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なにを思ったか、それこそが本人の行動原理を決めるものなのだから、なにをすべきかが大義であっても根幹にあるものは変わらない.3

 今日は良い天気だ。大本の全貌を見せない日光のカーテンも、比較的よく根本の雲に靡いている。穏やかな街並みを抜ける風も強くなく、かと言って弱過ぎる事もない様子で活気の香りを運んでいた。彼はそんな街中の一角の、とある酒屋で今夜の晩酌を吟味していた。垢抜けない、木の色をした酒屋での事であった。

 酒屋の陳列棚を漁る男。歳の頃は、四十路も酣のいい親仁。だが短い寝乱れ髪などは整える事もせず、そのままに。眠そうな目を覆う瞼はいつでも半分くらいまで閉じていて、まるで暖簾のように飄々とした風貌だった。

 一頻り陳列棚を見詰めると、親父は安っぽい発泡酒を両手にぶら下げて、それをレジに持って行った。

 白いレジの向こうにいるのも、男と同年代くらいの親仁。高校を出て以来、実家のこの酒場を引き継いで働いている、近辺では顔の知れた男だ。

「あと十六番の煙草ちょうだい」

 レジに二本置くなり、客の親仁はレジの奥の棚にある物を要求する。指定した十六番の引き出しには、タールのきつさ故、好みの別れやすい銘柄が詰まっていた。

「あれ、止めたんじゃないの?」

「今度は再来週くらいに止める予定だよ」

「再開予定は?」

「すぐ」

 お互い見知った顔と冴えないジョークを交え、尻のポケットから茶色い革財布を取り出し、最低価値の紙幣を伸ばしてレジの皿の上にぽんと放る。

「つーかお前、今日は卒業式だってのにいいのかい、こんなところで油なんか売ってて」

「まあ、いいんじゃない? 別に」

 早速買ったばかりの煙草を一本咥え、それに火を点ける。百円ライターを箱に一緒に捻じ込むと、それを胸ポケットに。

「早く戻らないと、またドヤされるんじゃないの? ほれ、お釣り」

「ん、どーも。だからね、まあ、遅くならないくらいに戻れりゃ良いのよ」

 十分の一くらいにまで減価してしまったお金を、元いた革財布の小銭入れへ。中に目を落として見ると、やれなんだかんだと使ってしまった痕跡が僅かばかり残っていた。

「そんなにアバウトなのかよ、あんたんとこは……。それと、店内は禁煙だ」

「ここ数年は随分と暇だからね。そのうち税金泥棒とか呼ばれるんでない?」

 酒の入ったレジのビニール袋に、重量だけが増した軽い財布をずどんと落とし、レジを後にする。

「まあ、とても良い事なんだけどさ……あ、いっけない」

 店のドアの取っ手に手を掛けたところで、もう一度店の中に舞い戻った。

「なんだ、買い忘れか?」

「おつまみ」

 男が店を出る頃には、新たに購入した干しイカと赤貝の缶詰が袋の中に加わっていた。

 店員の毎度の声を背中に聞きながら、店を出る。すると親仁の腰の辺りに、やたら小さな頭が突っ込んで来た。どうやら子供のようだ。

「うわっぷ」

 反動でひっくり返るかと思いきや、子供はそのまま前方へ躓くように飛び込んで行った。

「だいじょーぶ?」

 ポケットに突っ込んでいた左手を、子供の方に差し出す。むくりと起き上がった子供は、緑のブレザーにキラキラした刺繍入りのネクタイと、どうにもどこかで見たような出で立ちをしていた。

「ふわっ! す、すみません!」

 子供は少し逡巡した後、素直に手を取って立ち上がった。そんな子供に付いて、親仁はここで、ある事に気が付く。

「ありゃ、ひょっとしてへーたいさん?」

 そう、子供……もとい少女は軍服を着ていたのである。それもネクタイからして陸兵の者だ。有翼兵は女と決まっているが、力仕事が事の大凡を締める陸兵に、女子は大変珍しかった。それもこんなに小さな女の子ともあれば、その珍しさはロータリーで拍車を掛けたように一入だ。

 それも、まるでどこかの中年親仁のように寝ぐせがまでおっ立てているとあれば、まさに天然記念物の如く酷い扱いを受けるのもそれこそ時間の問題だろう。

「は、はい。まあ、一応……。学園卒業し立てのほやほやですけど……えへへ」

 少女ははにかんで、照れ笑いしながら言った。

「じゃあもう急がないとダメなんじゃない?」

 少女はやけにのんびりしているように見えるが、親仁が腕時計を見せるなり様子が急変する。

「ふわああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! そうだったあぁぁぁぁぁぁ!」

 集合時間というものは、どうにもこうにも待ってくれない。全体の集合時間は午後の二時。時刻はもう、午後の一時四十分を回ろうとしていた。新人としては先輩や上官を待たせる事のないよう、既に集合場所で待機していたい時間だ。

