げると顔と同じ大きさになるとか、『気を付け』をすれば指先は太股に届くとか、そのとき肘の位置は胸と腰の間であるとか。顔は中心線と目の位置を最初に決める事。頭は思ったよりも後ろ側に膨らんでいる事。手には、顔と同じように表情がある事。

 一つ一つ頷いて聞きながら、柾は次第に喉の奥が熱くなるような気がした。雨陰は真剣だった。そして、孤独だった。薄暗い埃っぽい準備室の隅で、ひしひしとそれが感じられた。もう一枚描いてみろ、と背中を叩かれた時、急に気が緩んだ。柾は俯いた。

「あのさ待ってくれ、ここは泣く所か?」雨陰は呆れ返った様子で柾の顔を覗き込んだ。「何? 今度は何? 俺が何かした?」

 柾は黙って首を横に振った。

「お前さ……」雨陰は心配そうな目で聞いた。「何か悩みでもあんのか?」

「いいえ」

「隠すなよ。俺で良ければ聞くぜ? 多分俺は解決できねーけど」

「本当に、何でも……何でもないんです」

「何でもなくないだろ? 何でもないのにそんなに泣けるようだったら、お前カウンセリング受けた方がいいぞ。本当に。もう、今日はこれは終わり。泣きながら何描く気だよ」雨陰はクロッキー帳を取り上げて閉じ、後ろの棚に放り込んだ。「本当に何なんだよ。意味分かんねー! まだ泣いてる! おい、赤波! 赤波柾! 俺をからかってんのか?」

「いいえ」

「何が、いいえだ、この野郎が。お前、何だよほら。話せよ。ママが厳しいのか? パパが殴るのか? もしかしてママもパパもいない? 離婚した? 蒸発した? 貧乏で明日食べる物も無い。学校で苛められてる。教室に行くと机が無い。机に花が供えてある。トイレでシメられた。金を巻き上げられた。女に振られた。そうか、女だな?」

「いいえ」

「いいえじゃなくてさ……何か言って? 俺か? 俺の言葉、何か気に障ったか?」

「いいえ」

「だァからいい加減にしろって……もう。お前みてーな奴、初めてだぜ。赤波。お前、ああ、お前本当に……可愛い奴だなあ」

 その時だけ一瞬、雨陰の声はひどく真面目だった。


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