懺悔
遅くなってしまい、申し訳ありません。
ギデオンが去った後、アルベルティーヌは暫くの間、呆然としていた。まさか、ギデオンが自分を「妻」に望んでいるのだとは───夢にも思っていなかった。どの令嬢が妻に相応しいのか見極めるために自分をパートナーにえらんだのだと、勝手に思い込んでいた。こうして考えてみると、ギデオンの誤解は正常で、アルベルティーヌが変わっているのだ。
このクリスマスパーティーのパートナーに誘われたということは、彼女は自分を愛している。そして、自分も彼女を愛している。妻にしたいと望んでいる。だから、彼女をパートナーにしよう。
ギデオンの思考回路は至極当然である。何度目か忘れてしまったが、このクリスマスパーティーのパートナーは将来の妻を見据えて選ぶのだ。
「私、なんて酷いことをしたのかしら…」
蒼白になり、よろよろと広間を抜け出そうとするアルベルティーヌを見つけたのは、レオナルドであった。
「アルベルティーヌ、大丈夫?」
アルベルティーヌの瞳が揺れた。安心したのか、怯えたのか。それとも、動揺したのか。
どれも定かではないが、アルベルティーヌは自分の瞳から大粒の涙が溢れるのを止めることができなかった。
本当に泣きたいのは、私じゃなくてギデオンなのに…!
「アルベルティーヌ…」
心配そうに自分の瞳を覗き込むレオナルドを見て、アルベルティーヌは罪悪感が湧いてきた。
「レオナルド様…!」
レオナルドは驚いたように呟くと、アルベルティーヌを抱き締めた。レオナルドの胸に縋りつきながら、アルベルティーヌは涙が枯れるまで泣いた。子供のように泣くことはしなかったけれど、時折、嗚咽を堪えるのが苦しくなった。それでも漏らさなかったのは、ひとえに、自分の矜持であった。
私には、泣く権利なんてないのに。
ひとしきり泣いた後、アルベルティーヌはレオナルドに礼を言い、ギデオンを探し始めた。レオナルドは、何か言いたそうな風であったが、アルベルティーヌがその旨を伝えると、曖昧に微笑み、さっと踵を返してどこかへ行ってしまった。彼なりの気遣いであることは、アルベルティーヌにも察せられた。
ギデオンと、しっかり話をしなくてはいけない。
私は、彼に───ギデオンに謝らなくては。
アルベルティーヌが広間に戻ると、そこにいたのはロイスとシルヴィアだった。二人とも、アルベルティーヌの意図を汲んでくれたようで、そっと右側のテラスを指差した。
テラスには色とりどりの花の代わりに、宿り木と雪の花があった。雪の花は魔法で作り出したものである。結晶を組み合わせたものもあれば、そうでないものもある。ギデオンが座っていたのは月明かりの差し込む小さなベンチであった。
アルベルティーヌが一歩を踏み出す度に、サクサクと霜が降りた芝生が鳴る。
ギデオンは聞こえないふりをしているのか、振り返ろうともしない。アルベルティーヌも後ろめたさのせいで声がかけづらかった。
「あの、ギデオン」
アルベルティーヌは、さっとギデオンの隣に座った。途端に、ギデオンは立ち上がって去っていこうとする。
「待って」
そう言ってもギデオンは歩みを止めない。
広間に行けば、完全にギデオンに話しかけるタイミングを失ってしまう。それだけは、どうしても避けたかった。
「お願い、話を聞いて」
「どうかしましたか」
アルベルティーヌの懇願で、ギデオンがようやく足を止め、アルベルティーヌの方を振り返る。彼の声は気味が悪くなるほど静かで穏やかだった。怒気など微塵も感じさせず、微笑んでいる。そんなギデオンを見た途端、アルベルティーヌは背筋が凍る思いがした。
嘘、でしょう?
