《修道女の嘆き》
アン・シェルダンは決して、日頃の行いが悪いほうではない。
寧ろ、修道女としての彼女は『貞淑且つ敬虔な神の信徒』で、『大地の豊穣の女神』の妹にして、安らぎを司る『銀の月の女神』の教え通り、朝は日が昇ると共に自然に目が覚めるし、食前食後の神への祈りも、少なくとも神に仕えるようになってからは欠かしたことが無い。
それが今日になって、何ゆえ神に見放されたような試練に見舞われるのか。
(あぁ、神様……何ゆえにこのような……)
自分が、先ほどルーベンの町で青銅貨三枚程の価格で売られていたような物語の悲劇のヒロイン――――シスターに見付からないように集めているのは内緒だが――――になったつもりは無いが、少なくともアンにとって、それは『青天の霹靂』とでも言うべき事態。
かなりぶっちゃければ『聞いてないですよ神様。信じらんないって奴です』とぼやきたくなる程度にはいただけない突発的災難だった。
「へへへっ」
野卑で定まらない視線と、どうも黙っている事が苦手なように見える落ち着きの無い笑い。
寸分の狂いもなく、見るからに、書物の知識に頼る事も無く、盗賊……野盗だった。
修道所からアンを乗せてきた二頭引きの馬車にフラフラと近寄ってきたかと思うと、あっという間も無くアンに刃物を突きつけてきたのだ。
「はいはい、馬車停めちゃって貰えるかな~?」
妙な猫なで声で僅かに刃先を食い込ませると、周囲に目配りしながら要求してくる。
アンは声も無く頷きながら、馬車を道の脇に寄せて停めた。
こう言う時に限って、人通りがない。
今は一人しかいないように見えるが、もしかしたらまだ何人も隠れていて、この男の仲間に人払いされたのかもしれない。
「お嬢さーん。先刻町でいい物運んでたよね~」
その間延びした猫なで声が、妙に神経に障る。
苛立ちもさることながら、妙に危機感を煽られるのだ。
「い、いいものですか……。こ、コレと言って、心当たりは……」
「いやだなぁ。何か値の張りそうなツボ、魔術師の店から持ち出してたじゃない」
「……え、えぇ? 何のことでしょう?」
しくじった。
一時間ほど前、懇意にしている魔術師から預かってきた品を持ち出すところを見られていたのだ。
と、なると、この男は少なくともその時からずっとアンの事を見張っていた事になる。
「嘘ついちゃ困るなぁ~。この後ろにあるんでしょ、そのツボ?」
男が『チクリ』とアンの首筋に、刃物の先端をほんの僅か、突き入れる。
……痛い。
どうやら血は出ていないようだが、どうやら皮膚を突き破るギリギリの深さまで突き込まれているらしい。
その技量も含めて、『半端な抵抗は命取りだ』とアンに改めて脅しをかけるには十分な痛みだ。
「あぁああぁああ、あのツボですか。いえ、あの、た、確かに有りますけど。そんな値の張るもんじゃ……」
事実である。
ツボ自体は決して高価なものではない。
しかし、アンはどうしても、それを自分の家であるところの修道所まで持ち帰らなければならなかった。それは時折、メッチェやルーベンと言った近隣の町から修道所が引き受ける、『大切な預かり物だ』と言い含められている荷物だからだ。
『決して手荒に扱ってはいけない』とも言われている。
食料や私物と違って、預かり物である以上、盗賊に狙われたからと言って、すんなり渡しても構わない品であるとは思えない。
「あー、別に説明してもらわなくてもいいよ~。魔術師のところから出てきたツボってだけで先ず鑑定の価値があるしさ~。中身がいいものかもしれないし。万が一ダメでも、この馬車ごと君を売っ払っちゃうだけでも利益は有るからさ~」
男は事も無さ気に答えると、刃物を突きつけたまま小さな幌で覆われた馬車の後部に目を配る。
「あのー、それってつまり……。ツボだけ渡せば許してもらえるって話じゃないってこと……ですか……?」
アンは恐る恐る、尋ねた。
「ん~、まぁ、そうなるねぇ~。先ずはその前に、俺たちで色々と主に社会の仕組みについて教えてあげることになるけど……」
そう言うと、男は『パチン』と刃物を持っていない方の指を鳴らす。