「え、と。ごめんねおじさん! 私、急ぎますんで!」

「はいはい」

「さよならー!」

 踵を返し、ぶつかって飛び込んで行った方に走り出す少女。だが見送っていた筈のその背中は、十メートル程行ったところでUターンして戻って来た。親仁の下でせかせかと足踏みを続けたまま、少女。

「あ、あの!」

「うん?」

「西方陸隊の宿舎って、どこに行けば良いですかね!?」

「うん」

 

 低いフェンスに囲まれた遮蔽物のない白砂のグラウンドに人の列が縦に三本、綺麗に統括され揃っていた。聳え立つようにぞろりと並んだ者は皆緑色の軍服を着込み、身動ぎ一つせず、姿勢を垂直に保ち続けている。その列を最前から見通すように、同じく軍服の、しかし列の者より華美な装飾の施された物を着こなした隊の長が二人いて、そのどちらも苛立ちを抑え切れず、右に行ったり、左を見たりしている。特に挙動の規模が酷いのは、右側の列の隊長の方。組んだ腕を人差し指で打ってみては、振り返ってまだかまだかと呟いたり、頻りに腕時計を覗き込んでは舌打ちしたりしている。比較的静かに待つ隣の隊の隊長としてもやきもきするものだが、掛かる精神的負荷がもっと酷いのは、隊列で不動の待機を続けさせられる各隊員達だ。癇癪且つせっかちで知られる隊長の下に配属されただけでも気が揉めるというのに、まさかこの大事な時に限ってどこぞのぼんくらがやってはならない事を、こうも堂々とやってのけてくれているのだから。

「ク、クーガー隊長……少し落ち着いて下さい」

「これが落ち着いていられるか!」

 控えめに言ったつもりでも、彼は気が立っている時はとことん不機嫌になるのでなにを言ってもこうだ。すぐに怒鳴る。

『クーガー・クラウス』件の癇癪持ちの隊長である。

「我々に遅刻が許されるか! ええ少尉!?」

「い、いえ、絶対許されませんね……人命はおろか、引いては区画の存続に関わる……」

「そうだ!」

 職業柄か、事時間厳守という規律に関してクーガーは人一倍うるさかった。だが彼の言う事は至極尤もで、陸兵にとって確約した時間の制約を尊ずるという事はなによりも重要であり、それそのものが任の一環であると言っても過言ではない。陸兵の任務における遅延とは兵と街の死にズバリ直結する。頻りに発生しても仕様で片付けられる鉄道の遅れとはわけが違うのだ。

そしてそのとばっちりを受ける方も、これがまた死にそうな程しんどい思いをするはめになる。

「アサ・アスナール少尉!」

「は、はいッ?!」

「陸兵の戒律第五条二十九項を拝読してみたまえ」

「は、はいっ。……え、と…………陸へ」

「遅い!」

「ひぃ!」

 世にも珍しい女性の陸兵士官アサ少尉は、まだなにも言っていないのに、紺色のショートカットが逆立つ程の勢いで怒鳴られてつい目尻を濡らしてしまった。仕方のない事だ。クーガーに耳元でデカい声を張り上げられれば、その鬼が迫るような圧力に誰だって泣きたくなる。

「まったくどいつもこいつも!」

 と言って、溜め息と共にようやくクーガーが少しばかり落ち着きを取り戻してくれる。

「いいか貴様ら。もし数年、いや、今後生きて出世するような事があっても、こういう上官にだけはなるんじゃないぞ!」

 だが理不尽にも怒鳴り散らされたアサ少尉は羞恥刑に加え、遅刻したもう一人の隊長と同じ立ち位置にいるものとしてクーガーの中で処理されてしまったようだった。とんだとばっちりである。アサ少尉の心は誰にも知られる事なく涙を流す。

 クーガーは、黙ったまましゃんとしていれば、それなりの色男だ。目鼻も凛と整っていて、その顔立ちには、軍にはあまり似つかわしくない上品ささえある。引きで伺えば長身な上手足もすらりとしていて、役者か、はたまたモデルかなにかと勘違いされる事もさほど珍しくはない。だが一度口を開けば、あっという間に小姑のような癇癪男の完成である。実際の小姑と違ってねちっこくなくてさっぱりしている分、だいぶ救いようはありそうだが、それでもこの電子レンジに入れられたダイナマイトのような危うさはあまり歓迎され得るものではない。

 そんなクーガーの様子を、グラウンドの外。フェンスの向こう側の茂みからこっそりと、二つの人影が窺っていた。

「あちゃあ……」

「まずいですね……出て行けそうにないふいんき」

「雰囲気でしょ。ふ・ん・い・き」

「あ、そっかぁ」

 先程、酒屋の前でばったりと遭遇した二人。ハルと、一見ノータリンの親仁である。

 親仁は、ハルが宿舎への行き方が分からないからと言って、親切にもここまで案内してくれたのだった。暇なのかな、と親仁に聞きたくなったハルだが、そこはぐっと堪える。なんとなく、親切にしてくれた人に対して失礼な気がしたのだ。

