彼女が決めたのは、結局のところ、彼女のためになにをすべきか、ということなのだが.1
物語はいよいよ佳境に入ります。もし気に入っていただけましたらあと少し、是非ともこのまま最後までお付き合い下さい。
ハルは走る。もう足元も見えなくなり、右も左も、路地も外壁も番地も関係なくなった瓦礫の上を走る。ただなにかある方へ、迷わず。物が存在する方へと、当てもない疾走を続ける。今の一歩で今日何キロ目かは考えないようにした。大凡でも推測出来てしまえば、一般論が疲労を観測して止まってしまいそうだったから。
倉庫街を真っ直ぐ突き抜けると、少しずつ街並みが整い出して来た。万全とはいかないまでも、半壊程度した家屋や倉庫施設が増えてきたのだ。
その一角にある、比較的新しい倉庫。周辺の倒壊具合を余所に、それだけがほぼ無傷のまま残されていた。
「ここは……」
目に見えて不自然な倉庫は、当然のようにハルの関心を引いた。
接近してみて分かったが、おかしな事は、倉庫の様子一つではなかった。
倉庫周辺の残骸の中には、数多くのフェアリーと、重装型の多脚系機械外郭である『ゴーレム』が、グチャグチャに潰れて紛れ込んでいた。
それら機械外郭達は倉庫の脇をなぞって円の作り、その中心に背を向けて合って倉庫を取り囲んでいる。
そしてフェアリーに限っては漏れなく、汎用白兵戦仕様の『甲型翼種』ではなく、敵陣の一点突破を目的とし、特殊装甲板などの追加装備を換装された『甲型撃種』という、運動性を捨てた防御と攻撃の形態をとっていた。
重装であり高機動。それを得るためにフェアリーの利点である運動性を殺したこの姿は、重苦しい外見や規格外の運用方法から有翼兵達に『棺桶』と呼ばれており、連携も取り辛く、孤立させられやすい上、初動も鈍いため被弾率も劣悪となっており整備性も悪い。攻勢にはともかく、防衛の現場からは頗る嫌われているのが現状だ。だがそんな甲型撃種にわざわざ換装された機体が、不自然にもこうして、ゴーレムと共に一カ所に固まっている。それも、唯一ヶ所を微動だにせず守り続ける、固定砲台のように。
この倉庫には、数機のフェアリーとゴーレムを捨ててまでも守る物があるというのだろうか。もしや中にまだ生存者がいるかもしれないと思ったが、人の音も気配もしなかった。
好奇心に身を任せている場合ではない事は百も承知だが、それでも、ハルの足は自然と倉庫の入口へと進んでいた。自分でもなぜ門扉を押したのか分からなかったが、なんとなく、ここに入らなくてはならないような気がしたのだ。
案の定、倉庫の中は真っ暗だった。電気は通っていないのだろう。入口のハッチさえ上がらなかったぐらいだ。
ただし内部のシルエットだけなら、窓から差すかげろうのように軟な月光で知り得る事が出来た。
鉄扉脇の無骨で大きな発電機に、昇降機のコントロールパネルへとカバーを被ったコードが床沿いに延びている。
「くっさ……っほ」
少し息を大きくすると、咥内に飛び込んだ予想外の埃臭さと油の臭いに思わず咽返す。埃より機械油の鉄臭さが際立って鼻を衝いたのは、つい最近……それも、数時間単位でここが使用されていた事の証明になるだろう。
足元も、道具箱をひっくり返したように、工具やらが山よ床よと雑然と敷かれていた。足の踏み場にこそ困らぬものの、ついうっかりすると躓いて膝から崩れ落ちてしまいそうになる。ハルは、工具の持ち主に思慮するわけではないが、足元を蹴っ飛ばしたりしないよう気を払いながらも、ずんずんと大股で進む。この倉庫の中心にある“それ”を目指して。
薄らばかりに窺えるそれは、見覚えのある形をしていた。この大きな姿を忘れた事は、故郷を出て以来一度もない。
