021~030
021.
隼は帰り道に違和感を感じていた。だが、何がおかしいのかよくわからない。毎日通っている道だ。剥がれかけの政治家のポスター、朽ちかけた自転車、敷地から少しはみ出た高級外車、雑草が大人の腰近くまで生い茂る空き地、濃い影が目の前に伸び、強烈な西日が真正面から照っている。
022.
鶺鴒は動じない。交差点で人と真正面から人とすり抜けあおうと、ゴミ入れの傍にしゃがみこむ真っ青な男に手招きされても、毛むくじゃらの長い何かが夜空を飛んでいても。薔薇が驚かないのかと問えば「お前、生まれた時から毎日俺の顔見てるけど、いちいち驚かないだろ。それと一緒」
023.
薔薇が帰宅すると、珍しく鶺鴒がうたた寝していた。まだ梅雨もあけていないのに真夏のようで、大きく開け放した窓の下で江戸風鈴が鳴っている。カーテンが大きく翻った。顔にあたりかけて思わず手で庇う。同時に「うわ」と兄の声。振り返ると色とりどりの花が兄に降り積もっていた。
024.
こんな暑い日に部屋を片づけよう等と思ったのは、魔が差したとしか言えない。窓からは風が吹き込んでくるが、汗は顎を滴る。思わず漫画を読み耽ったりしたが三時間ほどで満足した。手を洗って部屋に戻るとキンキンに冷えた麦茶。喜んで飲み干してから、今日は家に薔薇一人だと気付く。
025.
窓際で僅かな涼をとる薔薇をよそに鶺鴒は涼しげにソファに寝そべっている。兄は頻繁に風邪を引き或いは貧血で卒倒する割に、暑い夏でも飄々としている。長毛雑種の愛猫伊庭がすり寄っていくのを見咎めて、妹は兄の隣に腰掛けてみた。肌は暖かいのに清流の傍のように涼しかった。
026.
寝苦しい深夜、隼は寝返りを打ち、一気に目を覚ました。部屋中に蛍が飛んでいる。咄嗟に窓を見るが閉まっている。そもそも家の周辺に蛍の住むような川はない。心拍の間合いで明滅する幻想的な光。そっと二段ベッドの下を覗くと兄と目が合う。「綺麗だよな」兄はにっこり微笑んだ。
027.
防人家の愛猫の一匹、君影には両目がない。伊庭や他の兄弟猫たちと共に、何者かに虐待された上段ボール箱に入れられて川に流されたのを、当時14歳の双子に救われたのだ。目のあるべき場所には悲惨なケロイドがあるが、君影は見えるかのように歩く。「鶺鴒と一緒に何見てんの?」
028.
正直いうと、時々鶺鴒のことが怖い。感覚がマヒしているのは分かるが、そこは笑う場面じゃねーよというところでも穏やかに笑っていたりする。今もそうだ。隼はドン引きしているのに、鶺鴒は珍しい犬がいるよ、くらいの雰囲気で、四つん這いで電車と並走する着物姿の老婆を眺めている。
029.
鶺鴒がリビングに寝そべって頬杖をつき興味深げに庭を見ている。白猫の君影も兄の傍に並んで同じ方向に顔を向けている。庭には、長兄の植えた草花が雨に濡れ光っている。雨はやみかけていて、薄灰色の空から幻想的な陽光のカーテンが広がり始めた。「夏が来たな」呟きに猫が頷いた。
030.
急に真っ暗になった。空の隅から雷雲が獣の唸り声のような重低音と共にやってくる。あっという間に大粒の雨が降り始め、雷光が瞬き始める。嫌そうな顔をする弟妹をよそに鶺鴒だけは楽しそうだ。「今日は子どもの初飛行だからなあ。かなり張り切ってると思うよ」細い稲妻が空を覆った。




