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キツツキと7つ目の目覚まし時計あるいはティルト・ボーイが叫んでいる場所

作者: ラミー牌戸

                      【1】


 真っ暗な嵐の夜だった。(It was a dark and stormy night.)

 負け続けだったチャーリー・ブラウンの野球チームが初めて勝利を収めた日からちょうど5ヶ月後の1958年9月26日、その年の22号目の台風が、日本の伊豆半島を直撃した。

 僕は2歳半で、母親の背中に背負われて、父親とランドセルを背負った姉と飼い犬のジャックと一緒に、川沿いに建つ我が家が、川の決壊で流される危険があるからと堤防を祖父の家に避難する為に向かっていた。

 周りは、土砂降りの雨と横殴りの風と唸る濁流がまさに嵐となって襲いかかって来そうな状況なのに、なぜか記憶の中では無音だった。

 そして次に来る記憶は、母親の背中からスローモーションで振り向いた僕の目に飛び込んで来る無数の雨粒の向こうの濁流に見え隠れする赤いランドセルの姿と川とは反対側の草むらから姿を現した、貧相に濡れぼそったジャックの無音の鳴き声だった。


                      【2】


「夢とは、語りかけるものではなく、行為し、探し続けるものだ。俺は死ぬまでこの指で鍵盤の上に、夢を探し続けるだろう」

 そう言っていた黒人ジャズピアニスト、バーディ・アネクドートJRは、同じ日、アメリカはニューヨークの、とあるジャズ・バーで演奏中、愛人の夫の手によって射殺された。

 その時、彼は『Dream Maker’s Blues』の13小節目に指を乗せていた。


                      【3】


 と、まぁこんな風に、いつの日も、突然に命の[Dead End]はやってくる。

 850人を超す人々が22号台風で被災し、それらの人々は、運がよければなんとか身元が分かる程度の姿で帰ってき、運が悪ければ流木の枝にかすかな肉片を残すだけで、この世から消えていった。


                      【4】


 のちに人々は、この一夜の出来事を『狩野川台風』と名付けた。


                      【5】


 その翌日、子供たちが学校へ行くと、ところどころ席が空いていて、その席の持ち主の代わりに机の上には、牛乳瓶に挿したコスモスが置かれていた。

 コスモスは、窓から差し込む秋の日差しを浴び、そよ風に揺れていた。

 先生が、子供たちに話しかける。

「皆さんに、今日は悲しい知らせがあります。昨夜の台風で、3人のお友達が、川に流されて亡くなりました。皆さんのおうちでも大変だったろうと思います。………3人のお友達は、天国で皆さんのことを見ています。これからは、3人のお友達の分も一所懸命生きてゆかなければいけません。わかりましたね……それでは3人のお友達のために黙祷しましょう」

 教室の中は静まり返り、子供たちは、それぞれに目を閉じ、それぞれの目蓋の裏の闇を見つめる。

 ひとりの子供は想った。

〈死とは、約束を果たさなくても良いことだ〉

 この子は、昨日、3人のお友達の中の1人から、メンコをもらう約束をしていたのだ。

 別の子供は想った。

〈死とは、ニンジンとの永遠の別れだ〉

 この子は、昨日、3人のお友達の中の1人と給食に出たニンジンを、先生の見ていない隙に窓の外へ捨てたのだ。これから先、この子は、1人きりで給食のニンジンに立ち向かわなければならない。

 また別の子供は想った。

〈死とは、ランドセルを背負った後ろ姿をしている〉

 この子は、昨日、3人の友達の中の1人と一緒に帰り、最後にサヨナラの手を振って歩いて行く、お友達の後ろ姿を見たのだった。

                  ☆          ☆

 ランドセルを背負った後ろ姿として、この子の心に刻まれたお友達というのは、僕の姉だった。


                      【6】


 そんな訳で、僕の姉は、僕の大好きなジャズピアニスト、バーディ・アネクドートJRと同じ命日を持っている。


                      【7】


 毎年、9月26日がやってくると僕は、彼(バーディ・アネクドートJR)がこの世に残したわずか3枚のレコードをデジタル化して保存したスマホで聴きながら、狩野川を堤防沿いに歩く。

 耳元をくすぐる流れるようなピアノの旋律、高く透き通る秋の青空、風に靡くススキ、穏やか過ぎる川の流れ、それを見つめるコスモスたち。

 コスモスを一輪摘んで、O橋まで………。

 O橋の中央の欄干に立ち止まって、真上から川に臨む。

 時の流れよりも、もっと正確なテンポで川は静かに流れている。

 耳元でピアノとベースとドラムが一体になって究極へと向かう。

 握り締めた右の掌を静かに開きながら前へ押し出す。

 緩やかな放物線を描いて落ちてゆくコスモス………。

 水面にたどり着いた瞬間、深い緑色をたたえた世界で淡いピンクの無垢が、この上なく美しい。

 しかし、それも瞬く間。

 たちどころに、深い緑に呑み込まれてしまう。


                      【8】


「川は生きているんじゃ、甘く見ちゃいかん。いくら水面が、穏やかな流れを見せていようと、川床の流れは別なんじゃ。よう覚えとけ。恐ろしい生き物なんじゃ、川は………」

 祖父は、生前、口癖のようにそう言っていた。


                      【9】


 バーディ・アネクドートJRの命の[Dead End]について、仲間のベーシストは、こう語っている。

「かわいそうなバーディ………3年前までバーディはジャンカー(麻薬常習者)だった。女房さえ、呆れ返って家を出てっちまったよ。でもあることがあって、ジャンク(麻薬)とは手を切ったんだ。ある日、やって来るとバーディは言った。『今からTIME BOX(監獄)へ行ってくる。今まで俺は、俺自身の手で俺の人生を蝕んでいたんだ。』………バーディの娘が、ジャンカーの運転する車にはねられたのさ。それから1年後、クリーンになってバーディは帰ってきた。俺たちは、また一緒に演奏を始めた。バーディのピアノは、ご機嫌に走ってたよ。人生は、クリーンなりってなもんさ。演奏が終わると、俺たちが勧めるバーボンにも手を出さず、娘の待つアパートへ直行………娘のアリスは、事故で右足をなくしていたんだ。バーディはこれからの人生をアリスの右足になることに決めていたんだろう、自分が仕事でアリスを看れない時間、看護婦を雇った。看護婦は、アリスの友達になり、姉になり母になって、面倒を看てくれた。バーディは女としての看護婦に惚れたわけじゃない。アリスを優しく包み込み、愛してくれる人間に好意を持ったんだ。それくらいバーディの生活は、アリス中心だったんだ。それを………」


                      【10】


 アリス・アネクドートの現在についてはわからないが、30年ほど前までは、ペンシルベニア州の小さな田舎町で、看護婦のサリーと一緒に暮らしていたという記録が残っている。

 父バーディの生まれた町だ。

 バーディの死の後サリーは、バーディを撃った殺人犯と離婚し、アリスの右足になった。

 そして、2人は、看護婦と患者ではなく、母と娘のような関係になっていた。

 朝、近くの診療所へ働きに出かけるサリーを見送ったあと、アリスは、父のレコードを聴きながらセーターを編み始める。サリーへの誕生日のプレゼントだ。牛の鳴き声が聞こえる。

 こんな田舎町にいたら、ニューヨークの喧騒は、嘘のようだ。………そして、父の死さえ。

 時々、アリスは想うことがある。父バーディは、今、長い演奏旅行をしているんだ、と。

 そして、今にもドアから入ってきて、「ただいま、アリス、元気だったかい」と私を抱きしめて、キスしてくれるんじゃないか、と。


                      【11】


 表現者は、この世に作品を残すことができるだけ幸福かもしれない。

 バーディ・アネクドートJRは、3枚のリーダーアルバムとジャンクから手を切るための療養の間に書き上げた雑文集『俺は、今生まれたんだ』(I died and I am reborn now)をこの世に残した 。


                      【12】


 不幸なる僕の姉は、この世に死体さえ残さず消滅した。


                      【13】


 O橋から10キロメートルほど下流でズタズタに切り裂かれた赤いランドセルの革が発見されたが、それが、姉の所持していたランドセルと同一の物か誰にもわからなかった。

 しかし、ただひとり母だけが、姉のランドセルだと言い張り、遺品として家に持ち帰り、それがあたかも姉の肉体の一部ででもあるかのように、頰ずりしていたと言う。


                      【14】


                      記憶とは、

                     いくつかの嘘と

                     頼りない風の噂と

                   淀みない時の流れによって

                  形づくられた1つの真実である


                      【15】


 ある日、姉が、僕の頭の中に住み着いた。

 それからというもの姉は、僕の人生のあちこちで、しゃしゃり出て来ては、

頭の内側から、「コツ、コツ」とつついて、僕に何かを知らせようとしてくるのだ。時には危険であったり、またある時は励ましであったり、はたまたダメ出しであったり。

「コツ、コツ、コツ、コツ」と、まるでキツツキのように………。


                      【16】

                    《キツツキ告知》❶


 姉が、僕の頭の中に入り込んだ日のことだ。 

 この記憶の中では、僕が死にかけていた。

                  ☆          ☆

 1961年、幼稚園の夏休みのある日のことだった。

 その当時、僕ら子供の遊び場は狩野川の川原だった。

 毎日、タモを持って出かけた。川原に飛んできたトンボや蝶を採るのだ。

 その日、僕と友達の3人は、トンボ採りにも飽きて隠れんぼを始めた。

 友達の1人が鬼になった。

 もう1人の友達は堤防の向こうに逃げて隠れた。

 いつもは僕もそっちの方へ隠れるのだけれど、その日はたまたま20メートルほど離れた川縁にあるテトラポットの陰に隠れた。

 鬼は、堤防の方へ探しに行ったみたいだ。

 僕は、2つのテトラポットの間で足を踏ん張って軀を支え、鬼が探しに来るのを待っていた。

 軀の下は、川の流れだった。

 鬼は来ない。

 足も疲れてきた。姿勢を変えようと踏ん張っている足の位置を移動させながら鬼の様子を伺おうとしたとき、ズックの底のゴムがテトラポットに付着した苔で滑り、軀は仰向けのまま川の中に落ちた。………両手足をバタバタさせながらもがき、何度か水を飲んだことは覚えている。

 しかしある時点を境にして、突然、僕の中のすべての感覚が麻痺した。

 どれほどの空白があったのか僕にはわからなかったが、「コツコツ、コツコツ」という音がフェード・インしてきて、頭の中からノックしている音なのかなと思った時、音とノックは消え、チクチクする背中の感触で意識が戻った。

 暫くすると僕は川縁の葦の群生地に寝かされていて、視界の中には2人の友達と見知らぬおじさんが見えた。

 僕は、近くで釣りをしていたこの見知らぬおじさんに助けられたのだ。

 僕は、こちら側にとどまって生き続けていた。

                  ☆          ☆

 この1件で父と母は、少なからずショックを受けたようだ。

 その時2人の間にはこんな暗黙の了解が成立していたに違いない。

《姉貴の魂が、僕を川の中へ呼び寄せたんだ》と。


                      【17】


 バーディ・アネクドートJRの雑文集『俺は、今生まれたんだ』は、2つの章から成り立っている。

 前半は、〔闇の章〕と題して、出生から子供時代、ジャズピアニスト修行時代、そしてジャンカーと別れを告げるまでの26年間のことが、いくつかのエピソードとして紹介されている。

 後半の〔光の章〕になると、今までの人生への悔恨とこれからの生きることへの決意が強い語調で語られている。

 そしてその語り口の根底には、平穏な愛情と人類への信頼が至るところに刻まれている。


                      【18】


 死んだ人間の肉体を確認していないということは、その人間の死を認める必要はない、と言う者が出てきても不思議ではない。

 誰の物かわからないランドセルの革の片鱗に、娘の亡骸を見ようとする母とは違って、父は、頑なに娘の生を信じる考え方に傾いていた。

 台風のあと半年の間、我が家の玄関は、鍵を掛けられたことがなかった。

 町中でうちだけが、夜中も煌々と明かりが灯され、ランドセルを背負った娘の帰宅を、24時間態勢で待ちわびていた。

 近所の主婦たちは、我が家のことを「常夜灯御殿」と、皮肉って言い合っていた。

 半年後、我が「常夜灯御殿」に泥棒が入り、家の中のタンスの引き出しは引っ張り出され、押入れも乱されて、いくらか物が盗まれた。

 しかし金庫だけは、どういうわけか、手をつけられていなかった。

 そんなことがあってからは、夜間の戸締りと消灯は欠かさなくなったが、父の基本的姿勢は変わることなく、ほとんど意固地ではあったが、娘の生を信じていた。

                  ☆          ☆

 僕は、後でこの話を聞いて、想ったものだ。

〈この時の泥棒は、母に違いない〉と。


                      【19】


 【我々の人生は、夥しい他人の死によって彩られている。そして、最後に自らの死に立ち会うことで、その幕を閉じる。幕引きたちは、一瞬たりとも、我々から目を逸らそうとしない。その辛抱強い視線を、俺は感じ続けてきた。】

 バーディ・アネクドートJRの雑文集『俺は今、生まれたんだ』の〔闇の章〕は、こんな文章で始まっている。

 そして、こんな風に続く。

 【『弱い』俺を俺自身が感じているとき、例えばジャンクが切れて、禁断症状が始まろうとしているとき、その視線は、限りなく優しい微笑をたたえ、俺を手招きする。

 俺は、『弱い』俺はその微笑の世界で、楽になってしまいたいと思う。…………1歩、2歩と視線に近づく。俺は、手にナイフをかざし、[Dead End]まであと3歩………楽になりたいと強く思う。あと2歩………もう、苦しみはこれで終わりだ。最後の1歩………胸を貫くナイフの刃!!!。

 ほとばしる鮮血の海の中で、幕引きの仕事が始まっているようだ。

 ケンタッキー州レキシントンの国立精神病治療研究センター麻薬常習患者病棟303号。………胸を走る痛烈な痛みで、俺は目を覚ました。ナイフもなければ、鮮血もない。

 俺は、肋骨4本の骨折と引き換えに、人生を拾ったのだ。】


                      【20】

                    《キツツキ告知》❷


 小学1年生の秋のことだ。

 その日、1週間後に迫った学校の運動会の種目である地域対抗リレーの選手を選ぶため、僕の住んでいる地域の1年生から6年生まで全員が、狩野川の堤防に集められた。

 100メートルを直線で走ることができる場所はそこしかなかったのだ。

 その当時、僕は同級生の中でも目立って背が小さく、走るなんて大の苦手だった。

 僕は、狩野川の堤防には来たものの、不安でたまらなかった。

 6年生の地区委員が、選出方法を説明し始め、みんながそっちに顔を向けた隙に僕は、小さい軀をもっと小さくして、堤防の斜面を滑りおり、川原の葦の群生地に体を投げ出した。運良く誰にも気づかれずに済んだ。

 それから、葦の生い茂った中をできるだけ堤防から遠くへ、川縁の方へと這って行った。

 6年生の掛け声が聞こえなくなるほど、狩野川の流れの音が大きく耳に届くところで、僕は仰向けに寝転がって、覆い被さる葦の隙間から夕暮れてきた空を見上げ、早く時が過ぎて、堤防のみんなが家路について、居なくなってしまうのをじっと待った。

 暫くして僕は、「コツコツッ、コツコツッ」と頭の中でキツツキのノックがすでに始まっていることに気づいた。

 そして、寝転がっている場所が、2年前溺れかけて助けられた時、寝かされていた場所であることに続いて気づいた。

 そしてこんな風に想ったことを覚えている。

《また、ここへ戻って来た》と。

                        ☆

 2年前のあの後、僕は家に連れ戻され、仏壇の前に座らされた。

 父と母は無言のまま僕を威圧していた。

 母は、仏壇の奥の方から1つの写真立てを取り出した。

 そして、長い歳月のうちにガラスの表面に付着した埃を割烹着の裾で拭き取ると、それを僕の前に立てたのだ。

 その写真立ての中では、僕より少し年上の女の子が笑っていた。

 それから母は、僕の尋ねるような視線に向かって喋り始めたのだった。

 ………その日、初めて僕は、『狩野川台風』で行方不明になった姉貴の存在を知った。

                        ☆

 夕焼けの反映を受けて、僕の寝転がっている場所は、淡いオレンジ色に染め上げられていた。聞こえてくるのは狩野川の流れの音と左胸に置いた右の掌に伝わってくる心臓の音なき音の感触だけだった。

 僕は安らいでいた。

 他の何処の場所にいるよりも、ずっと安らぎを感じていた。

 頭の中では、「コツコツッ、コツコツッ」と規則正しい音が続いていた。

 そのうち目蓋が重くなり、その場で眠り込んでしまったらしい………。

 やがて時が経ち目覚めると、周りは闇に閉ざされ、僕は冷気から身を守るために胎児のように膝を抱えて丸まっていた。

 夜空の闇に1点だけ星が瞬いていた。僕は、寝ぼけた頭で、〈この闇の世界からの出口は、あの夜空の光の穴しかない〉と確信していた。

 しかし、出口は意外なところにあった。

 川縁を上流の方から、星よりもずっと明るい一筋の光が、僕の方に向かってまっすぐに進んできたのだ。

そして、聞いたこともない男の声が、その光と一緒に僕の名前を呼びながら近づいてきた。

 恐怖が、僕の心を充たした。

 と同時に僕は、キツツキの言葉なきノックに導かれるように、川に向かって走り出していた。

 水の中に入って3歩も行くと、川の流れに足をとられて転んだ。

 眩しい光が、僕の顔を間近でとらえた。

「さあ帰ろう、みんな心配しているぞ」

 僕の目の前には、懐中電灯を持った消防団のおじさんが立っていた。

 父と母は、夜になっても帰ってこない僕を心配して、消防団に捜索を頼んだのだ。

 川の水でビショビショに濡れて重くなった服を気持ち悪く感じながら、消防団のおじさんに手を引かれて家に向かった。

 頭の中のノックは、いつの間にか消えていた。

 途中で僕は、今まで眠っていた葦の繁みの方を何度も振り返った。

 しかし、そこには果てしない闇があるばかりだった。

 その闇の中で、ただ1つ狩野川の息づいている気配だけが感じられた。

 そして僕の中に、ある種の喪失感が広がっていくのがわかった。

《もう永遠に「この僕」としてこの場所には戻って来れないだろう》というような………。

 僕は、消防団のおじさんが持った懐中電灯が照らしている3メートルほど前の、闇を丸くくり抜いたような地面をじっと睨みつけながら歩いた。


                      【21】


 やがて気がつくと僕は、台風で流された時の姉貴の年齢を超えていた。

 それからというもの仏壇の中の写真の少女は、見るたびに幼くなっていくように感じられた。


                      【22】


 ある時、祖父がこんなことを言った。

 僕が、小学校の2年生か3年生の頃だったと思う。

「人間、ときには、黙り込むことが必要なんじゃ………そうすれば、言葉の尊さが、自ずとわかってくる」

 その当時、僕の周りでは黙り込むという行為は、先生の質問に答えられないか、何か後ろめたいことを秘めている場合に逃げ込む場所だった。

 全ての想いを言葉にすることが美徳であり、良い子の証しであるような時期だったので、僕には、祖父のこのような言葉は無意味だった。

 僕が中学2年の時に、祖母が死に、それと同時に祖父は、黙り込んでしまった。

 まったく言葉を言わなくなり、晴れの日には河原で日向ぼっこをし、雨降りには部屋に閉じこもって、壁を見つめていた。

 それが、3年続いた。

 その頃には、僕にも、かつて祖父が言った黙り込むことによって導きだされる言葉の尊さについて、少しは分かりかけてきていた。

 僕なりの人生の中で………。

 その年の秋、納豆をご飯にかけた朝食を頬ばりながら、祖父がポツリと言葉を言った。

 同じ部屋にいた誰もが(僕と母と父だが)、祖父の顔を見た。

 最初は、祖父が喋ったことにびっくりしたのだが(僕などは、祖父の声さえ忘れかけていたので、本当に祖父の声だったのだろうか、と想ったぐらいだ)、もう一度、喋った言葉を反芻してみて、もっとびっくりしてしまった。

 その時祖父は、こう言ったのだ。

「今日は、ヤエさんと逢瀬じゃ」

 〔ヤエさん〕とは、3年前に死んだ祖母の名前である。

 しかし、祖母が生きていた頃でさえ、祖父が〔ヤエさん〕などと祖母を呼んだことはなかった。

 祖父は、3年間、自らの内なる〔ヤエさん〕と、言葉を交わし続けてきたのか?その世界で祖父は、祖母と恋愛していた頃の20代の青年なのか?

