なにを思ったか、それこそが本人の行動原理を決めるものなのだから、なにをすべきかが大義であっても根幹にあるものは変わらない.1
姿鏡の前に立って、まだ皺のない制服の袖に腕を通す。緩んだタイを締めると少女の口から思わず「おお、兵隊っぽい」と零れた。
金の刺繍と銀のチェーンで装飾された大層御立派な、モスグリーンの制服であった。制服の胸元からは、今ほど締め直したばかりのネクタイと、下ろしたてである真っ白のワイシャツをちらつかせていた。タイ生地の赤は、陸兵の証。無地の上に、大河の如く斜めに引かれた銀色の刺繍は、歩兵の証だ。その大蛇のようにうねる様は、雲の上で天駆ける銀河を表している。見てくれは新米の兵士でも、出で立ちだけは一人前に、凛々しく揃えられている。だがそんな中に一ヶ所だけ、兵と呼ぶには似つかわしくない部分が、いやに目立つ場所からその情けない格好を主張していた。
「寝ぐせおっ立てた兵士どこにもなんていないよ」
その問題である寝ぐせ頭に、細い指が後ろから差し込まれ、二、三わしわしと揉む。
「色むらがなくて綺麗だし髪質もサラサラなのに、どうして寝ぐせだけはなかなか治らないの?」
「ん~なんでかなぁ……」
指摘に倣い、鏡の前の少女は頭頂でぴょんと立ったショートヘアに何度も手櫛を入れるが、意固地な寝ぐせは頑として言う事を聞かなかった。何度も何度も指を通しても、可愛らしくも栗色の髪の毛は立ち上がり、「撫でて」と言わんばかりにその毛先を傾けて来る。少し長めに手のひらを押し付けたり下に引っ張ったりと試行錯誤するも、なかなか思うようにいかない。少女は怪訝な顔でぶーたれて天井を仰いだ。いつもと同じ天井だった。
「ああんも~」
「ほら、貸してごらん」
そうやって鏡に映った寝ぐせに向かって頬を膨らませていると、細指の少女が桜色の櫛と霧吹きを持ち出して、強かな寝ぐせを躾け始めた。細指が髪の間を縫う様は手慣れている。細指の主である少女自身の長い金髪も、櫛の挙動に合わせてゆらゆらと、軽快な仕草で左右に揺れた。あれだけ頑固で強情っ張りだった癖っ毛も押し寄せる霧吹きには逆らえず、櫛を通す事三度目、根を上げて倒れ伏しついに沈黙した。 接戦の末納めた勝利に、細指の少女は、霧吹きと櫛をひらひらと掲げて。
「はいオッケー」
「えへへ、ありがと」
「どう致しまして」
鏡の前の少女は肩越しに、細指の少女は少し背の低いそれを覗き込むように、お互いに、目を合わせて笑い合う。まるで面倒見の良い姉と、甘えん坊の妹のように。
寝ぐせの少女は、優しい少女が好きだった。細指の少女もまた、可愛らしい少女が好きだった。三年前、同室となった時から間逆の人間性を持つ筈の二人は不思議と馬が合い、どこに行くにもよく行動を共にしていた。性格が正反対であるからこそ、凸と凹がぴったり重なり合うのだろう。そして二人は根本的なところが似ているからこそ、プライベートを共有しても苦痛となる程には摩擦も起こらなかった。
「ほら、行くよ」
「うんっ」
あれから三年後の今、今ではもうずいぶんとすっきりしてしまったこの部屋を、今度は揃って飛び出す。外に出ると、細指の少女が戸に鍵を掛けるのを、寝ぐせの少女が待つ。
「……よし」
何度も味わった、細指の先に響く、確固たる手応え。もう味わう事もないであろう鍵の音の気味の良さに、頷く。
三年。思えば長かった。そして短かった。二人揃ってこの部屋を出て行くのは、きっとこれが最後になる。以後の配属が違えば道も違う。次二人が出会う時は、寝ぐせの少女が救護場に担ぎ込まれた時になるだろう。
「えっと、どこ行くんだっけ……」
「はぁ……」
だが肝心の寝ぐせ少女がこの調子なので、細指の少女は図らずも不安になってしまう。もし”外”に出てもこの調子が続くようでは、何かある度にすぐ血みどろになって担ぎ込まれて来るのではなかろうかと頗る心配であった。
「それ、ぜーったいに上官の前で言っちゃダメだからね?」
「わ、分かってるよー。心配性だなぁ、もう」
大丈夫だと寝ぐせの少女は言うが、これであるため、信憑性が決定的に欠けている。
まあ、入隊すれば少しはしっかりするだろうと思い直して、寝ぐせ少女と手を取り合って歩き出す。そんな細指の少女の名は“ルル・アルカ”少し大人びた少女。
「ほら、卒業式遅刻しちゃうよ。アリーナに行こう、ハル」
「ああん、待ってよルーちゃんってば、引っ張らないで~」
