識閾との会偶
どれくらい時間が経ったのだろう。再び目を開けると前席の親子はもういないようだった。ただ、前方から小さく話し声が聞こえてくる。どうやら、学生の子の方はまだ乗っているらしい。
窓の外を見ると山道だった。家は丘の団地だが、目の前の山道はまるで見覚えがない。
ー睡眠時間がさらに短くなる。
乱暴に袖をまくって、腕時計に目を落とした。いつもより既に十分ほど長く乗っていた。明らかに私は乗り過ごしていた。
まもなく、運転手の終点を告げるアナウンスが聞こえた。優しい口調に反して聞きたくもない事実だった。私は苛立ちを抑えられずに勢いよく降車ボタンを押した。
すると、相変わらず電話している前席の少女の声が一瞬止んだ。その間がなんとも不快だった。まるで、「終点なのに何押してんの?」とでも言いたけだったのだ。
バスは山道の登り坂で止まった。カバンからパスケースを取り出すと急ぎ早に前席へと向かった。
運転手は声色の通り柔和な眼差しをしていた。このまま来た道を戻るのなら、このまま乗せてもらえないだろうか。思わず、そんな思いが頭を過ぎった。
それは喉元まで急速にでかかったのだが、背後からやってきた少女の一声であえなく撃墜された。どうでもいいようなプライドが邪魔をしたのだ。
バスに乗ってからというもの、今日はこの女に何度も邪魔をされる。軽蔑の意味を大いにこめて電話をしている少女を睨んでやろうと振り返った。
ところが、そこに彼女はいなかった。代わりにあったものはラジカセのようなもので、それが少女の声を時折、再生していた。まだ、夢を見ているのだろうか。
私は思わずのけ反ってしまい、両替機に腰をぶつけた。反射的に運転手に謝罪すると、私は逃げるようにバスを出た。
バスは扉を閉め、そのまま行ってしまった。
見送るバスの背は自然だった。不愉快な排気の臭いを残し、けたたましく音を立ててゆっくりと去っていった。
ずっと短い睡眠の繰り返しで、まだ頭が現実についてきていないのだろう。私は一度、目頭を強く押さえつけると、反対車線にバス停がないか目で追った。
「ねぇ、どこから来たの?」と、ふいに小学生くらいの子が後ろから話しかけてきた。こどもが出歩く時間帯ではない。
「あなたこそなんでこんな時間にひとりで」と、言いかけて言葉につまってしまった。話かけている彼女の顔部分がまったく見えないことに気がついたのだ。
暗がりだからではない。長髪に隠れているからでもない。30も迎えていないのに、状態化しつつある偏頭痛に耳鳴り、突然やってくる浮遊感、そして、今度は眼にも支障がでてきてしまったのだろうか。
ー困った、明日も休めないのに。
私は彼女に向けた視線を一度、外した。地面のアスファルト、道路沿いの木々、遠くの夜空を代わる代わる眺めた。
すると、私の視界は一向に欠けていないことがわかった。
「ねぇ、聞いてるの?」
それなのに、彼女の顔だけは何度見ても不自然に真っ黒だった。
「何してるの? 早く行くわよ」
道路沿いの木々から母親らしき女性が出てきた。どうやら、バス停脇の階段から下の団地につながっているらしい。
「だって、この人!」
「いいから、帰るわよ」女性は女の子の手を握り、軽く会釈をすると木々の中へと消えていった。
女の子の後ろ髪は綺麗な黒色だったが、一度、振り返って見せた表情はやはり私には何も見えなかった。