 それから、再び祖父は黙り込み、もう2度と外界に言葉を発しなかった。

 2年後の冬。

 その日は、朝から冷たい雨が降っていた。

 祖父は、その日の2ヶ月程前から、部屋から一歩も外へ出ず、昼間から雨戸を締め切って、真っ暗な部屋の中にじっとしていた。母が夕食をのせた盆を持って部屋のふすまを開けると、祖父の息使いはなく、闇の空気はピンと張り詰めていた。


                      【23】


 祖父の死は、死後の世界への旅立ちではなく、原初の闇への帰郷だった、と今の僕は想う。


                      【24】

                    《キツツキ告知》❸


 その当時、僕は小学校3年生で、僕らの仲間うちでは釣りが流行っていた。

 学校から帰ると、イカの臓腑を小麦粉で練って作った餌と釣竿を持って、葦の群生地からは500メートルほど上流のO橋のたもとの川原へよく行ったものだった。

 11月も半ばのその日、いつものように糸を垂らしていると、どこからかやって来た2人の釣り人のおじさんが、僕らから10メートルほど離れた砂地のちょっとした空き地で、焚き火を始めた。

 夕暮れも近づき、寒さも増してきていた。

 僕とマサシ君は、竿を石で固定し、焚き火にあててもらいに行った。

 ひとりアキラ君だけは、竿を握り締めて、川べりから動こうとしなかった。

 おじさんたちは、焚き火で、釣ってきたばかりの魚を焼き始め、僕らにも釣った魚を焼いて食べたらどうだ、と言ってきた。おじさんたちは、醤油も持っていて醤油をかけられた魚が焼けてゆく匂いが、お腹がペコペコの僕の食欲をこの上なくそそった。

 僕は、マサシ君を見た。マサシ君も生唾を飲み込んでいるみたいだ。

 僕は、川の水につけているビクを取りに、アキラ君がいる川べりへ行った。

「アキラ君、いっしょに釣った魚を食べようよ」

 僕は、アキラ君の背中に向かってそう言った。アキラ君が、竿の先から僕の方へ目を向ける。

「おじさんが、一緒に焼いてもいいって言うんだ」

 アキラ君の目に、驚きの色が浮かぶ。

「え、食べるの?」

 僕を見つめるアキラ君の目は、驚きから怯えの色に変わってゆく。

「やめた方がいいよ」

「どうしてさ」

「だって………」

 僕らは、今まで川で魚を釣っても家に持って帰らず、帰りに川へ戻してやっていた。

 魚が餌を食って、竿を引いたときから、リールを巻いて抵抗する魚を釣り上げるまでの緊張感が、僕らは好きだったのだから………。

 しかし、その日の僕は、食欲と魅惑の匂いに負けていた。

「だって何だよ!」

 僕は、イライラして言った。

 アキラ君は、おじさんたちの焚き火で焼かれている魚に、怯えた視線を向けて、消え入りそうな声で、こう言った。

「お母ちゃんが、言ってたんだ。狩野川の魚は食べちゃいけないよ、この川の魚は、台風の時、流されて死んだ人の肉を食べて、生き残ったんだって」

 僕は、その場に頭を抱えて倒れ込んだ。キツツキが羽ばたきながら、いつ果てるとも知れない嘴のドラミングを始めたからだ。

                      【25】

【俺が、ジャズピアニストになったのは、お袋のおかげなんだ。】

 とバーディは、〔闇の章〕の中で語っている。

【ガキの頃、お袋の作るスウィート・パイが大好物で、いつもねだっては作ってもらい、年がら年中パイを食べていた。時はいつも、真実を隠し持ったまま人を追い越して行っちまうもんさ………そして未来のある一点で、ちゃんと人が来るのを待っていやがる。

 よりによって俺の真実は、ある日の真夜中に俺を待っていた。まるで口の中全体が虫歯になったのかと思うくらいひどい痛みだったよ。朝まで堪えきれずに唸って泣いていた。

 それからお袋に手を引かれて歯医者に行ったのさ。

ドクターは、俺の口の中を見て言ったね。

『オー、ゴッド!虫歯展覧会を見ているようじゃないか、坊主』

 って。それで、俺は聞いたのさ。

『先生、いったい何本虫歯があるんですか?』

 ドクターは、わざと考え込むフリをして、こう言った。

『坊主、指を3本貸してくれよ………わしの指を全部使っても足りないんだ』

 ドクターは、笑っていた。

 だけど俺は、真剣に指を3本、ドクターの顔の前に突きつけ、ドクターの指の数を横目で数え始めたんだ。そしたらドクターは、俺の右手の残りの2本の指を開かせ、虫歯のことはもう済んでしまったみたいに、俺の5本の指を手にとって眺めるのさ。

 ………そして、ポツリとこう言ったんだ。

『体の割に大きな手だな………坊主、ピアノを叩いてみないか?』

 それから俺は、13本の虫歯を治すために3ヶ月歯医者に通い、歯の治療時間の5倍くらいドクターの自宅の居間にあるピアノの前に座ったんだ。そのうち、ピアノを叩くのが楽しくてしょうがなくなってきた。でも歯の治療も終わりに近づいていた。

 それから俺は、お袋の目を盗んでは、またスウィート・パイを食べ始めたって訳さ。

 1935~6年頃のことだったかな。

 テディ・ウィルソンみたいにピアノも弄んでみたかったよ。ちょうどテディが、ベニー・グッドマンのところでやってた頃さ。】


                      【26】


 すでに起こってしまったことに対して「If」を使わないのは、最低限の僕のルールである。

                  ☆          ☆

 しかし、僕はここで1回だけルール違反を犯すことにする。

 精神衛生のためだ。

                  ☆          ☆

 もし、1958年9月26日、狩野川沿いに建つ我が家が、川水の氾濫で流される危険があるから避難するように、という警告に従わなかったら(実際には、家は流されなかった)、そしてもし、祖父の家に避難する途中、自分の着替えを持ち、赤いランドセルを背負った姉が、飼い犬のジャックの不在に気づき、川の方へと父母、そして母の背中の僕から10メートルほど離れて、ジャックを呼びながら歩いていなかったら、そしてもし、ジャックがあと10秒早く、川とは、反対側の草むらから姿を現していたなら、姉は7歳にして自らの命の[Dead End]に立ち会わなくても済んだだろう。


                      【27】

                    《キツツキ告知》❹


 1966年の春先、4年生になった僕は、マサシ君とアキラ君と同じクラスになった。

 僕とアキラ君は、小学校がある狩野川の東側に家があったが、マサシ君の家は、狩野川の西側にあり、毎日O橋を渡って学校に通っていた。

 4年生になったばかりのある日、学校に来たマサシ君が息急き切って言った。

「O橋の下に汚い浮浪者の爺さんが住み着いたぜ。堤防の斜面と橋桁を利用して、粗大ゴミで出されたような壊れかけた襖や戸板などを組み合わせて掘建小屋まで作ってさ」

 僕は、3年生の時の釣りの一件があってから、川には近づいていなかったので、初耳だった。

 アキラ君は、もうそのことは知っていたようで、

「2月頃にリヤカー引っ張って、どこからかやって来て、住み着いちゃったんだって、お母ちゃんが言ってたよ。O橋には近づくな、暗くなって近くにいると、爺さんに川に引きずり込まれる………って」

 と言った。

                        ☆

 魚釣りの1件があってから、僕は、3年生の間は、マサシ君とアキラ君とは気まずくて遊ばなくなっていた。

 その間、マサシ君とアキラ君は、山で遊ぶことが多くなっていたらしい。

                        ☆

 その日は、先生が生徒の家を家庭訪問する日に当たっていた。

 そのため学校は、給食までの半日で終わった。

 学校と、僕とアキラ君が住んでいる地域は、小高い山の両側に位置していたので、山の周りをぐるっと回って行く登下校コースより、山の中の狭い道をたどった方がずっと近道だった。

 僕らは、その近道をジャンケンして1番負けた者が3人のランドセルを1人で背負って100歩歩くというゲームを繰り返しながら、家に向かっていた。

 その途中の竹薮の脇の道に差し掛かったとき、

「あっ、アキラ、あれやろうぜ。出せよ!」

 と想い出したように、1番前を歩いていたマサシ君が急に立ち止まって、ジャンケンに負け、3人分のランドセルを背負って1番後ろから歩いてくるアキラ君に向かって言った。

 それから、マサシ君はポケットから10センチ位のタバコのような細長い円筒形の物を3本取り出した。

「すげえ、2B弾3本かよ!」

 と、3つのランドセルを地面に下ろしながら、マサシ君の取り出した物を見て、アキラ君が言った。

 僕には、それが何なのかさっぱりわからなかった。

 それからアキラ君は、自分のランドセルを引き寄せて開けると、中から給食に出た、飲み干された牛乳瓶を取り出した。その透明な牛乳瓶の中には、1匹の殿様ガエルが入っていた。そのカエルは、牛乳瓶の底の面にちょうど納まるほどの大きさだった。

 それを竹薮の前の道の真ん中に立てて置いた。

 続いてマサシ君が、3本束ねた2B弾の先端を近くの地面に半分埋まった石の表面で擦った。

 すると、そこから白い煙がモクモクと出てきた。

 僕には、何が始まったのか、まだわからなかった。

 白い煙が出てからもマサシ君はそのまましばらく3本の2B弾を持ち続けていた。

 何かを待っているようだった。

 するとそのうちに白い煙が黄色に変わっていった。

 それを確認してから、その2B弾をカエルが入っている牛乳瓶の中に放り込んだ、と同時に、

「逃げろ!」

 と、叫んでマサシ君とアキラ君の2人が、牛乳瓶から遠ざかった。

 その声に僕も咄嗟に牛乳瓶から離れた。

 最初の白い煙が出てから20秒ぐらいが経過していた。

 マサシ君とアキラ君が声を合わせてカウントダウンを始めた。

「サン・ニイ・イチ・ゼロ!」

 ちょうど2人が「ゼロ」と叫んだ時、牛乳瓶の中から爆発音が轟いた。

 それから数秒して、恐る恐る牛乳瓶に近づいていくと黄色い煙が充満していて何も見えなかった瓶の中が、徐々に透明に戻っていくのがわかった。

 さらに数秒経って、ビンの中で起こったことがはっきり目に見えたとき、僕は想わず、目を背けた。

 牛乳瓶の底が割れて、カエルは外に飛び出して、仰向けにひっくり返り、腹が裂けて、内臓が外に飛び出していたからだ。

「やっぱり、2B弾3本の威力はすげえわ」

 と、割れた牛乳瓶を持ち上げてマサシ君に手渡すと、ズックの先で内臓が出たカエルを竹やぶの中に蹴っ飛ばしてアキラ君が言った。

 マサシ君も満足したように頷いた。そして、

「今度は、もっとデカイ獲物でやろうぜ」

 と言って、牛乳瓶を想いっきり竹薮の奥の方へ放り投げた。

 僕は、その場でこみ上げてくる吐き気に耐えていた。

                   ☆          ☆

 それから5ヶ月後、O橋の下の浮浪者の爺さんの掘立小屋の前で、僕が8本の2B弾を手に握りしめていた。

                        ☆

 その経緯は、こうだ。

 牛乳瓶の殿様ガエルを2B弾で吹き飛ばしから2ヶ月後、アキラ君が、家に仕掛けていたネズミ捕りに引っ掛かったネズミを、ネズミ捕りのカゴごと山へ持って来て、その中に、2B弾5本を放り込んだのだ。

 獲物は、徐々に大きくなっていた。

 そして、夏を過ぎても、まだのうのうとO橋の下の掘建小屋で寝起きしている浮浪者の爺さんが次の標的になった。

 小屋付近の悪臭もひどく、衛生面でも町をあげての問題にもなっていたのだ。

 殿様ガエルはマサシ君がやり、ネズミはアキラ君がやったので、次は僕の番だった。

 堤防沿いにO橋の近くまで3人で行き、マサシ君とアキラ君は堤防の上で待っていることになった。

 リヤカーが見当たらないので、爺さんはどこかに残飯でも拾いに行っているようだった。

「小屋の中にこれを放り込んでこいよ!」

 とマサシ君がポケットから8本の2B弾を取り出して、僕の手に渡しながら言った。

 僕は堤防の斜面を降りて、爺さんの小屋に近づいた。

「早くやれ!」

 と堤防の上から2人の声が聞こえて来た。

 壊れた襖でできた小屋の入口の戸の前で、しゃがんで8本の2B弾の先端を堤防のコンクリートの表面で擦ろうとした時、飛び出した殿様ガエルとネズミの臓物の色と形状が甦った。

 「オェー」と胃の中の物がこみ上げて来た。

 早く済ませてしまおうと想い、僕は、慌てて手に握り締めていた2B弾の8本の束の先を堤防のコンクリートの表面で擦り、火をつけた。

 それから白い煙が湧き出てきたのを見届けてから、細く開けた扉の内側にそれを投げ入れた。

 暫くすると隙間だらけの小屋のあちこちから、白い煙が溢れ出してきた。

 その時、意外に近い場所から、

「コラッ、何をする!」

 と言う嗄れ声が聞こえて来た。小屋の反対側からだった。

少しだけリヤカーの荷台の端っこが見えた。

 僕は堤防を振り返った。マサシ君とアキラ君の姿はない。

[チキショー!]

 と心の中で叫んだ。

 その時、自分がしたことのとんでもなさに気付いた。

 小屋を振り返ると、組み合わせた板と板の間からすでに黄色くなった煙が漏れて外に溢れ出てきていた。

 もう時間がない。

 間に合うかどうか一か八かの賭けだった。

 僕は、息を殺して小屋の扉を開け放ち、中に入り、2B弾の束を、黄色い煙の発生地を探した。それは扉のすぐ近くで見つかった。さっき火をつけて投げ入れた2B弾の束は、小屋が堤防の斜面を利用して造られていたので、斜面を転がって扉のところに戻ってきていたのだ。

 僕はすぐにそれを拾い上げると表に出て、川に向かって投げようと腕を振り上げた。

 しかし、2B弾の束は僕の手から離れたと同時に大きな爆裂音を轟かしていた。

「ワァー!」

 と僕は、8本の2B弾がいっぺんに爆発した凄まじい音とそれを握り締めていた右手に伝わる衝撃で、その場に蹲り泣き出していた。

 2B弾の爆裂音で目を覚ましたのか、頭の中ではキツツキが暴れ始めたようだった。リフレインのように「コツコツッ、コツコツッ」が鳴り止まない。

 泣きながら僕は、痺れ続け血みどろになっているかもしれない自分の右手のことなんかではなく、ましてや僕だけに責任をなすりつけて逃げていったマサシ君とアキラ君の事でもなく、なぜか肉体を川の魚に食われてしまったかもしれない、仏壇に置かれた写真の中の年を追うごとに幼く見えてくる姉の笑顔を想い出していた。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 と言いながら、僕はなおも泣き続けていたようだ。

 すぐ近くで誰かの声がした。小屋の反対側から聞こえて来た嗄れ声だ。

「坊主、大丈夫か!手を見せてみろ。ケガしてるんじゃないか」

 僕は、声の主を見上げた。汚れで赤黒い顔の浮浪者の爺さんが、心配そうな目で、僕の右手を取ろうとしていた。

「コツコツッ、コツコツッ、コツコツッ、コツコツッ」

 僕は、自分が今想い続けていたことと、あまりにも近くに爺さんの顔があったことにただただ恐怖を感じ、斜面を転げるように川縁まで落ちた。

「坊主、逃げなくても大丈夫だから、傷を見せろ。手遅れになるかもしれないぞ」

 と言って、斜面をなおも僕の方に近づいてきた。

「コツコツッ、コツコツッ、コツコツッ、コツコツッ」

 陸地の逃げ場を失い、パニックになった僕は、恐怖から逃れるために、何も考えず川の中にバシャバシャと入って行った。

「よせ!危ないぞ!」

 と言う嗄れ声が、後ろから追いかけてきたが、振り返ることなく僕は、川の深みへと深みへと入って行った。

「コツコツッ、コツコツッ、コツコツッ、コツコツッ」

 その日は、前日の1日降り続いた雨のために、狩野川の水嵩が増し、流れが激しくなっていた。

 僕は、川の真ん中あたりまで来ていた。やっと足が川底に着く深さだ。

 徐々に軀が、川下に流されていく。

「コツコツッ、コツコツッ、コツコツッ、コツコツッ」

 その時、上流から流れてきた流木が僕の肩にあたり、僕はバランス崩した。

 それと同時に足が川底から離れて仰向けになり、手をバタバタして踠いた拍子に水をしたたか飲んでしまい仰向けの軀は完全に川の流れに乗って流され始めた。

「コツコツッ、コツコツッ、コツコツッ、コツコツッ」

 意識が失われていく寸前、仏壇の写真の中の姉の笑顔が目蓋の裏いっぱいに大きくなっていくのを感じていた。

                   ☆          ☆

 僕は、浮浪者の爺さんに助けられたらしい。

 しかし、町の大人たちはそう見なかったようだ。

 意識を失った僕を川から救い出しているところではなく、川岸で僕に人工呼吸をしているところを見た目撃者が、浮浪者が子供を襲っていると勘違いし、警察に通報したという事だ。

 それから、2日後、浮浪者の爺さんは、パトカーで町の人たちの目が届かないところまで連れて行かれ、O橋の下の掘建小屋は、役場の職員の手でわずか10分で撤去された。


                      【28】

                    《キツツキ告知》❺


 1969年の夏は、アポロ11号の月面着陸の衛星中継で始まった。

 僕は、その中継を期末試験が終わった中学校の図書室に設置されたテレビ画面で見た。

 その2ヶ月前の5月18日に月面着陸のリハーサルの為に打ち上げられたアポロ10号で、チャーリー・ブラウンとスヌーピーは司令機械船と月着陸船に名前を冠せられ、一足先に月面から15.6キロ付近まで行っていた。

 テレビの周りには、教師や生徒たちが鈴なりになって、歴史的1大イベントに好奇の眼差しを向けていた。

 僕は、その1団から5メートルぐらい離れた机に向かって読んでいた本に栞を挟んで、人だかりの隙間から見え隠れする画面に視線を向けていた。

 アームストロング船長は、頼りない足取りで月面を歩くとこう言った。

「この一歩は小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩である」と。

 1団の中から歓声が上がった。

 僕は、穴ぼこだらけの月面から視線を引き剥がすと、再び本を開き、『ライ麦畑でつかまえて』の続きを読み始めた。

 13歳の僕は、月面に降り立って感想を述べる人間よりも、月を見上げてうさぎの餅つきという絵空事を考える人間の方をずっと身近に感じていたのだ。

                        ★

 8月のある日、海辺のリゾートホテルのゲーム室で彼女は、僕の事を[ティルト・ボーイ]と呼んだ。

 彼女は、14歳で東京から両親と大学生の兄と4人で来て、そのホテルに滞在していた。

 僕の方はというと、夏休みを利用して、狩野川沿いの町からバスで30分ほど離れた海辺の親戚の家に10日間の予定で遊びに来ていたのだ。

 毎日、釣りをしたり泳いだりしているうちに、5日が飛ぶように過ぎてしまった。

 6日目の昼過ぎ、高校生の従兄がニヤニヤしながら僕に言った。

「ホテルの喫茶店でコーヒーをおごってやるからついて来い」

と。

 その声は、やけに大きくて目の前にいる僕に言う言葉としては不自然だったが、ホテルの喫茶店というイメージに魅了されてついて行くことにした。

 ホテルに着いてみて、僕は初めて先ほどの従兄の不自然な声の大きさの意味を知った。

 僕は、従兄の親に対するカモフラージュに使われたのだ。

 ホテルの喫茶店では、従兄のガールフレンドがすでに待っていた。

 そんな訳で僕は、2人が喫茶店で取り留めのない話をしている間、ホテルの中を歩き回った。

 そして、ロビーのずっと奥まった所に、そのゲーム室を見つけた。

 中に入って行くと、彼女がすでにいて、その馬のようなゲーム機械にしがみつくようにしてプレイしている後ろ姿が見えた。

 機械の両側に置かれた彼女の指が動くたびに正面のボードの数字がパタパタとめくれて増えていった。

 僕は、そっと機械の横に近づいて、彼女のプレイぶりを見つめた。

 彼女が、指先を動かして打ち返すボールは、確実にターゲットに命中した。

 僕は、プレイの邪魔にならないように小さな声で、これは何というゲームなのか尋ねてみた。

 すると彼女は、僕の顔をまじまじと見つめ返した。

 その目は、このゲームの名前を知らない人間がこの世に存在するなんて信じられない、と語っているようだった。

 あまりにも長い間僕を見つめていたので、ボールはアウト・ホールへと落ち、それと同時にカタカタと得点が加算されていった。

 9386点が彼女の得点だった。

 得点ボードの片隅のランプが[リプレイ]を表示した。

「本当に知らないの?」

 初めて聞く彼女の声だった。

「だから、訊いたんだよ」

 僕は、少し腹を立てて言った。

 彼女は、得点ボードをチラッと見つめて、大きくため息をつくとスタートボタンを押した。

 再びカタカタと数字が動いて0に戻ると、大きな音を立ててレーンにボールが姿を現した。

 それから彼女は、バネのついた棒を引いて放し、ボールをフィールドに送り出すと、ボールの行方を見守りながらひとりごとのようにこう言った。

「ピ・ン・ボ・ー・ル」

 僕は、その言葉を何度も口の中で呟いた。

 まるで世界史の年号を暗記するように。

 暫くするとゲーム室の入り口で誰かを呼ぶ声がした。

 彼女は、まだ一つ目のボールを細い小さな指先をちょっと動かすだけで弾き返していた。

 その作業を続けながら彼女は、その声に応えた。

「ママ、パパと先に行ってて、すぐに後から行くわ」

 僕は、それまで親のことを[パパ][ママ]と呼ぶ人間に出会ったことがなかったので、想わずゲーム室の入り口を振り返った。

 そこには、確かに[ママ]と呼ばれるのに相応しい上品そうな女の人が立っていた。効き過ぎている冷房から身を守るためにブラウスの上にカーディガンを腕を通さずに肩に羽織っている姿がとてもよく似合った。