 小さい頃から「知らない人に付いて行ってはダメですよ」と家庭では言われていたものの、このおじさんは人畜無害であるという事を、彼女の観察眼は無意識に見抜いていた。幼き頃にカナを選んだ事と良い、ハルの人選の眼力は人並み外れた視力を有しているのだろう。

 そしてそんなハルの隣で共に身を屈めている親仁の手には、未だ冷蔵庫に収まっていない酒と、適当に見繕ったつまみの入ったビニール袋が、水滴を滲ませて、だらしなくぶら下がっていた。

「さて……どうやって行こうか」

 親仁がハルの方を見て言った。ハルからすれば当然の事だが、状況とは正反対に、親仁は全然困っているようには見えない。まるである程度煮詰った将棋板の上で指先を泳がせては、その行き先をなんとなく決めあぐねているようだった。

「あ、あの、ありがとう。もう大丈夫ですから、おじさんはもう帰って良いですよ」

 流石に、違和感なくあそこに混ざるまで付き添ってもらうわけにはいかない。おじさんはこことは関係のない人だし、なにより、ビールも温くなってしまうだろう。

「いや、そうしたいのはやまやまなんだけど、実は俺もそうはいかなくってさぁ……」

「はへ?」

 意味が分からないといった風に、首を傾げるハル。親仁はなにか逡巡すると、

「仕方ないか……」

 と言って、そろりそろりと動き出した。ハルの後ろから茂みを抜けて、フェンスの開閉口までいそいそと進む。

「ちょ、おじさん……?」

 まさか、このまま中に入ろうと言うのではなかろうか。常時厳重な警備態勢が敷かれているわけではないが、無関係者が突入して行ってはまず間違いなく後ろに手が回ってしまう。

「だ、ダメだよ勝手に入っちゃ! 怒られちゃうよ! 警察に捕まってお仕事首になっちゃうよ!」

「行かないと、逆に首になっちゃうんだけど……」

「おじさんだって妻や子供くらい……へ?」

「俺が手で合図するから、そしたらそーっと入っといで」

 すっくと立ち上がると、親仁はそのままグラウンドの柵を開けて、隠れようともせず、中に入って行ってしまった。一斉に集まる視線。猛獣のように怒鳴り出すデカイ男……クーガー。それを見越して既に泣き出しているのは、見習いのアサ少尉だ。

「なーにを、なーにをしているのですか中佐ぁ! 集合時間とっくに過ぎてますよ! しかも何なんですかそのビニールぶくうわ、酒だ! 酒だよこれぇ! こ、こいつ、き、きききき勤務時間中に酒なんか買って来てやがる! し、信じられない! ありえねえ! しかもお、おつまみまで!? ゲ、ゲソまでだとッ!? そして赤貝ッ!」

 クーガーによって喚き散らされる声は、ハルの耳まで一言一句こぼさぬ勢いで届いていた。

「あ、あなたは入隊の日を何だと思っ――ってなに変な踊りしてんですか! まさか既に酔ってるってのかい!? ウソだろおい!」

「あ……」

 あれは、合図だ。溺れた河童のような真似を見て、ハルはきっとそうだと確信し、静かに飛び出す。見付かるかもしれないという不安を背負いながらも、クーガーを始め、誰からも目に入れられないよう、こっそりと、列の最後尾に並び込む事が出来た。

 

「……というわけで、こちらが陸兵隊西方区画長『シンネイ・クジョウ』中佐だ」

「あい、どうもよろしく」

 なんとあの間抜けな親仁は、ここ西方区画に防備された陸兵隊の総指揮官、それも、東西南北に存在する全ての防衛区画の陸兵隊の指揮官中、北方に継いで第二位の指揮権限を持つ、陸兵隊の重鎮中の重鎮であったのだ。

 ハルも、クジョウという将校の名は幾度となく耳にしていた。空兵との連携に関する授業の度に幾度か教官の口から聞いていた名だ。彼が指揮する部隊は、現地の戦闘部隊と、まるで一対の手足のように連携を取るという。

 それと同時にぐうたらでも有名だったが、しかし、まさかこれ程の御人とは思わなかった。街の酒屋で出会うなどとは誰が想像出来ようか。彼の顔を見るのも初めてであったし、ハルがあの親仁を軍の重鎮だと予測出来ずともそれは致し方ない事だ。誰も迫れまい。

「ええええええええッ!?」

 ハルは、目を丸くして驚いた。つい咄嗟に口を突いて出た悲鳴が、大空を駆けて行った。

入隊式は、特に行われなかった。厳密には行うつもりであったが、予定が大きく狂った。原因は、言わずもがな。

 部隊は編成を再度確認した後、グラウンドを所有する支庁の分隊室へそれぞれ移動する。支庁の中は至って質素な造りとなっていた。見栄えとしては、横長の建物の各階に長い廊下が左右に伸びていて、廊下の左右の壁に張り付くように、部屋の扉が二つずつある。扉はどれも白い物で、タイプはスライド式。随所にしっかりとした重厚さと高級感がある事以外、構造そのものは一般的な学校と相違ないように思える。