だが“それ”に対して、ハルは、既知の認識と少し違った印象を覚える。
「フェアリー……?」
小首を傾げる。確かに、フェアリーに違いはない。だが、なんだろう、これは、違う。
先ず、足がある。フェアリーに本来備わっている筈のフェザースラスターがなくて、その代わりに、捨てた筈の両足が又先から二本延びていた。
「ちょっと違うよ」
ハルのものでない声が、倉庫内に前触れもなく響く。
ハルは慌ててグルグルと見渡すが、人影らしきものはどこにもなかった。慌てて見向きまくった挙句、薄明かりでは認知し切れなかった足元の鉄パイプに、小指をぶつけて悶える。
鉄パイプが、フェアリーの方へと転がってゆく。それを目で追い掛けると、再び。
「母……と、正しくはそう呼ぶべきなんだけど、どうも人は教師なんて呼ぶね」
声が、今度はフェアリーの方からはっきりと聞こえた。ハルがそちらを注視するとフェアリーの足に人が一人腰掛けているのが見えた。
その時ハルがとった行動と言えば
「うわわわわご、ごめんなさい! 誰かいるとは思わなかったというかつい入ってしまいました! いや別にいなけりゃラッキーみたいな話ではないんですけど少なくとも火事場泥棒とかじゃなくて私はッ!」
あたふたと両手を振るハルを見ても、その人物は特にこれといった反応は示さなかった。ただ薄っすらと貼り付けた笑みで、ハルの動向を見守っている。
不思議な人だった。華奢な体躯は女の子のようで、しかし物腰は男の子のそれ。年齢は分からない。強いて言えば自分よりはやや年上だろうと、ハルは当たりを付けた。ただ如何せん、その顔付きは頗る印象に乏しいものだった。そう言うと、よくある顔とすれば定義付けられるように聞こえるが、見れば見る程、顔の造形が一般的な形容句に当て嵌まらない。例えるなら、その人の顔は、“顔という部位の作り物”である。指をしてそう多様な表現を当てられないように、端的に、色白の美形寄りの顔という表現以外に当て嵌まる言葉がなかったのだ。全くの無個性。であるが故の、強烈な個性。そこから来る、不思議な無感覚。限りなく人間だが、不気味の谷はどうしても越え切っていないようにも思える。
ぴたりと、ハルはふためく手を止めた。ハルはここに、好奇心だけでふらりと遊びに立ち寄ったわけではなかった。こちらを見つめ続けるその人の眼差しに答えるように、表情を正して背を張った。差し出すように向けられた不思議な圧力の存在に、負けないように。
「それ、フェアリー……ですよね」
軍の関係者に見えない人間にこんな事を頼んでどうするのか……。よく分からないが、これに乗るには、この人の許可がいる。本能だろうか。ハルにそう感じさせたのは、この人が出でる存在感でこのフェアリーを占有しているように思えたからだろう。
「これを私に貸してもらえませんか」
「いいよ」
「嫌なら犬の真似でもなんでも……って、え?」
覚悟を決めて言い放った言葉は当然、拒否を前提としていたものだ。だがその申し出を二つ返事で肯定されては偉く壮大に肩透かしを喰らった気になる。尤も、それならそれで、話が早くて助かるのだが、ただこれではあまりにも都合が良過ぎて、疑念を抱かずにはいられない。
「な、なんでそんなにあっさり……」
「なんでだろうね」
「壊れてるとか?」
「まさか。ちゃんと動くよ」
今更ではあるし可笑しな感想かもしれないが、ハルは、この人ときちんと会話が成り立っている事に気付き少しだけ驚いた。
「実は専用の鍵がないとハッチさえ開かないとか?」
「ハッチは開くさ。ほらね」
フェアリーは胸元を二、三弄られると空気の抜ける音と共に、簡単に胸元の侵入口を開放した。
「ほ、ほんとだ……」
