281~290
281.
一夜にして、桜が狂い咲いていた。並木の他の桜はまだ蕾を固く閉じている。一本だけ、しかもソメイヨシノとは思えぬ鮮烈な紅が、美しさより怖気を震わせる。なんとなく深紅を見上げていた薔薇に向かって、赤い滴が垂れ落ちてきた。反射的に避けると、深紅がざわりとおめいた。
282.
女性が突然悲鳴を上げた。手を振り回して「痛い痛い」と泣き叫んでいる。蜂にでも刺されたのかと、薔薇は何気なく女性の手を注視し――小さな歯型がついているのを見止めた。鶺鴒を振り仰げば、何かを抱いているように曲げた腕を見ている。「構って欲しいからって噛んじゃダメだよ」
283.
急に怖気が走った。隼はあたりを見回すが、異常は見当たらない。だが背筋を這う気持ち悪さは消えない。根拠はないが逃げることにした。走り出した途端、背後でべしゃんっと濡れた雑巾を叩きつけるような音。「おぼおぉ、ぴぃゆひいいにぅ」鳴き声のように聞こえたが振り返らず走った。
284.
原生林を切り拓いた自然公園は市民の憩いの場だ。立派な遊具があり、柔らかな土の地面は現代っ子がすっ転んでも優しく受け止めてくれる。木陰にはベンチがあり、デートスポットでもある。だが鶺鴒はあまり行きたがらない。「生きてる人に心地良いところは死んだ人にもそうだからなあ」
285.
夢を見た。非情なほどの豪雪の夢。隼が立つのは天すら雪に閉ざされた場所。吹雪いている為、数メートル先も見えない。睫にすら雪が積もる。夢だからか寒くないが白い圧力に体が揺れる。思わず俯くとさらりと黒い髪が顔に掛った。ああこれは誰かの現実なんだ、気付いた瞬間目が覚めた。
286.
落し物だろうか、ぬいぐるみが塀の上にちょこんと座っている。落とし主に分かるように誰かが乗せた、そんな風情だ。兎のぬいぐるみで、お腹が滑稽なほどの丸くふくらんでいる。破けたのを縫い合わせたのか腹には縫い痕が――隼は一目散に逃げた。縫い目から髪の毛の束が溢れていた。
287.
馬がのんびりと庭の草を食んでいる。あれは確か母が植えた、春に花が咲くやつだったような…そう思いながらも薔薇は、もぐもぐしている馬を見つめるしかない。馬はけっこうでかい。ばん馬ぐらいの巨体で、脚が六本ある。ほどなく馬は池でぐびぐび水を飲むと、空へ駆け上がっていった。
288.
「隼」「あ?何?」「お前、右足動かし辛いだろ。手が異様に長い黒い猿的なものがしがみついてる」「ウソ!?」「ウソだよ」「!」「いってー!殴るなよ!悪かった!悪かったって!本当は猿じゃなくて蜥蜴っぽいものだよ」
289.
庭の一角に沈丁花がひと群ある。母による激しい植替えのため、毎年庭には違う草花が芽吹くが、この沈丁花だけは長らく同じ場所に咲き誇る。君影と伊庭に請われて、鶺鴒は二匹を抱きあげて時折花をおとなう。えもいわれぬ淡い花の下には二匹のきょうだいが不滅の夢にまどろんでいる。
290.
どがんっと凄い音がして隼はぎょっとして振り向く。でかい傘が道路に刺さっていた。巨大台風並みの低気圧が接近していた為、急ぎ足で歩いていたから助かったのだ。唐傘お化け的な古い和傘だ。「すいません、急いでて」雲上から謝罪の声が轟き、でっかい手が傘を掴んで雲間に消えた。