 僕は、[ママ]が立ち去った後も、妙な感動に捕らえられて、ボーッと入り口の方に目を向けていた。

「キミ、ピンボールやってもいいわよ、わたしもう行くから」

 そう言い残すと彼女は、僕の横を通って、僕が見続けている入り口から出て行った。

 ゲーム室の中には、僕とピンボールだけが取り残された。

 無人島に流れ着いた2人の行く末は、2通りしかない。

 仲睦まじく励まし合って生きてゆくか、さもなくば殺し合うかだ。

 僕とピンボールは、前者を選んだ。

 ピンボールは、フィールドや得点ボードのランプをチカチカと点滅させて、僕に微笑みかけてきた。

 僕は、それに応えるようにフィールドのガラスを優しく擦するとピンボールを正面から見つめた。

 胸が高鳴った。

 僕は、彼女がしていたようにそっと両側のボタンに指を触れた。

 まだ微かに彼女のぬくもりが残っているように感じられた。

 ボールはあと2つ残っていた。

 得点は、4287点だった。

 彼女は、その得点を1球で叩き出したのだ。

 僕は、1回深呼吸をすると、厳かにプランジャーを引いてから放し、ボールをフィールドへ送り出した。

 それから、1分もしないうちにゲーム・オーヴァーのランプが灯った。

 4825点。

 2球で538点が僕の得点だった。

 それから5回、自分のお金でやってみたが、1500点を超えたのは1回きりだった。

                        ☆

 その晩僕は、従兄にピンボールの得点ボードの中央に書いてあった[SHANGRI - LA]というスペルを示し、これはどういう意味なのかと訊ねた。

 従兄は途切れ途切れに[シャングリ・ラ]と読むと、

「ああこれは最近読んだヒルトンという作家の書いた『失われた地平線』の中に何度も出てきた言葉だ」

 と、1人でブツブツ言ってから、こう教えてくれた。

[桃源郷=俗世間を離れた別天地]

 僕は、従兄の説明を聞きながら、今日初めてやったピンボールのことやその場にいた[都会の匂いのする少女]のこと、そして彼女が[ママ]と呼んだきれいな女の人のことを[シャングリ・ラ]の意味を重ね合わせて想い出していた。

                        ☆

 翌朝、4時に起きて従兄と2人で舟で沖へ出た。

 水平線から昇った太陽光線が、波間に煌めいて眩しかった。

 僕らは、1時間ほどその光の中で糸を垂らして釣りをした。

 その間に従兄はガールフレンドのことを考え、僕はピンボールのことを考えた。

[恋とは、その対象以外のすべてのものを忘却の中に封印することである]

 これは、体験的真実だ。

 僕らが、それぞれの考えに耽っている間、何度か魚が僕らの釣糸を引っぱったが、僕らはタイミング良く糸を引き上げることはできなかった。

 僕らは、それぞれに[恋]をしていたからだ。

 そしてどちらからともなく、こんな約束をした。

《今日もまた、2人でコーヒーを飲むと家の者に言ってホテルに行こう》と。

 その約束をするためだけにこんな沖まで来たようなものだった。

 だから、その約束が成立した以上、1秒たりともそこにいる必要はなかったので、早速帰路につくことにした。

 途中、遠回りして僕らの[恋]が眠るリゾート・ホテルの近くを通った。

 ホテルは、海に突き出るように建っていて、道路側から3メートルほど下がった地下1階の裏出口からそのままホテルのプライベート・ビーチへと出られるようになっていた。

 そのビーチの1番奥に赤いスポーツ・カーが止まっているのが見えた。

 その場所は、ホテルのどの部屋からも見えない死角に入っていた。

 この辺ではあまり見る事のできないスポーツ・カーに興味を示したのか、従兄は舟を波打ち際ギリギリのところまで近づけた。

 しかしそこからでもクルマまでは、まだ30メートルはあった。

 もっと近づいて見るために舟から降りようとした時、急にクルマの中から、赤いミニのワンピースを着た若い女が飛び出して来た。

 続いて背広姿の中年の男が出て来て、女を追い掛け始めた。

 すぐに女は捕まり、そこで言い争いが始まったようだ。

 親子ほど年が離れているように見えるが、親子でないことは確かなようだった。

 男が引きずるように女をクルマの所まで連れ戻ると、クルマの運転席に押し込んだ。

 そしてドアをバタンと閉めると、男は足早にホテルに向かって歩き出した。

 その姿勢からは、2度と女の方は振り返らないぞという男の意志のようなものが感じられた。

 暫くすると女の乗った赤いスポーツ・カーが砂浜の中でタイヤを軋ませたかと想うと急発進して、あっという間に歩いている男の横にたどり着くと急ブレーキを掛けて止まった。

 そして窓から首を出して男に向かって何か喚き散らすと、再び急発進してビーチの出口から湾岸道路に出て消えて行った。

 僕らは、舟の上で呆気にとられてその光景を見守っていた。

 気がつくと、中年の男もホテルの中に入ってしまったらしく、砂浜に刻まれた深いタイヤの跡だけが、今の出来事が現実のものであることを物語っていた。

 しかしそれさえも、日中の暑さから逃れるために集まって来る海水浴客の足跡に紛れてやがては消えてしまうのだ、と従兄の家へと向かう、言葉少なくなった舟の上で、僕は意味もなく想った。

 少なともその時の僕には、あの2人がどういう関係で、あの出来事が何を意味していたのかなんてさっぱり理解できなかったのだ。

 ただ今の出来事が、その時僕の心を占領していたピンボールや[都会的少女]、そして彼女の[ママ]が象徴するところの[シャングリ・ラ]の世界とは、まるでかけ離れた世界の出来事であることだけは分かっていたけれども。

 僕は目を閉じて、目蓋の裏の闇にピンボール『シャングリ・ラ』号を見つめた。

                       ☆

 昼食を済ませて2人でホテルへ行くと、従兄のガールフレンドはまだ来ていなかった。

 従兄が喫茶店を見て来ると言って姿を消してしまったので僕は、ロビーのソファーに腰かけてぼんやりと行き交う泊まり客の様子を眺めていた。

 暫くすると、従兄が慌てて駆け戻って来て、荒い息遣いのまま僕にこう告げた。

「今朝のあの男がレストランにいるぞ」

「誰と?あの赤いスポーツ・カーの女の人?」

 僕が訊ねた。

 唾を飲み込んでから従兄が言った。

「全然違う女の人さ、おまけに若い男と女の子まで一緒なんだ」

 それから僕は、従兄の後についてレストランに向かった。

 入口の観葉植物の陰から従兄の指し示すテーブルを見て、僕は驚いた。

 その男のいるテーブルに同席していたのは、[都会的少女]と彼女の[ママ]だったからだ。

 それでは、あの男は彼女の[パパ]? 信じられない。

 彼女と[ママ]がいる世界は、あの男が属する世界とは、絶対に一緒にならなはずなのに………。

 でも今こうして見ていると今の男は、今朝の様子とはガラッと変わっていて、もう1人いる包帯を巻いた左腕を首から吊るしている大学生らしい若い男を含めた4人で、和やかな雰囲気を醸し出しているように見えるのはどういうことだ?

 今の男は、確かに[パパ]に相応しい。

 [パパ]が、おどけて何かを喋った。

 [都会的少女]と[ママ]と[包帯吊り]が、それを聞いて楽しそうに笑った。

 僕は、従兄をその場に残して駆け出した。

「インチキだ。インチキに決まっている」

 そう心の中で叫びながらゲーム室に向かった。

 夢中で走ってたどり着いた僕をピンボールは、昨日と何1つ変わらない微笑で迎えてくれた。

 ………僕の[シャングリ・ラ]号。

 コインを入れてスタートボタンを押す。

 カタカタと数字が0に戻る。

「すべての可能性は、あなたの腕にかかっているのよ」

 と、ピンボールが囁きかけてくる。

 指先に神経を集中させてプランジャーを引く。

 終わりなき旅に向かって、指をプランジャーから離す。

 銀色に輝くボールが君の宇宙に向かって飛び立ってゆく。

 4つのバンパーに弾かれ、スポット・ターゲットに当たり、フィールドを急降下して、僕の意志を行為に移すフリッパーに向かう。

 タイミングをとってボタンに触れた指先を動かす。

 ボールは、再びフィールドを上昇し、一喜一憂の旅は続く。

 君は、嘘をつかない!

 僕が、フリッパーで打ち返したボールがターゲットにヒットすればしただけの得点をスコアに加算してゆく。

 僕と君は、堅い信頼の絆で結ばれている。

 [パパ]は、人生に嘘をついている!

「インチキだ」

 心の中で叫ぶ。

 その時だ。

 バンパーに強く弾かれたボールが1直線にフリッパーめがけて飛んで来る。

「インチキだ!」

 もう1度、心の中で叫びながら軀ごと台にぶつかるようにボタンを押す。

 台が揺れる。

 ボールは、強く打ち返され、フィールドの上部へと再び旅に出る。

 しかし、それと同時に君の微笑みは消え失せる。

 フィールドのランプはすべて消え、ボタンを押してもフリッパーは微動だにしない。

 ボールは、ゴロゴロと音を立てて下降し、フリッパーの傾斜を舐めるように滑ると、アウトホールへと消えてゆく。

「ティルトよ!」

 いつからそこにいたのか、[都会的少女]が僕のすぐ後ろでそう言った。

「ティルト?」

 初めて聞く言葉だった。

「そうよ、台を強く揺するとそれでおしまいなの。反則なのよ!」

「インチキだ!」

 僕は、その言葉をピンボールに対して言った訳ではなかった。

 [反則]という言葉を聞いた時、彼女の[パパ]をイメージしてしまったのだ。

 でも彼女にそれが通じる訳がなかった。

「インチキじゃないわ、ルールなのよ。ゲームをやる以上、ルールを守らなければいけないわ、もしそれができないんだったら、ゲームをやる資格なんてないわ、そうでしょ?」

 僕の中に突然、その場にいたたまれないほどの恥ずかしいさがこみ上げてきた。

 僕は、ピンボール台を離れ入り口へと向かった。

 彼女の声が、僕の背中をお追いかけた。

「どうしたの?」

 僕は、足を止めて彼女を振り返った。

「何でもないよ、ちょっと用事を想い出したんだ」

 嘘をついている自分が悲しかった。そして出来るだけ自分に正直になろうとして続けた。

「でも別にそんなつもりでインチキって言った訳じゃないんだ。君のプレイを見てピンボールの楽しさを知ったんだもの。これからもゲームを続けて行きたいし、そのためには君の言うようにルールを守らなくちゃね」

「その調子よ」

 彼女の頬の筋肉が緩み、白い歯がこぼれると、初めて見る彼女の笑顔が僕の視界の中にあった。

 素敵な笑顔だった。

 僕は、その笑顔に向かって「じゃあ」と手を上げて一歩歩きかけたが、ちょっと考えてからもう一度彼女を見つめた。

 そして訊ねた。

「君には、姉さんがいるの?」

 脳裏を赤いスポーツ・カーの女が掠め過ぎた。

「いないわよ、お兄さんがいるだけ。でもどうして?」

「何となくいるような気がしただけさ。ねえ、それよりも明日僕と勝負してくれないかな、もちろんピンボールの………」

「いいわよ、いつでも受けて立つわ」

 彼女が応えた。

 それから、「ありがとう」と言ってもう1度手を振る僕に向かって彼女は、大きな声でこう言った。

「さよなら、ティルト・ボーイ」

と。

                        ☆

 結局僕は、あの夏、彼女とピンボールの試合をすることは出来なかった。

 次の日、僕がホテルへ行くと彼女はもういなかったのだ。

 急用が出来て、あと2日間の滞在予定を切り上げ、仕事の関係でいなければならない[パパ]だけを残して3人は帰ったのだ、とフロントが教えてくれた。

 僕は、1人きりでゲーム室へ行き、ピンボールにコインを入れた。

 ゲームの途中、すぐ後ろに彼女がいるような気がして何度も振り返った。

 そして、慌てて台に向き直るとボールのスピードと指のタイミングがずれて、力が入り過ぎ、台が揺れて、[ティルト]になってしまうのだった。

 すると何処からか彼女の声が聞こえてくるのだ。

「さよなら、ティルト・ボーイ」と。

                        ☆

 そういえばあの夏、一度だけキツツキが僕の頭をノックしたことがあった。

 彼女が帰ってしまったのを知った日の帰り際に、ホテルの駐車場にあの赤いスポーツ・カーが止まっているのを見た時だ。

 [パパ]が仕事のために残ったなんて、インチキだったのだ。

 「コツコツッ、コツコツッ、コツコツッ、コツコツッ」

 可哀相な[都会的少女]………。可哀相な[ママ]………。

 でもあの夏、彼女がいなくなってからの僕は、あの海辺の町で何をしていたのだろう?もう、ホテルに近づかなかったのは確かだ。従兄がガールフレンドに会いにホテルの喫茶店に行っている間、僕は、海で釣りをして過ごしていたような気がする。

 そんなある日のことだったと思う。

 デートから帰って来た従兄がこんなことを言ったのは。

 それは、[都会的少女]の兄である[包帯吊り]の大学生についての噂だった。

 彼は、学生運動に参加していて、あの腕の傷は、デモ行進の時に機動隊との衝突で負ったものらしい、と。

 そして、警察のブラックリストに載るほどの幹部でもあり、潜伏するために人目のあまりない田舎の海辺の町へ来たのだ、と。

 その年の1月に東大紛争があり、僕もテレビでその過激な攻防戦を見たけれど、学生運動に関わる人間が、しかもその指導的立場にある人間が、ホテルで垣間見たように家族と一緒に笑顔を交わして食卓についている姿なんて、僕には絶対に信じられなかった。

 しかし、少なくとも1969年とは、その種の噂が至るところに転がっていたようなそんな時代だったのだ。


                      【29】


誰かが僕にこう尋ねる。

「君は、歴史上の人物で誰に1番感謝している?」

 僕は、躊躇なくこう応えるだろう。

「グラハム・ベル」

                        ☆

 高校生活の最後の4ヶ月、僕は、受話器の中のコール音を聴くのがこの上なく好きだった。

もちろん僕のこの嗜好には、多分に思春期特有の恋が関与していたことは言うまでもないだろう。

当時、僕は、ひとつ年上の女の子に恋をしていた。

受話器を外して、彼女の電話番号を廻す。

数秒後、コール音が聴こえてくる。

あのくぐもった音が繰り返されるのを聴きながら、彼女の好きな部分を彼女の年齢分だけ並べ始める。

・・・・・至福の時だ。

彼女が受話器を取り上げるまでに聴く、このくぐもったコール音は、まるで子宮の羊水の中で聴く母の鼓動のように僕を安らかな気分に導いてくれる。

彼女の好きな部分を8つ数え挙げたところで、彼女の電話番号が、彼女の父親の電話番号でもあることに気づかされる。

世の中の年頃の女の子を持つ家庭では、食卓の父親の席に電話機が置かれているんじゃないかと真剣に考えたことがある。

少なくとも彼女の家ではそうだったに違いない。

10回のうち8回まで父親が受話器を取り上げる家なんて、そう滅多にあるものじゃない。

しかし、彼女の父親の作戦は、少なくとも僕に対しては功を奏したことになる。

その頃、何度か彼女と2人きりになったことがあった。

そんな時でも、まるで彼女の軀の廻り50センチ円周にバリアが張り巡らされてでもいるかのように、その内側に僕が入って行こうとすると、あの8割の確率で受話器の中から聴こえてくる低いけれども張りのある彼女の父親の声が、僕の聴覚を襲ってくるのだ。

そうするともう僕の軀は金縛りにでもあったかのように、それ以上彼女に近

づくことができなくなってしまうのが常だったからだ。

そんな訳で僕は、彼女の手さえ握ったことがなかった。

しかしそれでも僕は、彼女に電話をかけ続けたし、50センチ以上の距離を置いて彼女と恋を語りもした。

それでけっこう満足もしていた。

18歳の僕の中での女性像は、青空の下での輝く光以外にはあり得ないんだと想ってもいた。

しかし、無意識の世界では、闇へと向かう想いが蠢いていたことに、やがて気づかされることになった。

ポカポカと春めいてきた3月の昼下がりだった 。

ベッドに寝転がって本を読んでいるうちに目蓋が重くなり、いつのまにか眠りに吸い込まれてこんな夢を見た。

                   ☆          ☆

《………どこまでも続いている1本道がボクの前にあった。

ボクはとトボトボと歩き続けた。

どこにたどり着くのかわからなかったし、なぜ歩いているのかもわからなかった。

ただ道の両側に10メートルおきぐらいにコスモスが咲き乱れていて、ボクは10メートル歩くたびに立ち止まっては、コスモスを1本ずつ千切ってはまた歩き続けた。

何故かそうしなければいけないことだけはわかっていた。

やがて、抱えきれない程のコスモスの花がボクの両腕に溢れた時、ボクは何故歩いているのかを理解した。

彼女がこの1本道の果てで待っているのだ。

本当にこの1本道には果てがあるのだろうか、などとは考えなかった。

彼女がそこにいる、それだけで充分だった。 道の中央に立ち止まって、遠く1本道の果てに目を向けた。

次の瞬間、ボクはハッとした。そこでは荘厳な自然の儀式が執り行われていたのだ。

そして、最初淡いオレンジ色だった夕焼けが、ボクの視界に入った途端に、みるみる今まで1度も見たことのない、毒々しいと言ったほうがいい程の真っ赤な夕焼けに変わっていったのだ。

彼女がボクを待っているべき場所が、彼女のイメージとは絶対に一緒にならない赤い世界に覆われてしまっていた。

ボクの中で何かが崩れていった。


コスモス→乙女→儀式→夕焼け→血


一瞬のうちにイメージが飛び交った。

両腕のコスモスの花束を見つめた。

夕焼けの反映を受けて、白とピンクの花びらが赤く染め上げられていた。

その中で彼女の顔が微笑した。

無意識に腕を広げていた。

ドサッとコスモスの花束が地面に落ちた。

 次の瞬間、ボクは花束の上に跨っていた。

ボクの目の前で、益々彼女の微笑は、優しさを増してゆく。

ボクは目を閉じて、がむしゃらにコスモスの花びらを口に運んだ。

口の中が真っ赤なコスモスの花びらで溢れ、口元に滴る赤がまるで血のようだ。

ボクはまわりが深い闇に閉ざされるまでコスモスの花びらを食べ続けた。》

                   ☆          ☆

目覚めると、西側の窓の外には夕焼けが広がり、下腹は粘つく分泌液で濡れていた。

それ以来、僕は1度も彼女の電話番号を廻していない。

もう電話番号さえ忘れてしまっている。

しかし妙なことに、彼女の父親の声だけは、今でもはっきりと想い出すことができる。


                      【30】


 1980年12月9日午前2時7分、僕の人生における7つ目の目覚し時計が、6年余りの生命を全うし、静かに没した。

                  ☆          ☆

 7つ目というのことは、当然ながら、以前に6つの目覚まし時計が存在したことを意味する。

 それらはこんな風に存在した。

 簡単に言えば、1974年は5月のじめじめと雨が降る夜に、突然、僕の中に破壊欲が芽生え、同年11月の終わりまでの7ヶ月の間に、計6回の衝動的破壊欲が目覚まし時計に向けられたということだ。

 高校3年という季節は、時間の流れに対してひどく敏感で、ましてや被害妄想的である。

 1番不幸だったのは3つ目の目覚まし時計で、目覚まし時計としての自らの使命である主人の目を覚まさせるためのベルを、1回も鳴らすことなくこの世から去っていった。

 5つ目の目覚まし時計を買いに行く道すがら、母は、涙さえ浮かべていた。

 僕の精神的危機を憂えてのことだろう。

 でも僕は、何1つ母に言葉をかけてやることはできなかった。

 その頃には、僕はもう僕の破壊欲がどこから来るのかを知っていた。

 そしてその解決法も………。

 でも僕が、その解決法を母に話していたら、母は、涙を浮かべる程度では済まなかっただろう。

 往来の真ん中に突っ伏して、町中に聞こえる声で泣き叫んでいたに違いない。

 だから今となっては、1974年の5月から11月までの間に、大学受験のための模擬試験が6回しかなかったことを神に感謝するしかない。

 12月に入って、僕は早々に進路を決めた。

 来春、ヨコハマに開校する『映画の学校』にだ。

 もちろん映画の勉強をしたかったのが1番なのだが、この謳い文句には参ってしまった。

「君も、ともに創造してみないか!