ただ、フェアリーを動かす際、重要なファクターとなるフルスキンスーツがここにはない。と思ったら、フェアリーが横たわるトレーラーの傍らに、備え付けられたように更衣室があった。それも、これでもかという程の存在感で。
しかし如何せん腑に落ちない。と同時に、時間がないのもまた事実だった。足があろうが胡散臭かろうが背に腹は代えられない。
「じゃ、じゃあ、これ借りますね」
「ああ、いいよ」
ハルは件の更衣室に飛び込むと、ハンガーに引っ掛けてあったフルスキンスーツを手に取り、手早く服を脱ぎ、ジャケット特有の、全身に張り付くフィット感に包まれる。しかし以前も思ったが、身体のラインが実にくっきりと出るのが問題だ。イリアはもう慣れたと言っていたが、まだ二度目の着用であるハルにとっては大いに羞恥心を掻き立てられる。自分で言うのも空しいが、あまり自信がないだけ余計に恥ずかしい。いや、自信があってもきっと同じ事を言ったかもしれないけど。
だがここまで来て恥かしがっていても仕方がない。それに、さっきの人になら別に見られてもどうという事もないように感じた。犬猫に……というよりは、そもそも、有機的な視線を感じないような気さえしたのだ。
が、ハルのそんな心配も、杞憂に終わる。
「あれ……?」
着替えを終え、いざ勢いよく更衣室のカーテンを開けると、あの人はもうフェアリーの足の上からいなくなっていた。最初からいなかったのではないか。残滓はおろか、そもそもどこに座っていたかさえも、どこか曖昧で……。
腑に落ちない点が残るが、それでもハルは行かねばならない。プリシアはあそこで待っている。ハルの帰りを、ずっと待っている筈だ。ハルは託されたのだ。守るべき全てを背負えと。
フェアリーが横たわるトレーラーによじ上る。昇降機などはなかったので結局自力。
おかしな事ながら、本来ない筈のフェアリーの足の間を抜けて、腹部のコックピットへと、小気味良くととんと登る。ハッチは開いていた。しかしハルにとっての問題はここからだった。
また、あの時のようになってしまうのか。
怖かった。まるでフェアリーが、ジャケットを通して頭の中に押し入って来るようだった。意識だけがコックピットを抜け出して、突然大空に放り出されたような感覚に、ハルの意識は暴走してしまったのだ。だが、放り出されてからの記憶は全て曖昧。地面まで落ちたかと思えば、直前でそれは夢になって、すぐにコックピットで目を覚ます。そしてまた、同じように頭の中に外意識を捻じ込まれ、一息に放り出される。その繰り返し。繰り返しは時間が経つほどその回転が激しくなっていった。だが、放り出された時の恐怖は変わらない。ハル自身が大丈夫だと思えるようになってきても、恐怖は脳内に直接送り込まれ、恐怖を感じる物質を生み出し続けた。まるでハルの精神を破壊しに掛かるかのように。
怖くても、皆を助けたい一心で、ハルはここまで来たのだ。恐怖など大切な人達を失う悲しみに比べれば、痛くも痒くもないと、今なら思える。そもそもそれを乗り越える勇気もないと思ったのかと、今更になって自分に言い聞かせてすらいた。だからハルは一呼吸、ほんの数瞬だけ猶予を与えて、フェアリーのコックピットに飛び乗った。シートが背中を受け入れる。調子に乗ったか、背中を強かに打って少し噎せてしまった。座り心地も悪くない。今思えば、この数瞬こそが、今までの自分に足りなかったものではなかったのかと思う。思った通りに行動し過ぎていた。自分に言い聞かせて、腹を括る暇もなかったのだ。
