《修道女の安堵》
「……有難うございました。本当に」
『アン・シェルダン』。
そう名乗った少女が二人に謝辞を述べたのは、僅かに血の滲んだアンの首筋を、シルファーンが手当てしているときだった。
皮一枚を薄く切っただけのあまり深くない傷では有ったが、『女の子の肌に傷をつけるなんてとんでもない』とシルファーンが強引に手当てを行ったのだ。
となれば、今後それらを使って身を立てようと言うシルファーンもまた、『傷を負うなんて事はとんでもない』という話になるのだが、この森妖精がその辺についてどのように考えているのかはアスパーンの知る限りではない。
加えて、その理屈だと包丁仕事をしている主婦達は毎日自らとんでもない事をしているという事になるが、以前一度そう言ったら、『そうよ! 女は毎日、男達の為に身体を張ってるの!』と堂々と言われたので、これは分が悪いと思って諦めた。
本当だとすると女性って恐ろしいものである。
まぁ、ソレはさて置き。
アスパーンとシルファーンの方にも割とのっぴきならない事情(しかも、お互いの事情を説明しあえば、多分こちらの方が、『みっともなさ』は上だろう。それも、かなりぶっちぎりで)が存在する事もあり、先ずはココが何処なのかを確認する必要が有ったのだが、実際に訊いてみれば思っていたほど迷っていた訳でもなく、実は街道と平行線を辿るように歩き続けていただけだったらしい。
走れば数分で辿り着く程度の距離で済んだのは、お互いにとって誠に僥倖だったが。
「実は、私、ココから暫く行った所にあるシェルダンの修道女なんです。今日は偶々私が買い出し当番で、その帰りだったんですよ」
「シェルダン?」
「あ、修道所の在る場所の地名です。シェルダンと言えば、ウチの修道所くらいしかないもので……」
「……なるほど」
つまり、シェルダンという名前も、本来の家名ではなく、シェルダンにある教会に帰依したことを示すシスターネームと言うことか。
そんな事を考えながら、アスパーンは座席の後方、見事に荒れたというか荒らされたと言うか、多分どちらでも大差の無い状況の馬車の中を見る。
箱からジャガイモが散乱していたり、樽が横たわっていたり、書物らしきものが開きっぱなしで散らばっていたり、その……下着、とかも。
とにかく荒れ放題になっていた。
横倒しになっている樽などは、横倒しの上に斜めになっているところを見ると、かなり転げまわったようだ。
「突然馬車に乗り込んできて、ナイフを突きつけられて……怖かったです」
「そうね、怖かったでしょうね。今はもう、大丈夫だからね」
シルファーンが泣き出しそうなアンの頭を抱いて、ヨシヨシと頭を撫でる。
「あー……ソレはご愁傷様……」
目のやり場に困りながら、アスパーンはこの惨状をどうしたものか考える。
とはいえ、選択肢そのものの数がそれほど多くない上に、こちらとしても助けてもらわなければ、どちらが町に近いのかすら解らないのだが。
「……取り敢えず、送っていくよ。俺たち実は道に迷ってて、取り敢えず目印になる場所に行きたい状態だからさ」
『この近所に修道所が在る』という事は昨日の内に聞いていた気がするので、もしかすると逆方向に戻る事になってしまうのかもしれないが、このままアンを放って置く訳にも行かなかった。
何より、『じゃあさようなら』と別れた所で再び強盗に襲われたら、寝覚めが悪い。
個人的な経験則から見れば、あの強盗たちの個々の実力はアスパーンとシルファーンから見れば然程の脅威ではないし、あの場に居たのが全員で無いとしても、安全な場所に行くまで護衛する程度の事はしても、罰は当たらないはずだった。
少なくとも、あのまま遭難している事と比較すれば、その程度の親切心はどうということはないだろう。
あそこで彼女が襲われてくれなければ、自分達は遭難していたかもしれないのだから。
しかも、残念ながらソコソコの高確率で、だ。
「あ、有難うございます……。あれ? どうしたんだろう、私……」
そんなアスパーンの自らの方向感覚に対する感慨を他所に、シルファーンに頭を撫でられたアンは気が緩んだのか、声が僅かに詰まった。
震えるアンに代わって、アスパーンは手綱を手にした。
「……あっちでいいんだよね?」
自分達が来た方向を指差すと、アンが僅かに顔を上げて『はい』と答えた。
散乱した幌の内側の事は、取り敢えず修道所とやらに着いてから考えることにした。