061~070
061.
猫の餌を用意していた隼が、ゆっくり鶺鴒を振り向く。「餌が減るのが早いんだろ?」漫画から顔も上げずに兄が答える。隻腕の猫・伊庭と遊んでいた薔薇が、あ、と呟く。彼女が繰り出す猫じゃらしが、伊庭の猫パンチが届かないところで、ビシリ、と抑え込まれた。
062.
夏はやはり怪異の季節らしく、毎年猫たちがフローリングに映る魚影を追いかけ始める。弟妹には見えないが、最早慣れている。鶺鴒の目には、宙を優雅に泳ぐ金魚が見えている。大抵庭にいるのだが、あまり暑いと涼を求めて室内を泳ぐ。和金、流金、出目金、ランチュウはけっこうレアだ。
063.
家の壁に鉈が刺さっていた。その前から、五寸釘、硝子の破片などが刺さっていた。悪戯にしても悪質だと父が警察に電話する声を聞きながら、弟妹は兄を見る。縋るような眼差しを受けて鶺鴒は庭へ出ると、小さな石を拾って投げた。一斉に家中の窓ガラスが割れたが、以来何も刺さらない。
064.
学校も夏休みに入り、近隣で祭も盛んになってきた。興味ゼロの長兄と高熱を出した隼をおいて鶺鴒と薔薇は出かけた。薔薇は端から屋台の食べ物を買い漁り、持ち切れない分は兄に渡そうとし―引っ込めた。持つよ?と言う兄に、妹は「何かにあげちゃうからダメ」と獰猛な表情で呟いた。
065.
珍しく、鶺鴒が興奮した様子で帰ってきた。非常に機嫌が良く、鼻歌すら歌いそうなほどなのでなにがあったのか訊いた。鶺鴒は黒い両目をキラキラ輝かせながら、鼻息も荒く言った。「初めて人面犬見たよ!」
066.
隼は夢を見た。玄関に立っていると、ぱかぱかと音がする。蹄の音だと納得して目を覚ました。二段ベッドの下の兄もちょうど起きていた。「お盆って15日だよな」と欠伸をしながら呟く。急になにを言うのかと首を傾げると「あれ、馬だよ、精霊馬」「…キュウリ?」今年は早めのようだ。
067.
鶺鴒が老犬を連れ帰った。襤褸布のような有様で、毛皮が剥がれ、骨が浮き出し、兄の腕の中で殆ど動かなかった。しかし不思議と臭いの類はしなかった。兄に背中を擦られて、時々咳のような息を吐いていた。翌朝埋めてくると微笑んだ兄の腕の中には、古びた犬の骸骨が抱かれていた。
068.
今日も隼は神隠しに遭いかけたところを鶺鴒に救われた。ぐったり座りこんでから、いつもと少し違う気配に隼は顔をあげて、鶺鴒を見た。夏の強い夕陽を背に表情の伺えない兄は穏やかに言った。「門の向こうへは行くなよ」「え?」「そっちはさすがに俺も怖くて行けないからさ」
069.
「鶺鴒って昔からずーっと“ああ”だったの?」妹に問われて隼は少し考えた。物心ついた頃から、鶺鴒は飄々と隼を連れ戻しにきた。色々考えているうちにふっと哀しみがこみ上げた。あれは確か、凄く綺麗だろと差しだされた兄の掌には何もなく、互いに嘘を吐いていないと分かった時だ。
070.
あ、いた。背後で急に上がった声に驚いて振り向くと鶺鴒がいた。近づいてくるので、思わず自分を指差すと、兄は微笑みながら首を横に振った。兄は薔薇の腰のあたりにそっと手を伸ばす。怒ってないってさ、まるで隠れた幼子を引っ張る様な仕草。途端に雷雲が空を覆い二条の雷が光った。