傷者等の奏
肌寒くなってきた。太陽はとうに南中し、ユガ山脈の山麓付近にちらついている。見上げると、西の空から黒雲がこちらへ近づいているのが見えた。それはあと半時もせずにこの地までやってきて大地を濡らすであろう。
だから、先程から古傷が痛むのか。
雨の日には古傷が痛む。シハナの体には至る所に無惨な傷があり、特に、額に居座る、右の眉から眦にかけて走る傷と、喉から鎖骨を縦に大きく渡る傷はとても醜く、数年前にできたとは思えぬ程、生々しく、おぞましい。
村の集落や二里ほど離れた市場へ降りる度、
「あの娘は傷物だ」と、人々に冷笑されるのは茶飯事だ。
シハナはその事を全く気にしてなかったのだか、親の居ないシハナを養ってくれているシェミカが、傷にさらしを巻け、と助言してくれた。さらに、それではあんまりだ、と繕ってくれた上衣は、被り物と衣が縫い付けられており、頭から被ると顔が影になって見えにくい仕様だった。なので近ごろはその醜い傷が他人の目に映る事は滅多に無い。
しかし、古傷もこのごろは痛まないとおもったのだが、やはり傷が深いのか、ずきんずきん、と痛んでいる。
もしかしたら、この後大雨が ふるのかもしれない。
まだまだ山菜の量はシェミカに頼まれた分には達していないが、帰らなければならない。
片手に山菜が入った麻袋を提げ、足早にその場を去ろうとした。
その時だった。
突如、辺りに女人の叫び声が響き渡った。それに続き、男の怒号が微かに聞こえる。
軽い足音が、一。
続けざまに重い足音が、一、二、三、四、五。
シハナは素早く身を隠すと、近くに立っていた樹木に音を立てずによじ登った。
目論見通り、高い場所からは遠くも見渡せた。
走る女人が一人とそれを追う五人の大男達がいた。
女人は必死に逃げるが、あの距離だとすぐに大男の内の誰か一人に捕まってしまうだろう。
捕まえるだけなら良いが……。
先程の悲鳴は尋常ではなかった。
捕まえられた刹那、男達が手にしている剣や槍でその身を貫かれるのだろう。
正直ここで女人を見捨ててしまえばよかった。そうすればシハナはこの後も特に変わりなく穏やかに生活出来たはずだろう。
しかし、シハナは賢く冷静だが、情を捨てきれぬ齢十七の娘であった。この後シハナがとった行動によって、シハナの生活は大きく変わっていくことになる。
ザセクは口の端をつりあげて笑った。獲物が射程圏内に入ったからだ。あとほんの一時でザセクの右手の剣が女人を仕留めるのだ。
体が、熱くなるのがわかった。心ノ臓が、どくんどくんと波打つ。
今までも密偵として、あの御方の命により幾人もの人を殺めたが、今だこの瞬間は何よりも興奮する。
彼は上半身を捻り、剣を女人の首に向かって振り下ろした。
一瞬、何が起こったのか、わからなかった。ただかろうじて、右手に鋭い痛みが走り、振り上げていた剣が後方に飛んだことは理解できた。
右手の三本の指に耐え難い激痛が走り、ザセクは思わず顔を歪めた。指は完全におれていた。我が身に痛みを与えた物は何か、確認しようと目だけを動かす。すると、先方に先程捕られようとしたとした女人を庇うように立つ人影が見えた。上衣を深く被っており、顔は見えない。全体的に細いが、機敏で無駄の無い動きをする。そして、
(なんて背が高いんだ……)
ザセクは、元々住んでいた村で一番丈高き者だと言われていた。殺し屋として腕をあげてから出会った者達の中でも大男と呼ばれる程だった。だが、目の前にいる人物はザセクよりもずっと高くみえる。その割には華奢で余計な筋肉は見えない。何か違和感がある。
(まさか……)
ヒュウっと音がして、気がつくと目の前にこぶしがあった。ザセクは身をよじり攻撃を避けるがその瞬間目にも止まらぬ速さで、目の前の人物の拳がザセクの腹を突いた。
「うっ……」
腹部に圧迫を感じザセクはうめき声をあげ、膝を着きその場に崩れ落ちる。
チカチカと点滅する視界の端に、慌てた部下がザセクに駆け寄ろうとするのが見えた。それを手で制し、目の前の人物を見上げ、睨んだ。
(やはり……こいつは……)
先程の違和感の正体。下から見上げると上衣に隠されること無く、その人物の顔はよく見え―
そこにあったのは、とても冷えた目をした女の顔だった。
―その瞳は、緑色だった。
(なぜ〈鹿ノ族〉がいるんだ……)
ザセクはゆっくりと立ち上がり、女を睨めつけた。
「お前……〈鹿ノ族〉……だろう……」
途切れ途切れに口から出た言葉は低く辺りに響く。
「……」
女は答える代わりに上衣をゆっくりと外した。
「女っ……」
部下達が息をのむ音が聞こえた。
「……この女人を見逃してはくれまいか」
女はザセクらの獲物である女人を庇うように立った。
「……それは出来ねぇな。お前こそ、そいつをなぜ庇う」
ザセクの手の動きに従い、部下達が武器を構え女と女人を取り囲む。
「どれだけ貴様が強かろうが、こちらの方が武器も人数もある。なんの真似かは知らねぇが、大人しくそいつを寄越しな」
先程はあいつの奇襲めいた攻撃をまともにくらったが、さすがに今度はそうはいかないだろう。どんなに強かろうが、あいつは一人。素手で、さらに女ある。圧倒的に向こうが不利な状況だ。
「行けっ!」
ザセクは雷鳴のように吠えた。その声に従い、彼と部下達は一斉に女に襲いかかった。
(なぜ……)
気がつくとザセクは地面に頬をつけていた。
部下達も同じだ。圧倒的に有利だったはずなのに、彼らは瞬く間に無惨に地面へと叩きつけられた。
遠のく意識の中で、ザセクはありえないものを見た。
(なぜ……あの御方の……)
ザセクはそれ以上は何も考えられず、ただ、なぜ……と永遠に口の中で呟いていた。
シハナは手の甲で額を拭った。もう雨は降り初めており、衣を容赦なく濡らしていく。
(結局山菜は採れずじまいか……)
ため息を吐き、咄嗟に己が庇ってしまった女人を見やる。
彼女は恐怖と疲労で気を失っていて、今は近くの樹木に寄りかかっていた。
(……面倒くさいことになりそうだ)
シハナはもう一度ため息をつくと女人をおぶり、濡れてぬかるんでいる地面を慎重に踏んみだした。