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しかしてなんのためになにをするのかなんて事は本人以外には関係なく、例えそれが衆人の支持を得たところで大義に昇格するだけだから、結局そこに正偽はない.1

 ここに来て初、ちょと前書きをば。

 一応タグっつーかキーワードにあるんですが、ここから先、副題の変更に伴いましてなにかと過激なシーン(性的な意味ではないです)とか後味の悪い展開なんかが増えていきます。なのでそういったものが苦手な方には、それを今一度把握した上で、読み進めてもらいたいのですね。

 

 はっきり申しますと、『迷蒼のブリュンヒルデ』は、ここでひとまずバッドエンドとなる物語だと思って頂いて結構です。

 誰彼の誰彼の心情、生死、辿るであろう運命。そして、周囲に与える影響。きっとそのどれもが、残す因を際限なく黒くすると思われます。なんだか少し大袈裟に聞こえるかもしれませんが、その辺は、読み進めて下さっている皆様の解釈に任せたいと思います。

 少々長くなりましたが、『迷蒼のブリュンヒルデ』第十部、スタートです。

 贔屓目に見なくても、あの子は、自分を変えた。あの子も、自分に会ってなにか変ってくれたのなら、それは嬉しく思える。

 変わったのは心だ。今まで感じた事のない自分に若干の戸惑いこそあったものの、今となってはもう昔の自分には戻れないだろうとも感じていた。それだけ、心地良い自分になれたという事かもしれない。変化とは、概ね慣れる事でようやく収束する。

 だが“便宜上”変化と呼ぶこれの一端には、一抹の違和感も密かに覚えていた。

 否、感じ出したのはごく最近だ。感じ出すというよりは、ふと気が付いたとも言えるかもしれない。

 変化とは定義上、変化元の何某があって始めて発生し、変質後、変化として成立する。水が氷に、木が炭になるように。心であれば喜怒哀楽に対する感情の触れ方や振れ幅、物事に対する受領可能な範囲や対処といったものの変容がそれに当たる。

 または、食物や異性の、好みの変化。

 ルルが疑問を感じ出した変化と呼称するものは、主にこれらに該当する。

 また、これはこの三年間を通して、彼女の中で最も大きく変化したものでもあった。

 問題は、要するにルルが変化と言っているそれは元の何某の心より流転したのではなく、ある日突然発現したいわゆる“異常”であったという事だ。その異常によって生じた変化は未だ慣れを伴っておらず、ルルは大いに戸惑いを感じていた。

 思い浮かぶのは、イリア・アリアという、イージスで空兵科に属していた、クラスメイトの少女だ。彼女もまたハルとは仲が良い。二人の仲は、ハルが転科した後、突如急接近したようにルルは感じていた。まあ、実際気を使ったイリアがハルに構い出したためなのでどこも間違ってはいない。だが肝心はそのような事ではなかった。同じ境遇に置かれれば、彼女の気持ち、それから、この奇天烈な苦悩が手に取るように分かる。遠目に見ている時は奇特な子だと感じていたが、今となっては自分こそがその珍妙な空間に同義として擁されているのだと思ってもどうにも実感が湧かない。理解はしているが認め切れない自分がいるのだ。もしや真相では、知らぬうちに嫌悪していたのだろうか。

「ルル」

 ハルに置いて行かれ、誰もいなくなった街の歩道をぽつぽつ歩いていると、ルルは不意に背後から掛けられた声に振り返った。つい先日聞き初めたばかりの、頼もしい声だった。

「あ、先輩……?」

 声はエンジン音を伴い、ルルを追い越すと彼女の左方に進み出た。屋根のない緑色のジープに、揃いの白衣を着た四人の女性が乗っていた。後部座席には転がる程の箱が積んであり、乗組員は皆その間に鮨詰め状態になって乗り合わせている。衛生班の先輩に当たる声の主は、運転席で大きめのハンドルを握り、後部座席の部下同様、身を捻ってルルの方へと振り返る。

「どうしてこんなところにいるの? ここはもう避難命令が出ている筈よ」

 その目付きが、どこか鋭い。集団行動の模範となるべき軍人が、なぜこんなところで油を売っているのかと言いたげに見詰めていた。

「避難命令……」

 だがルルはぼんやりと、先輩の声を聞いている。あの鳴り響いていたサイレンは、確かにアラートレッドを知らせるものだ。なんらかの脅威に被災し、最悪の被害を想定しそれを軽減すべく発せられるアラートだ。

