自我の浮遊 中
甲高い音が私の視界を塞いだ。身体の感覚が一瞬にして抜け落ち、いま自分がどんな状態であるのかも分からない。
やがて少しずつ返ってくる視界の片隅で女性が何かを言いたがっているのが分かった。
「すみません、私は・・・」
言葉は続けられなかった。それでも、女性はその先を察したのか、戻りつつある私の視界を柔らかく塞いだ。
「あなただったのね・・・主人が、主人が唯一救えた人」
それ以上の言葉は女性の方でも続けられないようだった。私を包み込んでいるであろう彼女の身体はその大きさに似つかわしくない程に激しく揺れ動き、そして時折、嗚咽の中にただ沈むのであった。
女性は一度、私を引き離すとすぐにハンカチで顔を隠した。それを見て私も頬や口元が濡れていることに気がついた。
母の方を振り返ってみたが、視線が合うなりすぐさま逸らして私を再び見ようとしなかった。
私はその姿を見て無性に苛立った。唯一生き残った者の肉親として母親も彼女にもっと寄り添う姿勢を見せるべきだと思ったのだ。
ところで、事故の原因を私はまだ知らない。もしかしたら、運転手の居眠りが原因だったのかもしれない。もし、本当にそうだとすれば、母の行動はむしろ理性に満ちている。
ただ、私の脳裏に立ち込める残像からは彼が居眠りをするような運転手には到底思えなかった。
ー真実が知りたい。
当事者でなくとも、それにはもうこの人しかいない。当事者は私の他にもう誰もいないのだから。
「事故の、事故の記憶がないんです。気がついたら、月日だけが流れてしまっていて・・・、旦那さんのこと、どう聞いていますか?」
事故直後ならば、これほど率直に聞けなかっただろう。でも、私には実感がなかろうと時は既に10年も経っているのだ。
女性は顔からハンカチを離すと、感情を必死に堰き止めようとしているのか、喉元をしきりに振るわせているのがわかった。
突如、ふーっと、緊張の糸を緩めるような白い煙が遠くでまった。横目に見えたそれを目で追うと、中年の男性が立ってこちらを見ていた。
「避けることなんてできなかったんだよ。見たか? あんだけ勾配が激しくて片側一車線だ。曲がり角で突然車線をはみ出して降りてこられたら、もうそれと衝突するか、ガードレールに突っ込むしかない」
中年の男性は自分の足元に煙を吐きかけると、携帯灰皿にタバコを押し込んだ。
目の前の女性がその男性の方を見るや否や、深々と頭を下げた。
男性も通り際に頭を下げると地蔵の方へ歩いていった。
「あんた、新聞記者かなんかか?」
地蔵の手前に立つと男性はこちらを見ずにそう訊ねた。
「あ、いえ、違います。私の仕事は・・・」
そう言いかけると、まるで思考がその先を緊急停止させたかのように頭が激しく揺れた。鼓膜では鉄の軋む音がけたたましく響いている。
頭を片手でおさえてなんとか目を開けると男性が写真縦を懐から出すのが見えた。地蔵の前でかがみ、それを置こうとしている。
ようやく思考が完全に停止したのか、鼓膜は激しい金属音から解き放たれ、凪のような静寂に包まれた。
目前の光景がやけにゆっくりと流れて見える。そのせいなのか、写真縦に映る女の子の顔が際立って見えた。
あの・・・
ードス黒い顔が。