 その道中、ちゃっかり隊列に紛れこんだハルは、同じ隊の、他の隊員に背中を突かれ、驚きに肩を上げながらもそっと振り返った。

「君、さっきいなかっただろ」

 話し掛けて来たのは、青髪の青年だった。がっしりとした体躯はハルが見上げる程高く、その浅黒い肌は如何にも健康的であった。目付きも鋭く、一見して激しい気性の持ち主のように思えた。

「え? あ、あのののなんおはんあしでせう?!」

 そんな典型的な怖そうなお兄さんに確信を突かれて動揺するハル。隠そうにも、それは露骨に態度に出てしまう。

「いや、隠さんでもいいよ。告げ口するつもりはないから」

 だが青年の口調は至って穏やかであった。眼下でふためくハルを見下ろして、笑顔でこそないが、静かにそう告げる。

「俺は、人の足元を引っ掛けるとか、大っ嫌いなんだ」

「あ、ありがとうございます」

 良い具合に命拾いしたと思い、ハルはほっと胸を撫で下ろす。味方かどうかはさて置き、青年は、少なくとも敵ではないように思える。

「だがな、嘘も嫌いだ」

「う……」

 などと自分勝手な解釈をしていたところに、青年は、突然突っ撥ねるような事を言う。

「特に遅刻はいかん。全体の連携と認識がずれた挙げ句、すぐに一大事に繋がる」

 だが、青年の言う事は尤もであろう。理由はどうあれ、上手く遅刻を誤魔化せたところでハルが犯してしまったミスは消えない。

 これは、今回に限っては、なにか大きな事象に繋がる事はないだろう。だが、ハルがそれを包み隠し、誰も知らぬうちに消し去ってしまおうとした瞬間、それは悪意としてハルの経験に蓄積されていく。人間は経験で変化する生き物だ。もし嘘を成功した経験として蓄積してしまえば、やがて嘘を隠す術を心に覚えてしまうだろう。嘘を隠すのは楽だ。事実を虚偽に置き換える事が出来れば、面倒な瑣末事も大抵は思い通りになってしまう。これは大いに楽な事だ。そして楽を覚えれば、人間はその虜になり、離れられなくなる。そして虜になれば、繰り返し、やがて癖になる。

して、その時生まれる者が通称“嘘吐き”と呼ばれる人間なのだ。

「嘘は信用をなくす。忘れてはいかんぞ」

「き、肝に銘じておきます……」

「君は素直だな」

 諭され、小さく肩を落とすハルを、少しだが、青年は優しく褒めてみせた。その時だ。青年がハルに向かって、ようやく笑顔を見せたのは。

 丁度そのくらいに、ハルのいる隊は分隊室の前に到着した。『区画第七分隊室』と、ドアの上から真っ直ぐ飛び出たプレートに書かれていた。ここも学校的な施設の形であった。

「ここだ」

 分隊長であるクーガーが、分隊室のドアを開けて、隊員各位を招き入れる。その脇を通り過ぎる際にハルが感じた異様な緊張は、罪悪感から来るものだろうか。

 罪悪感があれば、吐いた嘘は成功例ではなく、失敗例として蓄積される。成功例は気持ちの良い事として刻まれ前向きな心意気を作るが、失敗例は、気持ちの悪い事として、アレルギー反応を生み続ける。つまり、それは常にしこりとなるので、宿主を虜にする事はない。面倒な事にしこりは稀にその背徳感で心を掴んで放さず、まるでクスリの如く常習性を生み出し続ける事もあるが、ハルの場合、アレルゲンとしての気持ち悪さが一歩も二歩も先行していた。そしてハルは極端に正直な子だ。

「た、隊長!」

 クーガー諸共隊室に入るなり、背筋を伸ばし、大きな声で。極度の緊張感が、ハルの背筋を張った。驚いたのは先に部屋に入っていた青年だけではなかった。

「なんだ、あー……」

「ハル・ハルシオン二等兵です!」

「ああ、今年の新入りか。なんだ二等兵。言ってみろ」

「実は私、入隊式に十五分ほど遅刻しました! ここに来る途中、道に迷っていたところをクジョウ中佐殿に拾われて案内されて来たのですが、到着時、中佐と隊長が揉めているところ、恥ずかしながらも隊列の後ろにバレないようにそーっと紛れこんで――

 ハルの頭上に、張り手でなく、クーガーのゲンコツが落ちて来た。それから始まった小一時間の説教を聞き続けた後、ようやく小隊のオリエンテーションが始まった。

 

 西方陸兵隊第七小隊クーガー隊。主に、西方区画で防衛線を張る『有翼兵』の支援活動を目的とした、多目的支援活動を行う部隊である。直接的な戦闘行為はほとんど行われないものの、その任務は極めて重要と言える。