         若者よ、集まれ

           ここには、すべての可能性がある」

  ※無試験で入学できます※


                      【31】


 1人の人間の狂気が周りに与える影響が100%マイナスに属する不幸の匂いのするものばかりであったならその人間は救われない。

1%でもいい、プラスへと向かう微笑みのかけらでも見つけられればそれだけでいい。

 半年に及んだ僕の目覚まし時計に向けられた狂気は、母の体重が10キロ減退するという肉体的かつ視覚的不幸を招くに至って、救われることのない深い闇の淵へ沈んで行くかに見えた。

 この半年の間、母の中に、徐々にその領域を広げて巣食っていった[恥]の感覚。

 自分がこの世に送り出した1人の人間が、その存在を維持するための神経の中心の部分で壊れてゆく。

 この世界のシステムに順応できない不良品を造り出してしまったという母の私的[恥]。

 そして母は、その[恥]という寄生虫に蝕まれ続け、10キロ減退していったのだ。

 半年の間、母は、呪文を唱えるかのように事あるごとに僕に向かってこう呟いた。

「お前を信じているからね」

それから母は、声を立てずに泣いた。

その時の母の涙は、羊水でできていたのかもしれない。

                        ☆

そんな暗い時の流れの中で、ひとつだけ、1%にも満たないけれども明るい出来事があった。

 1975年3月下旬、7つ目の目覚まし時計を18年間親しんだ部屋の机の上に残したまま、ヨコハマへ行くためにボストンバッグを片手に駅へと向かった。

 途中、時計屋の前に来て、僕は足を止めてしまった。

 いや、足が止まってしまったのだ。今までペンキが剥げかかって『谷川時計店』の谷が口だけになり、川の真ん中の棒が消え、時は寺だけで、計は口と十が無く、店は占になっていた看板が、きれいに塗り替えられ、おまけに夜間用スポットライトまで備え付けられていたのだ。

 僕は、嬉しくなってしまった。

 出発の日にこんな素敵なプレゼントはない、と想った。

僕の内なる狂気が、外の世界において、少なくとも町の時計屋においては、何かしらの手助けになった訳だ。 

 飛び跳ねるように家に戻った。

 10分後、僕は駅のプラットホームにいた。

 ボストンバッグの中からは、規則正しく時を刻む音が聞こえていた。

 限りなく優しい響きだった。

 これから生活してゆくヨコハマのことを考えた。

 しかし、すぐに心は『谷川時計店』の方へ行ってしまう。

 遠く踏み切りの警報器の音が聞こえて、やがて電車がホームに滑り込んできたとき、僕の中で、『谷川時計店』は5階建てのビルディングになっていた。

 そして闇の中で僕は、ハンマーを振り上げ、108つ目の目覚まし時計を破壊しようとしていた。

 それから40年以上経った今、『谷川時計店』は、相変わらず木造平家のままで、看板のペンキの色は黒ずみ、スポットライトは3つのうち2つまで電球が切れたままである。


                      【32】


 7つ目の目覚し時計が、僕の部屋で平安な時の流れを刻み始めた頃、僕の頭の中からキツツキが忽然と消えた。


                      【33】


 【19歳の時、俺は人生の仕組みを知った。】

 とバーディ・アネクドートJRは、〔闇の章〕で書いている。

 【ちょうどジャズピアニストとして、バンドに招かれて働きはじめた頃だった。田舎のバーを回っては、何もわからない酔っ払い相手にジャムっていた。

 ある夏の日、まるで車の屋根の上で、スクランブル・エッグができるくらい暑い日だったのを想い出す。いつものようにスクエアーな客たち。俺たちは、俺たちのために演奏した。俺は、好きなピアノを弾いて、食べていけるだけの金が入ればそれで満足だった。

 1回目のステージが終わり、店のカウンターでバーボンを飲んでいると、紳士面の男が近寄ってきた。この店の中で酔っ払っていないのは、その男と残飯を漁りに来た野良犬くらいのものだったろう。

『キミ、………』

 と紳士面の男が、俺に話しかけてきた。

『私に、1曲プレゼントしてくれないかい?』

 俺は、男の顔をポカーンと見ていた。

 すると男は、財布を取り出し、カウンターの上に50ドル札を置いた。俺の3週間分の稼ぎが、目の前にあった。

 俺は、しばらく考えて、そして言った。

『フェアじゃないな。何ならこれから3週間、ピアノを担いで、アンタのところへ行こうか?』

 俺は笑いながら席を立つと、ボーイを呼び、カウンターの上の50ドル札を細かく両替させると、その中から2ドルだけを取って、フロアーのピアノに向かった。

 …………3週間後、俺はニューヨークのアパートにいた。紳士面の男の名は、マーク・ウィルコットといい、職業はレコーディング・プロデューサーだった。『誰にでも1回や2回、人生の方からウィンクを投げかけてくる時があるものだ。俺はただ、その瞬間を見逃さないように、人生の表情を見守っていただけさ………スウィート・パイを頬ばりながらね…』】


                      【34】


 バーディ・アネクドートJRにとって、マーク・ウィルコットと出会った日は、言ってみれば《人生の1日》ってやつだ。その1日がなければ、今の自分は存在しないというそんな日が人生には必ずある。

 バーディがマークと出会わなかったら、彼はどさ回りのバンドを続けていなければならなかったかもしれないし、1958年9月26日の惨事は免れたかもしれない。

 ………ちょっと待って。これは、ルール違反だ。無意味なことを書くのはやめよう。


 Get Out 『If』!

    Get Out 『If』!

       Get Out 『If』!


 バーディには、マークに出会った《人生の1日》が存在し、1958年9月26日という《人生の終日》が存在したのだ。


                      【35】


 ペットを飼うことによって教訓を得ない人間はまずいない。

どんな小さな昆虫でも、その季節の終わりには、僕らの心にある種の懐かしさに似た痛みと共に何かしらの教訓を残してゆくものだ。

僕らが普段、箱に入れて鍵を閉め押入れの奥深くにしまっている1つの真実、生きとし生けるものがやがては辿り着く場所をペットを飼うことによって、僕らは想い知らされるのだ。

初めて僕がペットを飼った時、僕はこんな教訓を得た。

『縁日で売られているペットには行きずりの愛だけを注げ、間違ってもポケットの財布に手を伸ばしてはいけない』

                        ☆

7つ目の目覚まし時計を抱きしめてヨコハマに来てから、2週間がたった。

最初の1週間にあった1人暮らしの非日常的な緊張感と新鮮さは、毎日の食生活に追われて剥げ落ち、親の元を離れて得たと思った自由な時間は、いつの間にか退屈な時間と化していた。

アパートの部屋の畳に寝転がり天井を見つめていたら、1つ年上の女の子の顔が浮かび上がってきた。

彼女の声を想い出そうとした。

すると彼女の声の代わりに彼女の父親の声が甦ってきたのでうんざりして、タバコに火をつけた。

煙を吸い込みながら、一瞬、母のことを想った。

母は痩せ細った顔の落ち窪んだ目にいっぱい涙をためて、こう僕に語りかけてきた。

「お前を信じているからね」

タバコの煙を吐き出しながら、これではいけないと想った。

タバコをもみ消し、部屋を出た。

                        ☆

駅に向かって5分程歩くと、どこからか太鼓の音が聞こえてきたので、その方角へと向きを変えた。

神社の縁日のようだった。

20メートルほどの参道の両側には、5軒ずつ露店が並んでいた。

「ホームシックなんか吹き飛ばして、これからのこの町での暮らしがうまくいくように祈願していこう」

賽銭箱に銀貨を投げ入れて柏手を打つと、不思議なことに気持ちが安らいでゆくのがわかった。

帰り際に露店を覗くと、1番人だかりがしていたのは、体長10センチ程の小さなウサギを売っている店だった。

僕は立ち止まって、しばらく小さなウサギたちを眺めた。

寒いのか、ウサギたちは5〜6匹ずつ隅に固まり身を寄せ合って蹲っていた。

どのウサギたちも一様に怯え、何かをすでに諦めてしまったような悲しい目をしていた。

僕は、これから帰って行くアパートの部屋のことを想った。

そこで待っている1人の時間のことを想った。

2分後、僕はポケットの財布に手を伸ばしていた。

                        ☆

そんな訳で僕は、ペットを飼い始めることになった。

ショートケーキを2つ入れるのにちょうどいい大きさの箱に入ったミニウサギを抱えてアパートの部屋に帰った。

ミニウサギと一緒に手渡された紙切れには、こんな風に書かれていた。


◉ミニウサギの飼い方教えます!

このミニウサギは、絶対にブクブク太ったり、ムクムク大きくなったりしません!

いつまでも、愛くるしく、可愛いミニウサギのままです!

でもこれだけは、十分注意してください。

【注意】⑴水分は、絶対に与えないでください。

    ⑵エサは、ビスケット・クッキーなど乾いたものを少量だけ与えてください。

それでは、あなたの『NICE DAY WITH MINI RABBIT』をお祈りいたします。


 僕は早速、部屋の押入れにあった、故郷から食器や鍋などを入れて持ってきたダンボールの箱を出してミニウサギの家を作った。

 そして、ビスケットとクッキーしか食べられないミニウサギに幸あれと祈りながら、ダンボール箱の横にマジックで『ビッキーの家』と書いた。

それからビッキーを彼の家に案内し、露店のお兄さんからおまけに付けてもらった1枚のビスケットをポケットから取り出して4つに割り、その1枚を『ビッキーの家』に入れてやった。

暫く見守っていたが、すぐには新居になじめないのか、ビッキーは微動だにしない。

 15分後、僕はビッキーがビスケットをかじる姿を見たい欲望を抑えて、ベッドに入り灯りを消した。

翌朝、『ビッキーの家』を覗くと、昨晩とまったく同じ場所でビッキーは軀を丸めていた。

そしてビスケットには、一口もかじられた形跡がなかった。

僕は、やさしくビッキーを掌に乗せ、ビスケットを彼の口のところへ持っていった。

それでもビッキーは、ちっとも食べようとしない。

僕は、考えた。

そして、試しにビスケットを口の中でかみ砕いてから、ビッキーの口に押し当ててみることにした。

すると、少しだけれど食べたのだ。

僕は嬉しくなって、今度は口の中でかみ砕いたビスケットをそのまま口移しであげてみた。

ビッキーは、チュクチュクとあっという間にそれを平らげてしまった。

それを5回繰り返すと、1枚の4分の1のビスケットはすべてビッキーの胃袋の中に収まっていた。

その日、映画を観て、夕方スーパーマーケットで買った10箱のビスケットを両腕に抱えて部屋に戻るとビッキーは彼の家の片隅で硬く冷たくなっていた。

何故!何故!何故!!

◎朝、口の中でかみ砕いたビスケットに混じった唾液の水分が悪かったのか?

◎1枚の4分の1のビスケットの量が、ビッキーにとってはあまりにも多すぎ

 たのか?

僕には、よくわからなかった。

それから僕は、ミニウサギを飼うための注意を書いた紙切れをもう1度読んでみた。

そして、ビッキーと同じ運命をたどった多くのミニウサギたちがいただろうことを悟った。

紙切れの最後にはこう書いてあった。

『それでは、あなたのNICE DAY WITH MINI RABBITをお祈りいたします』と。

『NICE DAY』であって『NICE DAYS』ではなかったのだ。

『あなたのミニウサギと一緒に過ごす素晴らしい1日』

………そして『あなた』だけが取り残され、時は流れてゆく。

しかし取り残された『あなた』は、ただ単に『それ以前のあなた』ではなく、『素晴らしい1日』の想い出を抱え、おまけに『10箱の目的を失ったビスケット』まで背負い込んでしまった『あなた』なのだ。

そしてこともあろうにこの『あなた』=僕は、それからの数年間、スーパーマーケットの陳列台に並ぶ直方体のビスケットの箱を見るたびに、ビッキーの墓標をそこに見つめてしまうことになった。


                      【36】


 スヌーピーなら犬小屋の屋根の上に仰向けに寝て、こう言うところだ。

「Good grief!」


                      【37】


[映画の学校]が始まった。

ビッキーが死んでから8日目のことだ。

その日の『映画史』の講義が始まって10分程たった頃、ドタドタと1人の女の子が教室に入ってきた。

「遅れて、すみません」

と、講師に向かってペコッと頭を下げると、入り口の近くの席に座っていた僕の隣に腰を下ろした。

講師は、何もなかったかのように映画を発明したリュミエール兄弟のエピソードの続きを淡々と語り続けた。

女の子はバッグからノートと鉛筆を取り出して、講師の話に耳を傾ける体勢に入った。

僕は、まだ荒い息づかいをしている彼女の胸のささやかな膨らみが何度も上下するのを横目で見ながら、10分間のうちに僕がノートに書き取った講義の内容を彼女の前に差し出した。

そして彼女の視線が、ノートから僕の目に注がれた時、僕は急に懐かしい想いに捉われた。

彼女の顔には、化粧っけもなく、長く伸ばした髪にはブラシでとかされた形跡もなかった。

目は、泣き腫らした後のように真っ赤に充血していた。

そして彼女のその目が、僕に9日前の、縁日で見た時のミニウサギたちが持っていたあの何かを諦めたような悲しい表情を想い出させたのだ。

「ありがとう」

と彼女は言って、ノートに顔を伏せ、鉛筆を走らせ始めた。

それからの10分間僕は、彼女の目が充血している理由について想いを巡らせた。

しかし、19歳になったばかりの僕にとって、同世代の女の子の心を推し量ることは、視界1メートルの濃霧の森の中で1ヶ所だけあるはずの出口を探すことよりももっと困難なことだった。

僕は諦め、こんな風に自分に言い聞かせていた。

「誰でも他人にはわからない『心の荷物』を抱きしめて生きているものだ。お前が『目的を失った10箱のビスケット』を抱きしめて生きているのと同じことさ」と。

                        ☆

「ノートどうもありがとう。お礼にコーヒーでもどう?ご馳走するわ」

『映画史』の講義が終わると、彼女が充血した目で僕を見つめてそう云った。

僕が少しは気の利いた返事の言葉を探しているうちに彼女はもう歩き出していた。

それから僕らは、喫茶店でコーヒーを飲みながら30分程話した。

彼女が、「今朝は寝坊して何も食べてないの」と言いながら軽食のメニューに目を走らせたので、僕はバッグの中から封を切っていないビスケットの箱を取り出して彼女に勧めた。

彼女は不思議そうな目で、ビスケットと僕の顔を交互に見た。

19歳の男が、バッグにビスケットを箱ごと持ち歩いていることがうまく理解できなかったのだろう。

しかし、世の中には他人のことに興味を示さないタイプの人間がいる。

たぶん彼女はそのタイプだったに違いない。

「いただくわ」

と言ったきり、僕がビスケットを箱ごと持ち歩いていたことには一言も触れず、ビスケットをかじりながら自分自身のことを語り始めた。

それから30分かけてビスケット1箱を平らげる間に彼女が語った実に多くの彼女に関する話の中で、僕にとって重要な部分だけをここに挙げておく。


1、彼女の目が充血した原因は、駅から走って来る時に風でコンタクトレン

  ズがずれたためであるということ。

2、彼女の電話番号が同時に彼女の父親の電話番号ではないということ。

  1人暮らし。

3、普段は、髪の手入れもするし、化粧だってするらしいということ。

4、中学生の時から『ラビ』という愛称で友だちから呼ばれているということ。

 初めて彼女を見た時 、ミニウサギを想い浮かべたのも当然だった訳だ。

 『ラビ』とは、もちろん『ラビット』の略である。


その日の別れ際に、僕はこう言った。

「君のビスケットを食べてる姿をまた見たいな」

頭の中で残り9箱のビスケットが、彼女の口の中に次々と消えてゆく情景を想い浮かべた。

「そのうちね」

 そう言うと、 彼女は大きく手を振って駅の人混みの中へと消えて行った。

                        ☆

次の日、彼女は学校に姿を現さなかった。

講義が終わった後、僕は1人で昨日の喫茶店に行き、コーヒーを飲んだ。

バッグから新しいビスケットの箱を取り出し、テーブルの上に置いた。

食べて欲しい相手はいない。

「目的を失ったビスケット」

そう呟いた時、僕はまざまざと1つのセンテンスを想い出していた。

『あなたのラビ(ウサギ)と一緒に過ごす素晴らしい1日』

そして結局彼女は、それから7月の半ばに学校が夏の休暇に入るまで、1度も姿を現さなかった。

彼女の姿を見なくなって1ヶ月の間に僕は、3回電話ボックスで彼女の電話番号を廻した。

確かに彼女の言っていた通り、父親が受話器を取り上げることはなかった。

その代わり彼女の声が聞こえてくることもまたなかった。

僕は、いつまでも続く受話器の中のコール音を聴きながら、彼女の部屋を想像した。

………家具は何もなく、6畳間の中央にけたたましくベルを鳴らしている電話機だけが置かれている。

僕の目は天井にある。

彼女が蹲るように電話機の上に覆いかぶさる。

それと同時に、僕の目は天井と共に空へ舞い上がる。

彼女の部屋が小さくなる。

彼女の部屋は、まるで蓋を切り落としたダンボール箱のように見える。

その中で蹲まっているのは、果たしてラビなのか?ビッキーなのか?僕には、わからない。

3回目の電話からアパートに帰ると僕は、9箱のビスケットをゴミ袋の中に放り込んだ。


                      【38】


 2学期に入って[映画の学校]はゼミ形式になった。

 僕は、シナリオのゼミを採った。

「より良い映画のシナリオを作ってゆくための基本は、何と言っても人間観察です」

 ゼミの初日に講師は声高に言った。

「それでは、如何にして人間の本当の姿を観察するか?[のぞき]。これも1つの手です。人間が何かの行為をしている。それを我々はのぞいている。その時我々は、行為している人間の秘密に好奇心を持ち、ゾクゾクし、それとは又、別に[のぞき]という行為をしている我々自身に対しても、スリルと陶酔感を抱く訳です。しかしそれだけで満足してはいけません。我々は、表現者です。それを忘れないように………。まず、のぞいている自分の中のスリルや陶酔感を言葉で忠実になぞる訓練をしていかなければなりません。………そして他人=その行為をしている人の心の中にまで入って行って、その人間の全体像を言葉で形成していかなければならないのです。分かりましたね」

 そこまで一気に喋ると講師は、1つ咳払いした。

「さあ皆さん、席を立って窓辺に集まってください。早速、人間観察の訓練に入ります」

 みんなのろのろと席を立ち、窓辺に集まった。僕は、1番後ろから、みんなの肩越しに窓の外に目を向けた。

「ここから、ヨコハマ駅の東口が真っ正面に見えますね。これから皆さんに[のぞき]をしてもらいます。ここから見える人間の中から1人を採り上げて、その人間の全体像を創造して言葉で表現してください。誰か………どうかな?」

