《出立とその後》
――――旅立つその日、アスパーンの周りは騒がしかった。
『騒がしかった』というと普段は騒がしくないという事になりそうな気もするが、正確に言えばそうではない。
『普段はその喧騒を遠くから眺めている』立場だったのが、『今日はその喧騒の中に身を置いている』という意味だ。
日頃暮らしていれば滅多に通る事のない街の正門に、今日に限って身を置いているというのは、騒がしいの部類に入れても問題ないだろう。
「いい、ちゃんと姉さんに会いに行くのよ?」
「へーい」
見送りに出てきた姉の一人――――まぁ、この場に姉は三人居るので姉Aとしておこう――――が投げかける聞き飽きた言葉に、思わず投げやりに回答する。
「ちょっと、真面目に答えなさい」
姉Aは、戻ってきたばかりにも拘らず、幼い頃自分の教育係を務めていた頃と同じポーズで腰に手を当て、既にお説教モードだ。
「だって、別にそういう約束や取り決めが有るわけじゃなし」
「ダメよ。ちゃんと姉ちゃんに約束しなさい」
姉Aの態度は基本的に横暴だ。
正直な所、早く出立したい気持ちで一杯だった。
「まぁまぁ。私も一緒だし、ちゃんと行かせるから大丈夫よ」
「ホントに? お願いね、シーちゃん」
「はい、ホントにホント。大丈夫です」
相棒が引きつった微笑を振りまいて、姉Aをなだめる。
アスパーンの姉や兄はどういうわけか、一番上の姉と兄を異常なくらい恐れているのだが、もう十五年も一緒に居るのにアスパーンにはそれが何故なのか全く解らない。
そして、未だに解らないまま、今日、再び実家を介して入れ違いになる。
「……あぁは言うけど。要は自分が姉さんに怒られるの嫌なだけだから、好きにして来い?」
「……自分が姉貴のこと怖いだけなんだろ。酷い話だよな」
一緒に見送りに、そして同時に三つ子の迎えに来ていた兄が、ニヤニヤ笑う。
全く同意見だった。
「ちょっとアンタ達!」
「あいよ / はーい」
口々に不平を鳴らしたところを、姉Aに窘められ、兄とアスパーンは揃って返事をした。
女は怖い。
基本的に、敵に回さないに限る。
「じゃぁ、行ってくる。皆によろしくな」
「ちゃんと手紙書くのよ。そうでなくてもアンタは皆に心配掛けるんだから」
「……それなら、居なくなった方が清々するんじゃないかなぁ、それは……」
「どの口でそんな憎まれ口を……」
「ま、まぁまぁ、ギギちゃん」
叱りかけた姉Aの反応を危ぶむように、見送りに来ていた四人のうち、やや後ろで控えめに微笑んでいた一人――――姉Bとしておく――――が口を挟む。
どちらかと言えば、姉Aの暴走を止めようとしてくれたように見える。
「………………」
そんな遣り取りをしていると、不意にアスパーンの身体を柑橘系の香りが包みこんできた。
三人目の姉――――姉C、になるのか――――が、無言でアスパーンを軽くハグしてきたのだ。
三人目の姉Cは感情表現が希薄ではあるが、こうしてスキンシップを取るのが好きな人だった。
別れの挨拶も、こうしてハグ一つで済ませる気だろう。
「……まぁ、丁度ギギ達と入れ替わりだから、お前が居なくても、家の方は賑やかになるだろうけどな」
兄が迎えに来た三つ子の姉たちは、旅立つ自分とは入れ替わりで実家に戻る所だ。
姉弟の総数が多い部類に入るであろう実家だが、末っ子の自分にとって歳が近いこともあって、姉や兄と言われて真っ先に思いつくのが、この三つ子と、今迎えに来ている兄だ。
まぁ、兄の方は三子の一人ではなく、更にその上の双子の片割れだが。
その三つ子が十五の頃実家を離れてから三年。
相棒と二人、あの家から居なくなっても、入れ替えで、しかも一人増えて三人も戻ってくれば、兄の言う通り、家族はそれほど寂しくなくて済むだろう。
「そうだな」
頭を振り、納得。
それから相棒を促すと、軽く手を振って兄たちに告げた。
「おし。……じゃぁ、行ってくらぁ」
――――そう言って家を出たのが、大体一週間くらい前。
今現在、アスパーンの前に広がるのは素晴らしい空だ。
晴天と呼ぶに相応しい青空の下、視界を遮る物は何もなく、目の前には地平線が広がっている。
「だというのに……全く楽しくないのは何故なのだろう」
「……現実から逃げた所でどうにもならないわよ?」
独り言に、求めてもいないのに返事をしたのは森妖精の、少女と言って良い年齢の女の物だった。
数日前、ザイアグロスの正門で姉に『シーちゃん』と愛称で呼ばれていたその森妖精の名前は、シルファーンという。
森妖精であるが故に、魔術の素養と白磁の如き美貌を併せ持つアスパーンの『相棒』だ。
アスパーンは、相棒の言葉に溜息をつくと、返すべき言葉を失って項垂れた。
――――はっきり言って、遭難寸前だった。
『道に迷った』と言えばまだ聞こえはいいのかもしれないが、もしかすると旅人を陥れる為の罠であったのかもしれない。