フェアリーにキーはなかった。その代り、手を伸ばした位置に平坦なパネルがあった。恐らくは、これが搭乗者の認識パネルだろう。とはいえジャケットを装着した状態では指紋は認識されないのではないか……。これではジャケット装着後にエンジンを入れられないではないか。かと言って、起動の度に逐一ジャケットを脱ぐわけにはいかない。まさかと思い、ハルは駄目元で、ジャケットのままパネルに触れる。すると驚いた事にパネルはポンと起動音を発し、なんの不具合もなしにハルの指紋を読み取ったのだ。コックピットに光が走った。ハッチが降り、その裏がスクリーンになって外部の様子を映し出す。解像度が高い。スクリーンというよりは、マジックミラーから外を覗いているようだった。
「うわっ!」
ハルが一切手を触れずとも、コックピット内は機材の光に溢れた。
エンジンが音を立てて回り出す。座席の後部、丁度後頭部の左右から出た光が内壁沿いに緩やかな弧を描き、やがて互いの先端を繋げ合い光の輪を完成させる。
「す、すっげ……」
ジャケットの機密性を透過するインターフェイスも凄い。だがそれ以上に、コンソールパネルの少なさにも驚かされる。今目に付くものでボタン付きの物といえば通信機器と、それから……。
「やあ」
外部から、声。喧しい起動音の中にあって圧倒的な存在感を示したのは、あの人の声だった。見ると、内部透過式のスクリーンに、あの顔が大きく映っていた。あの、薄っぺらい笑みを張り付けた顔だ。
「よく動かせたね」
言葉の真意は、ハルには分からなかった。ハルがやった事といえばセンサーに指紋を読みこませただけで、特別な事などなにもしていないからだ。
この人にとってはそれこそが特別な事だというのだろうか。しかし言葉の割に、驚いた様子は見受けられない。この人は無表情のまま笑って、ハルを遠くから観察している。ハルは動けなかった。その動向に、いつの間にか見入ってしまっていたのだ。なぜだろう。
「でもね……」
ハルがなにか考える前に、不意に、その手が動いた。行き先は、フェアリーのハッチを開けるコンパネ。手元も見ず、一、二、三、ハッチはあっさりと開けられてしまった。
「このまま君に……いや、“このままの君”に動かしてもらうわけにはいかないな」
ハルは、全身が強張るのを感じた。コンパネから腰に回った目の前の人の手が、ゆっくりと、こちらに差し出される。その手には、武骨で、色白の手とは真逆の、色黒光りした物が握られていた。屈折した、エル時型のそれ。人差し指は、内角の突起に添えられている。見覚えのある、どこにでもあり得るようであり得ない、ポピュラーな火器である。
「君達は良いね。殺すのにわざわざ回りくどいやりかたなんて必要ないんだから」
親指が、その撃鉄を引いた。
「じゃあ、“また後で”……」
火薬が炸裂する音。破裂して、中身が拡散した果実の海に沈むように、コックピットの壁一面が汚れる。火が落ちる。日はとっくに落ちていたけれど、もう一つの火が、消えた。
ハル・ハルシオンは死んだ。彼女は肉体を破壊され生物学的な死を迎えていた。
“彼女の排除”に使用された物の口から燻る糸の向こうに張り付けられた、口角の釣り上がった薄っぺらな顔は、満足そうに、しかしどうしようもない程不動なままでいた。
クワガタなんて、常識的に考えれば蚊なんかとは比較にならないような格の生物である。尤もディザスターの現出によって今や人間こそ所詮と嘲笑われる程度にまで落ちぶれている人間であるが、ディザスターとは違って個々に明確な差別化が出来るという特異点があるからこそ、今の今まで絶滅せずに生き延びて来られたのだ。
人間は道具が使えるからこそ、例えいつの時代であっても格上の相手と戦える。大人も子供も関係ない。更に言えばその僅か十数数十という年齢の違いさえ個体差となり、果ては世代は愚か個々人という最小の差異でさえ違いを生み、ありとあらゆる状況に適応出来るよう変化という名の進化を重ねる。これら二つの特異点は最大の武器だ。ピンキリと言われればその通りだが、進化はいつの時代にあってもあらゆる最適化を生み出して来た。