 窓辺の1番前に陣取った、クラスで1番ノッポの赤根せきね君が手を挙げた。

「オレがやります。…………駅前のタクシー乗り場で客を待っているタクシーの前から3台目の運転手が見えますね。窓を全開にして、タバコをくわえなが新聞を読んでいる………」

 窓辺の前の全員の目が運転手を捜した。絵に描いたような運転手で、これと言って特徴はなさそうに僕には想えた。

 赤根君が続けた。

「あの運転手は、アル中です。年齢は36歳。女房とは別居中で、幼稚園に通っている男の子がいる。その子は女房の方と一緒に住んでいて、彼も別段子供に会いたいとは想っていない。別居の条件だった養育費もたまにしか送っていない。いや、今月分を送れるかどうかは、今彼が読んでいる新聞に懸かっている。今日は土曜日です。彼は多分、明日の第9レースにすべてを賭けています。そう、彼が読んでいるのは競馬新聞です」

「あの運転手は、何故アル中になったのかね?」

 講師が、さりげなく話を広げやすいように言葉を挟んだ。

「あっ、そうでした………彼がアル中になったのは、今幼稚園に通っている男の子が自分に1つも似ていない、というのが原因と言えば原因です。つまり女房が不義を働いて、他の男の子供を孕んだと思い込んだってことです。全くの彼の被害妄想です。しかし1度そうだと思い込むと、酒と歳月はそれに拍車をかけ、それを真実以外の何物でもないものにまで高めてしまうのです」

 赤根君の顔は、真っ赤になり、声は震え、吃り始めた。

「や、奴は、じ、じ、自分の血を分けたこ、子供を…………よ、幼稚園に行っている子供は、き、き、きっと大人になってタクシーのう、う、運転手を見ると、みんなアル中に…………」

 赤根君は、溢れ出る涙を手の甲で拭い、振り返ると、みんなの間をかき分けて、教室を出て行ってしまった。

 残されたみんなは、呆気にとられ、静まり返った。

 講師は、赤根君が出て行った教室のドアの方に目を向けたまま、冷静に今の赤根君の話の講評を口にした。

「彼の形作ったタクシーの運転手の全体像は優れています。今の話から1本の映画のシナリオがすぐにでもできそうですね。しかし、シナリオ制作の時に最も注意しなればならないのは、対象に感情を注ぎ込み過ぎないことです。《冷徹な視線》これが肝心です。彼の話への批評の締めくくりとして補足します。シナリオライターの入門書でよく見かける言葉です。『誰にでも一生のうちに1本は傑作が書ける。自分自身と自分の周辺のことを書けばいいのだ』…………では、次に[のぞき]をしてくれる人はいませんか?」

 誰1人、手を挙げる者はいなかった。

「君、やってみませんか?」

 講師の目が見つめたのは、僕だった。

 1番後ろにいた僕は、仕方なく前の生徒の背中をかき分けて、窓辺まで行き、外を眺めた。

 ヨコハマ駅とこの[映画の学校]があるビルとの間には歩道橋あり、そこを1人の女の子がこちらに向かって歩いていた。

「はい分かりました。やります。歩道橋をこちらに向かって歩いてくるあの女の子について話します。…………彼女は、もうじき20歳になる19歳です。もちろん成人前ですが、酒もタバコもセックスも彼女の日常の営みの中にあります。酒はウイスキーでボトル半分が限度で、タバコは2日に1箱、セックスは週1回、相手は特定の同世代の男です」

「それは、希望的観測ですか?それとも君の日常かな?」

 ニヤニヤしながら、講師が口を挟んだ。

「《冷徹な視線》です!」

 僕は、きっぱりと言った。

「彼女は素顔のようだけど、化粧しない主義なのですか?《冷徹な視線》で解釈をお願いします」

 講師が、皮肉な口調で言った。

「そんなことはありません。もちろん化粧もします。ただ彼女には、放浪癖があって、化粧品を持たずに友人の家を転々とすることもたびたびです。今日もそのパターンのはずです。彼氏などは、5ヶ月も彼女の行方が分からずに途方に暮れたことがあるくらいです」

 僕が形作った話の渦中の女の子は、歩道橋を渡り終え、僕らがいるビルの下まで来ていた。

 僕は窓を開け、「オ〜イ!」と女の子に声をかけ、手を振った。

 その声に、窓の方を振り仰いだラビが、5ヶ月ぶりに大きく手を振り返した。


                      【39】


この5ヶ月のうちにラビは、あまり多くを語らない女の子になっていた。

 その日の夜、2人で僕のアパートに行き、ワインを飲み始めた。

 暫くして、僕は彼女にこの5ヶ月の間に何があったのかを尋ねた。

「誰にも迷惑を掛けたくないの」

 ワイングラスを見つめたまま、こう言ったきり彼女は、口を閉ざした。

 そのお蔭でその日は、5ヶ月前とは逆に、僕の方が僕自身のことを話して聴かせる羽目になった。

 彼女の方も、自分のテリトリーに話題が触れてこない限り機嫌が良かったし、楽しそうだった。

 僕は、彼女の笑顔を見続けるためにありとあらゆる想い出をかき集め、語り続けた。

 しかし、語れば語るほど、想い出は僕自身のものでありながら、まるっきり知らない他人のもののような肌ざわりを僕に残した。

 その夜、彼女に話さなかった想い出が1つだけあった。7つ目の目覚まし時計を買うまでの半年のことだ。

 やがてワインの酔いが回り、僕の中で女の子と2人きりになった19歳の男がごく自然に感じる性的欲求が飽和状態に達した。

 僕が、彼女の手を取り引き寄せようとすると彼女は、軀を固く閉じ、そして、言った。

「灯りを消して………」

 僕は、腕をのばして部屋の灯りを消し、2人の間に闇を招いた。

 その闇の中で、彼女は静かに力を抜いていった………。

                        ☆

 真夜中、うっすらと目覚めると、ラビの温もりが隣にあった。

 暫くすると、ラビが寝言で何かを言った。

 耳を近づけると、それは、誰かの名前のようだった。

 少なくとも僕以外の…………。

                        ☆

 7つ目の目覚まし時計のベルの音で目覚めた。

 朝だった。

 ラビは、もういなかった。

 僕は、後悔していた。


                      【40】


 それから僕らは、どちらから避けた訳でもなく学校で会っても言葉を交わさなくなっていった。 

 ワインを飲んだ日から数えて3ヶ月後に、1度だけ彼女が僕のアパートにやって来たことがあった。

 彼女はかなり酔っていた。

 部屋に入るなり、

「泊めてくださる?」

 と言って、ベッドに倒れ込んでしまった。

 僕は、やれやれと想い、掛け布団を彼女の軀に掛けてやり、暫く彼女の寝顔を見つめた。

 やがて彼女は、暑苦しいのか僕が掛けた掛け布団を剥がしにかかった。

 それから、セーターの袖をたくし上げた時、そこに現れた彼女の手首には、できてからそれほど間のない真一文字の傷あとがあった。

 3ヶ月前に僕の隣で、寝言で呼んだ男の名前………。

 それと結びつく傷あとかも知れなかった。

 僕は、7つ目の目覚まし時計の針を11時にセットした。

 その時刻に目覚めれば、終電に間に合う時刻だった。

 それからベッドの横にそれを置くと、僕はアパートを出た。

 ………夜中の12時過ぎにアパートに戻ると、彼女はもういなかった。

 そのかわりにテーブルの上にメモが残されていた。

『故郷に帰ります。迷惑をかけるつもりはなかったのに………ごめんなさい。

ラビ』

 ベッドに入ると、彼女の匂いがかすかに残っていた。

 僕は、彼女を愛していたことに気づいた。


                      【41】


 【後悔と愛は、いつでも隣り合わせにあるものさ。】

 バーディ・アネクドートJRの『俺は、今生まれたんだ』の〔光の章〕は、こんな文章で始まっている。

 そして、こう続く。

 【でも俺には、もう今までの人生に対する後悔に費やしている時間はない。長い長い闇の迷宮から抜け出して、この光溢れる世界に、再び戻って来れたんだ。アリスへの愛を生きるためだけにこれからの全ての時間を費やしていくつもりさ。今、俺は再び生まれたんだ。】


                      【42】


 【30】で、『1980年12月9日午前2時7分、僕の人生における7つ目の目覚し時計が、6年余りの生命を全うし、静かに没した。』と書いたが、7つ目の目覚し時計にとっての6年余りが、平穏無事な幸せに満ちた日々ばかりあったとは言い難い。

 その歳月を共に生きた者としてはこう言うべきだろう。

「7つ目の目覚し時計にも、以前の6つの目覚し時計と同じように、僕の肉体的あるいは精神的苦痛のはけ口として、受難を強いられた時代があったのだ」と。

                        ☆

 《映画の学校》のクラスコンパがヨコハマの中華街で行われた。

 1975年の暮れのことだ。

 コンパの帰りに、駅のプラットホームでなかなか来ない電車を待っていた。

 僕は、ホームのベンチに腰かけて気持ちのいい酔いを楽しんでいた。

 みんなも気持ちよく酔っ払っていると想った。

 少したって気がつくと、僕が座っているベンチの周りには、それまで5〜6人屯して映画の話をしていたのに、いつの間にか僕の前に立ちはだかっている1人のクラスメイトの他には誰もいなくなっていた。

 そしてそのクラスメイトは、僕を含む他のクラスメイトと違って、気持ちよく酔っ払ってはいそうもなかった。

 僕は、彼を見上げた。

 身長180センチ、体重90キロの体格を持つ彼の前で、身長167センチ、体重55キロの体格の僕が、ベンチに腰掛けて見上げている構図。

 クラスメイトは、遠くでその構図をあたかもカメラのレンズを通しての様に冷たく見つめていた。

 僕は願った。

 これが映画の撮影であることを。

 そして今にも監督が出てきて、「カット!」と叫んでくれることを。

 しかし監督の声はなく、代わりにはるか上の方から彼が、すでに据わった目で怒鳴り始めた。

「俺たち仲間だろ!一緒に映画を作ろうとしている仲間じゃねえかよ」

 彼は、間違っている。僕は別に僕たちが仲間じゃないなんて言った覚えはなかった。

 しかし、すぐに彼が言っていることの意味なんてその後僕に起こる運命には何の関係もないことを想い知らされた。

 次に彼は、僕のコートのボタンを引きちぎりにかかったのだ。

「殴らねぇのかよ、えっ!殴ってみろよ」

 挑発するように言葉を吐く。

 コートのボタンが3つ闇に消えた。

 もう少し我慢して彼の挑発に乗らなければ、クラスメイトの1人ぐらいは冷たい目を捨てて、彼を抑えに来てくれたかもしれないのに、バカな僕は、彼の左の頬にお情け程度に平手打ちをくれていた。

 次の瞬間、待ってましたとばかりに僕の平手打ちの数十倍のパンチが、僕をホームのコンクリートの上に叩きつけていた。

 あとは、もう………500本をくだらない髪の毛が、ほんのちょっとの間に僕の頭皮から消え去った。

 深夜、アパートの部屋に帰ってベッドの中に入ったが、体中の痛みに眠れず闇を見つめていた。

「この世界は、理不尽なもので充ちている」

 と心の中で呟いた。

 するとどこからか懐かしい感情が湧き上がってきた。

 1年以上前に親しくつき合っていた感情だった。

 闇に耳をすませた。

 数秒後、窓を開け放ち、7つ目の目覚まし時計を想いっきり窓の外に投げつけていた。

                  ☆          ☆

 それからの3日間に僕の耳に入ってきた、コンパの日、いかにして彼の中に破壊欲が芽生えたか、についてのクラスメイトのいくつかの証言をここに紹介する。

男Aの証言:奴はあの日朝から下痢気味で、コンパの最中何度もトイレに駆け

      込んでいたから悪酔いしていたんだよ、お気の毒に…………。

男Bの証言:彼が酒乱てこと知らなかったの?運が悪かっただけだよ、お大事

      に………

女Aの証言:君、どことなく彼と似てるわね。

男Cの証言:あいつの書いたシナリオが原因なんだよ。コンパの最中、俺聞い

      たんだ。柿宇土(先生)さんがあいつにこう言っているのをさ、

      「君、あれ(シナリオ)は稚拙だよ」…………そしたらアイツの

      顔色、突然変わったんだぜ。

 男Cの証言を耳にしたとき僕は、自分のシナリオに[稚拙]というレッテルを貼られたときの彼を想像してみた。

 ジワジワとおかしさがこみ上げてきて、1度笑い出すと止めることができなくなった。

 それと言うのも、彼というのがどう見ても[マザーコンプレックス]のお手本としか見えないような奴だったからだ。

 [稚拙]と[マザーコンプレックス]。

 こんな素敵な取り合わせは、またとないじゃないか。

 僕は腹を抱えて笑い続けた。

 そしてこの時は、彼の破壊欲の原因を、その日の体調が悪いのをおして酒を飲み、あまりいい酔い方をしていなかったところへ[稚拙]事件が持ち上がって導火線に火がついたという風に片付けてしまった。

 しかしこれは、ほんの小さなきっかけでしかなかったことに後で気づいた。

 何故なら彼が破壊したかったのは、他でもない[稚拙]で[マザーコンプレックス]の彼自身だったのだから…………。

                  ☆          ☆

 それからまた1週間経って、そろそろ闇に消えた3つのコートのボタンのことを忘れかけた頃、僕は、女Aの証言の重大さに気づいた。

『君、どことなく彼と似てるわね』

 そもそも[稚拙]で[マザーコンプレックス]でない男なんてどこにいるだろう。

 彼はそんな[マザーコンプレックス]の泥沼の中を這っている男たちの中から僕1人を選んだ。

 僕が、[稚拙]で[マザーコンプレックス]のお手本であるのを目ざとく嗅ぎつけて僕の前に立ちはだかったのだ。

 素面の時は、自分の弱さの[鏡]に想えて僕を避けていたのに、いざ酔っ払って自分を破壊したくなると[鏡]の中の像を身代わりにするって訳だ。


君、君、君、

   どことなく、どことなく、どことなく、

      彼に、彼に、彼に、

         似てる。似てる。似てる。


 そういう風に考えてくると、あの日から10日間想い続けてきたこと、例えば500本を下らない髪の毛を失ったことによってその部分がハゲにでもなったら、植毛代を奴からせしめてやろうなどということは、どうでもいいことのように想えてきた。

 それどころか、逆に彼が可哀想に想えてきたくらいだ。

 何故だかは分からない。

 胸がジーンとしてきた現実があっただけだ。

 そして、その夜僕は、ベッドの中で想いを巡らし、1つの教訓を拾った。

 敗者としての彼が僕のために残した教訓だ。

『[鏡]に立ち向かうことなかれ。されど[鏡]の実在の中で、自らの弱さと対峙せよ』

 それから眠りがやって来るのを待ちながら天井を見つめていた。

 しばらくして部屋の中に何か物足りないものを感じた。

 視覚から来るものでも、嗅覚でもなく、聴覚………僕は、僕自身の[鏡]の不在に気付いた。

 ベッドから跳ね起き、部屋の明かりをつけて、パジャマの上にジャンパーを引っかけた。

 それから、片手に懐中電灯を持って部屋を出た。

 僕のアパートは道路端に立っていて、窓はどの部屋も道路側に向いている。

 僕は道路から、まず2階の僕の部屋の窓の灯りを見上げ、続いて道路の向こう側に広がっている杭と鉄条網で囲まれた雑草の生い茂った空き地に目を移した。

 ため息が出た。

 しかし行かなければならない。

 鉄条網をくぐる時に左足のふくらはぎをパジャマのズボンの上から引っかけてしまったが、僕の中で生き始めた教訓の重さに比べれば何のことはない。

 空き地の中に入ると外から見える以上に雑草の量が夥しい。

 懐中電灯の灯りも2メートルぐらいで闇に呑まれてしまう。

 部屋の窓の灯りを振り向いて、方向と距離を推し測ろうとしたが、10日前の夜中にどの方向へどれくらいの力で投げたのか全く想い出せない。

 30分ほど、奥行き2メートルの灯りだけを頼りに探しまわったが、道路から放り投げられたゴミばかりで見当たらない。

 一服しようとジャンパーのポケットをまさぐったが、タバコは1万光年は彼方の灯りの中だ。

 諦めて星もない夜空を振り仰いだ時、僕より背の高い雑草が折り重なっているその上で不気味に光る物が見えた。

 夜光塗料独特のボーッとした光。

 ………懐中電灯を当てると、そこに僕の[鏡]が存在した。

 それまで地面ばかり這うように探していたのがまずかったのだ。

 僕の手の中で7つ目の目覚まし時計は、たいした傷もなく(折り重なるように生えた雑草がクッションの役目をしたのだ)今の時刻を示して動き続けていた。

 部屋に帰ると、7つ目の目覚まし時計を机の上に戻した。

 そして部屋の灯りを消して、ベッドに横になった。

 闇の中で耳をすますと、7つ目の目覚まし時計の時を刻む音だけが、部屋を充たし始めた。

 その正確に繰り返される音は、未来へと僕を運ぶものであるはずなのに、この闇の中では、過去へ、この1年半の歳月の中へと僕を乗せて帰ってゆくように感じられた。

 …………やがて部屋いっぱいに満ちた音が、僕の鼓動と重なってゆくのを感じながら、僕は深い眠りへと落ちていった。


                      【43】


 年が開けて、1976年の初めに僕は、3日ほど故郷へ帰った。

 駅から家に行く途中で、谷川時計店の前を通った。

 ウィンドウには、初めて見るデジタル式の目覚まし時計が並んでいた。

 この最新式の目覚し時計を必要とする者が、この町の何処かにいるのだろう。 

 しかしそれは、僕ではない。

 家に帰り着くと、母の体重は、5キロ元にも戻っていた。


                      【44】


 【俺は、これからの人生の全てをかけて、アリスの右足になるんだ。】

 とバーディ・アネクドートJRは、『俺は、今生まれたんだ』の〔光の章〕で書いている。そして、こう続く。

 【ガキにしろ、大人にしろ誰もがそれぞれの形で『ピーナッツ』に出てくるライナスの安心毛布(Security Blanket)を心に抱きしめているものだ。これからは、俺が、アリスの安心毛布になるのさ。ずっと昔、俺がガキだった頃、お袋に頼んで、拾ってきた子犬を飼ったことがあるんだ。メモリーって名前をつけた。メモリーと俺は、毎日、本当に一緒に転げ回りながら遊んでいた。俺が放り投げた棒切れをくわえて戻ってくるまでになった。俺には、メモリーの考えていることがわかったし、メモリーにも俺の想っていることが通じていたと想う。しかしある日の朝、外の犬小屋にメモリーをつないでいた鎖と首輪だけを残して、メモリーが消えていた。誰かに連れて行かれたのか、それとも、首輪をすり抜けて自分で出て行ったのか、わからなかった。何日も探し回ったが、どこにもメモリーはいなかった。それからずっと俺は、メモリーの首輪を捨てられないでいる。喪失の記念品だ。ある日、首輪を見ては落ち込んでいる俺にお袋が、犬のぬいぐるみを買って来てくれたんだ。俺は、その犬のぬいぐるみにメモリーの首輪をつけて、ベッドで一緒に寝るようになった。一年も経つとヨダレと垢でぬいぐるみはボロボロになったが、もう寝る時には手放せなくなっていた。夜毎、安心を枕に喪失の記憶を抱きしめて。】


                      【45】


 [映画の学校]が夏休みに入る時、ゼミの教室の壁に、こんな内容の紙が貼り出された。

                       ☆

 《1976年度、夏季休暇課題》

 シナリオ・小説・詩・俳句の中からどれでもいいから1作品以上提出すること。

 提出日:1976年9月1日

                       ☆

 僕は、[映画の学校]の夏季休暇課題に小説を選んだ。

 1976年8月26日、深夜、最後の一行を書き終えた。

 原稿用紙を束ねて、最初のページに『闇の中の邂逅』と書いた。


                      【46】

                    『闇の中の邂逅』

                     1976年8月1日

                    《夢からの目覚め》


 雨は、ますます激しくなっている。

 川は、水嵩を徐々に増し、今ではもう橋の下50センチのところまで迫っている。

 人々の逃げ惑う叫びが、歓喜の叫びにも似て、橋の上を飛び交う。

 しかしどこにも人々の姿はなく、ただ救助を求める叫びだけが矢のような雨を縫って………。

 やがて闇の中で、雨粒だけが銀色に輝いている橋のちょうど中央のあたりが、ほの明るい光を帯びて浮かび上がってくる。

 そして、そこに人影が……………。

 少女だ。

 小花模様の傘をさし、ランドセルを背負った少女が、欄干にもたれて立っているのだ。

 少女は、じっと50センチ下の、家屋を何軒も丸ごと呑み込んで、歓喜に震える濁流のうねりを見つめている。少女にとって傘は、何の役にも立たない。少女のブラウスはずぶ濡れで肌に密着し、おかっぱ頭にした髪の毛の先からは、絶え間なく雨の雫が垂れている。それでも少女は、必死に目を凝らして濁流のうねりを見つめている。

