ただそれだけでは逃げるも勝手、諦めるも勝手と、赴くままに野放しになってしまうだろうが、そこでどうすべきかは、そうすべきと自分で腹を括って決断するしかない.1
ならば、走れ。
ひたすらに逃げる。ハルの足は裏手とは少し違う方向に流れていた。
あっちは無理だ。プリシアが絶望的な舞台に膝を突きそうになるより早く、ハルはその事を何とはなしに察知していた。
「こっち!」
少年の手を引き、倒壊したホールの壁から、表へ。それを認めたディザスターだがゆっくりと浮上するや否や向きを変え、皆が向かった駐車場の方へと飛び去ってしまった。
思わず歩を止める。捕食者が群れから離れた個体を優先して狙うのは定石のようなものと思っていただけに、突然とった理解出来ないその行動には疑問が残る。
「何が……」
だが疑問ともかくとして、ハルは狙われる事を望んでいたわけではない。首を傾げるのも結構だがこれを好機と取らず無為に傍観してしまうのは些か愚行が過ぎる。
ともかく、今のうちに逃げよう。そう思った矢先、先の疑問を掃う轟音が駐車場の方で響いた。法螺貝が火を噴いたような音……あれは、フェアリーのフェザーバーニアの音だ。
「あ……」
音だけではない。独壇場に割り込んだフェアリーが駐車場からディザスターを強引に押し出して行くところは、ホールの反対側にいるハルにもはっきりと確認出来た。
飛来したフェアリーは、とても綺麗な色をしていた。染みも汚れも、何一つ見受けられない。初陣なのだろう。ただ、教官の弁にあった、初対面となる実戦機に対する迷いや戸惑いは感じなかった。きっと優秀な人だ。
「ひょっとして同い年の……誰だろう……?」
ルーキー故、ディザスターが去った後の地へと向かわせられたのか。トラウマが残りやすい直接的な暴力に極力対面させないために。だとすれば、スリーマンセル以上が条件のフェアリーが編隊で来なかった事にも納得が出来る。或いは、少し離れた場所で哨戒を行っている機体が他にいるのかもしれない。
そうじゃない。思考に入り浸って、いったい何を冷静に分析しているのだろう。空兵の部隊編成などどうでもいいではないか。とにかく今は、同期と推測したその誰かのお陰で助かったのだから、その事に感謝しつつ、少年の手を離さないよう、今度こそホールから離れなくてはならない。
少しでも遠く、ここから逃げるように。
しかし逃げると言っても、どこへ? という、根本的な疑問と不安を抱きながらも、一機のフェアリーを残してハルは走り出した。
巨大な銃口から連続的に打ち出される閃光が街を焼く。既に誰も居なくなった街だ。人の気配などほとんどありはしないのだから、自分の事以上に気を配る要素はどこにもない。だがもし、今になってさえ避難を終えていない人間がいたとしても、アクティブな球体に添えられた手に、それを誘導する余裕などありはしないのだが。
歯軋りする。向こうは殺意に満ちている。数も、際限無いように感じた。だがそれに対し、こちらはたかだか数機編成の妖精部隊。弾にも数限りがある上、互い同士が他人である以上戦術にはコミュニケーションというタイムラグが生じる。如何に優れた戦術家であっても決して払拭する事の出来ない言語の壁が、人間の間にはある。
個々の能力ではこちらに分があるものの、声帯を利用した言語によるコミュニケーションという枷のないディザスターは、通信という情報伝達を越えた連携手段で、常時適当な陣を宙に巡らせる。
一匹を囲めば、背後から別の個体による挟撃が起こる。並列編隊で押し込もうとすれば、ふらりと現れた別の個体が横槍を入れる。ディザスターの動きは、異体にして同心。だが彼らの中に、集団をまとめるリーダーの存在は感じられなかった。
「くそっ!」
目前のスクリーンを好き放題飛び回る。合わせた照準はただちに外され、また新たな標的を真逆から入れられる。視野角が流転する。ストレスと焦りで処理能力がピークに達した時、背後を打たれた。
「ッ!?」
背中を撃鉄で撃たれたような衝撃に口内を噛む。衝撃に肺を叩かれて呼吸が止まる。体を締めていた慣性が止むと、正しく動画を映し出していたスクリーンは眼球を投げ出されたように不規則運動を始めた。自機の制動力が失われたという事だった。