小隊人数は、隊長のクーガーを含め、機動力を重視した精鋭六人。

「都立第二防衛陸科卒、二十六歳、ナツキ・アーリマン准尉であります」

 小隊の指揮を取るのはクーガーの役割だが、彼が直接立ち会えない現場での指揮は全て彼に託される。

 結果ハルに自供を促す事となった青髪の青年の名は、それだった。やや乱雑に分隊室に並んだパイプ椅子の前列で、彼は自身の身分を紹介した。

 一面の白い壁は経年で濁り、分隊室の歴史を物語る。ハルがここに来る遥か以前から、何百何千というあまりに多くの陸兵達をここに集め、何万何億という作戦を作り上げて来た。これからもそうするのだろう。ハルという一個人も、これからその幾星霜の歴史の一端を担う者となっていくのだ。今こうして自己紹介をする者達も同様に、やがてここにいた人間として濁りの中に語り継がれていく。そして、その濁りを守り続けていく事こそが、彼らの命題だ。

「え、えらい人だったんだ……」

 ハルは後方の列で目を丸くし、小さく零した。クジョウの件と良いナツキ准尉の件と良い、上司や先輩にどうやら縁でもあるらしい。それも、皆組織の重役や中核中枢クラスばかりに出会っているときた。世間的に見れば、出世に有利に働きそうな運の良い縁だ。だがいちいち気の抜き辛い状況に、楽観主義的なハルとしては、少々複雑な心持ちになる。ハルのような年齢の子にとっては、楽しい友人や、頼れる先輩や後輩の方が良縁である事は間違いないだろう。若干十余年の子に、今から出世の秘訣など、いくら与えたところでほとんど意味はない。それが本当に役に立つのは、心身共にもっと大人になってからだ。

「防衛二課卒、四十七歳、ミハエル・エイガー軍曹だ」

 ナツキの右隣の男が、徐に立ち上がる。ナツキより遥かに大きな体躯。ナツキがアスリートの身体付きなら、この軍曹の身体はレスラーのそれだ。頭髪の禿げ上がった頭には代わりにいくつもの傷跡が彫り込まれ、顔付きも、凛としたナツキと比べると遥かに強面。目付きも荒々しく、軍人というよりは、豪傑な武人のものに近い。年齢的にはとうにベテランの域は踏み越えているであろう彼がなぜクーガー達より下の階級にいるのかは、ハルには分からなかった。ただ、クーガーが彼を見る眼差しが部下に対するそれとは明らかに違っているという事だけは分かる。厳しさがないのだ。変わって、常にそこを見計らおうとする尊敬と、ハルはもとい、他の部下達に見せるそれとはまるで異なる、余裕のない険しさがあった。

 だがミハエルは、クーガーにも誰にもそれ以上なにも言わず、雑な仕草で腰を下ろした。その様子にしかめられたクーガーの表情がハルの脳裏に焼き付いて、それがしばらくの間、どうしても抜け切らなかった。

「よろしくお願いします、軍曹」

 そんなミハエルに、クーガーは違う言葉を催促する。隊に対する広告的なものではなく、クーガーによる、ミハエルへの個人的な接触だ。故に、前に立つクーガーの表情は一定であった。自身が隊を率いる以上、先輩同輩無関係に、隊長としてかく在るべきとしている。そこには一切の油断もなかった。それだけ、ミハエルという軍人がクーガーの中で優れた人物であるという事だ。それが、一軍人としての優秀さを示すものなのか、それとも、ミハエル・エイガー個人を示すものなのかは、クーガーの持つ彼への印象のみが知るところだ。

「ああ」

 ミハエルはそう短く返した。呟きにすら思えるその相槌の声さえも、砂利ヤスリのように酷く荒々しい。たったそれだけのやりとりだが、年齢通りであればまだ中学を出たばかりのハルが椅子の上で委縮してしまっても致し方ないと言えよう。大の大人が二人して睨み合っているという、このギスギスした空気も悪いのだ。多感な時期にあるハルにとってそれはいわゆる怖い物としか感じ取れない。増してや、二人して軍の御偉方だ。気軽に意見出来る者もいない事に、ハルは、胃がキリキリするのを感じた。

 背景カナちゃん。どうやら私の方が先に老けてしまいそうです。

「まあまあまあまあまあまあまあまあ隊長もオヤジさんも、あんまりカリカリしないで。ね? ほら、こんな小さい子が怖がってますよ?」

 だがそんなハルの気を揉むような憂わしさは、左隣の男の余程軍人にはそぐわない軽薄な物言いで、膝の上から一気に昇華してしまう。ハルが隣を見ると、言葉通り、あまりにおちゃらかしたような奇怪な髪形の男が足を組んで座っていた。奇怪と言っても、あまりにも右に極端な赤いアシンメトリーに、ハルが一瞬怯んだ程度に過ぎないが。