イリア・アリアは、そういう意味に於いては最適化に向いたいわゆる優良種……つまり優秀な子供だった。
スクリーンを平たい甲殻が好きに勝手飛び回る。複雑且つ高速だが、人間と違い個体差の薄いディザスターは一度最適化した自分に固執する傾向がある。
「なら――」
要するに、奴らの動きはパターン化しやすい。予測する。連続的に点滅する照準が加速する。
「そこ!」
右脇からクワガタが飛び出す。照準色が変わる。動き回っていたカーソルが適時を表示し直立。引き金を引く。右手のマシンガンから一斉掃射された虚無弾が的を穿つ。直撃した鋏は欠け、直ぐに砕けた。だがまだとイリアは押し通す。頭部を潰し、身体を砕き、薄い翅をバラバラにしてディザスターを殺した。
「よ……し」
汗が滲み出て、頬を伝う。一瞬だけスフィアインターフェイスから手を離し輪郭を拭った。
「やれた……」
増援より先に撃破は出来たがそれも辛うじてだ。レーダーに映った十近い影は既に両者の射程内にまで接近している。
「あれも……やれる……」
既に息は上がっていた。ホールでの救援からこっち、隊が全滅した長丁場と今との連戦で、イリアの体力は大幅に削り取られていた。体力だけではない。適応力の高いイリアの姿からは想像も出来ないが、彼女はこの戦闘が初陣なのだ。それに加え、眼下で子供達の退避に徹しているウーノと修道女プリシアを意識しての戦いによる精神的な摩耗は、ここに来てイリアの精神疲労を極限に至らしめた。
「違う、やらなきゃ…………やるしかない……」
フェアリーの向きを変えるだけでも今のイリアの体には酷い負担が掛かる。込み上げそうになる悲鳴を飲み下さない。敢えてそれを自覚して喉奥を唸らす。
「こ……のォ!」
フェザースラスターを最大限に吹かして、雑多な種族が混在するディザスターの群れに、矢のように真正面から激突する。
ディザスターが方々に分散した。包囲するつもりだろうがそうはいかない。
「私一人なら、そうやってやれると思って……!」
だが、一人だからこそ出来る事もあると思った。連携を組めば、自然と他者に気を使って戦わなくてはならない。流れ弾や、衝突や射角妨害を防がなくてはならないからだ。
しかし、一人ならそれがいらない。
避けて撃つ。切る。それだけで良い。
全開に鳴らしたスラスターを前に下級のディザスターなど、本当に、ちょこまかと動く虫でしかない。
「う、ぐっ……」
だがそのやり方では、フェザースラスターの生む圧倒的な加速が、肉体を容赦なく蝕む。今も内臓が掻き回されて、頭も内部から爆発しそうだった。これ程の異常な慣性に耐えられるのは、フルスキンスーツの耐慣性機構が極めて優秀であるためだ。
「このッ――」
対価に、ダメージは内臓に、筋肉に、じわりじわりと均等に蓄積される。崩壊する時は一瞬だろう。
それでも、イリアは加速を続けた。引き金を引いた。ディザスターの視覚から逃れるように舞う。減速などしない。突撃し、一気に離れ、素通りの一息に虚無弾の弾幕を展開する。だがディザスターには絶対的な死角などない。奴らは直ぐにイリアの戦法を嚥下し、掌握に移る。
だがイリアもそれを前提で立ち回っている。ディザスターが共同意識体であれば観察役と分析役がいるのは自明の理。敵の動きはただちに変わる。付き、離れ、陣形を取り始めた。矢印同士を十字に立てたような編隊でズラリと並び、迫る。
「監視の目を増やした……!」
アウェイを狙い撃つためだ。それとも突撃を網のように受け止めていなし、文字通り網獲しようとでもいうのか、はたまた面攻撃での圧倒狙いか。