常に微笑みを絶やさない優美な好青年を演じているギデオンは、アルベルティーヌの知るギデオンではない。
この作り出された雰囲気は、ギデオンが保身と社交のために用いる、すなわち親しくない人間に向けるものなのだ。
アルベルティーヌはギデオンと知り合ってから、こんな対応をされたことは今まで一度もなかった。そして、気づいた。ギデオンは自分を、もう親しい間柄の人間だと決して認めないことを。
「何でもない…あ、いえ、何でも…何でもありません」
そう言うのが、やっとだった。ギデオンを傷つけたのは紛れもない自分自身だ。ギデオンはアルベルティーヌを詰り、責め、怒る権利がある。それなのに、他の令嬢達と同じように悲劇のヒロインになりすまし、めそめそと泣いて男の同情を誘うような女には絶対になりたくなかった。もっとも、アルベルティーヌがギデオンにこのようなことをしたら、同情を誘う前に失笑されるか、蔑まれるかの二択だろうが。
優雅な足取りで去って行ったギデオンを見つめているアルベルティーヌの顔は、すべてを失ったかのように、感情が抜け落ちていた。
***
それから間もなく、ギデオンはとある伯爵令嬢と婚約した。
それをロイスから聞いたアルベルティーヌは淡々と受け止め、祝いの言葉をギデオンに伝えてほしいとロイスに頼んだ。シルヴィアとロイスは、それで良いのかとアルベルティーヌに何度も問うたが、アルベルティーヌは静かに微笑むだけで、何も言わなかった。
あの後、ギデオンとアルベルティーヌは一言も言葉を交わしていないし、視線さえ通わせていない。お互いをまるで空気のように無視しあっていた。少なくとも、アルベルティーヌはそう思っている。あくまで、無視しているのだと。ギデオンが自分を無視するだけに留めず、まるで他人のように振舞ってくるのを認めたくはなかった。無視、とは相手を意識して生まれるものである。だけれど、ギデオンはそれさえ通り越して、アルベルティーヌを知らない存在、つまり意識することもしないのだ。本当に、そこら辺に転がっている小石を見るかのような目で見てくる。これならば、蛇蝎の如く扱われる方がまだマシなのではないか───と、つい、思ってしまうほどであった。
「アルベル、貴女、本当にこれで良いの?」
シルヴィアが心配そうに訊いてくるが、アルベルティーヌは苦笑するしかない。
ギデオンが決めたことなら、アルベルティーヌはそれを受け入れるしかないのだ。反対しても、取り合うどころか憐憫の目で見られるのがオチだ。
「話し合ってみたらどう?」
それができたなら、アルベルティーヌだって即座にそうしたことだろう。状況も今とは全く違ったに違いない。
「できないわよ」
「どうして?」
「正直言って、彼と話すのは怖い。それに、今のギデオンと話したところで、何も起こらないわ。だって…」
言いかけた言葉をぐっと噛み締め、アルベルティーヌは視線を虚空に彷徨わせる。
「ギデオン様のお相手、どなたかご存知?」
「いいえ」
「見たこともない女性に恋人を取られるのって、悔しくないの?」
悔しくはない。だけれど、例えるならば、何だか自分の素敵な玩具が横取りされたような気分だ。つまり、面白くない。同時に、その女と自分自身に対してアルベルティーヌは憎しみと怒りを抱いている。
「アルベ「シルヴィア」」
シルヴィアの声にあえて被せてアルベルティーヌは言った。
「もう、いいのよ」
喉から絞り出すようにして言った言葉は、アルベルティーヌを黒々とした深淵へと突き落とした。ぽたり、と一滴の雫がアルベルティーヌのドレスへと鉛直方向に落ちていった。堰を切ったように溢れ出した雫は、アルベルティーヌの頬を伝って垂れていく。
私、ギデオンのことが好きなのだわ───。
シルヴィアは、アルベルティーヌの背中を優しく撫でる。慰めるように、労わるように。
そっと差し出されたハンカチーフを、アルベルティーヌは乱暴に振り払った。ハンカチーフは静かな放物線を描いて落下していく。
自分のしたことに瞠目しながらも、気がつけばアルベルティーヌのシルヴィアに向かって怒鳴っていた。
「どうして誰も私を責めないの?どうして怒らないの?どうして、どうして私を詰らないの?ギデオンは私を小石みたいに扱うわ。ギデオンは私を怒ってくれないの。悲しそうな素振りさえ見せないわ。私が憎くて憎くて仕方ないのに、絶対に微笑みを崩さないのよ!馬鹿にしたり、侮蔑したように笑われる方が、ずっとマシだわ!ギデオンは、私がそうされるのを待っているのを知ってて、あえて私に何の感情も向けてこないの!私なんか、まるでどうでもいいっていうみたいに、まるで、道でぶつかって一言二言、交わしただけで、その後は記憶から知らないうちに消される人みたいに私を見るの。ううん、違うわ。彼は私なんか見てないのよ…」
私、一体、何をしてるのかしら…。
シルヴィアに言っても無意味だって分かっている。それなのに、アルベルティーヌは叫び続けていた。自分を見てくれと、ただそのことだけを求めて、叫び続けていた。
アルベルティーヌの息が切れ、言葉が止まった次の瞬間、シルヴィアの心臓はとまりかけた。
アルベルティーヌからおどろおどろしい何かが、どくどくと脈打つように流れ出していた。
かつての、本物のアルベルティーヌが蘇った。