「やあお嬢さん」

「え? あ、どーも……えへへ」

 ひらひらと手を振る男に、ハルは自然と愛想笑いが出た。

「カーティス・ガーファンケル曹長。発言を許した覚えはないぞ」

 そんな彼にクーガーは頑として諫めようと腕を組み、視線を押し付けた。だがカーティスと呼ばれた男は悪びれた様子など見せず、相変わらずふらふらと。

「止めましょうや隊長。互いを紹介し合うのに、なにもあえてピリピリする必要ないでしょう」

 作戦前から疲れちまう、と、まるで人を食ったように言う。とてもではないが、上官に向けて済まされるような言動ではない。鉄拳制裁、場合によっては懲戒、ケース如何では最悪独房入りという事もありうるだろう。だがそれ程の部下の非礼に対し、クーガーは眉の一つすら動かす事もなかった。茶飯事だとでも言いたげに、真っ向からカーティスに言い返す。

「常に気を張っていなくては、戦場では生き残れん……それとハルシオン!」

「はひっ!?」

 急に矛先を向けられ、無関係だろうと括っていたハルは思わず裏返った声を上げた。

「だらしない喋り方をするんじゃない! なにが「えへへ」か!」

「す、すみません!」

 あんなものただの愛想笑いだというのに、とんだとばっちりである。これでは苦笑いも迂闊に上げられないのではなかろうか。

「貴様遅刻ばかりかそんなだらしない事で任務が務まると思っているのか!」

「まあまあ隊長。そんな事言ったって、どーせこの都市はここ何十年も襲撃を受けちゃないんですよ? ねえお嬢さん?」

「ふぇ!?」

 カーティスの物言いに、またもハルの口元が緩んだ。だが、カーティスの言った事は紛れもない事実でもあった。ルーブルシアが不定期的にディザスターによる襲撃を受けていたのは、今から凡そ十五年も昔の話になるのだ。

 今から遡る事更に二十年もの昔、総数千余にも及ぶ群れで押し寄せたディザスターの大規模侵攻をわずか一都市の戦力で凌ぎ切った事により、ルーブルシアの名は、近隣で最も防衛力の優れた都市として知れ渡る事となる。それ程の知名度と信頼性は、やがて、人類が待ち望んでいた『英雄』の登場を人々に信じさせた。

 そう。今の時代に必要なのは、反攻の起点となる英雄の参上だった。

 当時のルーブルシアの都市議院は、英雄の名を旗本に集結した各都市の戦力を募り、焦土にすらなれず無人となった南方の都市を取り戻すべく、反攻作戦を開始。機械外郭部隊を用いた大規模攻略戦……後の『アルアトリア反攻作戦』が始まる。

 アルアトリアはその頃からディザスターの最も大きな起点となっている事が判明しており、ここを取り戻す事が出来れば、近隣都市への被害が大きく減少する事が予想されていた。案の定、敢えて取り逃したディザスターの多くはこの都市に逃げ延びていた。決死の偵察部隊による報告でも、アルアトリアに群生するディザスターの数が近隣の無人都市と比較しても圧倒的である事が伝えられていた。

 結果は見ての通り、多くの犠牲を払ったものの、連合軍の勝利にて幕を閉じたのである。

 最大の拠点であり逃走先でもあったアルアトリアを失ったディザスターは、往々に当てもない逃亡を開始。その後しばらくは小競り合いこそあったものの、やがて近隣からの救援要請も徐々に少なくなっていった。そうして、いよいよルーブルシア周辺に束の間の平穏が訪れる事と相成ったのである。

「俺達の代で、そんな大仕事なんて回ってきやしませんって」

 それが、今から二十年前の事。

 最強の防衛都市と言われ、敵なしと謳われたルーブルシアの面影も、長らく続いた平和により、ディザスターの脅威と共に今ではすっかり霞んでいる。

「それを言うな」

 それは、軍上層部や都市の議院も同じ事。中には戦後の復旧に当たり、各国との立場関係や、国際連合に於ける主導権を握るため謀略を働いている者がいるとされる風潮すらある。これはあくまで巷の俗話だが。無論、全ての首脳が世界的危機を忘失し、思惑を巡らせているわけではない。例えば西方区画司令のマジソン・バージニアなどが、愛都心の強い者として知られている。そして今目の前にいるクーガー・クラウスなど、軍ではまるで愛都心の塊のような男として知られている。

 一方で、彼らのような人間が減っているというのも現状である。

「五百年も辛酸を舐めさせられたんだ。少しの息抜きくらい、都民には与えられて然るべきだろう」

「一般人だけなら、良いんですがねぇ」

「お前が一番弛んでいるんだろうが!」

 かく言うクーガーも、近年では少々気持ちに緩みが現れ始めていると言っても過言ではない。常に全力で戦える人間などいない。厄介なのは、それが気の緩みだと気付けずに、今が全力であると勘違いしてしまい肝心な時に気持ちの切り替えが出来ない事だ。オンとオフの切り替えが出来ない者に、長期戦を切り抜ける事は出来ないと言っていいだろう。これは、力配分が必須である実戦に於いて、経験の少ない者に最も多い症例だ。勢い余って前に転ぶとはこの事である。