 それに対し、民間人が取るべき行動は唯一つ。指定地への迅速な避難だ。アラートレッドの場合は、区画内のシェルターにではなく、防衛力の整った最も安全な中央区画への移動が求められる。

 尤も、イージス学園からは既に登録を抹消され、軍からの新規登録を待っているルルは、軍人と民間人の間という至極中途半端な立ち位置にいる。そのため、この状況で課せられる軍務はルルにはまるで関係のないものとなる。尤も、いてもたってもいられないと思い立たせる程の使命感を持っていれば、真っ先に現場に駆け付ける事もあるだろう。なにせ今ジープのハンドルを握る彼女がそうだった。かつて都市内で大規模な商業デモが起こった際は、まだ学生であったにも関わらず誰よりも率先して現場で怪我人の治療に当たった程だ。

「まあ良いわ、今は猫の手も借りたいの。乗りなさい」

 そんな彼女だから、ルルの行動も勇み足として大目に見る事が出来た。強い熱意はあらゆる苦難、そして違反さえも凌駕する事を信条に今まで衛生班を束ねて来たのだから。

 ジープのドアが開かれ、ルルは流れに身を任せるようにそこに乗り込んで行く。後部の箱の間に隙間が出来るように、諸先輩らが身を捩ってくれる。ルルはその隙間に、頭を下げながら入り込む。細身のルルは、僅かな隙間ながらさして苦労する事なく腰を下ろす事が出来た。

「一応ルルにも伝えておくわ」

 ジープが走り出す。柔らかなサスの振動に体を預けながら、運転席から飛んで来た声に耳を傾ける。

「今回はね、ルーブルシア創設以来の未曾有の事態よ」

 口振りの割に、その声色は落ち着いたものだった。まるで紙面上の書類を読み上げるように、淡々と語る。

「要港エリアからディザスターが侵入したわ。メインシャッターも、意図も容易く壊されてしまったみたいね」

 “壊された”とは、どの程度の損壊を指しているのかルルには分からなかった。

 頻繁に見上げる機会はないが、そのメインシャッターの存在はルルでも知っている。世紀のイカレた強度を実現した、ルーブルシアでも過去に例を見ない、港と倉庫街を隔絶する開閉式の鉄の壁であるという。四千五百度からマイナス二百四十度までの変化に耐える耐熱性を持ち、それで尚且つほとんど変質を起こさないという優れモノ。故にそれ程の代物が“意図も容易く破壊”と申されたところで、ルルには少々想像が追い付かない。

 四千五百度と言えば、人類の切り札たる核兵器の爆発の表面温度に匹敵する温度だ。更に、マイナス二百五十度とも言われれば、それこそ空気さえ凍結するような冷気。絶対零度がマイナス二百七十三とコンマ十五度であると考えれば、そこには夏季と冬季程度の差異しかない。故にメインシャッターの破壊という状況に想像が追い付く術といえば、精々開閉機の故障で使い物にならなくなるという程度でしかなかった。メインシャッターが開発された時は、そのジョークにしか聞こえないスペックに多くの人が苦笑いを浮かべたものであったのだから。

 しかしルルのした想像は単なる“故障”であって、決定的な“破壊”ではない。だが、ルルの耳にははっきりと“破壊された”と聞こえた。

「もう、本当に底が知れないというか……」

 手の力が増し、固く捻るように握られたハンドルがぎうと抗議の音を上げる。

 人類は今度こそ勝てないかもしれない。ジープの風に揺られる。誰もがそう感じていたが、しかし敢えて口にはしなかった。

 命を投げ打っているのは自分達ではない。額面の脅威を見ただけで、身勝手に匙加減を付けるわけにはいかなかった。そこらの判断は、敵を実感した者だけが決められる事だ。現に人類は幾度も勝利を上げている。彼らの奮起を忘れる事など出来ないだろう。

 ジープにゆられる事しばらく、倉庫街に近付くに連れ、複合音が聞こえるようになって来た。

 ある時は身を叩く空気振動、爆発音。ある時は金属の音。またある時は、アスファルトが瓦解する街の崩壊の音。その無機質の中にあって、奇怪な生命の音があった。聞いた事のない音ではなかった。それは、都市の空を飛ぶヘリの音に酷似している。だがこれは、間違いなく生命体の音だと衛生班の一同は感じた。大量に含んだ空気を侍らすこの音は、金属が奏でるにしてはあまりに柔らか過ぎる。

 気持ちが悪い。

 ルルは困惑する後部座席の面々に混じり、体を抱き締めるように両の袖を摘まんだ。

 しかし運転席に座る先輩は、奇妙な事に不安など微塵も感じていないかのようだった。道端でルルを拾った時同様淡々とジープを走らせている。ディザスターの侵入を知らせた時も、メインシャッターの崩壊を教えた時もそうだった。