寝ぐせの少女“ハル・ハルシオン”にとって、そして、この灰色の世界にとって、大きな転機となるきっかけを与える事になる、少し大人びた少女。
人類が、国境、人種、遺恨を忘れ、手を取り合って全力で生き延びる道を選んだのはいつの事だったろう。一時の冷戦期や混沌期を顧みるに、今のような部族体系を取り戻す事が出来るとは当初は誰もが予想出来ていなかったように思える。誰が言い出したのかは覚えていない。あの日、世界が壊れてから今日までの時間は人類という種が忘却に耐えるにはあまりにも長過ぎた。
去る西暦二千百二十年。際限なく繁殖を続けた人類は、枯渇する物資問題を解消する手段を見出せず、資源と国土を奪い合い、実体のないマネーゲームに興じながら知らずうちに隣家にさえもミサイルを撃ち込むようになっていた。混沌期第一期。全ての人類が滅びの予感に狂い略奪と現実逃避に奔走していた時代。
そして、それから数年後の更なる混沌期に入ると、その頃すらまだマシであったという声すら上がり始めるようになる。
西暦二千百三十四年。世界経済の中核を担う大国々で発生した大規模な内乱、そして、それに触発され暴徒と化した市民軍による略奪と、腐敗し、まるで機能しない大国軍に代わり対抗する義勇軍との戦争が各地で競うように起り出す。
結果、現存する国々は徐々にではあるが内部崩壊していく事となる。
大国群の内部崩壊を皮切りに、世界経済は完全に瓦解した。紙幣は紙切れ同然となり、金銭の価値そのものが崩壊する形となった。社会は、全ての人の業を呑み込む事など出来はしなかったのだ。
翌三十五年。国交消滅。全世界の国が鎖国を開始。当てにならない隣国との関係を捨て、自国のための、自国による自国のための生産活動を開始した。混沌期第二期。全世界に、完全なるガラパゴス時代が到来したのである。この年、教育機関から地理と世界史、そして外国語の授業が消えたのは、当時は特に衝撃的な出来事として人々の記憶に残された。
だが消えた授業は、十年後のある日を境に途端に再開される事となる。
西暦二千百四十年。どこにも味方のいない、生々しくも、貪欲に資源のみを求めた前代未聞の世界大戦の火蓋が、ある日突然切って落とされた。全ての国が、自国以外の全ての国と戦争を始めたのだ。
発端は定かではないが、一説によると極度に村社会と化した結果独占欲を再燃させた西の列強国が密かに隣国を引き込み、全ての国を植民地化しようと企てたのだとされている。尤も、それは単なる俗説に過ぎないというのが大凡の認識であるが。
だがそんな泥沼の戦いでさえも霞むような事件が起こる。国が他国に対し無関心を見せ始めるようになってから、僅か十年後の事だった。
それはなんの前触れもなく、人類の目の前に現れた。
西暦二千百四十五年。推測直径三千四百キロメートル。木星の衛星軌道上に、突如として謎の球体が発現した。物質は移動する事なく、木星の衛星軌道に留まったまま不気味な沈黙を保ち続けた。
その物体の出現と同じ頃、かの列強国付近を中心に巨大な生命体の存在が確認されるようになった。それらは既存の生命体を乗用車サイズにまで拡大したようなその風貌で発見と同時に科学者達を震撼させるなり、思いの外、形振り構わず人々を襲い出した。
そのあまりに気味の悪い生物に、人々はただ恐怖した。それらは、地球に生息する“虫”と全く同じ外見をしていたのである。
ただ、地球上の虫と違う箇所と言えば、人肉を好んで食すという事、そして、特殊な単一細胞体であるという事だろうか。
既存のあらゆる細胞と接点を持たないその細胞は“物理”という概念に対して強力な耐性を持つという常識破りの性質を具えていた。
弱点は不明。上記の他に判明している事と言えば、特定の巣を持たず、あらゆる環境の変化を即座に解明し、僅か数日のうちに順応し、自身を最適化する事。そして昼夜も気候も問わず活動し、雌雄による生命活動域の制限さえもないといったところだ。
そのような非常識な性質を持った生命体に対し、人類は成す術もなく同胞を食われていく事となる。その驚異的な生体から、人類は虫の形をしたその生命体を人類の誕生以来最悪の災害と呼び、遠方の時の言葉より『ディザスター』と学名付けた。