「どちらにしても……!」
ならば網の外縁から崩していく。後手後手に回ってはいけない。なにかされる前に骨格をそぎ落とさせなくては絡め取られる。ベターを視野に入れている余裕など人間にはないのだ。
広げられた網に突っ込んで行く。イリアは衝突の寸前で手元のスフィアインターフェイスを捻り込む。機体を迂回させて陣形の渦目掛け、白熱色の虚無弾をばら撒く。
「――っ!!」
肋骨がずきりと痛む。
だが一瞬、敵の陣形を崩した。しかし退避の手は禁忌。敵に態勢を整えさせるわけにはいかない。
「あぐっ!」
強烈な慣性が痩せっぽちなイリアの全身を横殴る。だが、それで良いのだ。身体の大きな大人や男性では慣性と自重に潰されてしまうから。これが、イージス“女学園”である事の由来。人類が生き残りの術を押し付けたのは、年端もいかない少女達の身体だったのだ。
痛む全身を押して、踏み込む。上体を傾ければ機体もそれに合わせて傾く。全身で機体を操るモーショントレーサーの本領を、イリアは全身を以って行使する。もし未だ人類が旧時代の音速戦闘機を駆っているとしたら、圧倒的旋回性を誇るディザスターを前に、とうに駆逐されていただろう。
「……負けるか」
ディザスターが魚群のように動く。それに並走し、波のように揺さぶる対象を狙い撃つ。
「お前達なんかに負けられるか!」
イリアは、吠えた。虚無弾を放つ砲身が熱と共にスクリーンの一枚向こうで加速する。振動する。閃光が画面半分を真っ赤に覆う。虚無弾がディザスターに掠めては当たりを繰り返す。その度火花が散る。ディザスターの翅が平衡を失い腹を見せ傾く。無論イリアはそれを見逃さなかった。銃器の連射を中断。空いた左手で腰部の光剣を抜剣。
全力で踏み込む。腰を無理矢理捩ってディザスターに前面を向ける。
「うあぁーーーー!」
真正面から立ち向かう。機体ごと敵を突き抜く勢いでフェザースラスターを爆発させた。
「――――ッ!?」
言葉にならない激痛が肩部から腰椎を軋ませる。胴体が真っ二つにならないのは、ジャケットの性能と。
「気合と、根性……!」
細身の光剣が、ディザスターを両断する。藤色の体液を撒き散らしながら、楕円の形を真っ二つに分かたれた蛾型のディザスターはその大質量を夜の街の闇へと沈めて消えた。
「次――」
だが、まだだ。まだ敵は大勢いる。今のはたかだか一匹だ。あの程度を駆除したところで……
後ろ。百八十度。群れの方へ視界を――消えた。あれだけの軍勢が、いない。
刹那、衝撃と激震がイリアを襲う。
「キャアァッ!!」
スクリーンに投影される過重の警告。事態は直ぐに判明した。ディザスターに取り付かれたのだ。
どこから? 下、後ろ……否。
「上?!」
フェアリーと同程度のサイズのディザスターに取り付かれた。
機体を直接食いに掛かる顎を左手の光剣で牽制して、闇雲に、撃ち上げ花火を乱射する。全ての個体の位置など把握する余裕はなかった。今のイリアはスピード一辺倒だ。依存していると言っても良い。
「この、離れて!」
だが光剣は取り付いた蛾型のディザスターを捕らえるに至らない。褐色の複眼が、フェアリーの顔を……メインカメラを覗き込む。真っ赤なドーム型の眼球の中で、自分勝手に蠢く、瞳、瞳、瞳。それがコックピット前面のスクリーン一面に映り込んでいる。
「ひっ……」
そのどれもが、イリアを捉えているわけではなかった。右目端の五、六個と、左目中央の一個が、機体の外からイリアの体を視姦していた。
獲物を、見付けた。
フェアリーの体……鉄板一枚で隔てられる程、この世の恐怖は、生易しいものでは……。
「ふざ……けるなあァァァァ!」
スフィアを、思い切り捻じ切る。機体はそれだけで、取り付いたディザスターもろとも五回錐揉んだ。