「まあいい。次、さっさと顔合わせを終わらせるぞ」

 延々と引き延ばされるやり取りに無理矢理終止符を打って、クーガーが急かすように促す。

「はい。というわけで、カーティス・ガーファンケル曹長です。卒業はそこの厳つい鬼軍曹と同じく。現在二十五歳。以後よろしく」

 カーティスはすっくと立ち上がると、見た目に相反した、まるで紳士的な物言いで述べた。最早多く語る必要はない。彼はそういう男なのだ。

「次」

「は、はいっ」

 クーガーの声に、ハルから見てカーティスを挟んだ向こう側の、窓際の席でひっそりとしていた少年がいそいそと立ち上がった。背はあまり高くない。同年代の子らと比べると寧ろ低い方だろう。ほっそりした童顔に埋まった双眸はあやふやな行き先を頻りに泳いでいて、俯いた半泣きのような表情も、頼りなくぶれる。芯の抜けたような喘ぎを漏らしながら、彼は、本来見やるべきである筈のクーガーを捉えられないでいた。

 なんとおどおどした振る舞いであろうか。それに加えて彼は身体付きまで女子のように華奢ときているものだから、誰の目にも、まるで見世物小屋で震える小動物のように映った。いかにも戦をするには不向きそうに見えるが、その自覚があるからこそ、非戦闘員である陸兵を志願したのだろうか。

「と、トーマ……サカモト二等兵……です……。えっ、え、と……」

 少年が言葉に詰まったところで、腕を組んだままだったクーガーの眉尻が動いた。途端に鋭くなった目付きが矢のように、少年の心臓を突く。

「聞こえん!」

「ひっ……」

 突如上がった怒声に、少年の跳ねるような呼吸はほぼ音もなく頬に埋もれた。

 前方に仁王立ちしたまま、動揺を続け、肩を竦めて目尻を湿らす少年をクーガーは睨み付る。

 気が弱い者はいる。それは実社会のあらゆる環境に於いて、少なくとも一握り以上は間違いなく存在する。これは人間が十色である以上等しい環境だ。

それは大いに結構。気性など人があればそれだけ存在するのだから。それがクーガーの持論だ。肝心は、自身のそのノミの肝と如何にして付き合っていくかだ。

 気の弱い者は往々にして、ステージのセンターに立つ事を嫌う。

観衆に耐えられない。責任という名のプレッシャーに押し潰されそうになるから、敢えて日の当たる場所を避けて通る。否、近付こうとさえしない。

 なら気の弱い者はどうすべきか。それには実に容易な回答がある。センターに立たなければ良いのだ。センターに立つ者を裏から支え、先んじて道を開拓すれば良い。するとそこには、自身の居場所と同時に、センターに立つべき者の独壇場が生まれる。

 だがそれは、常に一歩引いた目線を持てる、気の弱い者にしか出来ない事だ。

 強か物は総じて前以外を見ないものであるから。

 よって、小心者である事は決してマイナスになるとは限らない。要は、全ては己の天性である、性格との向き合い方次第なのだ。

 だが、だ。

「声を張らないか、馬鹿者!」

「すっ……すみませ…………」

 これは、いけない。彼は完全に“気の弱い自分に負けている”人間の眼をしている。

 気の弱い自分がいる。その自分を自覚している。自分に自信がない。なにをやっても上手くいかない、いくわけがないと、始めから思い込んでしまっているのだ。

「謝罪はいい。早く名乗れ、さっさと次に移りたいのでな!」

「と……トーマ……サカモト二等兵……で、あ、ありますっ……」

 全身をビクつかせて、少年はようやく『トーマ・サカモト』と、自らを名乗るに達した。だが困った事に、それ以上の言葉は出ては来なかった。

「隊長。彼、隊長の顔が怖くて喋れないそうですよ」

 退屈そうに首を慣らしながら、カーティス。

なんとか助け船が来た。これで、嫌な事から助かる……。トーマの顔が一瞬、そんな勘違いを汲み取ってしまい、緊張を解いて。

「ま、ディザスターの方が億倍怖いんだけど、ね。なぁお前さん、実戦でもそんな感じでいるつもりか?」

 隣に立つまだあどけない新人の少年を見上げて、抑揚なく、カーティスは突き放す。

 ハルはそれを初めて目にする事になる。これが、カーティスという男なのだろう。

 不真面目な風貌を惜しげもなく見せ付けておきながらも、その実、要所ではその楽観的な物言いから来る安堵感への退路を、ただの楽観主義に堕ちた者の目の前で粉々に砕く。

『ああ、曹長なら適当に逃げられる』『曹長なら、どうせ一緒にサボってくれるだろう』

 群生する事で安堵感を募り、同じ境遇、立場の者を複数作り出す事による集団心理で罪悪感と自責から逃れようとする者を、そんな考えは甘いのだと、突き放す。

 そしてカーティスに活路を見出せなくなり孤立した者は、誰にともなくこう思う。

『あいつだって』『なんで俺だけ』

「お前さんが死んじまうのは、まあ、勝手よ。目覚めは良かないがね。でもそれがきっかけになって、他のやる気のある仲間が戦死してしまうようじゃあ、そりゃあ良いわけがない。そうだろ? だって、なんだって士気のない奴のわがままで勇者が一人犠牲にならなきゃならないのよ」