そんなディザスターに対して人類が取った道は、今一度各国間の協定を結び、彼らを駆逐する事だった。だが物理的な干渉に対し強い抵抗を持つディザスターに対し、如何に最新鋭の兵器を持ち出したところで目に見える程の効果が現れる事はなかった。そもそも長らく国交を排除していた人類は、ただちに手を取り合うだけのノウハウさえも失っていたのだ。結果人類は、最後に残された手段、唯一ディザスターが耐性を持たない核兵器を用いて、地球規模の焦土作戦を展開していく。
そんな不毛な戦いが始まってから、早五百余年の月日が経とうとしていた。
ルーブルシア都立訓練生養成専門第一学園。機関名称は『イージス女学園』という。同都立第二校である『レーヴァ学園』と共に四百余年もの過去に、都市を守護する術を体得するために設立された専門学園である。健康体で、且つ初等部さえ卒業していれば前歴問わずに入学を受け付けている。ハルも、初等部を出ると同時に勇み足上等で入学したものだった。
それから三年。今日は待ちに待った学園の卒業式。ハルも勿論の事だがこのアリーナに集まった生徒のほとんどは、今日この日を今や遅しと待ち続けていた。卒業後はただちに軍属となる。それを踏まえた上で入学する者の集まりである以上は当然の事といえる。
しかし、どこかで聞き覚えのある学長の高説を、ハルはまるっきり余所に聞いていた。
学長の話に興味がないわけではない。下らないと、眼下に見ているわけでもない。ただ同じ内容の話を何度も聴く気にはなれなかったし、なにより議員出身である学長の弁は、完全に同意する反面、教科書的で心打つものが今一つ足りない。
しかし自分と全く同じ意見がある事に、入学式では確かに驚いたものだ。だがイージス学園入学後は、いざ干戈を交えよという意思を持った者が予想外に多い事に気付き、興奮を覚えると同時に自然とその集団意識に溶け込んでもいった。類は友を呼ぶとはよく言ったものだ。尤もハルの場合は、その類の群集の中に自ら飛び込んで行った形になるのだが。
ハルは自分の配属が下されるのを、入学前から心待ちにしていた。先にある青春を全て擲ってこの道を選んだのだ。確かにこの三年間、苦しくもあったが、それは根本的には全て今日という日を迎えるための通過点でしかない。ハルはここに遊びに来たわけではないのだ。朝のやり取りを見ていると、少し疑わしくなりかねない心意気ではあるが。
ともかく故、これで最後になるであろう学長の実に退屈な高説が早く終わるまいかと少しばかり忙しなくなる。当然だが、周りは見知った顔ばかりが多かった。ハルにとって真新しいものは、ここにはほとんどなくなっていた。そうすると、この拘束時間が余計に退屈だと感じられる。個人によって時間の流れ方は違うとは、この事を言うのだろう。
(これが、そーたいせーりろん……なのかな?)
手持無沙汰が過ぎると、人は時として自分でも信じられないような思考を弾き出すものである。
ハルはそう言えばと思い立つとルームメイトのルルの今が気になり出し、アリーナの左端の列から、真ん中辺りの列を注視してみる。ルルはそこ、治療班に属する、衛生科の列にいた。
(微動だにしてない……けど、少し退屈そう)
学長の高説中に余所見など、本来ならば懲罰ものだ。だが今ばかりは、それを戒めるべき教官の眼も大凡が学長の方へと向かっている。
ハルが次に気になったのは、アリーナの入口のハルとルルを目線で出迎えた少女……イージス学園生徒会長『カナ・アンジェラ』ハルとカナと幼馴染で、まだ“前の都市”に住んでいた頃から、ハルは彼女の事を姉のように慕っていた。カナは生真面目な少女だ。根がぐうたらなハルは、渡りに船といった様子で、自分の面倒を見てくれるであろうカナを、自分を守ってくれる無二の友人として無意識のうちに選んだのかもしれない。
ハルは探すまでもなくカナを見付けられた。生徒会長であるカナは、生徒の視線を一身に集めるステージの傍らに、まるで石のように動かず、山のように静かに、堂々と構えていた。
(私と同い年にしてあの貫禄……あれじゃあすぐに老けちゃうよ)
見る見るうちに老けこんで行くカナを想起すると、ハルの口角は無意識のうちに緩んだ。
式が終わると生徒らは一路教室へ。そこで担当教官より、部署と配属が言い渡される手筈になっていた。通常の教育機関である中学や高校とは違い、卒業後はそのまま配属となるイージス学園には、学友との決定的な別れに該当するものがない。事は都市の存続にも関わるため、学園の卒業生には通常の進学や就職といった展望的な道は一切用意されていない。もし配属以外の道を選択出来るとすれば、イージス、レーヴァ両学園の卒業生で最も優秀と認められた者のみ進学を許される、学院への進学くらいのものだろうか。