「離れろ! このッ、このォォォォ!」
錯乱したようにそれを何度も繰り返す。何度も、何度も、何度も何度も何度も――それでも、食い付いたディザスターは離れなかった。
咄嗟だった。必死だったのだ。スフィアを離し、右手のコンパネを開く。飛び出たキーボードを片手で叩く。決死の行動だったがそれでも冷静さは失わなかった。右手のマニュピレーターを全てマニュアルに変更。感度は最大。照準補正を最弱に落としスラスターをアイドリング状態にする。
「離れろォォォォォォ!!」
右手から銃器が取りこぼされる。同時に機体も落下を始めた。
地球の引力がイリアを身体ごと引き寄せる。照準は利かない。否、イリアは敢えて切ったのだ。
「邪魔だーーーーッ!」
オートでは使用の出来ない機能。それは、光剣の両手持ち。右手が左の腰部に移動する。そこにマウントされた予備の光剣を引き摺り出す。振り抜く。右手で敵を牽制する。空いた片手で、ディザスターの翅を切り落とした。敵のバランスが崩れる。もう一度コンパネを開きキーボードを操る。初期設定経由からスラスターの緊急点火コマンドを入力。再び表示される、過重量アラーム――
「構うかアァァァァァァ!!」
だがあろう事か、イリアは重力には逆らわず落下する道を選んだ。上空向けてスラスターを燃やす。吸い寄せられるように迫る地面に、激突の可能性が脳裏をチラつく。
だが、心中はしない。心中をする暇があるなら、取りこぼした銃器を救い上げる。
急上昇へ。身体を起こし、振り向き様に光剣を振り回してディザスターから両翅を奪い去った。
ディザスターにも、痛みがあるというのか。
一瞬、奴が苦悶の色を浮かべたように見えると、そのまま機体から離れて落ちていった。
「死んではいない……あれは、まだッ……!」
だが、レーダーが接近する敵影を感知。ビービーと煩いスピーカーに拳骨を叩き込むと、コンパネを叩き先程の設定を修正する。
「煩い! それぐらい分かって――!」
臨戦態勢を――しかし、孤軍奮闘も、ここまでが限界だった。
「がッ――!?」
喉の……腹の奥底から込み上げる物があった。何度も嗅いだ事のある臭い。不快で、それでいて懐かしい。生を実感する。まるで錆でも注ぎ込まれたように、口腔と鼻腔に鉄臭い味と異臭が染み込んで来る。
「ッ……! こ、んな……と…………!」
あまりの水気の多さに気管が軋み、思わず噎せ返る。右手でそれを受け止めると、確かに自分のものと思わしき鮮血が付着していた。
「ま…………だ……ぁ……!」
意識が朦朧とし始める。しかし、イリアは止めたくなかった。
こいつらが、目の前の敵が憎い。人を食い殺し、虐殺を続けながら地上で大手を振るう奴らの蛮行が、憎くて憎くて……。
「まけな……けたく……! 絶……対……! く、ない…………!」
視界がいよいよ惚け始めた。疲労と、心労と、恐怖と、蓄積されたダメージと。イリアの肉体はもう限界だった。人類に勝ち続けた侵略者と戦い続けるには、イリア・アリアという少女の身体はあまりにも脆弱で、無力で……。
「そ……ん……」
脆過ぎた。
霰のように突撃して来るディザスターの影が、大きくなっていくのを感じた。なにやら、揃いも揃って、異様にスローモーションな上灰色だった。死という極限状態に、全身の神経が無用な情報を排し、感覚を研ぎ澄ませているのだろう。
そういえば、クラスの皆はどうしているだろう? もしかしたら、今回の戦闘で殺された子がいるかもしれない。今ではすっかり崩壊して見る影もなくなった倉庫街。この瓦礫の下に、何人かいたかもしれない。それに、通信で第十二小隊が全滅したと言っていた。だとすると、同い年のアリスはやられてしまったのだろうか……。あまり仲が良かったわけではないが、その受け入れがたい現実は、直視するには少し酷だ。