それを合図に、周りの低木や草叢の陰から、数人の最初の男と似たり寄ったりの格好の男達が姿を現す。
アンの位置からでも、ぱっと見て三人以上居るのは解るが、それ以上は良く解らない。刃物の所為で首が巧く回せない所為だが。
男達は後方から馬車に乗り込むと、アンがせっせとルーベンから買い出して来た食糧やら蝋燭やらランプの油やらを物色し始める。『あぁ、出来ればあまりそっちは見ないで欲しい。下着とか入ってるし』と、思ったものの、この状況では口出しも出来ない。
「あ、あのー……」
「お、あった。有りましたよ!」
出来るだけ控えめに交渉を開始しようかと、アンが口を開こうとしたその時だった。
一人の男が、アンが先ほど預かって来たツボを手に、前の方へと寄ってきた。
「お~、それそれ」
アンに刃物を突きつけている男は我が意を得たりとばかりに喜びの声を上げると、再びアンに視線を移す。
「ほ~ら、見ぃ~つけた。で、コレって何なのかな?」
「わ、解りません。ただ、預かるって事くらいしか……」
本当の話である。
『ツボの中に何かが封印されているようだが、正体が分からないから、預かって欲しい』と魔術師に頼まれて、預かっただけの品物だ。
少なくとも、アンはそのようにしか聞いていない。
修道所は町から離れたところに建っている為に、しばしばそういった『出処や曰くの付いた物』の預かり所の役を負うのだ。
「隠しちゃうと為にならないよ~?」
男が再度、刃物を突きつける。
「わ、私、修道女なんですよ! そんなものを突きつけると、神の罰が下りますよ!」
あまりにも度々刃物を食い込ませるので、アンとしても反発心が先に立った。
後で思ったのだが、このような場合にそんな事を言ったところで、野盗相手に何か効果があるとも考えにくい一言である。
とはいえ、アンに借りるべき権威と言うものが何か存在するのだとすれば、己自身の出自でも両親の地位でも名誉でもなく、ただただ神の信徒であると言う一点に尽きてしまうので、この言葉が出てしまうのも已む無い所では有るのだが。
「……シスターァ?」
男はアンの言葉に何か感じるところがあったのか、僅かに身体と刃先を引き、アンの姿を上から下まで嘗め回すように見てから、胡散臭い物を見るように半眼を向けた。
「……どう見てもその辺のお嬢さんじゃねぇか」
「……い、今は所用で町に出たので普通の服を着てますけど……」
こんな事なら、私服で来るべきではなかった。
しかも、シスターに内緒で小説を買うためだけに。
正しく、『後悔が先に立たない』状態ではあるが。
「おいおい、シスターがそんなことでいいのかい?お嬢さん」
ツボを持っていた男が、下衆な笑いを浮かべながら顔をアンに近づけてきた。
「おー。こりゃぁ、確かに処女の匂いだ。いいねぇ。おい、コイツ先に教育してやっても良いか?」
近づけた顔をにやけさせたまま、ヤニ臭い息を吐き出す。
『教育』
その言外の意味に気付いてしまったアンは、戦慄した。
「や、やめてっっ!!」
反射的に、身をよじった。
顔を近づけていた男は屈めていた身体を大きく突き飛ばされ、もんどりうって後方へ倒れた。
『ブルルッ!! フィーンッ!!』
直後に、突然後方で起こった大きな音と衝撃に驚いて、二頭の馬が前足を上げる。
ちょっとした恐慌状態だった。
「てめっ……」
荷台が馬に合わせてガタガタと揺れ、僅かに引いていた刃物の先がアンにチクリと刺さった。
押し当てられている分には恐怖と圧迫感が有るものの痛みはない。
だが、怖いと思っているものに痛みが伴うと、痛みに慣れて居ないアンの自制心はあっさり決壊する。
「キャァァァッ!!」
――――『思わず』。
正しくそう言わざるを得ないが、アンは悲鳴を上げた。
こうなれば、後は負の連鎖である。
悲鳴を聞いた馬は落ち着きを欠いて余計に暴れだし、アンはアンで刃先に襲われた恐怖と馬車の揺れでしがみつくので精一杯。
男達は暴れだす馬を押さえるのに精一杯。
仮に傍から見ている物が居れば、『何してんだあれは』と思うことだろう。