学院への進学は、非凡でもそう易々と叶う事ではない。毎年選ばれる、各部の成績優秀者の上位十名のみが、学院への進学を勝ち取る権利を与えられるからだ。
一方、そんな上位学院とはまるで縁のないハルは逸早く教室に戻ると、すぐにでも配属の発表が欲しい一心で、ざわめく教室の真ん中で担当教官を待った。席と机に固定されたように座る事で配属の発表に一秒でも貢献するつもりでいた。
「ハル」
そんなハルの背中に、静かに声が掛かった。担当教官はまだ到着していない。沸く教室に消え入りそうな声に、ハルは不自然な険しさを一変させ、暢気な表情で振り向いた。
「あ、リアちゃん」
振り向いた先には、ハルとは違い、日頃から変化に乏しい表情があった。ウェーブの掛かった焦げ色のショートヘアは、俯瞰では彼女の一番のチャームポイントと銘打たれている。有翼兵『イリア・アリア』
ハルとは違う白の制服は、空兵の証。空兵は、人工の翼を駆り、灰色の空を行く者の事を差す。有翼兵となれるのは、数ある兵科でも一層厳しい適正試験を通過した者のみだ。
イ リアは適当な椅子の背を引っ掴むとハルの席に対面させ、そこにスカートを抑えて滑らかに座り込んだ。女子ばかりの環境にあっても、品ある言動をイリアは常に忘れた事はなかった。
「忙しなかった」
「あう」
おちょくる様子も責める様子もなく、無表情の中イリアは口から落とすようにころりと言った。式でのハルの振る舞いについて言っているのだ。ハルは中央の列にいながらまさか右端の列から見られているとは思わなかったが、どうやら思いの外動作に現れてしまっていたらしい。
「よく見てるねぇ……」
「空兵は目が利くのよ。それに……」
「それに?」
「…………なんでもない」
ハルが首を傾げるとイリアは少し頬を染めて、ハルから顔を逸らしてしまった。イリアは、不都合な事でもあるのかと覗き込むハルから身を捻って逃げる。
「えー? 気になるよ?」
「なんでもない、ないったら」
「うっそだーだって今はっきり『それに……』って聞こえたもん」
「……言うんじゃなかった……それにそのモノマネ、似てない」
「っがーん」
ショックです、と一頻り泣きの仕草を見せるハルに、イリアは、今度はふっと柔らかく笑んだ。髪を上下に遊ばせるように肩で微笑むのが、イリアの特徴だった。
「ねえ、ハル……」
明暗豊かに、ころころと表情を変え続けるハル。
「なあに?」
それとは対照的に、イリアは少し心細げな顔が抜け切れていないまま、ハルに問うた。
「有翼兵に……戻るつもりはないの?」
イリアがこうして、腫れもののように問うのはだいぶ久しい事だった。
ハル達がイージス学園に入学して、割とすぐの事だった。今でこそ陸兵として卒業を迎えたハルであったが、始めはイリア同様、有翼兵として前線を目指すつもりでいた。
有翼兵の駆る兵器は、強い。恐らく、直接戦闘を一任される兵器としては人類史上例を見ない白兵戦用機といえるだろう。
だが入学から半月後、初の実機搭乗演習を機に、ハルは有翼兵からその身を引き、修学プランを変更せざるを得ない出来事に遭遇する。
実機に搭乗してこそ現れる才覚もあるのか、ハルのように途中で転進する学生は少なくない。適正審査の結果現在の部署が不適切であると診断されたり余所からのスカウトが発生したりした場合などに、教官から直に転進を教示される事があるからだ。審査は丁度、ハルが転向を決める日の数日前から、生徒達には内密のまま行われていた。そのためハルの判断も“状況から考察すると”違和感のある転進ではないと言えるだろう。
「あなたなら、きっと凄い有翼兵になれる」
勉学も技術も筋量も凡であったハルも、実機搭乗で初めてその才能が発現したタイプであった。ハルからすれば、それは本来踊り出したくなる程に喜ばしい事に違いなかったのだが、あの日の事を思い出したハルの表情は、つい一寸前を忘れたように晴々としなかった。まるで窓に映るこの灰色の空のように、少し、申し訳ないと、イリアに言う。
「今更戻れないよ…………それに、あれはもう……」
初の実機搭乗演習……模擬戦が予定されていたその日、ハルは、当時実習生であった若い教官の乗る機体を、先んじて破れ去った生徒達が見守る中、悉く撃墜した。