 僕は、少女の後ろに立っている。

 やがて何かが濁流の表面に浮かび上がる。

 闇の中でその部分にも淡い光が投影され、何かを包んだビニールのようなものであることがわかる。

 それは流れの中から徐々に姿を現してゆく。

 そして、それは濁流の上に立ち上がる。

 ………人間だ。

 雨ガッパを着た子供だ。しかし一見すると、背中が丸まっていてセムシのようだ………。いや、雨ガッパの中にランドセルを背負っているに違いない。

 濁流の上に立ち上がったその背中が丸まった子供を見て、小花模様の傘の少女の瞳が一瞬輝き、続いてあふれる微笑がその顔を包んだから………。

 川は勢い良く流れ、暗黒の空は限りなくその上に、銀色の雨粒を落とし続けている。

 雨ガッパの子供は、濁流の表面を下流へ向かって元気に歩き始める。あたかもそこが、ただのちょっとした泥んこ道ででもあるかのように………。

 橋の上の少女は、濁流の上の子供に向かって叫ぶ。

「ねえ、ーーー子ちゃん、私はもう大丈夫だから、この傘をさしてらっしゃい。」

 濁流の上の子は、少女らしい。立ち止まって、振り向く。

「いらないわ、わたしんち、もうすぐだから………さよなら。」

 橋の上の少女は、小花模様の傘を濁流の上の少女に向かって思いっきり投げる、と同時に濁流の上の少女は向きを変え、再び下流へ向けて歩き始める。

 小花模様の傘は水面に届くなり、たちどころに濁流に呑まれて、再び姿を現すことはない。

 橋の上の少女は、直に雨粒に打たれながら呟く。

「寂しそうな背中…………。」

 濁流の上の少女の背中は、どんどん小さくなってゆく。

 2人の少女の頭上には、激しい雨がある。

 僕の頭上には、雨がない。

 僕の軀は、乾いている。

 髪の毛も、服も、ジーパンも。

 僕を濡らす雨は無い。

 雨は絶え間なく、ますます激しく2人の少女の上に降り注いでいる。

 ザーザーザーザーザザザザザザザザザザザザザザザザーーーーーー。

 目覚めると、音は、雨のそれではなく、ボリュームを目1杯にあげたラジオの雑音だった。

 続いて、ハキハキとした男性の大声が号令をかけ、キレのいいピアノの音がその伴奏をとった。

 頭が割れるように痛い。完璧な2日酔いだ。

 昔(僕が参加していた頃)と同じように夏休みのラジオ体操が行われているとすれば、今の時刻は朝の6時半だろう。

 昨夜、家に帰ってきたのが夜中の2時か3時か泥酔していたので覚えていないが、時間にして3時間位しか眠っていないだろうと想う。

 最後に寄ったスナック「ビリーバー」を出てからの記憶が何もない。

 頭の痛みに気をとられていたので気付かなかったが、右手の甲にも痛みが走っている。血が出て、瘡蓋になっているかもしれない。

 しかし自分の目で見て確かめるために右手を動かしてみようとするが、どうやったら目の前に自分の右手の甲を持ってくることができるのかがわからない。

 僕は諦め、もう1度眠ってしまおうと想う。

 あと4時間も眠れば、すべてを順序立てて想い出すことができるだろう。

 多分、自分の意志で腕を動かすことだって………。

 しかしラジオ体操は、2コーラス目に元気良く突入してゆき眠るどころではない。

 それどころか的確に僕の内なる頭痛を、外界の暴力が2倍にも3倍にも増大させてゆく。


【47】


 8月の上旬、ちょうど『闇の中の邂逅』を書き始めた頃、アルバイトからアパートに帰ると、珍しく郵便受けに、封書の手紙が入っていた。

 送り主を見ると、ラビの本名が書かれていた。

 封筒の中には、便箋が1枚と写真が2枚入っていた。

 まずは便箋から。

 『ご無沙汰しています。

 ヨコハマから故郷へ帰って来てから、もう8ヶ月がたちます。

 ヨコハマでの最後、置手紙だけで、故郷へ帰ってしまってゴメンなさい。

 あなたは、元気に[映画の学校]で夢を追いかけていますか?

 私は、近くにある親戚のブドウ園でアルバイトをしながら、地元のハード・ロック・バンドのボーカルをしています。

 9月になったら、ぶどう狩りのシーズンが始まって忙しくなると想います。

 私は、今、元気にやっています。』

 そして、写真。

 1枚目は、お祭りか何かのイベントのステージで、演奏しているバンドの写真。ギター、ベース、キーボード、ドラムの前で、スタンドごとマイクを抱えて、絶叫して歌っているのがラビなのだろう。

 8ヶ月分伸びた髪の毛が、横を向いた顔に覆いかぶさって、判別できないが………。

 2枚目は、ブドウ棚の下で、レッド・ツェッペリンのロゴのついたキャップをかぶり、Tシャツに、スリムのジーンズ姿のラビと、ロングのサーファーカットにTシャツ、ベルボトムを履いた同じ年頃の男が映っていた。

 そして、2人は、お揃いのプカシェル・ネックレスをしていた。

 1枚目の写真をもう1度見て確認すると、バンドのギタリストのようだった。

 ラビのTシャツには、『Where is my UTOPIA?』とプリントされ、彼の方のTシャツには、中指を立てた右手のイラストの上に『Heaven or Hell』とプリントされていた。

 そして、ラビの左手首は、手を繋いだ彼の右手首に隠れて見えなかった。


                        【48】


                      『闇の中の邂逅』

                      1976年7月31日

                     《丹那トンネルにて》


 下り伊豆5号は熱海駅に着くと、前10両と後ろ5両とを切り離し、ホームに溢れるけたたましい発車ベルと共に、前10両は下田へ向かい、少し遅れて僕を乗せた後ろ5両は修善寺へと向かって動き出した。

 列車の中は、伊豆へと向かう行楽客でいっぱいだった。

 僕は、海側の窓辺の席に座っていた。

 熱海の歓楽街のおびただしい看板の向こうに広がる真夏の海が、太陽光線を反射してギラギラと眩しかった。

 僕は、その眩しさから目を背けるように故郷の町のことを考えた。

 小高い山に囲まれた、天城山から流れ下る狩野川を有したちっぽけな温泉町。以前と少しも変わることなくささやかな暮らしが営まれていることだろう。

 ただ1つ違うことがあるとすれば、肥満したマキトの姿をあの町で見る機会が、もう永久にないということくらいだ。

 しかし、僕の故郷の町に対する思考はそこでストップしてしまった。

 それよりも今の僕に絡み付いてくるひとつの気がかり、ヨコハマへ残してきたひとつの不安の方へと心は傾いていった。

 伊豆5号がヨコハマ駅を出てからずっと、僕の心の片隅に居続けた不安だった。

 ヨコハマ駅東海道線下りホームで伊豆5号をお待ちながら、由加里は僕の横で一言も喋らなかった。

 昨夜、中澤からの電話で幼なじみのマキトが死んだことを知らされ、明日、中学の同級生で追悼会を開くから出席してくれ、と言われた。

 僕は、出席すると返事をした。

 僕が通っている映画の学校で夏休みに1本シナリオを書く宿題が出ていたが、まだテーマさえ決めてなかったので、中学の同級生と会えば何か面白い話が拾えるかもしれないとも想った。

 そして由加里に電話し、死んだ幼なじみの追悼会出席とシナリオ・ハンティングの理由をつけて、明日一緒に鎌倉へ行く約束が果たせなくなったことを告げた。

 その時、僕の心のどこかで、ほっと胸をなでおろす気持ちが働いた。

 煩わしいものから少しでも逃れていたいという心の働きがあの夜から顕著になった。

 『この部屋に引っ越してこようかな』と由加里が呟いた夜………。

 今日の朝、ボストンバッグに荷物を詰め込んでいるところへ由加里がやってきた。

「ヨコハマ駅まで送って行くわ」

 元気なくそう言うと黙り込んだ。

 伊豆5号がヨコハマ駅のホームを滑り出すまで黙り込んだままだった。

 僕が列車に乗り込み、僕と由加里との間でドアが閉まったとき、ボロボロと由加里の目から涙が流れ出した。

 そして列車が動き出し、ドアのガラス窓から斜めに、角度が鋭角になってゆくホームの上で、由加里の口が、いくつかの形に動いたような気がした。

 錯覚かも知れなかったが………。

 由加里はいったい何を言いたかったのだろう?

 黙り続け、そして最後に涙を流すことによって何を伝えたかったのだろう?

 最初僕は、前から約束してあった鎌倉行きがおじゃんになっていじけているのかと想っていたけれど、あのドア越しに見た涙は、もっと別の重大な何かを秘めているに違いない。

 由加里の中で何かが起こったのだ。

 それは、間違いない。

 故郷の町に帰り着いたら、すぐに電話しよう。

 そして用事が済み次第、すぐにヨコハマへ帰ると告げよう。

 僕は、きらめく夏の海を決意としてじっと見つめた。

 すると心の不安は、何一つ解決したわけでもないのにわずかな平安が僕を訪れた。

 そして面白いことに気づいた。

 今僕は、心の中で[故郷の町]に[帰り]着いたらと表現していながら、すぐ次に[ヨコハマ]へ[帰る]とも表現した。

 僕という人間は、いったいどちらの町に帰属しているのだろう?

 その時、突然視界の状況が急変した。

 列車がトンネルに入ったのだ。

 光の氾濫している夏の真っ只中から闇のトンネルへ。

 僕は目を閉じた。

 するとそれまで見つめていた夏の海のギラギラした光の残像が、目蓋の裏の闇にちょうど20Wの電球を灯したようにボーッとした光を宿した。

 その光が、徐々に小さくなってゆき、しまいには消えてしまうのを追いながら、僕はいつもこの丹那トンネルに列車が差し掛かるたびに湧き上がる感情がやってくるのを待った。

 しかし、その徒労を今の僕は知っていた。

 今までの丹那トンネルは[故郷への入り口]としてあった。

 丹那トンネルに列車が入ると、(ああ、故郷に帰って来たんだ)と想った。

 ところが今僕の中で、帰属している町が[故郷の町]なのか[ヨコハマ]なのかはっきりしない以上、その感情が湧き上がってくるはずはなかった。

 ひょっとしたら僕は、今から[故郷の町]へ[行こう]としているのかもしれないのだ。

 目蓋の裏の残像は消えていた。

 (闇の中の光の消滅ーーー。由加里の闇の中の光。まさか……)

 僕は一瞬のうちに心をよぎった想いつきを強く否定した。

 そしてこのまま目蓋の裏の闇に神経を集中していると、その闇が由加里の中の闇へと姿を変え、そこに強く否定していたはずの想いつきが、具体的な光の像を形作って浮かび上がってくるんじゃないかと恐怖した時、どこからか赤ん坊の泣き声が鋭く上がった。

 一瞬、僕は恐怖の中で僕が耳にした幻聴かと想った。

 あまりにもタイミングが良くて悪い冗談だったのだから………。

 (由加里の闇で泣き叫ぶ生命体)

 僕は強く頭を振って、目蓋を開き、車内を見回した。

 すぐに赤ん坊の泣き声が幻聴ではなく現実のものであることがわかった。通路を隔てたボックスの窓側の席に、母親に抱かれて顔を真っ赤にしたその声の主がいたのだ。今も泣き続けているその赤ん坊を見たとき、僕の中の恐怖がまるで目蓋の裏の煌めく夏の光の残像のようにスーッと消えてゆくのを感じた。

 僕は緩んでくる頬の筋肉を意識しながら赤ん坊を見続けていた。

 額と目の回りは泣いているために皺くちゃだが、頰はツルンとしてスベスベしているように見える。

 (無垢なのだ。昨日と言うページはなく、明日だけを吸収してゆく者の姿。今泣いているのも明日の為なのだ。)

 母親が、我が子をジロジロ見ながらニヤニヤしている僕の視線に不審を抱いて、僕を睨みつけてきたので、視線を窓に移した。

 するとトンネルの中なので車内の方が明るいために窓ガラスが鏡の役目をして、窓に視線を向けたままでも今まで見ていた赤ん坊の顔を観察することができることに気付いた。

 僕は窓の中の赤ん坊の顔を母親に気づかれることもなく、再び観察し始めた。

 ツルンとした頰が見える。泣き顔も違わない。

 しかし、どこか先程まで直接見ていた赤ん坊の顔と違うように感じられた。

 鏡を通しているので右と左が逆になるためなのか?

 いや、そんなことではなく、もっと根本的にどこかが違っているのだ。

 どこだろう? 

 その時突然、車内の電灯が消えた。

 窓が闇に閉ざされた。

 それまでじっと目を凝らして窓に映る赤ん坊の顔を見つめていたために、窓の闇が目蓋の裏側の役目をして、その赤ん坊の顔が残像としてそこに映った。

 しかしその残像は、トンネルに入った時に目蓋の裏に宿った煌めく夏の光の残像のように時間と共に徐々に小さくなってはいかず、それどころか秒刻みに大きくなっていった。

 赤ん坊の泣き叫んで大きく開けた口が、僕の頭を呑み込んでしまうくらい大きくなった時、僕は確かにそれらを見た。

 あのツルンしてスベスベだったはずの頰に、大きく開いた汚れきったいくつもの毛穴を………。

 その赤ん坊の隠し持っていた昨日というページを………。

 僕は目を閉じた。そこまで、肥大した赤ん坊の顔は追って来ない。

 暫くして目を開けると窓ガラスには闇だけが取り残されていた。

 先ほど体験した残像の肥大化が、まるで嘘のように………。

 車内の電灯が再び灯った。窓ガラスは鏡に戻り、赤ん坊は実物大でそこに映っていた。

 すでに僕は、直接見る赤ん坊よりも窓ガラスを通してみる赤ん坊の方に親密感を抱いていた。

 その赤ん坊が隠し持っている大きく口を開いた汚れきった毛穴の実在に………。

 僕は赤ん坊の顔を見続けた。

 やがて赤ん坊は泣きやみ、掌を返したように笑い出した。

 その時だ。

 ちょうどその時、不意に僕の中にひとつの確信が芽生えた。

 (何処かで僕は、この赤ん坊の顔を見たことがある。何処だったか想い出せないが、どこかで………)

 体が震えた。

 効きすぎた車内の冷房のせいばかりでなく………。

 そして列車は、丹那トンネルを出て、再び夏の太陽の支配下に僕を放り込ん

だ。


                      【49】

                    『闇の中の邂逅』

                       内部

                    《由加里の時間》


 私は、想い出している。

 あの日、あの人がこの喫茶店のこの席で、私に言ってくれた言葉を………。

「この灰皿の世界は、ユートピアか? 廃墟か?」ってあの人は言った。

 私は、吸い殻が山のように溜まった灰皿を見つめて、

「どう見ても廃墟にしか見えないわ」

 と答えた。

 そしたらあの人、ムキになってこう言ったわ。

「どうしてさ、絶対ユートピアだよ。僕がタバコに火をつけて灰皿でもみ消すまでの間、僕はタバコを吸いながら、君に話しかけ、君を見つめ、君のことだけを考えていたんだぜ。言うなれば、僕の中の君の集大成がこの灰皿の世界なんだ。絶対ユートピアさ」

 そう言い切ってしまうとあの人ったら、我に帰ったのか急に顔を赤くして………。

 もし、一緒に今日鎌倉のこの店に来ていたなら、あの人は今でもこの灰皿の世界をユートピアだと言ってくれたかしら………。

 私には、あの人と共に生きること以外には、もうユートピアは無いというのに…………。


                      【50】


 7つ目の目覚まし時計と重なる時期に、事あるごとに僕の潜在意識から浮上しては、僕に襲いかかって来た1つの記憶………。

 ♂(私)は、凄まじい洪水のような流れに巻き込まれて、気を失ってしまったのだろう。

 再び意識を取り戻して泳ぎ始めたとき、周りは真っ暗で、♂♀たちの姿は見当たらなかった。

 ………しかし気配は、そこかしこでしていた。

 ♂(私)は、この先がどうなっているのかも、どこに辿り着くのかも知らずに、だだ泳ぎ続けた。

 そして♂(私)は、1つの夢を想い出していた。

 その夢が、洪水の前に見たものか、洪水後の気絶の中で見たものか忘れてしまっていたが………。

 ♂(私)は、泳ぐという単調な行為、しかし肉体の全ての筋力を行使しなければ成し遂げられない苦役を続行してゆく上で、精神の空白を満たすために、その夢を話して聞かせよう。

     ーーーーーーーーーーーー◇ーーーーーーーーーーーー

 ♂(私)は、広大などこまで行っても果てを知らないだろう砂漠に、一人で蹲っていました。

 太陽が昇り、容赦なく♂(私)を照りつけ、夕焼けが遠い日の面影を届け、闇がすべてを包み込んで、再び太陽が昇っても、♂(私)はずっと蹲ったままでした。

 そして、3度目の太陽が昇ったとき、地平線に、点のような影が現れたのです。

 それは、見る間にひとつながりの蛇行線を描いて♂(私)に近づいてきました。

 やがてそれが、♂♀たちの行列であることがわかりました。

 列の先頭を歩いてくる♂1の顔は、どこかで見たことのある顔でした。

 その次の♂2も、その次の♀1も………。

 先頭の♂1が、♂(私)の前で立ち止まったとき、その行列の流れはずっと蛇行しながら、砂漠の地平線まで続いていました。

 いや、ひょっとしたら、この砂漠の果ての海の中から続いていたのかもしれません。

 先頭の♂1は、今までどこに隠し持っていたのか、突然太くて長い鞭を手に握り締めると、蹲っている♂(私)の背中めがけて、それを振り降ろしました。

 ♂(私)は痛みの中で、今の一撃で鮮やかに刻みつけられただろう背中のミミズ腫れを目蓋の裏に見つめていました。

 ♂1は、もう一度、私の背中に鞭の一撃を与えながら、大声で叫びました。

「立て! 立って歩くんだ、もたもたするな! こんなところでへこたれてみろ、俺たちは許さないぞ………絶対に! 俺たちから、この光の世界を奪っておいて、明日という未来をすべて独り占めにしておいて、もう歩けないなんて言わせないぞ! もう暖かい闇に帰りたいなんて言わせないぞ! 早く立て! 立って歩け!歩けっ!」

 先頭の♂1の目から、一粒の涙がこぼれ落ちました。

 しかし、それは熱い砂の上に届くや否や、たちまち渇いてしまいました。

 次に、2番目のやっぱりどこかで見たことのある顔の♂2の鞭が、♂(私)の背中で炸裂しました。

 ♂(私)への非難の叫びと共に………。

 3番目のどこかで見たことのある顔の♀1も、♂(私)の背中に、一本のミミズ腫れと罵声を残して………。

 ♂(私)は、痛みの中で想いました。

 地平線の果てまで続く、どこかで見たことのある顔を持つ♂♀たち(そして、今初めて気づいたのだが、皆似た顔をしているのだ)の炸裂する鞭の痛みに、その何百万という、いや何億というミミズ腫れの集積に、♂(私)は耐えてゆかなければならないのだろうか?

