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「ハル、起きて」
そんな声で、僕は目が覚めた。
まるで天使のささやきのような、優しいきれいな声。まだ声変わりを迎えてないとはいえ、これは卑怯だ。
ベッドに横になったまま、ぐぐいっと背伸び、腕と脚を目いっぱいに伸ばして、ふうと息を吐く。そしてひと呼吸おいてから、重い瞼をゆっくりと持ち上げる。
目を開けるとまず入ってきたのは、朝日の眩しさ。眩しさで少し目を閉じてから、もう一度ゆっくり開けてみると、だんだん目が慣れてはっきりと周りを認識できるようになってきた。
隣では、世界で一番見慣れた顔がこちらをみつめている。それは少し眉をしかめて、むすっとした顔で横に立っていた。かわいい。
「……んー、おはようフユ、昨日ちょっと遅くまでおきててさあ」
「はいはいわかったから、ほら起きて」
へらへらと笑って見せてから、いつものようによいしょとフユの手を借りてベッドから起き上がった。
フユーーーー雪森フユは、僕ーーーー櫻井ハルの幼馴染だ。生まれたとき、赤ちゃんの時からの仲良し。同い年だけど、フユの方が大人っぽい。なんだか僕のお兄ちゃんみたいだ。誕生日は僕の方が早いけどね。
こうやって毎朝僕より先に起きては、こうやって起こしにきてくれる。こんなだからいつまでたっても僕はフユに頼りっぱなしなんだよ。いつも「そろそろ自分のことは自分でやって」なんていうくせにね。
そんなところもフユが好きなところのひとつ。いっぱいあるよ。あんまり口にはしないけど。
僕はフユに連れられて二階の寝室からリビングへ行く階段を下りていた。
足取りはいつにも増して重い。昨日はやけに眠れなかったな、頑張ってでも早くねれば良かった、なんてもやもや考えているとーーーー
不意に、フユがぴたりと立ち止まってこちらに振り返った。
そして弱い力で腕をつかんで、僕の目をじいっと真剣な目で覗き込んできた。
僕はまだ眠い目をぱちくりさせて、
「ん、顔になんかついてる?」
と不思議そうに聞くと、フユは、少し間を置いてから、いや、と言って、目線をふいとそらして、
「…なんかあったの?」
とだけ聞いた。
僕はしばらく黙って考えてから、小さく首を振って微笑んだ。
「なんにも」
そう言うと、フユは納得したように、そう、と言って、また階段を降り始めた。
フユはなんでもわかるんだな。やっぱりすごいや。特に特別なことがあったわけでもないけど。
僕は、またこのままだと夜の様に考え事が止まらなくなる、と考えて、小走りでフユの背中を追いかけた。
「しずえさんおはよ~」
「あら、ハルちゃんおはよう」
しずえさんはフユのお母さん。僕が6年前に事故で両親を亡くしてから、ずっとお世話になっている。
優しい性格で、ふわふわしていてとてもかわいいお母さんだ。でももうアラフォーだって聞いた。信じられない。
「朝ごはん食べちゃってね~。そういえば、今日はハルちゃん起きるの早いわね」
「んーそうかなあ、でも早起きっていいねえ、しずえさんの出来立て朝ごはん食べれるもん」
「ほんとよハルちゃん。ご飯は出来立てが一番おいしいんだから、今日みたいにこれからも早く起きてほしいわよ」
「まあ、できるだけね」
僕は空返事をしてからすぐ、焼き立てのパンに瓶詰めになっているイチゴジャムをこれでもかと塗りたくってぱくぱくとほおばった。隣でゆっくり食べるフユに詰まるよ、と心配されながらも1枚ぺろりと平らげた。
そういえば、フユのお父さんは難しい仕事をしているようで、一週間に一回程度しか家に帰ってこられない。今日は月曜日だから、既に早朝に家を出てしまっている。またいってらっしゃいを言えなかったなあ。
フユのお父さんの顔は、多分ここら辺では一番かっこいいと思う。会社でもモテモテだって自分で自慢していた。
しずえさん怒るよ~って言ったら、しずえさんもノリノリでほんとよねえ~って言っていた。仲が良くてなにより。
僕は次に半熟の目玉焼きに手を付けようと箸を手にとったところで、しずえさんが僕の前の席に座った。
そして、こつんと肘をつくと、こう言った。
「そう、ハルちゃん。もうすぐ夏休みだけど、行きたいところとかある?旅行なら、そろそろ取らないと間に合わないかも…ほら、去年もその前もどこも行かなかったじゃない?」
僕は目線は向けずに目玉焼きをぱくぱく食べながら、
「いいよ、そんな気にしなくて。僕はみんなといれれば、それで十分。旅行だって、写真で見てきれいだなあでもう幸せだから」
といい、今度は味噌汁を飲んだ。
「うん…でも、ハルちゃん、別に遠慮しなくていいわよ。うちも貧乏ってわけでもないし………」
僕は目玉焼きを全ておなかに入れると、今度はしずえさんの目を見て、
「大丈夫。僕のことは気にしないで。昔、散々いろんなとこ連れてってもらったから。僕にはそれで十分だよ。ありがとう」
にっこりと微笑んでから、僕は一気に味噌汁を飲みほして、食器を台所へ運んだ。
立ち上がって台所へ向かう僕の背中を見届けると、しずえさんはフユにこう話しかけていた。
「ハルちゃん、いつの間にあんな大人になっちゃって……まだ、子供でいてもいいのにね」
「……別に、行きたくないなら無理にいかなくてもいいじゃん。毎日学校で疲れてんだから、夏休みくらいゆっくりしたいでしょ」
フユは淡々としゃべりながら、パンにマーガリンをこれでもかと塗りたくった。
僕はマーガリン嫌いだけど。
別に旅行は嫌いじゃない。きれいな海をみて、おいしいものを食べて、温泉にはいったりできるから。
お土産を買って帰って、夏休み明けに友達に配ったり、もらったり、絶対楽しいと思う。
でも、僕には許されない。何かが、僕を未だに縛りつけているんだ。束縛している。自由を与えてくれない。僕だけが自由になる事を許さない。
でもまだ、それは話すときじゃない。それは、まだ、まだ先の話だ。
「行ってきまーす」
「はあい、行ってらっしゃい」
通学路。
フユは僕の一歩前を歩き、僕はいつもフユの背中を追いかける。
もうじき六月が終わる。梅雨も過ぎ去って、カラカラの晴天が続く。
制服は夏服。風通しのいい半袖のシャツに黄色みのある夏用セーター。焼け跡のない白い肌がちらりと覗く。
僕はあつーいと言いながらネクタイを緩めて、シャツの襟をぱたぱたと仰ぐ。
「ハル、下品」
「あついんだもん」
フユもそんなこと言いつつ、顔から滴り落ちる汗をシャツでぬぐっていた。
もうすぐ、夏が来る。
僕は、夏にいい思い出はあまりない。
でも、夏は楽しい。季節では一番好きだ。
今年の夏も、楽しい夏になるといいな。