その光景は、まさしく一方的。地上の者は皆一様に、ハルが実習生の機体の四肢を解体してゆく光景に口を閉じられなかった。
幸い死者は出なかった。墜落の際、実習生が傷を負ったが怪我自体は軽傷の範囲。当然、ハルは全くの無傷。損傷した機体から降り注いだ煤や細かい破片まみれになった者はいたものの、生徒にも周辺にもやはり被害は出なかった。代わりに、実習生の胸の中にショックだけが残った。
実習生の体調に不備はなかった。機体も、実戦にも耐えうるだけの整備状態で、どこにも過失は見られない。それなのにハルは、生まれて初めて搭乗する機械外郭“フェアリー”で、生え抜きのパイロットである筈の実習生を、文字通り一蹴してしまったのだ。
「なんか、怖いし……」
陰鬱に沈む、ハルの表情。自分の一言でハルの思い出さなくていい記憶を呼び覚ましてしまった事に、居た堪れなくなる。イリアは無粋にもほじくり返すように聞いた事を少し後悔した。ハルが戻る決意をする事など絶対にあり得ないという事は、その後の様子を見れば誰でも分かりそうなものなのに。
これは、実機に対する恐怖とは、根本的に違う恐怖だ。ハルは、“フェアリー”という“機械が”怖い。パイロットが乗り込み、手足同然に支配し乗りこなす筈の偶人を、ハルは酷く恐れていた。
実機でのフライトに対する恐怖も、ないとは言い切れないだろう。多くの生徒の中には、卒業を迎えても未だにその恐怖を克服し切れないでいる者もいる。だが、ハルがフェアリーに対して抱く恐怖は、それとはまるで意味合いの違うものだった。
実機搭乗の予定日、ハルの体調に異変はなかった。ただ、ハルはフェアリーのコントローラーを握った途端、背後から、誰かに自分の背中にある糸を無遠慮に握られたように感じたという。勿論、ハルにマリオネットのような糸があるわけでもなければ、その在る筈のない糸を握る者が後部に潜んでいたわけでもない。
搭乗者とフェアリーは、フルスキンスーツによって擬似的なシンクロ状態となって空を自在に駆ける。そう考えると、フェアリーから搭乗者に、何らかの情報がフィードバックされる可能性があると考えられなくもない。だがフルスキンスーツは搭乗者の生体信号をフェアリーに伝える出力装備だ。受信のための機能は、痛覚や気温の変化までも搭乗者に伝えてしまうため、不都合足りえても得るものはないのでそもそも備わってすらいない。パイロットへの入口がないというよりは、フィードバックするという概念そのものが装備に存在しないのだ。
だが、例えばハルが感じたように、搭乗者がなんらかの形で、フェアリーに自分の意思を掴まれたと感じれば……。
「ごめんね」
状況が如何に深刻かは、容易に想像出来る。痛みも、怖さも、熱さも、寒さも、殺意も、その全てがフェアリーからパイロットにありのまま叩き付けられてしまうのだ。
そうならないために、フルスキンスーツには、フェアリーの背中に糸を付ける役割を専念させているのである。
「いえ……ごめん、余計な事を聞いて」
「ううん、もう大丈夫だから、あんまり気にしないでよ」
模擬戦の後、生徒はおろか教官一同までもが慌てる中コックピットから引っ張り出されたハルは酷く取り乱していて、ようやく落ち着いた頃、まるで死人が衰弱したように、半日程、意識を失い眠り続けた。身体的な異常こそ見受けられなかったものの、相当な精神的な消耗があったのだと思われる。夕方頃に目を覚ましても、ハルは夕食さえまともに受け付けられなかった。
転進の薦めは、女子にしては大食いであるハルのそんな様子を見たカナが「これはただ事ではないな」と推察し、導き出したものだった。もしもう一度、ハルがフェアリーに乗る事があったら……。もしかしたら、次こそは命にさえ関わるのではないかと、少々過保護気味に、教官に強く進言してくれたのだという。
尤も、次も絶対に乗りこなせないとは言い切れないのも事実だ。現役パイロットを凌ぐという意味では、ハルは一年にして学院への進学さえも許されるような大器であった。訓練次第では、英雄として名を馳せる事も出来たかもしれない。しかし誰も、ハル一人にそのような苦痛を強いる事はしなかった。あの場に居合わせた教官でさえも、ハルの実力を見て尚、演習中の事故として処理してくれた。