人間は、本当に死に直面した時、生前の記憶を巡るという。これを走馬灯といって、これでも一応、記憶の奥底から生還に必要ななにかを探し出しているのだという。だとすると、人体もたまには良い仕事をしてくれるというものだ。これでもう少し頑丈だったら言う事はなかったかもしれない。
ディザスターに立ち向かえるような機能はないくせに、ロマンチックな事に対してだけは、人一倍気が利いている。
スローモーション…………あれもまた、とろい奴だった……。
「ハルは、元気にしてるかな……」
フェアリーで待機していたイリアは、ハルがここにいた事も、ルルがハルの手の中で息を引き取った事も知らなかった。
別れの挨拶は出来なかった。だが、それでも、最後にこうして顔を見られたのは、幸せな事だと思う。なにも出来ずに死んだ者だっていた。でもイリアは、一矢報いて、それで、ハルの微笑みの中、逝く事が出来るのならそれは……。
「いやだ……!」
本望……。
そう言うとでも、思ったのか?
「まだ、死にたくなんてない……」
そうやってベターなドラマチックなど夢見て、諦められるとでも思ったのか?
走馬灯にハルが見えたからって、それで良いと?
イリアは泣いた。負ける悔しさに。
イリアは奥歯を噛み潰した。息絶える無念に。
そしてイリアは恐怖した。ハルに、会えなくなる悲しさに。
「ハル――!」
咽ぶように零すと、噛み合わせた歯が綻び、嗚咽が鼻からも止まらず溢れ出して、悔しさに立ち向かえない自分にもっと悔しくなって、甘ったれて。
もう、手の届かない場所で死した者の名を、瞼の奥で湛えて、爆発させた。拭った汗の痕がまた濡れた。
瞼の奥のハルの姿が消える。イリアの意識が現実に戻ると灰色だった全ては元通りになって、死への現実が、再開した…………迫る牙と、音と――瞬間。
前方。イリアのフェアリーから僅か十フィートの距離で、二匹のディザスターが同時に爆ぜた。
南方。九時の空から幾筋の光線が伸びる。真っ直ぐ北へと伸びていく。
「な……に…………が……?」
瞬間。今までイリアを縛り付けていた物が、音を立てて爆散していく。
「聞こえますか! そこのフェアリーに乗ってる人!」
スピーカーから聞こえる、声。まるで頭の悪そうな喋り方だ。いつものんびりしていて、マイペースが過ぎる。
「大丈夫ですか! 無事だったら返事をして下さい!」
だけど、それに沿った笑顔はいつも柔らかかった。
クラスのみんなからの人気もあった。だから私は、初めて他人にヤキモチなどという感情を抱いたのだろう。彼女はいつも、人に囲まれていたから。
「は…………る…………?」
スフィアインターフェイスから、その手が離れる。機体をオート制動モードへ移行すると、直立の姿勢のままエレベーターのようにゆっくりと地上へ降りた。
「直ぐに助けますから! 待ってて下さい! とりあえず先にこいつらを片付けて、それから……!」
イリアは、薄れゆく意識の中でそれを見た。おかしいのだ。疲労と吐血で濁った自分の目を手放しに信用しようとは思えなかったが、飛来した蒼い色のフェアリーは、本来持ち得ない筈の、一対の足を持っていた気がした。
これからなにが始まるのか、イリアには分からない。ただこれだけは言える。――ハルが来てくれた。
これがイリアにとってどれ程心身の休まる言葉になるか、それは言葉には出来ないだろう。ハルはイリアにとってそういう存在だった。側にいてくれるだけで良い。それだけで、イリアは、どこまでも飛んで行く事が出来る。こうして手を下してひと思いに泣いていても、それだけで。