それに気付いて姿勢の制御を始めた頃には地表が近付き過ぎていた。アスファルトの地面に右肩部からほぼ垂直に激突する。警告音と共にスクリーンの脇から四角いインフォメーションがポップアップする。枠内に簡易化されたフェアリーのマネキンが映り、その腕と両脚の膝から下が真っ赤に点滅している。どうやら今の衝撃で右腕部の上腕エンジン全機と、生命線である左右のフェザースラスターに不具合が生じたらしい。
「痛……」
口の端から鉄の味が染み出す。衝撃に揉まれ噛んだ裏頬から血が滲んでいた。
鼻も痛い。顔を上げると、警告の文字だけが映った真っ暗な液晶が眼の前にあった。どうやらそこに勢いのまま顔面を押し付けたらしい。スクリーンが暗転しているのは、メインカメラが潰れたか、フェアリーがうつ伏せに撃墜されたからだろう。
呻くように、コックピット内で身を起こす。曖昧だった視聴覚が、状況把握と共に少しずつ復活していく。
辛うじて生き長らえていた通信回線に声が飛び込んで来た。聴き慣れたその声は、酷く焦燥していた。
「――、聞こえる? 応答して、ウーのん!」
彼女はいつも能天気に、そんなけったいなあだ名で自分を呼んだ。何度止めるよう言っても『長くて噛みやすいから』と、なんとも失礼な理由を付けてはあだ名を付けかえようとはしなかった。彼女は、授業に遅刻しても教官に怒られても実機演習で失敗しても、いつもケラケラ笑って楽しんでいた。だが今ばかりは嘔吐くような声で、何度も何度もこちらにコンタクトを取ろうと試みてはディザスターに隙を突かれ、上空でフラフラともたついている。
「リスティ……大丈夫、私は大丈夫よ。ちょっと頭を打っただけだから」
いつも通り吐き出した筈の声が、痙攣の止まない顎のせいで不自然に震えていた。頭を強く打ち過ぎたか、それとも、撃たれた恐怖が未だに心底の片隅で燻っているのか。
どの道頭痛は続いていた。しぶとい鈍痛鋭痛に額を抑える。だが手のひらの滑りの向こうにあった痛みに、反射的な退避命令が下る。手のひらを見ると、破砕したスクリーンで皮膚が裂けたのか、出血した証がはっきりと付着していた。
「これくらいどうって事ないわ……この子の方が、もう動けないけどね。手と羽がやられてるみたい」
言って、失敗したと思った。上空の戦闘に沈静化する気配はないが、代わりに変化を見せ始める。
陣形が乱れた。
端のフェアリーが不自然に隊列を外れる。すると残りの二機も、それに続いてじりじりと戦列を一方に寄せて行った。その一方で、銃撃の回数が極限まで減っている。避けては数度、退け、牽制する程にしか発砲をしない。危なげこそないがあれではディザスターに付け入る隙を与えているようなものだ。
「ちょ、ちょっと……」
彼女達は皆、ディザスターをこちらから遠ざけるために、敢えて露骨な防戦に傾倒し始めたのだ。
「ウーのん、早く脱出して! このまま倉庫街の方まで誘導するから! 大丈夫、イリアと合流すれば……イリアは優秀な子だから、きっとなんとかなるから」
無理だ。
歴代で、ディザスター相手に撹乱が成功したケースはほとんどないと聞いている。
撹乱とは、意思の疎通をある程度乱す事で付け入る隙を作るものだからだ。そうなると、常に脳を繋いでいるようなものであるディザスターには、ほとんど効果を示せないと言って良い。
「やめなさい! 私の事は良いから! これ以上陣形を崩さないで!」
だが、そんな命令は届かなかった。全員だ。全員で一人を助けようとしている。全滅しようとしている。
「皆は一人のために、だよ!」
力強い言葉が聞こえる。だが、それが蛮勇である事は誰から見ても明らかであった。最早陣形という体も崩壊させ切ってしまった彼女達もそれをよく理解している。
それでも、眼下で膝を突いた一人を助けるために、一機、また一機と、その羽を切り落とされ、儚くもその若い命を次々に散らしていった。
そもそも自分がどうやって逃げようとしていたかなど考えたところで分かる筈もない。第一避難経路も決まらず道も分からずだったから、始めからプランなどなかったのだ。地図も計画も白紙のまま、この死の逃避行にその責と身を投じたのである。ただ強いて言えば、こうはなりたくなかった……というのは、最低限の希望として持っていたのではなかったか。