だが内心、今でもハルの有翼兵への回帰を望んでいる者は大勢いる事だろう。圧倒的な戦力、希望、英雄の誕生は、あらゆる羨望を独り占めにするような冠だ。そして……。
「ハル」
「うん?」
死に最も近い地上での戦いは避けて欲しいと、個人的に思う者。自衛力に欠ける希薄な装備での出兵は、死傷率を飛躍的に高める。
「怪我……しないでね」
「うん、大丈夫だよ。ありがと」
だがもし、ハルでない他の誰かが今のハルの立場にいたとしたら、イリアはその誰かを、戦力と思って接していたのだろうか。辛い思いをするのがハルだからこそ、有翼兵になれと無理強いをしないのだろうか。
イリア以外には、存在すら知られない問答。誰にも、素振りすら見せていない事。だからこそ、その答えは分かり切っている。そして分かり切っているからこそ、慎重に保管された自問の果てを他人が知る事はない。例え家族にも、知らせる事など絶対に出来っこなかった。自分だけが知っていれば、それでいいのだ。
「ハーールーー! イリアーーー!」
「わひゃ?!」
悶々とした少し熱っぽい空間に音を分け入るように、ハルの机に叩き付けられた物があった。闖入者の予期せぬ衝撃にハルの肩は引き攣り跳ねた。机を叩いたのは、ハルと同じ陸兵の『ミリィ・ミサオ』の両手だった。ミリィは満面の笑みでイリアとハルに順々に絡み付いては頬ずりしながら二人の間をざわざわと動き回る。
「お、脅かさないでよみーちゃん……」
「あははー、こんな事で驚いているようじゃ立派な陸兵にはなれませんぞー」
暴れ続ける動悸を抑え込むハル。ミリィはあっけらかんと笑うと、三十センチ四方の色紙をハルの胸元にぐいと両手で押し付けた。
「ほれ」
「ほえ?」
「寄せ書き。教官に渡すから、みんなで書いてんだ。イリアも、忘れずにちゃんと書いてね!」
ハルは受け取った色紙に目をやると、なるほどそこには色合い様々なペンやら筆やらで、十色の思いがしこたま詰め込まれていた。感謝の意を、黒のペンで。楽しかった思い出の一片を、青のペンで。返しても返し切れない恩を、桃色の筆で。同じ思いを、違う言葉で、違う色の言葉で、それぞれが思いのまま書き連ねていた。
「書いたら次は誰に渡せばいいの?」
「あ、わたしのトコに持ってきて」
「はいよー」
そこに新たに、ハルと、そしてイリアの文字が加えられる。ハルは赤のペンを使って、真ん中の、愛の告白のような文句の隣に、ころっとした字で可愛らしく。イリアは黒の油性ペンで、なるべく空いたスペースを見付けて、そこに少し余裕を持って感謝の意を達者な字で、少し無難過ぎたかと思いながらも躊躇なく書き込んだ。
「『三年間お世話になりました。配属先でも教官の事を忘れる事はありません。お世話になった三年間を胸に、これからは都市を守るべく死力を尽くしたいと思います。ありがとうございました』だって。カナちゃんかたいなー」
「ハル、あまり人の寄せ書きを見て笑うのはよくないわ」
「あ、そだね。……あはは見てこれ~。『センセーサイコー! マジ愛してる! チュー』だって! くろちゃんおもしろ~い」
「…………ハル……」
分かってないこの子……と、軽く落胆するイリア。
ハルは、優しい子だ。素直だし、なにより一緒にいて、人に一切のストレスを感じさせない。ハルはそんな空間を作り出すのがとても上手な子だ。それも努めて作り上げているのではない。彼女の肌の温もりが、それを自然と醸し出しているのだ。
それと同時に、彼女は、なにをしても非常に幼く感じるところがある。挙動がどこか、ちまっこいからだろうか。きゃぴきゃぴとはしていないが、彼女を見ていると、まるで小動物でも愛でているかのような気分になる。
しかし自分は、どうしてこんな子供っぽい子に……。
そんな疑問は、いつまで経っても思考の果てから拭い去る事が出来ない。不思議なものだ。そもそもイリアの抱えるこの感覚には、大本となる理由、原因などといった科学的な見解が必要なのかすら疑わしい。
そしていつもイリアの考察は、大体この辺りで終わりを迎える。毎度毎度イリア自ら、直々に終わらせているのだ。考えるだけ愚かしいと。
考察に使われる議題が浮かんだ辺りで、イリアの定規は、似たような判例や感情を引き合いに出して比較考察を始める。するとこの場合、それとこれとがほとんど、否、まるっきり同じものである事に気が付くのだ。
(これじゃあ、まるで……)
