識閾の在り処 前
女の子に話しかけられる前に見つけたバス停は、やはり、最終時刻を既に過ぎていた。何度か通る車に手をあげてみようかとも思ったが、さっきの女の子ではないが、明らかに不審がられるだろうと思ってやめることにした。逆に止まられても、何かされそうでそれはそれで怖い。
来た道を降りながら、スマホで地図アプリを開いた。どうやら、この山道を降って国道沿いに歩けば住んでいる団地に戻れそうだった。
もう、精神的に限界なのかもしれない、そう思い始めて3年が経とうとしていた。石の上にも3年、その結果、私にもたらせたものは二度と戻らない健康だったのかもしれない。
偏頭痛に眉をひそめていると、押し潰されそうなクラクションにおそわれた。強張る身体を振り向かせると、眩しいライトを浴びせながらバスが迫ってくるのが分かった。そのあまりの迫力に私はその場にへたり込むと、バスは目前で急停車した。
運転席からは先ほどの柔和な運転手がなぜか声を荒げて私に叫んでいる。私は突発性の難聴のせいか聞き取れないでいると、運転手が窓を開けてさらに叫んだ。
「早く乗って!君はここにいてはいけない!さぁ、早く!」
あまりの運転手の変容ぶりに私はすっかり気圧された。地面にへばりついた重い身体を何とか奮い立たせると、促されるままに乗車口へと急いだ。
バスには運転手以外誰もいなかった。プーと、気の抜けるようなドアの開閉音がこの夢とも思える連続した異常な世界に、それでも私をつなぎとめてくれた。
運転手はすぐさまバスを発車させるとけたたましいエンジン音を響かせながら急加速した。思わずつかまり棒にしがみついて揺れがおさまるのを待つとすぐさま最前席の席に座った。
秋季漂うこの夜に運転手の頬を汗がつたっている。
「あの!」と、声をかけたが、運転手は変速後にまたすぐさまアクセルを最大限に吹かせた。その忙しない挙動に私たちが何か切迫した情勢に置かれていることだけはわかった。
私は状況を聞き出すことをあきらめて、シートベルトを探した。
その時だった。何やら椅子が濡れていて、慌てて自分の手を確認すると、どす黒い何かが指間腔をつたって流れ落ちていくのが見えた。それはとても鉄臭く、生暖かった。一瞬、何かの外灯が私の手元を照らした。液体の色が闇から鮮やかな朱へと変わった。鼓動が全身に悪寒を走らせ、次の呼吸が停止して全てが金切り声に集約された。
そのせいなのか、目前のフロントガラスが内側から激しく割れた。吹雪のように煌きながら車外へ破片が飛び散っていく。その破片の一部ではなぜか女子高生らしき人物の姿が写っている。どんな表情をしているのだろう、と、無意識に彼女の顔を探し求めた。
ところが、ガラスの欠損から小さな光が生まれ、瞬く間にその光が世界を包み、目蓋を閉じずにいられなくなった。小さな耳鳴りを一つ残して、私の意識は急激に薄まっていった。