自我の浮遊 前
私を襲った事故現場は勝手におどろおどろしいものに違いないと思っていた。
ところで、いま私の眼下に見える景色はまるでそれとは異なっていた。
紅葉の合間に沈んで見える道路は小川のせせらぎのように清く私の心を躍らせていた。
ー事故なんて本当はなかったんだ。
澄み切った青空を目蓋の裏に転写すると、まじないのように深呼吸をした。
再び目を開けると眼下では相も変わらずに暖色が広がり、悲しみの景色がそこに潜んでいるようにはまるで見えなかった。
踵を返すと吹けば飛ばされそうな心許ない母の姿がすぐ近くにあった。フラッシュバックの類で私が気でも触れると思ったのだろう。
外出許可を出した主治医に対して見せた母の形相を、ふと思い出して身震いがした。
「大丈夫。何も思い出せないの」
そう言って母を安心させてみたものの、本当に大丈夫なわけがない。
慣れないハンドリムを回して、地蔵の前で手を合わせてみても、何も思い出せないのだ、何を訴えたらいいのか分からない。
結局、まとまりのない思考のまま目を開けると、私はその場をあとにすることにした。
いずれにしても、私の秒針は微動だにしなかった。強引にでも油を刺せば、もしかしたら、と、期待していたのだが、失われた私の時間は戻らなかった。
リムを大きく回すと、私は母に帰ろう、と、言った。よそ見をした私とは別の方角を見て母は危ない、と、叫んだ。
正面に向き直るとすぐ目の前に女性が見え、慌ててリムを握りしめた。寸前のところでぶつからなかったが、見上げてみると、女性は声もあげず不思議そうにこちらを見ていた。
「もしかして、事故の・・・関係者の方ですか?」
普段は誰もここへ来ないのか、女性は怪訝そうに私に尋ねた。
ところで、何と返したら良いのか私には分からない。私にしてみれば、質問を質問で返された気分なのだ。他の誰でもない私自身がその記憶を取り戻しに来たというのに、私にはその補完がまるでできていない。
ふいに俯いた先の両手に涙があたり、そこで弾けた。手は震え出し、やがて、その震えは全身に伝播していった。
「あ、すみません! 私はその・・・」
誰かが手押しハンドルを勢いよく握った。その女性から私を遠ざけようとしたのだ。恐らくは母だろう。
私は女性の横を通り過ぎる刹那、自分でも驚くほど早く彼女のコートをつかんだ。車椅子は途端にブレーキをかけられ、慌ただしく止まった。
「お母さん、待って! 貴方は、貴方は誰なんですか?」
女性は私にコートを握らせたまま、足元に目線を落とした。そして、口元を噛むと、母の方を向いて頭を下げた。
「私はあの事故の・・・事故の運転手の妻です」