間違ってはいない。まるでと言ったって、メカニズムがまるっきりそのものであるのだから到底違いようがない。酷似の理由はイリア自身が一番よく知っている。故、それ以前に、そもそも考察する必要などないのだ。だからこそ、誰も知らない。自分を一番誤魔化せず制御出来ないのは自分であった。
「『次は戦場で会いましょう! その時にびっくりして飛び出ないように、目玉はしっかりと押さえててくだしあ!』だって! みーちゃんもおっかしいんだ~」
ミリィの書き込みを覗き込む振りをして、ハルの隣の書き込みを見る。輝かしく綴られた思いが、そこにはあった。
『愛してます先生! この戦争が終わったら私と結婚して下さい! 性別の壁なんて関係ありませんから!』
「てか、こういうのって書いてから後で思い出して、ああ、ああいう事書いておけばよかったなーとか、なんであんな事書いたんだろ、とか思っちゃうよね。私小学校の時、字を間違えちゃってさぁ~……」
「ハルはドジね」
「はい、自覚ありますとも」
色紙の寄せ書きで、愛の告白。
後世に残る物の中では、ラブレターなんかよりよっぽど深く人生に彫り込まれる事案だろう。それが事後の後悔になるのか、それとも、機会を逃してやらずの後悔になるのか。
イリアの場合、それは後に抱く倫理観によるところが大きいといえるだろう。
「リアちゃんは、そういう事なかった?」
ぎょっとする程鋭いハルの問いに、唸るほど考えてしまった。果て、顔に出たか? 心の土壌に埋められたかどうかも分からない行き場のないこの後悔の種は、いつかの倫理観の中で芽を出して来るのか?
そしてもし地上に出た時、私は、なにを思うのだろうか? 後悔が怖いイリアは保留という名目で斜に構える事を装った。こうすればどんな後悔があっても、後も、もっと後も、土壌を突いて出たものが痛みとなり自責する事もなくなるから。
「さあ……どうだったかしら」
だが今は後悔したとは思っていなかった。なによりも怖かったからだ。今はまだ、後と呼べるものがあるから。
「あと三年もすれば、きっと分かると思うわ」
その時に、まだ、お互いに生きていられれば。
よく分からないと言った様子で瞳を点としているハルを置き去りに、イリアは立ち上がると踵を返して自席に戻った。丁度、ハルが何か言葉を返そうとした時、教室のドアを開ける教官の姿がイリアの視界に入ったからだ。目立つ事を嫌うイリアは、教官に叱咤されぬうちに席に戻りたいと考えた。
イリアは、誰よりも、普通でいたのだ。成績も、立ち位置も、存在そのものも。そして、倫理観という名の御堅い想いも。
自室のベッドに仰向けにひっくり返り、ハルは受け取った辞令を見上げてはへらへらと口元を緩ませっぱなしにしていた。
かつてその眠りと生活領域を預けていたベッドも、今はただ平坦なマットレスがあるだけでハルの香りを振り撒くような物はなにも置かれていなかった。まるで新品のようだ。今までの主の名残を忘れ、来る主を今すぐにでも受け入れようと構えている。
だがハルはそんな事もお構いなしに、それこそ未だ自分のスペースであるかのようにその身で領域を侵していた。
「ハル、制服が皺になっちゃうよ」
そんなハルを、ルルが覗き込むようにして諫める。
「ベッドもほら、せっかく掃除したのに埃が立っちゃうから」
「はーい」
割りと素直に、ハルはむくりと起き上がるとベッドから降りた。辞令のお陰で今は機嫌も大変良いようだ。尤も、ハルはいつでも機嫌が良さそうに見えるが根は億劫がりなのでこういう脱力後の始動は頗る遅い。
「さ、行こう」
「うん」
ルルの背中を追うように、ハルがとことこと付いて行く。
ここを出れば、後は二つの鍵を寮監に返して、学園生活は終了となる。
部屋はやけにこざっぱりとしていた。生活感は、昨日の時点でほとんど消えていた。
退寮に際し、荷物は既に搬出を終え、配属先である部隊の宿舎に送られている。今手元にあるのは、自分の身体と手荷物と、それから、教室で受け取った辞令だけだ。
『ハル・ハルシオン二等兵 配属 西方区画防衛軍第七陸戦小隊』
ハルの配属先は、一昨年に発足された、比較的新しい小隊だった。辞令の二項目に記された部隊の主となる任務内容を確認して、ハルは口元が緩くなるのを感じた。
『戦闘区画中腹の遊撃支援活動部隊』それが、第七小隊という部隊。