 そこまで思考がいったとき、4番目の♂3の………。

     ーーーーーーーーーーーー◇ーーーーーーーーーーーー

 そこで♂(私)は、泳いでいる♂(私)の足が何か異物を蹴った気がして、その物体に触れてみた。

 ………それは、死体だった。

 ♂(私)は、また泳ぎ始めた。死体にかまってはいられなかった。

 ♂(私)自身が生きてゆくためだった。

 ………その辺から、死体の量が徐々に増えていくようだった。

 いつの間にか死体と死体がもつれ合った上を泳いでいるという状態になってきた。

 すぐ近くから声が、救いを求める声が聞こえてきた。

「おい、俺も連れてってくれ………こんなところで死にたくない、頼むから俺の腕を………」

 声の主の伸ばした腕が、♂(私)の足を掴んだ。

 ♂(私)は、瞬間的に足を大きく蹴り、救いを求める腕を突き放していた。

 ♂(私)は、とにかく泳ぎ続けた。

 何かに引きつけられるように………。

 後ろで、叫び声が小さくなっていった。

 さらに死体の上を泳ぎ続けていくと、前方にひしめき合っている♂♀たちの群れが、そこだけほのかな光に包まれて見えてきた。

 群集の中のひとりが言った。

「よし、みんな1列に並んでくれ………これからは、すべて運命に任せる。俺の合図で一斉に、あの光の壁に向かって泳ぎ出すんだ」

 ♂(私)は、前方の光の壁に見とれていた。次第に、♂(私)の中に1つの確信が芽生えてきた。

《♂(私)は今、確かに光の壁のささやきを耳にした。光の壁が、♂(私)を呼んでいる。♂(私)は、光の壁に選ばれたのだ!》

 それから♂(私)は、夢遊病者のように、光の壁に向かって導かれるように泳いでいった。

 途中、1列に並んで、泳ぎ出す合図を待っている♂♀たちの間を通り抜けたことにも気づかずに………。

 ♂♀たちは、呆然と、合図もないのに光の壁に近づいてゆく♂(私)を見ていた。

 そして、1列に並んだ♂♀たちと光の壁のちょうど中間に♂(私)が泳ぎ着いたとき、♂♀たちの中から叫び声が上がった。

「呪ってやる………お前の…」

 叫び声が、そこまで聞こえてきたとき、もの凄い吸引力で引っ張られ、私の体は回転しながら光の壁に衝突した。

 その瞬間、ほのかな光に包まれ、1列に並んでいる♂♀たちの怒りの表情が、♂(私)の目の中に飛び込んできた。

 ♂(私)は、驚愕に打ち震えた。

《あの夢だ! 砂漠の果てまで続く、鞭を手にした者たちの行列、その誰もが顔にはりつけていた表情、それと同等の怒りだ! 》

 ♂(私)の体は、ズルズルと光の壁の内側に吸い込まれていった。


                      【51】

                    『闇の中の邂逅』

                     1976年7月31日

                     《駅前にて》


 [故郷の町]の駅について列車を降りると、冷房で冷たいくらいになっていた素肌に、ねっとりと蒸し暑い空気が絡み付いてきた。

 改札を抜ける頃には汗が滲んで、足どりは重くなっていた。

 しかし僕の心を捉えていた[鬱陶しいほどの気怠さ]が、夏の暑さによって醸し出されたものでないことを、僕は今までの[帰郷]の経験で知っていた。

 [ヨコハマ]へ行ってからの1年半の間に僕は、だいたい3ヶ月に1度の割で[故郷の町]に[帰って]来ていたが、1回目より2回目の方が、2回目より3回目の方がこの駅前に立った時に僕を襲う[鬱陶しいほどの気怠さ]の度合いは増していった。

 だから今回この駅前に立っている僕の中の[鬱陶しいほどの気怠さ]は、今まで経験した以上に大きいものだった。

 僕は、両足に力を入れて踏ん張り、大きく1回深呼吸をしてこの町と対峙した。

 今、儀式が行われているのだ。

 [この町の空気]は、用心深く抜け目がない。いつも目を皿のようにして[不純な空気]の侵入を監視している。そして一旦[不純な空気]を察知すると[不純な]部分の空気をすべて吐き出させ、100パーセント[この町の空気]にしてしまうのだ。その空気の入れ替えの時に起こる摩擦が[鬱陶しいほどの気怠さ]なのだ。

 もちろん[不純な空気]とは[他の町の空気]のことでは無い。なぜなら伊豆5号に乗ってやってきた温泉客(100パーセント[他の町の空気])の誰もが、さっき溢れんばかりの開放感と健康的な足取りで、[鬱陶しいほどの気怠さ]に耐えて立ち尽くしている僕の横を通り過ぎて行ったのだから………。

 僕の言っている[不純な空気]とは、こういうことだ。

 生まれてから18年間100パーセント[この町の空気]の支配下で暮らしてきて、今の生活は[他の町の空気]の中にある。

 そういう人間が、3ヶ月に1度この町に帰ってくることになると、[他の町の空気]が少しずつ軀に蓄積されてゆく。18年間で染み付いた[この町の空気]に比べれば、この蓄積されてゆく[他の町の空気]の量は微少なものだけれども確実に増えてゆく。

 この混合された空気のことだ。

 最初の3ヶ月では1000対1だった[この町の空気]と[他の町の空気]の割合が、次の3ヶ月では500対1になっているかもしれない。

 19歳の人間にとって、生活の場として初めて触れる「他の町の空気]は、ひどく刺激的でかつ啓蒙的であるだろうから………。

 僕の中に[他の町の空気]が蓄積され始めてから1年半たった今、僕は、儀式が終わるのを待っていた。

 今までの[帰郷]において徐々に時間は長くなったが、この[鬱陶しいほどの気怠さ]には必ず終わりがあった。[この町の空気]が最後には[他の町の空気]を追い出してしまうことによって………。

 しかし今日は、いくら待っても[鬱陶しいほどの気怠さ]は消えていかない。

 照りつける夏の太陽がそれを助長する。

 額から吹き出した汗が頬を伝って顎にたまり、その重さに耐え切れなくなって地面に落ちてゆく。

 その汗の雫は、アスファルトの表面を一瞬黒く濡らしたかと思うと、たちまち熱で蒸発してしまう。

 あとには何も残らない。

 僕は、汗の雫が落ちた地点を見つめた。

 (汗の雫はいったい何処へ行ったのだろう。それは空へ[行った]のか、それとも空へ[帰った]のか)

 僕は、列車の中でとらわれた疑問を想い出した。

 (列車に揺られながら[この町]へ[帰ろう]としているのか、[行こう]としているのか疑問にとらわれた。その発端は、心のどこかで[ヨコハマ]に対しても[帰る]という意識を持っていることに気づいたからだ。そして[この町]と[ヨコハマ]のどちらに帰属しているのか分からなくなってしまったからだ。ということは、僕の中で[この町の空気]と[ヨコハマ(他の町)の空気]の割合が1対1になっているということじゃないだろうか? 今まで[この町の空気]の方が充分多かったから[この町]に[帰る]という意識があったのだろうし、[鬱陶しいほどの気怠さ]もやがては消えていったのだ。それではこれからの[この町]にいる時間、ずっとこの[鬱陶しいほどの気怠さ]に包まれ続けるのか?)

 僕は、汗の雫が落ちた地点を蹴っ飛ばし、[鬱陶しいほどの気怠さ]を引きずって歩き出した。


                       【52】

                     『闇の中の邂逅』

                      1976年8月1日

                       《昼》


 時計を目の前まで引き寄せてみると、時刻は午前11時18分だった。

 頭の芯の方にまだ痛みは残っていたがだいぶ楽になっていた。口の中がねばついていて気持ちが悪い。

 しかし肉体的な不快感よりも、心の寝覚めがひどく悪い。何か引っかかるものがある。

 何だろう?

 昨夜の記憶の薄れた部分の時間の中にその原因があるのか?

 手の甲に痛みが走った。右手を顔の前に引き寄せると苦もなくできるので僕は想わず苦笑した。4時間強の睡眠が僕を多少でも人間らしさに近づけてくれたのだ。手の甲には、やはり瘡蓋ができていた。

 何か硬いものを殴ったのか?

 記憶にない。

 薄ぼんやりと、ラジオ体操の音で目覚める前に見ていた夢を想い出した。

濁流の上を歩くランドセルを背負った雨カッパの少女の後ろ姿。少女の顔まで想い出せなかったが………、いや果たして夢の中で少女の顔が出てきたのかさえ想い出せなかったが、振り返る少女の顔を今、僕は見つめることができる。

 笑顔………

 丹那トンネルの中で見た窓の中の赤ん坊の笑顔、そして故郷の家の仏壇の中で屈託なく笑っている黄ばんだ写真の中の幼女の笑顔。

 僕が、(どこかで見たことがある)と確信した丹那トンネルの赤ん坊の笑顔は、7歳にして狩野川台風で死んだ姉の赤ん坊の頃の笑顔だったのだ。

 仏壇には、2枚の姉の写真が奥の方に置かれている。

 台風の2週間前に行った小学校の秋の遠足の時に撮ったものらしい写真。その写真の姉は大きな石の上に座って、おむすびを右手に持ち、隣にいる友達に笑顔で話しかけている。

 そしてもう1枚は、春の陽だまりのような縁側でハイハイをしながら、満面に笑みを讃えカメラの方を向いている写真………。

 丹那トンネルの闇で、僕は姉と再会した。

 しかし姉が死んだのは、僕が2歳の時で、何1つ姉についての記憶なんかない。

 後からいろいろな人から聞いた話で、あたかもその場で見たように作り出した光景はあるけれども…………。

 『母の背中に2歳のボクが背負われている。台風の夜………。姉は、僕から10メートルほど離れて堤防を歩いている………。』

 丹那トンネルという存在は、いったい僕にとって何なのだろう?

 今回を別にすれば、丹那トンネルは今までいつも[故郷への入り口]としてあった。

 今回、そこの闇で姉が僕を待っていた。

 僕と姉が共有する闇………。それは、母の子宮以外にはない。

 そう考えていくと、丹那トンネルとは僕にとって[母の温かい闇への入り口]だと言えないだろうか?

 いや[母の温かい闇への入り口]だったのかもしでない。少なくともこう呼べたのは[この町の空気]が[他の町の空気]より優勢を保っていた時のことだろう。今も僕の中で[空気]は[不純な]まま摩擦を続けている。

 それならば今の丹那トンネルは、いったい?

 ドン、ドドドーン。

 音だけの花火が上がった。今日は、この町の夏祭りだ。

 午後から商店街が歩行者天国になり、出店が並ぶ。その開始を知らせるための花火だろう。歩行者天国はO橋まで続き、夜になるとO橋の下の川原で打ち上げ花火が行われる。

 そのきらびやかな花火の下で、川面にか細い灯りを点したいくつもの灯籠が漂う。

 姉の魂を呼ぶ灯りもその中に入ることだろう。

(もう1度、夜の闇で姉と会えるかもしれない)

 と、僕は想った。


                       【53】

                     『闇の中の邂逅』

                      1976年7月31日

                    《『ビリーバー』にて》


 マキトの追悼会が終わって、中澤と2人でスナック『ビリーバー』のカウンターに座っていた。

 追悼会の方は、時間が経つに従って死者の話題もなくなり、結局、中学時代の同窓会のような形になって、出席したそれぞれの人間の今の生活についての意見交換や、昔の取るに足らない想い出話に終始してしまった。

「奴が、奈子に惚れていたのは知っているだろう」

 と、中澤がウイスキーの水割りにちょっと口をつけて言った。

「ああ、知ってるよ。でも奈子は、すべての男子生徒のマドンナみたいな存在だったから別に不思議は無いじゃないか。お前だって奈子の尻ばかり追っかけてた口だろう」

 探るような目で僕は、中澤の表情を見た。別に中澤の表情は変わらない。

「でも奴は違うんだ。高校の時はもちろんだけど、仕事について仙台に行ってからも、奈子にラブレターを書き続けたんだぜ、奈子から返事が来ないのわかってるのにさ」

「ご執心なことだな」

 僕は、この町に着いてから、何度、電話してもアパートにいない由加里のことをちらっと考えた。

 中澤が、隣で話を続けた。

「それで面白いことに、最後のラブレターが奴の葬式の日の朝、奈子の家に届いたんだよ、死ぬ前の日の消印でな。奈子は、初めて奴のラブレターの封を開けた。それまでの奴が書き送ったラブレターは、全部読まれもせずゴミ箱に捨てられていたのさ、………聞いてるのか」

「聞いてるよ。何て書いてあったんだ、その最後のラブレターには」

 中澤はちょっと水割りで口を浸してから勿体つけて言った。

「それは、わからない。奈子だけが知っている」

「なんだよ、透かすなよ」

「いや話はこれからなんだよ。最後のラブレターの内容はわからない。でもそれが、奈子に動揺をもたらしたことだけは確かなんだ。葬式の日、つまり最後のラブレターを読んだ日、奈子は顔色を変えて奴の家に来ると、ヤツの写真の前に座ってわんわん泣きだした。俺たちみんな呆然としちゃったね、だって奈子は奴のことを嫌っていたし、ラブレターを迷惑がってもいたんだから………。そのうち、あんまり奈子が泣くものだから、奴のお袋さんが奈子の肩を抱いて慰める始末さ。そしてその時、奴のお袋さんの声が聞こえたんだよ。『あなたのせいじゃないんですよ。あの子の寿命だったんだから泣かないでね、あなたのせいじゃないんだから』って」

「最後のラブレターに、死についての予感みたいなものが綴られていたかどうかはわからないにしても、とにかくマキトは、死ぬことによって初めて奈子の心を自分に向けさせることができたってことだな」

「よ、さすがシナリオライターの卵だな」

「茶化すなよ、中澤。でも自殺じゃないんだろう、マキトの死がさ」

「あ、それはない! 完璧な肥満による心臓圧迫さ」

 そう言いながら、中澤は席を立ってトイレに行った。

 僕は、店の出入口のところにあるピンク電話に向かった。

(いったい由加里に何があったというのだろう?)

 呼び出し音を聞きながら、由加里のアパートの部屋で今鳴り続けている電話機を想像した。

 蛍光灯の明かりを反射して黒光りする電話機。………20回鳴った。

 由加里は出ない。

 電話機を見つめて思案している由加里を想像してみた。………35回鳴った。

 諦めて受話器を下ろした。ガチャガチャと数枚の10円玉が落ちる音がした。

 由加里の部屋が闇に閉ざされ、その闇の中ですでに音を発しなくなった漆黒の電話機が蹲っている。不安が心を駆け抜ける。

「ラブコールか?」

 中澤がカウンターに戻って、笑いながらこっちを見ていた。僕は10円玉をポケットに戻し、席に向かった。

「女は、わからんな」

 椅子に腰掛けて、僕は言った。

「奈子のことか?」

「う、うん、まぁな。それより中澤、お前こんな話聞いたことないか? 狩野川台風があっただろう。2歳の頃だから覚えてるわけないだろうけど、あの時、川に流されて死んだ人間で死体の上がらなかった連中が、どこへ行ったかって話」

 中澤は、狩野川台風という言葉を初めて聞いたようなキョトンとした目で僕を見返した。

「何だよ、それ?」

「いや、ちょっと夏休みの宿題でな、シナリオを書かなくちゃならないんだ」

 僕は、出まかせにそう言って、話を続けた。

「その行方不明の人間がどこへ行ったかと言うと、魚の軀の中」

「え、嘘だろ、そんな話。魚が人間を食うわけないじゃないか。誰から聞いたんだよ」

「小学校の時、マキトが言ったんだ。お袋がそう言ってたって。マキトのことを考えると、すぐその時の奴の真剣な表情が目に浮かぶんだよ。僕だって信じられないけどな」

 僕は、姉が狩野川台風で流され、結局、死体が見つからなかったという話はしなかった。

 しかし中澤の方からそのことに触れてきた。

「あれ、そういえばお前んとこ、姉貴が狩野川台風で流されて死んだんじゃなかったっけ?」

 僕は、グラスの水割りを半分ほど一気に喉に流し込んだ。

 今日の昼間、丹那トンネルで見た赤ん坊の顔が、実家の仏壇に置かれた姉の赤ん坊の時の写真のそれと同じだったことが想い出された。

 そして今も軀の中にある[鬱陶しいほどの気怠さ]に最初、駅前で襲われた時のことや、何度電話しても出ない由加里のことなどが、一挙に心の中に、不安やら苛立ちとして攻めかけ、悪酔いの兆しが見え始めてきた。

「姉貴か? 7歳にして、この世を去ったよ。病気でも、自殺でも、交通事故でもなく………生贄として」

「いけにえ?」

 中澤は、驚いて言った。

 僕は、水割りの残りの半分を飲み干した。

「あー、そうさ。人間たちは、自分の想い通りに自然を改造できると想っていたのさ。それで川の流れを自分たちの利益のために変えた。自然は、あるがままにあるべきなんだよ。それが自然の摂理ってもんさ。結局、人間の力なんて微小なものだったのが、あの日わかったってことさ。川は、まるで人間をあざ笑うかのように、流れたいように流れたんだからな。あんなに多くの生贄を出さなければ気づきもしないんだ、人間て奴は………」

「うん、お前の言いたいことはわかるけど、それをどうシナリオにするんだ?」

 僕は、シナリオのことなんて全然考えていなかったが、湧き上がってくる何かよくわからないが暴力的なものに突き動かされてしゃべり始めた。

「お前みたいに、生まれてこの方、この町から出たことのない奴にどう説明していいのかわからないけど、今日[ヨコハマ]から列車で着いて駅前に立ったら、急に[気怠い]気分になっちゃったんだよ。僕はその時[この町の空気]が、今住んでいる[ヨコハマの空気]を、僕の中から追い出そうとしているんだと想った。抽象的な言い方で悪いけど、こういう風にしか表現できないんだ。今までも[この町]に[帰って]来た時に[鬱陶しいほどの気怠さ]は僕を襲っていたんだけど、いつもは、暫くすると直った。でも今日の場合はダメなんだよ。今も[鬱陶しいほどの気怠さ]が、僕の中で騒いでいるんだ。いつもは収まるのに、なぜ今日だけ続いているのかって僕は考えた。そして初めはこう結論したんだ。ヨコハマの生活の比重が大きくなって、18年間暮らした[この町の空気]と[ヨコハマの空気]が、僕の中で1対1の割合になったために、両方の空気が、結局どちらも譲らずに摩擦が続いているっていう風に………。でも今は、別の理由もあるような気がするんだ。中澤、こんな話つまらないと想うけど聞いてくれ。なんかこう、喋ってしまわないと何処へも行き場がなくなってしまうような気がするんだ。さっき何故、僕が狩野川台風のことを持ち出したかって言うと、シナリオのためなんかじゃないんだ。ではなぜか?順を追って言うと、今日、丹那トンネルの中を列車が走っている時、近くの席で赤ん坊が泣いたんだ。僕は、その赤ん坊を観察した。あんまりジロジロ見るものだから、赤ん坊の母親は怪訝な目で僕を睨み返してきた。僕は、窓の外へ目を向けた。そしたら、そこにちゃんとその赤ん坊がいるのさ。トンネルの中で車内が明るいから、窓が鏡の役目をしてたんだ。それから再び、赤ん坊を観察し始めた。観察を続けていると同じ赤ん坊なのに、直接見ていた赤ん坊とどこか根本的に違うような気がしてきたんだ。それから車内の電灯が消えて、ちょっとした幻覚みたいなのがあったんだけど、再び電灯がついて、観察を続けようとすると、赤ん坊は手のひらを返したように、満面に笑みを讃えて笑い始めたんだ。その時さ、赤ん坊のその笑顔を見た時、僕は1つのことを確信したんだ。『僕は、かつてどこかでこの笑顔を見たことがある!』って。その笑顔は、実家の仏壇の中にあったよ。写真に写っている姉貴の赤ん坊の時の笑顔だったんだ。それがわかった時、僕は、今日に限って[鬱陶しいほどの気怠さ]が抜けないのは、姉貴のこの赤ん坊の時の笑顔に関係しているんじゃないかと想った。その時は、ただ漠然とそう想っただけで、マキトの追悼会でみんなと会いながらも、心の片隅にずっとそのことが引っかかっていたんだけど、それが今、わかったような気がするんだ。つまりこうさ。さっきお前が話した、マキトが死ぬ前の日に出した最後のラブレターの事だけど、結局、マキトが次の日に死んでいなければ、最後のラブレターは最後ではなく、今回も奈子には読まれずに、ゴミ箱に捨てられていただろうことは確かだと想うんだ。でも、実際には死んだ。そしてそのラブレターは最後のラブレターになり、今まで嫌ってさえいた奈子は、マキトのために涙まで流した。死という名の人間の不在とは、いったい何だろう? 奈子は、マキトの不在に対して何であんなにまで恐怖したんだろう? マキトは、奈子を恨んで自殺したわけじゃないんだぜ。多分、マキトのことじゃ、最後のラブレターだってときめく胸の内を書き連ねていたに違いないよ。奈子は、再び口を開くことのない死者に対してではなく、そしてこちらが語りかけても永遠に耳を貸そうともしない死者に対してでもなく、ただ自分自身の中に閉じ込められ、鍵を下された[過去完了的]死者の想い出に対して、恐怖しているんじゃないだろうか? これから先ずっと奈子は、マキトを嫌い続け、迷惑がっていた自分の中の1つの顔を忘れることができないんだ。姉貴の[死]は生贄だったけど、親にとっては全然違うんだ。7歳の子供を死なせてしまった自分たちの不注意を棚に上げて、あれは人災だったと世間を恨んでもしょうがないものな。姉貴を失い、はじめのうちは姉貴の[過去完了的]想い出を否定したくて、親父は、川に流された姉貴の死体が上がらないのを逆手にとって、いつひょっこり帰ってくるかもわからない7歳の娘を待ち続けたけど、それが徒労である事は時間が解決するものさ。そんなに長い間、自分を偽って暮らしてはいけないものな。やがて[過去完了的]想い出を受け入れるしかない時が来た。そしてその時、親父とお袋の前には僕がいたんだ。姉貴の[過去完了的]想い出の恐怖から逃れるために、僕を利用したのさ。まず、姉貴の[過去完了的]想い出の扉をこじ開け、[現在進行的][生]である僕を放り込んだんだ。姉貴の切断された[生]のレールに僕の[生]のレールを溶接したってことだよ。僕は、自分でも気づかないうちに姉貴の[生]を生かされて来たんだ。だから話は戻るけど、今日、丹那トンネルで見た赤ん坊の笑顔は、言ってみれば僕の幼児期の笑顔だとも言えるわけさ。そう考えてくると丹那トンネルはやっぱり僕にとって[故郷への入り口]って言えるかもしれない。ヨコハマを出た時は20歳で、丹那トンネルに差し掛かった時には幼児期まで遡り、この町に着いた時、僕は[胎児]になっている。この町は、母の子宮なんじゃないだろうか? 母親から与えられる養分だけを吸収して、ひっそりと闇の中で蹲る[胎児]だよ。僕は、この町にいると自分がなくなるような気がしてしょうがない。18年間僕は、[胎児]以外の[生]の方法を知らなかったから[胎児]でいて何の違和感もなかったけど、今は違うんだ。だからこの町にいて自分がなくなってゆくという危機感が[鬱陶しいほどの気怠さ]を僕の中に植えつけているんだと今の僕は想うのさ」