ハルと少年の前に立ちはだかるディザスターは、幾戦ものやりとりを経て多くの傷を体中に刻み付けていた。尤も、そんな傷など小人類と戦う上に於いてなんの障害にもなりはしない。ミサイルだろうと大砲だろうと、人間の扱う通常兵器ではこれ以上ディザスターに有効なダメージを与える事が出来ないからだ。
少年の手首を掴み直して、ハルは走った。なるべくディザスターの射角に入らないように。少しでも、ディザスターの視界から外れられるように。細い道へ。左右へ。
最早道などという概念はなかった。無論退路など元からありはしない。希望もないのか。ただ状況だけが加速度的に悪化して行く。もう安全な場所へ避難しようとすら考えていなかった。ここからあそこへ移動。それすらもない。ただただ、今一番ディザスターの攻撃から身を守るのに適した場所へと滑り込み、そこを叩き潰されては浪費していく。どんなに上手く隠れ込もうと結局次の瞬間にはディザスターに壁や柱ごと壊されてしまう。
「もう……限界…………」
全力で駆ける中、右手の向こうで、少年が嘆いた。息の間を掻い潜って吐き出された言葉は怒りでも恐怖でもなければ、焦りでもなかった。
「もうヤダよ……。もう……走りたくない…………」
ただただ、絶望だけを求める。少年は終焉を欲していた。この終わりのない悲愴に、恐怖などとうに麻痺してしまったに違いない。
「ダメ……! 諦めちゃダメ……だよ…………!」
そう言うハルの息遣いも穏やかではない。いったい今日はどれだけ走り続けたのだろう。それを意識して走る余裕すらない事にも気付けていなかった。
でも、これだけは言えるだろう。こうして動かし続けた足が止まる時とは、この少年の命を手離す時だと。
「私は諦めないから、だから君も――」
絶対に諦めやるものか。石に噛り付いてでも。ハルは走りながら、少年の方を振り向いた。――瞬間、眼の前が爆ぜた。
真っ白い炎が行く道を包む。ハルは咄嗟に踵を地面に擦り付け、勢い余って止まれなかった少年が転ばないよう抱き止め停止する。
炎は真上から降って来たようだ。分厚い雲を背景に踊るそれは、二人を追っていたディザスターに向かって五十口径の虚無弾をばら撒くように撃ち放っていた。
「てん……し…………?」
あながち、衰弱した少年がハルの腕の中でぼそりと零した言葉を、間違った解釈とは言い切れなかった。白い体躯。宙を自在に踊る透明の羽の生えたその姿は、天使と呼称しても良いかもしれない。
なんにしても、これで助かる。フェアリーとディザスターとの一騎打ちであれば、機動力に勝るフェアリーに分がある。撃破を待つのも良いが、敢えて危険な地点に留まり続ける必要はないだろう。
「おいで……」
ハルは少年の肩をそっと抱えると、そのまま足を引き摺るようにして進み出した。陸兵隊としての訓練が功を奏した。なんの訓練も受けていなければ、十何キロも走り回った後に、少年を背負って歩いて行く事などハルには出来なかった筈だ。
本当に、転向して良かったのだ。
空兵など、こんなに、怖いところはもう……。
ハルは、いつしかそうやって安心していた。
否、言葉を変えてみせよう。
ハルはこの時、自分達はもう助かったものだと思って油断し切っていた。
「ッ!?」
額に滲んだ汗が乾く。首筋を流れていた汗など一瞬にして怖気切った。
先程の炎とは比較にもならない程の爆発音が、ハルと少年の背中をぶっ叩いた。これには流石のハルの肝もぞくと縮み上がる。
もう嫌だと、ぐすぐすと、少年が泣き出す。慌てて上体を返すと、先程飛来したフェアリーが、二人の遙か上空で爆散し灰色の煙を散らしていた。
「うそ……」
やられた……? 本当に、やられた……のか? 俄かには信じられない状況に、言葉が出て来ない。これを現実として受け入れる用意が出来ていなかった。
どの道このままでは、フェアリーの破片が降り注ぐ。ディザスターもこちらを再認識して直ぐに襲い掛かって来るだろう。そうなれば今度こそ一貫の終わり。そうだ。終わってしまうのだ。
「こんな――!」
理不尽過ぎる終わりに、納得など出来ない。例え神が怒鳴ろうと、親が泣こうと、誰も彼もが諦めて、大きな流れに屈服して俯こうと。
「行こう!」
そう鼓舞し、ハルは三度少年を連れて進む。ここで死ぬにはまだ、自分達は早過ぎる。
進め、進め、そう、進むのだ。今はただ遠くへ。急転する運命を目指して。