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しばらく長い夢を見た後、その内容なんてとうに忘れてしまったが、なんだかとてもいい気分になっていた。
頭がふわふわして今まで悩んでいたことなんてすっかり忘れ去って、さっぱりした気持ちで僕は重い瞼を押し上げた。
白い天井だった。
きっと寝室ではないだろう、だってあの部屋の天井には僕が小さい時にアイスクリームをつけたシミが…。
「あ、ハル起きた」
少し低い声が僕の頭に刺さって残る。首を横に傾けると、なんだか懐かしい顔がそこにあった。
久しぶり、と声をかけたくても、上手く腹に力が入らず声を出しづらい。
少し意地悪そうな笑みを浮かべて、まるでその目と髪の色がフユとそっくりなのは、兄である証拠に違いなかった。雪森幸彦、フユの実の兄だ。
幸彦さんはデザイナーの卵として働いている。少し前までは専門学校へ通い勉強をしていたが、在学中から才能を開花させて未成年ながらデザインの仕事を請け負うなど、あまり詳しくは知らないけれどとてもすごい人だと本人から聞いた。
その為、会社に入り浸る事も多くてあまり家にはいないのだ。最後に会ったのは確か…一週間程前だろうか。
「丁度家に帰った時、学校から電話あってさ。母さんも買い物でいなくて、仕事で疲れた僕がそのまま迎えにきたの」
「一人で帰れるのに」「そうもいかないでしょ?熱の弟ほっぽりだして寝こけるほど嫌な男じゃないよ」
太陽みたいな笑顔を向けながら幸彦さんは言った。僕は眩しくてまた目を瞑ってしまった。
「あ、櫻井くん起きました?」「はい、もう少ししたら車乗せちゃいますけど、いいですか?」
「はい、よろしくお願いしますお兄さん」
雨水先生と幸彦さんは笑い合うと、雨水先生は僕に体温計を差し出した。またピピっと音が鳴ってみると、三十七度まで下がっていた。
「フユは委員会残るって。僕がいるって言ったら安心してた」「そっか、嫌な顔してたでしょ」「うん」
僕はベッドから起き上がってローファーに足を通し、幸彦さんに縋るように立ち上がる。
ふと時計を見てみると、時刻はすでに十五時を指していた。六限もとっくに終わっている頃だろう。
「昨日風呂で寝たって聞いたよ。やっぱりハルは僕と一緒じゃないと溺れるんだ。まだ小さいんだもん」
「フユのほうが小さい」「ハルのほうが子供っぽいもん」
幸彦さんの手を握りながら保健室の扉まで歩いて行き、先生に渡されたマクスを付け、幸彦さんはというと先生となにやら言葉を少し交わした後、行こう、と僕の手を引いて保健室を出た。
学校の門前に止まる赤いクーペは、よく幸彦さんとフユと三人で出かけるときに乗ったものだ。久しぶりに見る。
ふらりふらりと足元をもたつかせながら助手席に乗り込み、幸彦さんがエンジンをかける。
「いやあハルの看病なんて小学五年生ぶりだなあ。あの時は学校通っててハルに中々会えなくてもう悲しいったらなかった」「僕は家が静かで良かったけど」
車が動き出すなりシートベルトを付け、ドアに頭をもたれる。時々揺れる度に頭が更に痛くなるが、どこかに体を預けておかねば倒れるのは分かっていた。
右に座る高身長の男に目を向ける。毎日欠かさずに付けているサングラスに、一つに束ねた髪の毛。ゆるく着こなすティーシャツとパンツがデザイナーの雰囲気を醸し出している。僕の視線に気がつくと、彼はにっこりと笑ってみせた。
赤信号で停止するなり、幸彦さんは僕の方を見た。
「フユ、中学入ってなんかすっかり大人びちゃってさあ。僕がいなくても大丈夫!みたいなね。まだまだ甘えて子供でもいいのにね」
僕はマスク越しに咳をしながらぼ〜っと聞いていた。
生温い風が窓から入り込んでくる。車内の冷房とかすかに聞こえてくるラジオの音楽が入り混じって、体を包んでいる。前に止まる車の後部座席に大きな犬がのっているのを確認したところで、また彼は口を開く。
「ハル、髪伸びたね」
「……この間、フユにも言われたよ」「ああ、そうなの。僕、ハルの髪で遊ぶの大好きだから後でやらせてね」
手で自分の髪の毛をつまんでこねる。このサラリと細く色素の薄い髪の毛は、随分と丁寧に育ててきたものだ。
「切りたいんだけどね」
僕が木に止まる雀を眺めながら独り言のように呟くと、隣からはどこか呆れたようなため息が聞こえてきた。僕は唇を尖らせる。
「切ればいいじゃんの。そんなハルが切るなら、僕も切るよ」「そういうのね…フユも幸彦さんも、重い」「あら、フユにも言われたんだあ」
信号が変わり車を発車させる。体は後ろに仰け反り、僕はまた窓にもたれかかり直す。
「いいんじゃない、そんな急がなくってもさ。自分の心がどしっと決まった時がやり時だよ。誰かの意見より、自分の気持ちで決めたら行動すればいい」
彼はまた太陽のような笑顔で、僕に声をかけてくれた。僕は風邪のせいか恥ずかしいせいか、顔がもう少しだけ熱くなるのを感じた。
外は既に夕日が登っていた。しずえさんには迷惑をかけてしまいそうだ。フユもあまり心配しないといいな。
僕はそんな心配をしながら、また深い夢の中へ落ちていた。