 僕は、何かに憑かれたようにそこまで一気にしゃべると、ボトルからグラスに半分ほどウイスキーを入れ、残っていた氷でかき混ぜるとひと口でそれを飲み干した。

 中澤は、そんな僕を見て肩をすくめると言った。

「俺には、さっぱりわからないね、お前が狂っているってこと以外は………なんでそんなに難しく考えるんだよ」

 僕は、軀の中で急に暴れ回り始めた酔いのために、カウンターに両腕を投げ出し、その上に頭を乗せた。隣で中澤が言っている言葉が、グワ〜ン、グワ〜ンと響くだけで、意味のあるものとして伝わってこない。

「おい起きろよ! グワ〜ン、グワ〜ン さっき、の・で・ん・わ、グワ〜ン・グワ〜ン ヨコ・ハ・マ……グワ〜ン」


                       【54】

                     『闇の中の邂逅』

                      1976年8月1日

                      《夕暮れ》


 西側にある窓の外には、夕焼けが広がり、その反映で部屋はオレンジ色に染め上げられていた。

 僕は、蛍光灯も点けず、机の上の原稿用紙に向かっていた。鉛筆を手に握り締めて1時間余りになろうとしていたが、まだ1行も書けていなかった。

 葬式の日に着いたマキトのラブレターの1件が、ちょっと面白いのでそこから話を広げていこうと思ったが、どうもそれに気持ちが集中できない。

 由加里は、昼過ぎに電話してもアパートにいなかった。

 そのことも心に引っかかっているには違いないが、昨夜、憑かれたように中澤に喋りまくったことは覚えているが、何を喋ったのか、その内容は忘れてしまっていた。その中に引っ掛かりがあるような気もする。

 部屋は、静かに、しかし確実に闇に近づいてゆく。

 茶の間で電話機のベルが鳴り出した。

 暫くすると、お袋が僕の名前を呼んだ。

 受話器を握ると、こちらが「もしもし」と言う前に、中澤が喋り出した。

「野々瀬か? どうしたんだよ、お前、昨日はカウンターに潰れちゃって、ユカリ、ユカリってひとりごと言っているかと想ったら、突然店を出て、どっか行っちまうしさ。ユカリってお前の彼女なのか? 店でかけてた電話、そのユカリって子だろう? あの電話の後、お前変なこと喋り出したからな」

「変なこと喋ったって、どんなことさ」

「えっ、忘れちまったのかお前、狩野川台風で死んだお前の姉さんの事から始まって、死だとか、気怠さだとか、この町の空気だとか、過去完了的想い出だとか、丹那トンネルで見た赤ん坊がどうのこうので、この町の中でお前は胎児なんだとか、まくし立てたじゃないか。俺も酔ってたから、筋を追って話せるほど覚えてないけど、とにかく変だったよ、お前」

「全然覚えてないよ」

「やれやれ。俺、ちょっと気になることがあるんだけど、言っていいかな?」

「何だよ、いったい?」

「昨夜、いろいろとお前の話聞いたけど、何か全体の半分しか聞いていないような気がするんだ。あとの半分を聞けば、1つの像がくっきりとしてくるんじゃないかって。そして、その半分とは何かって考えたんだ。昨夜、確かお前はこう言ったよ。『ヨコハマの生活の比重が大きくなって、18年間暮らした[この町の空気]と[ヨコハマの空気]が1対1になった』って。それにもかかわらず、お前は昨夜、1つもヨコハマの話をしなかった。本当のところ、今、お前の心の中で一番大きな位置を占めているのは、ヨコハマの生活の中にいるユカリって存在じゃないのか?」

 僕は、黙って聞いていた。

 中澤は、少し間をあけて続けた。

「後で一緒に花火を見に行こう。そして、後の半分の話を聞かせてくれよ、な。じゃあ、8時にO橋で………」

 そう言うと返事を待たずに、中澤は、電話を切った。

 僕は取り残され、左手に持った受話器を見つめた。

 由加里のアパートにもう1度電話しようかと想ったが、やめることにした。

(明日には[ヨコハマ]へ[帰ろう])

 と想った。


                      【55】


 『俺は、今生まれたんだ』の〔光の章〕の最後は、こんな文章で結ばれている。

 バーディは言う。

【俺は、今こそ、神からチャンスを与えられたんだ。自分の弱さから、周りを巻き込んで、こんなことになってしまったが、同じ過ちを繰り返さず、手持ちのカードはお手上げ状態でも、その与えられた環境の中で、最善を尽くしていくことをここに誓う。人を羨むことなく、与えられたもの全てに感謝して生きていこう。アリスと共に………。そう、スウィート・パイを頬ばりながらね。】


                       【56】

                     『闇の中の邂逅』

                        内部

                     《由加里の時間》


 私は、待っている。

 海の水平線に陽が沈み、夕焼けた空………。

 その後にやってくる一瞬の深い紺青の空を。

 それは、瞬き1つしただけで闇に呑み込まれてしまうだろう。

 だから用心深く、私は空の表情を見張っている。

 真夏の海水浴場も、この時間になると打ち寄せる波の音が直に耳にまで届くほど静まり返っている。

 …………そして、私の軀の中からも小さな音が聞こえてくるような気がする。

 私の鼓動の影に隠れてしまうほどの小さな小さな物音だけど………。

 その音が、私の中でし出したのは、いったい何時からだったのだろう。

 ずっと昔のような気もするし、ついこの間のような気もする。

 ひょっとしたら、夕焼けから夜の闇へと移行する空に、束の間広がる深い紺青の世界の存在を、初めて私が知った日からかもしれない。

 その日、あの人はここに立って私に言った。

「目を閉じてごらん」

 私は、素直に目を閉じて待ったわ。

 その時のあの人の声の響きには、有無を言わせない説得力があった。

 私は、あの人の肩に凭れ掛かるようにして、じっと待ったわ。

 あの人の鼓動が私の鼓動と1つになって聞こえ、波の音が優しくそれを包み込んでくれた。

 やがてあの人の声が、先程と同じ響きで聞こえてきた。

 「今だよ、目を開けて」

 私は、1つになった鼓動を感じ続けながら目を開け、眼前に広がる空を見たの。

 絵の具をどのように混ぜたらこんな色が出せるのか分からないような深い深い紺青の空………。

 それは、石をぶつけたら割れてしまいそうな、張り詰めた繊細さを持っている。

 そして、言葉にしようと想う先から闇に呑み込まれ、夜がここに舞い降りたわ。

 ………夜の中で、私にはすでに私の鼓動しか聞くことができなくなっていた。「みんな、夕焼けの空に自然の儀式の美しさを見ようとするけれど、僕は夜の闇が世界を覆いつくす寸前に見せる、あの深い紺青の空に接すると、計り知れない安らぎを覚えるんだ」

 今、あの人も私と同じように待っているだろうか。

 あの人が私に教えてくれた安らぎの時を。

 約束通りに今、あの人がここにいたなら、私は言えたかもしれない。

 私1人で耐えるにはあまりにも大きな出来事………。

 あの人が急用で故郷へ帰るために、約束が果たせなくなって駅まであの人を送って行った時、私は何も言えなかったわ。

 ただひたすら私の軀の中の音に耳を傾け続けた。

 あの人が列車に乗って、私とあの人をドアが隔てたとき、一瞬、私の軀の中の音が消え、恐怖が私を包み込んだの………。

 私は震え、涙が後から後から流れ出し、恐怖から少しでも逃れたくて叫んだわ。

「私を1人にしないで!」

 でも、すでに列車は動き出していて、あの人に聞こえるはずもなかったわね。

 それからどれだけの時間、そこに佇んでいたのか想い出せないけど、気がつくと私は電車に乗って、1人で約束の地へと向かっていたの。

 私は、待ち続けている。

 夕焼けは、だいぶ黒ずみ始めている。

 もうすぐ安らぎの時が来る。

 でも、あの束の間の深い紺青の空が過ぎ去った後、私は、長い夜の闇の中で、どれほどの恐怖に耐えてゆけばいいというのだろう。

 ………あの人に電話しようか。

「早く帰ってきて! そして私の鼓動にあなたの鼓動を重ねて………」

 私は、水平線に背を向け、歩き始める。

「あの人以外の安らぎは、私にはないんだわ」

 湾岸道路まで砂浜から3メートルほどの高さがあり、13段の階段がそれを繋いでいる。

 私は、後ろを振り返ることなく階段を上り始める。

 最後の1段に足をかけたとき、誰かが私を呼んだのかもしれない。

 私は何かの気配を感じ、振り返る。

 そこでは、私の視界いっぱいに深い紺青の空が翼を広げている。

 呆然と見上げている私に向かって、紺青の空全体が手を差しのべるように近づいてくるような気がする。

 まるで時が止まってしまったかのように深い紺青の空は、闇に覆われることなく長い間安らぎの色を保っている。

 その紺青の空の中心からあの人の顔が浮かび上がってくるような気がする。

 あの人の鼓動が、聞こえてくるような気がする。

 私は、手を差しのべる。

 確かな安息に近づきたいから………。

 私は、足を1歩踏み出す。

 あの人の顔、あの人の鼓動に向かって………。

 心は、1歩そこに近づく。

 肉体は、踏み外した足と共に………。


                       【57】

                     『闇の中の邂逅』

                      1976年8月1日

                       《夜》


 東海道線上り東京行きの鈍行が、三島駅を発車した。

 午後9時23分………。

 冷房の効いていない列車の中は、窓を開けていなければたまらないほどの蒸し暑さだ。

 天井の扇風機は、ただ周りの茹だるような空気をかき回しているだけで何の役にも立たない。

 (僕は、いったいこんなところで何をしているのだろう。今からヨコハマへ帰ったところで、着くのは夜中の11時過ぎだというのに………ましてや、その白いベッドに横たわる女までの距離は、果てしなく遠いというのに)

                       ☆

 午後8時10分前ーーー。

 僕は、O橋に8時に着くように家を出ようと、スニーカーを履き紐を結び始めた。

 その時、背中で電話機が鳴った。

 親父もお袋も花火見物に出かけてしまっていた。

 スニーカーを蹴るように脱いで、電話機の所まで行き、受話器を取り上げた。

「モシモシ、野々瀬さんのお宅でしょうか」

 低い女の声が言った。

「はい、そうですが………」

「野々瀬和人さんは、ご在宅でしょうか」

「はい、私ですが………」

「こちらは、神奈川県鎌倉市にあります神崎産婦人科医院ですけれども、外岡由加里さんて方ご存知でしょうか?」

 鎌倉・産婦人科・由加里、この3つが僕の中で1つの事象に結びつかない。

「モシモシ………」

 冷静な低い女の声が、こちらを伺うように言った。

「モシモシ、ご存知でしょうか」

「はい、知ってますけど、由加里が何か?」

「こちらに入院していらっしゃいます。昨日の午後8時過ぎに担ぎ込まれまして」

「担ぎ込まれたって、どういうことですか?」

 僕には何が何だか分からなかったが、恐怖の匂いだけは嗅ぎ付けていた。

「由比ヶ浜に倒れていたそうです。だいぶ出血がひどくて………リュウザンです」

 [リュウザン]という言葉が意味を持って僕の脳に伝わってこない。

「一時は、生命の危機もありましたが、今は平常に戻っています。外岡さんの方から、連絡先として野々瀬さんの電話番号を承ったものですから………」

 後は、その低い声の女が、どのような内容のことを喋ったのかわからないまま、僕の方は一言も喋れないまま、気がつくと向こうの受話器は降ろされていた。

 「プー、プー」と受話器の中で音がしていた。

 最初僕は、産婦人科と聞いて、[妊娠]という1つの恐怖を連想していたのだ。それを低い女の声が、冷静に[リュウザン]と言ったとき、[妊娠]とはまるっきりジャンルの違う医学用語を聞いたような錯覚から[リュウザン]という言葉の意味を読み取れなかったのかもしれない。

 [妊娠]があって[流産]がある。

 そういう順序で物事が把握できたとき、僕の手の力が一瞬緩んだのか、それとも手のひらに汗をかいていたのか、握っていた受話器が手のひらから滑り、床に向かって落ちていった。

 1メートルほどの高さのある机の上に電話機が置かれていたので、受話器は床から10センチあたりで宙ぶらりんになり、ブランコのように揺れ出した。電話機から伸びたコイル型コードと漆黒の受話器………。

 受話器は、まるでへその緒という名のコイル型コードから養分を吸い取る、子宮の羊水の中で軀を丸めた胎児のようだった。

 これは、まさしく[妊娠]を絵に描いた状態だ。

 それでは、由加里の身に起きた[流産]とはどういうことなのか?

 それは、受話器と床との10センチの距離がなくなることだ。

 受話器が、床に落ちるにはどんな方法があるのか?

 2つある。

 1つは、電話機(母胎)が何かの拍子に受話器の重さに耐え切れなくなり、コイル型コード(へその緒)を切り離す場合。

 そしてもう1つは、コイル型コードが誰かの手によって切られる場合。

 前者は[流産]で、後者が[堕胎]と呼べるだろう。

 結局、何かの力によって由加里の中に生まれた[宇宙]が消滅してしまったけれど、もし仮に[宇宙]の生命がここで途切れずに成長していったとき、僕はその由加里の中の[宇宙]を容認出来るだろうか?

 出刃包丁を片手に、自らの手でコイル型コードを切ろうとしないだろうか?

 僕は、心のどこかで胸を撫で下ろしているんじゃないのか?

                       ☆

 列車は函南駅に着き、誰1人降ろしも乗せもせず、再び動き出した。

 僕は、産婦人科医院からの電話の後、中澤との約束も忘れ、荷物をまとめて電車に飛び乗った。

 とにかく[故郷の町]にいたくなかった。

 電車がO駅を発車すると、窓から花火が夏の夜空を彩っているのが見えた。闇をバックにきらびやかに広がる花火を形作る、数千にものぼる発火された火薬たち………。

 その1つ1つが、死者たちの魂なのかもしれない、と想った。

 そしてそれらは、一瞬夜空に煌めき、次の瞬間には人々の心の中へと消えてゆく。

 再び、煌めく時を待ちながら………。

 昨日の昼に丹那トンネルで赤ん坊の笑顔を見てからの現在までの30時間余りは、言ってみれば、花火が夏の夜空を飾っている一瞬に相当したのかもしれない。

 姉の魂という名の花火………。

 死者としての姉を間に置くことによって、僕は[故郷の町]と対峙し、いろいろ考えさせられた。

 そして1つの決意を持って、今、昨日とは方向は逆であるが、再び丹那トンネルに差しかかろうとしている。

 由加里の中で1つの[死]が経験され、永遠に消えることのない傷が由加里の闇に残されていることだろう。そんな僕には測り知ることの出来ない傷を持った女が、この丹那トンネルの闇の向こうで僕を待っている。

 今、僕の中にあるのは恐怖だけだ。得体の知れない恐怖だけだ。

 [故郷の町]と[ヨコハマ]を結ぶ丹那トンネル。

 それの持つ意味が変わったことを、今僕ははっきりと認めなければならない。

 [母の温かい闇への入り口]としての丹那トンネルから[女の恐怖にも似た闇への入り口]としての丹那トンネルへ………。

 僕は、背筋を伸ばして座り直した。

 [ヨコハマ]は[帰る]場所なんかじゃない。

 [出征]していく戦場なんだ。

 僕はじっと窓を見つめた。

 そこに写っている兵士の引きつった顔を見つめ続けた。

 列車は、吸い込まれるように丹那トンネルへと入っていった。


                       【58】


 最後にもう一度だけ、7つ目の目覚し時計について触れる。

 7つ目の目覚まし時計に関して言えば、1974年の秋から1980年の暮れまで6年間、僕の机の上で時を刻み続けた訳であるが、僕にとっての7つ目の目覚まし時計の季節は、1976年と共に終りを告げたと言える。

 その理由は、こう言うことだ。

 『あの頃』と言っただけで、同じ時代を見つめられる友がいる。

 それと同じように、僕と7つ目の目覚まし時計が、『あの頃』と言って見つめられる時代は、1977年以降にはなく、それ以前の時の流れの中にあるということだ。

 しかし7つ目の目覚まし時計が、静かに永遠の眠りについた日のことは、『あの頃』を共に生きた者として語っておかなければならないだろう。

                  ☆          ☆

 1980年12月9日、昼過ぎに目覚めると、ベッドの中から腕だけを伸ばしてラジオのスイッチをオンにした。

 ジョン・レノンが『スターティング・オーヴァー』を歌っていた。

 それを聴きながらその日の行動予定を組み立てた。

 まず本屋に行って午後3時から8時までアルバイト、それからコインランドリーへ洗濯に行って…………。

 退屈な1日になりそうだった。

 ジョンの歌声が消えた。

 続いてDJが、興奮しきった声で言った。

「ニューヨーク時間の8日、午後10時50分、ジョン・レノンが射殺されました」

 僕は布団をはねのけ、ラジオのボリュームを上げた。

「生前、ジョンが言っていた言葉、『いつも動き回って、いつも服を変えてゆく、.これがベストだ。すべては〈変化・チェンジ〉だ』……………もう変わることのできない姿になってしまったジョンの冥福を祈ります」

 それから僕は、何気なく7つ目の目覚まし時計を見た。

 午前2時7分を指して止まっていた。

 僕が買い置きの電池を、机の引き出しの奥から見つけ出すまでにジョンは、『イマジン』をフルコーラス歌い終わっていた。

 DJが、ジョンの生前の功績をペラペラと並べ立てる中、7つ目の目覚まし時計の電池を取り替えた。

 しかし秒針は、1秒たりとも動かなかった。

 僕は、その日の予定を変えて、アルバイトを休み、3軒の時計屋の扉を開けた。

 しかし3軒とも結果は同じだった。

 最初の2軒では、「ダメダメ、もう直らないよ、これ!」とあっさり言われ、おまけに新しい奴を押し付けられそうになった。

 3軒目もこの調子だったなら僕は、意地でも4軒目を探したと思う。

 しかし、3軒目の店主は、こう言ったのだ。

「お客さん、よくこれだけ使ったね。ここまでくるともう直せないけど、この時計は幸せだよ。天寿を全うしたって言うのかね、時計冥利に尽きるってもんだ。私も嬉しいよ」

 アパートに帰ると僕は、7つ目の目覚まし時計を元あった場所に置いた。

 それから、2時7分を指したまま永遠の眠りにつくことになった7つ目の目覚まし時計のために、僕は心の中でジョン・レノンのこんな言葉を捧げた。


   『サーカスは街を去ってしまったが、

          僕たちは、まだその跡地を持っている』


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