識閾の在り処 後
開け放たれた窓から風がそよぐ。青色のカーテンがふわりとめくれあがり、砂浜のようなベージュ色の天井へとそれは波のように打ち寄せた。
葉擦れのようなカーテンのはためく音と自身の荒い呼吸音だけがこの世の全てに思える。
何度も何度も何度も見た悪夢だ。まるで終わりのない再現性。「シーシュポスの岩」を思わせる、この生々しい浅い眠り。
半身を起こそうとすると、上昇した体温がシーツさえも手を滑らせた。それほどまでに私は酷く寝汗をかいていた。
「奈緒子!?」と、誰かが倒れた私の手を握った。汗のせいか、布団を捲ったせいか、入ってくるそよ風に身体が震えてくしゃみが出た。
「おか・・・あさん?」
ベットに横たわる私の手を握っていたのは母だった。
ところで、母はこんなに年老いていただろうか。すっかりと覆われている白髪のせいか、直近の記憶よりも随分と老けて見えた。
「ここ、どこ?」と、尋ねると母の口元が痙攣するのが見えた。そして、何かを噛み締めるように口元を一度きつく締めると柔らかな口調で病院よ、と答えた。
あれからどれくらい経ったのだろう。ヘッドライトを背に私を直視した女子高生の顔が鈍器のように私の脳裏を小突いた。
「ここに来てどれくらい経つの?」と、痛みを紛らすように母に尋ねた。
母は先ほどのように口元をきつく結ぶと今度は震わせていよいよ何も言わなくなってしまった。
ところで、彼女の遠く背後にはカレンダーが壁にかかっており、思わず目を細めて眺めた。
11月だった。あの日も確か同じ月で、悪夢が単に長らくときを感じさせていたのだ、と、まるで事故を昨日のように感じた。
だが、カレンダーの西暦は私を35歳にかえていた。
タチの悪い冗談だと思った。手を眺めてもいまいち分からない。何かに怯えた母がこちらを見ている。そうだ、鏡だ。鏡さえ見られれば。
そこで初めて私は気がついた。この部屋には鏡どころか、およそ病室と言えるほどの何物をも持ちあわせていなかった。
只々、だだっ広い空間にベットが一つあるばかり。とても、外傷を伴う病室ではなかった。
25からいままで一体何をしていたのか、そんな答えが外にあるはずもないのに私は急いで病室から出ようとベッドから降りた。
ただ、私の身体はそれを拒絶した。降りかけた右足が床に触れる寸前で、まるでそこに私にとっての踏み絵でもあるかのように足をつけることを拒んだ。足払いをかけられたかのように私の身体は横に流れて勢いよく地面に倒れた。
無理もなかった。カレンダーの日付が正しければ、ろくに運動もしていなかったであろう私のいまの身体が普通に歩けるはずもないのだから。
仰向けから見える天井は平然としていた。寄せては返すカーテンの波際から私の頬にいくつもの雫がこぼれ落ちてくるようだった。
「あの時、私といた人たちは亡くなったの?」
母は私の視界の隅で、頷くように蹲った。
お墓に行きたい、とだけ言いたかったのに、その短い言葉は時折むせ返り、嗚咽のなかにただ沈むばかりだった。
それを母が汲み出してくれたのは深い夕闇に包まれてからだった。