 全面的に正しい、カーティスの言い分。トーマには反論の余地など、高々一片ですらも用意されていなかった。

 そもそもトーマには、始めから反論する気すらなかったのだが。

 もしその余地が、必要性があったとしても、反論などしたところで自分が誰かを論破など出来るわけがないだろうと始めから思ってもいた。

「曹長」

 怒るでもなし、叱るでもなし。ただただ諭すように続けるカーティスに、クーガーがようやく。

「言いたい事はよく分かるが、今はお前が発言する時ではない」

 今までにない程、柔らかに。それこそ、カーティスを宥めでもするかのように、クーガーは彼に静止を掛けた。二、三視線を交わす。相槌にも満たない程の、短い間のそれ。だがそれは確実に、今のカーティスから流れ出る闘争本能を無音のまま抜いていった。

 すると今度は、両者の境で目を回すトーマに向けて、言った。

「二等兵」

「は、はい……」

「返事を」

「はいっ」

「意志の伝達は、我々の任務に於いて最も重要なファクターだ。あれがどうした。何が必要だ。速やかに完了可能な仕事はこれだ。組織にとって、本部と現場の情報の伝達は正に命綱だ。分かるな」

「はっ……」

 分かっていた筈だ。これは、陸兵に志願する上で、最も基本的であり大切な事だと、教官になによりも早く教え込まれる事だ。

 伝達。それは組織活動にとって、歩くなどという段階のプロセスではない。

呼吸だ。なくては機能しない。それどころかそれが消えた時こそ、本当に組織という枠が“死んだ瞬間”なのである。

「分かったら声を出せ」

 そして、組織を生かすも殺すも、そこに集まっている人次第。組織とは“人という細胞”を持った“人”であり一生命体だ。生命体の死は、即ち。

 裏方が死ぬと、それだけで、全ての舞台は台無しになってしまう。

 気の弱い者、強い者。陸兵と、空兵。

 共闘するそのどちらか一方が欠けてしまった時こそ、ディザスターの侵攻は留まる事を知らなくなる。そうして、世界規模でシナジーを失った人類は、敵に対抗するために、世界を壊していく以外の術を失ったのだ。

『声出し』

 体育会系のする事と一般には疎まれがちなその風潮は、その身を以って人々に意志疎通の必要性を教え込ませたと言っても良いだろう。

 そして彼トーマもまた、都市を守る者として戦う術をその身に染み込ませていかなくてはならない。

「は、はいっ」

 今までで一番大きな声を、トーマはようやく出す事が出来た。比較にならない程威勢の良い声に、ようやく理解を得る事が出来たかと、満足げに頷くクーガー。

「今後も返事はそうするように」

「はっ、はいっ」

 声量は、まだもう一歩と言いたいところだ。まだ腹から声を出せていないのがその所以だろう。だが声を張る事に対する躊躇は見られない。立つための助走がいらなくなる。これはとても大きな進歩だ。

「最後。遅刻したお前」

「はい!」

 トーマが座ると同時、クーガーはハルをじろりと見やる。だがハルは動じる事はなかった。肝が据わっているのか、それとも、ただの怖い物知らずか。

「イージス学園から来ました、ハル・ハルシオン二等兵であります! 十五歳です!」

 実はハルの場合はその両方で、厳密に言うと、そこにはもう一つの理由が入る。

 一応、お咎めは受けましたし。

 一見反省の色の見えない思考のようだが、理由はどうあれ、罪悪感から自首して叱られた後などまあそんなもんだろう。ハルのように大らかな性格の子の場合は尚更である。一種の自己満足が成就している時程悦に浸れる事などそうないものだ。

 ハルの大きな声に文句を言う者はいなかった。カーティスなど寧ろ予想以上に胆力のありそうな子だと、面喰ったように見詰める始末だった。前以ってハルの明るさを認知していたクーガーは勿論動じない。ミハエルなど、仏頂面のままで、ハルの方など見ようとすらしなかった。

「陸兵に女は基本的にいない。イージス学園出身なら尚更だろうが、早く環境に慣れるように」

「はい!」

 クーガーからの追撃を受ける事もなく、ハルは名乗りを終えられた。何か言われる事もないだろうと思っていたが、案の定、それ以上クーガーからのお叱りを受ける事はなかった。心の隅で安心して、クーガーの視線に応え、ハルは再び着席する。

 その後のオリエンテーションは至って単調なものだった。施設の案内、担当区画地域の下見、備品の保管場所や簡単な注意事項などを淡々と説明され、それを流す程度に聞いているだけ。最後に担当区画地域をざっと練り歩くと、日はもうだいぶ傾いていた。

「以上で今日の軍務は終了だ。それぞれ明後日からの訓練に備えるように。以上だ、各自解散」

 そして、クーガーの一声を最後に、ようやくの解放と相成った。


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