陸兵のその多くは、大型火器の輸送、そして兵器運営の補助に当たる。個々での小規模な戦闘より、より大きな戦力を動かすための足掛かりとしての仕事を担うのが、現代に於ける歩兵の役割だ。
古来より歩兵には、そのフットワークの優秀さから単純な交戦の他、奇襲の先駆け、大小兵器の運営や地走補助などといった細かな任が与えられている。だが昨今のディザスターに対抗する戦力としては、大きな火器を自在に運営出来ない歩兵は火力の面でどうしても不利益が大きい。特に侵攻に対する防衛が主となった現代では奇襲の必要性もほぼ皆無となり、歩兵の役割は更に限定される事になる。その先が、大型兵器の運営補助であった。
ハルは元々は、自ら武器を持って戦う事を望んだ。かつて姉がそうであったように、自らも、盾ではなく剣になろうとしたのだ。だが学園に入り、フェアリーという剣の柄に手を触れ領域に足を踏み入れると、その思いはそこで唐突に断たれてしまった。
泣きたい気持ちも山々だが、状況はそれを許してはくれなかった。学園での進退を迫られた時、カナの言葉でもう一度、違う道を進んでみる事にした。自分が戦えないのなら、戦いに身を投じる者の背中を、その手で支えれば良いと。
ハルが陸兵に転進すると決めた時、イリアは残念、寂しくなると言って気遣ってくれた。いつか、都市のために一緒に戦いたかったとも言ってくれた。ハルにしても、その気持ちは同じだった。自分が都市の力となれればどんなに良かっただろうか。そういえばイリアとは、丁度その頃から急速に仲が良くなっていったように思える。
そうして紆余曲折し、ハルは今ではこうして剣の鞘として、下緒として、再び戦場への道を歩いている。間もなく熟成した一本の鞘として都市に納品される事になるだろう。そうなれば、晴れて立派な都市の要だ。夢にまで見た都市の戦力の一端になれる。微力ながらも誰かを全力で守る事が出来るのだ。
「一時はどうなる事かと思ったけど」
「うん」
「こうしてまた、自分に出来る事を見付けられて、良かったよ」
先んじて、部屋を飛び出す。
都市を、国を、護りたい人を守る。その目的が失われる事なく、自分の役割となる居場所を再び手にする事が出来て、ハルは、心から安堵していた。辞令を頂くのが本当に待ち切れなかった。帰って来られた場所に証を立てられるのが、本当に嬉しかったのだ。
「いこ、ルーちゃん!」
辞令を胸でぎゅうと抱いて、ハルは、思い切り振り返った。
「ええ」
ルルも、柔らかな笑顔でそう答えた。彼女がいなければ、ハルはここまで来る事はなかっただろう。ルルは大きな力など持っていない。だがこの三年間、ハルが進む日常を見守り続けたのは、紛れもなくルルであった。ゆっくりとした歩みで、少しずつ、少しずつ。毎日一歩、時にはちょっとだけ、後戻りもして。三年間の最後に、ハルはルルの手を取って、がらんどうになった部屋の戸に、見切り発進の音を残した。
廊下を少し行って、二人は、ハルの幼馴染であるカナと合流する。
「お待たせー」
小躍りしながらカナの下に立ち出でる。ルルもそうなのだが、いちいち忙しないハルの挙動にカナはもう慣れ切っていた。さほど反応せずに適当に遊ばせておくのが最善だ。
衛生兵であるルルと司令部直行のカナは行く先が概ね同じであった。ハルも、途中までは同じ道を行く。沢山の生徒で賑やかに沸き立つ青い廊下を行き、突き当たりの階段を下りて、ロッカーから出した靴に履き替えて昇降口を出る。脱いだ室内靴は手提げに入れて、手持ちのバッグの中に。
どこも沢山の生徒で溢れていた。今はまだ式を終え、辞令を受け取った直後なのだから当然だろう。興奮冷めやらぬほぼ全ての生徒が、この界隈に集結している。それでも、学友との別れを惜しむ者は少ない。見果てるような広さを持たない故、明確な別れがない都市内での風潮として、別段珍しい事ではなかった。
昇降口の向かいの花壇を左手に横切ると、二人との分かれ道はすぐにやって来た。
「じゃあ、私達はこっちだから」
「うん」
「今度は、みんな一人前になってから会おうね」
これは、ほんの僅かな間の別れだ。少なくとも、後方で立ち回るカナとルルは、配属の区画も違う上、前線担当であるハルと会う機会というのは今までと比べて極端に少なくなる事だろう。少し寂しいが、狭い都市の中の、更に狭い区画にいるのだから、いずれ機会を設けてはこうして集まる事になるだろう。だから、別れはちっとも惜しくなかった。
今はまだ、誰もがそう考えていた。