尤も、本当に旅慣れた者ならば途中で気付いて引き返すのだろうが、残念ながらそれほど旅慣れているとは言い切れない(意訳:要するに旅人としては素人に近い)二人は、それに気付く事が出来なかったのだ。
周囲には、鬱蒼たる森。
昼間にして尚薄暗く、僅かな光しか差し込まないその森を、地元でそうしていたように擦り傷など作りながら進んだ。
道が徐々に細くなり、やがて、消える。
――――そこで、ようやく気付いた。自分たちが道に迷ったということに。
ごくごく簡単に言えば、そんな具合。
(……しかも、全然気付いていなかったが、よく見れば腰に下げている水袋の上の方、枝が刺さって穴が開いているし)
これでは、思わず苦い表情の一つも浮かぶと言うものだ。
僅かにしか差し込まない日光の角度も、既に天頂から緩やかに傾き始めている。
道を見失った直後、アスパーンとシルファーンはひとしきり『相手に責任を押し付けあうような喧嘩』をした後でようやく、危機的状況に何ら進展が無いことを悟って行動を始めた。と、いうわけだ。
――――そして、更にそれから数時間が過ぎて、現在に至る。
旅に出る前暮らした故郷では、森での活動に慣れていた。
しかし、それゆえの過信か『慣れている自分たちが今更森で道を見失う筈が無い』と思い込んでいたということも、二人の重要な失策の一つだった。
土台、生活空間として慣れ親しんでいた場所と、初めて来る場所とでは勝手が違いすぎるのだ。
『このままでは時間感覚までをも失いかねない』ということで、森の中に居るよりは空が見えた方が良いだろうと森を後にしてから、数時間が過ぎていたが、街道はまだ見当たらない。
徐々に斜めになってきた太陽が『そろそろ今日は胆を決めて野宿しない?』と荒んできた心に問い掛けてきていた。
別に野宿するのに困らない程度の野外生活経験は有るのだが、世間でも『宿を取るつもりで居るつもりでいたのが野宿に変更になるというのは精神衛生上あまり宜しくない』というのが通説だ。特に、男性よりも女性の方が精神的に宜しくないらしい。
アスパーン自身に問題は無くても、相方の都合が宜しくないかもしれないと思えば、どうしても決断は鈍ってくる。
だが、こうしているうちにも徐々に日は傾く。
結局アスパーンはその誘惑を振り払いきれずに、妥協点を探る事にした。
野宿にするか否かという極論は置くにしても、そろそろ一度休憩しないことには万が一何か有った時に対応できないのは明らかだ。そもそも、こんな街道を外れた場所で疲労困憊していては、野生・人間・その他を問わず、襲撃の意図を持った者にとっては『襲ってくれ』と言っているようなものだし。
「あー。もう、休憩しないと辛いかも。休憩する?」
「……そうね。ソレは私も賛成。……ここで野宿とかはちょっと嫌だけど、休憩くらいなら……ん?」
シルファーンが答えて、ゆっくりと背中の荷物を下ろそうとした。
だが、肩から荷を外そうと手を掛けたところで、その耳がピクリ、と動く。
「……ねぇ、何か聞こえない?」
シルファーンが怪訝そうに、周囲を窺う。
「……なにが?」
アスパーンは問い返した。
取り敢えず、アスパーンには何も聞こえなかった。
森妖精に限らず、妖精種族は人間よりも鋭敏な感覚器官を備えている事が多い。
そして、森妖精たるシルファーンもまた、アスパーンとは少し違う世界を捉える事が出来る人であった。
「……んー……」
逆に問われて、シルファーンは耳をそばだてる。
縦長に尖った耳の先端が小動物のように小刻みに動いた。
……。
…………。
………………。
そして、待つこと数秒。
やがてシルファーンは、確信を得たらしいその表情を厳しく風上の方へ向け、断言した。
「動物……多分、馬の嘶きだわ! ……何かに襲われているみたい」
「馬!?」
馬が居る、という事は。
近くに人間が居る可能性が高い。
アスパーンは直感でそう思った。
都会と言うほどではないが、今朝出てきたメッチェの町からそれほど遠くない(筈の)この辺りなら、野生の馬に遭遇する確率よりは、人の乗っている馬に遭遇する確率の方がまだ高い。
いや、寧ろ、今朝宿を出るまでは町に居たのに、たかが半日で野生の馬との遭遇率の方が上になるような、そんな迷い方はしていないと信じていたい。
そんな才能があるなら、最初から馬専門の狩人にでもなって馬を捕獲しては売りに出す生活が出来そうだ。
「行こう!」
「えぇ!」
同じ事を考えたのか、シルファーンも即座に同意する。
草の上に下ろそうとしていた荷物を改めて背負い直し、それまで疲れきっていたことが嘘のように、二人揃って全速力で走り出した。
『人間がいる』と言う事は『道を訊く事が出来る』ということだ。
それは何事にも代え難い、僅かながら大切な命綱だ。
だが『襲われている』と言う事は『急がなければ訊く相手もいなくなってしまう』ということだ。つまりは『急がなければ、逆に自分たちの光明が絶たれるかも知れない』ということになる。
それは、今この瞬間の二人にとっては走り出すに足る、立派な事情なのだった。