 背もたれから見えるその背中がやけに遠い。動じない背中。誰かを後ろに背負った時、人はその姿を見せようとする。ルルもそうだった。少なくとも三年間は、正した背中を見せて来たつもりだった。

 だが本物は、なんの事もない出来事でバランスを崩している自分とは、あまりにも掛け離れていた。所詮、自分のそれは結局付け焼刃だったという事だろう。かつて思い描いていた自分の理想以上の姿の確固たる顕現に、強いカルチャーショックを受ける。

『今度は、みんな一人前になってから会おうね』

 学園を去る時の、カナの言葉だった。それが、頭の片隅に引っ掛かり始める。

 技術さえ覚えれば一人前になれる。思春期の少女は、愚かにも本気でそう考えていた。

 ルルは自分の技術にそれなりの自信を持っていた。無論現場の人間に敵うとまで高を括ってはいなかったが、少し慣れれば余裕も生まれて“元に戻れる”と勘違いしていたのだ。

 平和なルーブルシアにあって、ぼちぼちやれば良いという思いもあったのかもしれない。尤もそれは最早一種の風潮や世相となりつつあるのも事実で、正偽はともかく、ある程度は仕方のない事と寛容しなくてはならないだろう。

 だが、初日に縁したカルチャーショックに、ルルの浅はかな思考は、風に乗るように覆された。

技術の問題ではない。心の問題でもない。

 後方へ流れて行かずに額で跳ねる前髪を鬱陶しく感じながら、運転席の班長の後姿を眺める。こんな人に追い付かねばならないのなら、一人前になるなど、果たしていつになる事やら。

 ルルはルルだ。彼女とは違う。全く同じように振る舞う必要などないだろう。だが一度引っ掛かった言葉はやがて形を変え、ルルに覆い被さる。

 ハルと、しばらく会えなくなる。

 誰かが死んだわけではなかった。都市を離れるわけでもない。しかし、先の見えない状況に置かれた自分に、俯瞰に立って眼をやると、激しい喪失感に襲われる。もう会えないわけではないが、その次がいつかは分からない。そもそも次があるのか……。思考は瞬く間に飛躍した。慣れない環境に、身も心も困惑していたという事もあったのかもしない。だがそんな挫けてしまいそうになる情けない自分が、天真爛漫なハルに相応しいのか、どうしても疑わしく思えてしまうのだ。

 そうしていよいよ自分という人間の価値観の変質に気付いて行く。

『相応しい……? 私はいったい、なにを考えているのだろうか』と。

 かつてイリアは惜し気もなく、自身の考えを披露した事があった。

『肩書や環境などは瑣末な事。重要なのは、意思』

 有翼兵として挫折し、陸兵に転身するも困惑の抜け切らないハルに向けて発した言葉だった。そうして自分の考えを恥かしげもなく露呈させるイリアが、ルルは正直羨ましかった。そんな事自分には出来ない。既存の価値観に囚われた保身的な自分が、意思より先の場所で好き勝手してしまうから。

 そう、ルルは大人なのだ。猛進なハルより、身勝手なイリアより、ずっと中途半端で、ずっと浅はか。

それでいて、嫌になるほど身勝手。だからこうしてジープにも乗り込んだ。

 正しいと定義した意識的な自分に反目し、意思を持った自分に従い、ハルの下へ向かうために。

 ハルには“今はまだ”死んで欲しくなかった。自分の見知らぬ場所でいなくなったら、嫌だと感じる。かつて教室で感じた自身への嫌悪感が意地汚く形を変え、こんなところで最大限に発揮される。

 同室で寝食を共にし、彼女の世話を見るうちにルルはいつしか、ハルを保護下に置いて一人占めにしたいと思うようになっていたのだ。

 見付けてしまった。嗚呼、こんなところにいたのだ。これが自分か。そうこれが自分だ。

 気持ち悪い自分。気持ち悪い自分の意思。気持ち悪い、自分の意思にも素直に答えてくれる、ハルの笑顔。

「……気持ち悪い」

 そんな身勝手な自分が、ぼそりと口先を割って出た。

「怖い?」

 箱の向こう側に座っていた先輩が、ルルに問う。恐怖と緊張で体が硬直したり腰が弛緩したりしてしまうのはよくある事だ。

 なにを期待してしまったのだろう。本当に身勝手な自分に、心底反吐が出る。そして、身勝手な自分のせいにする自分はもっと気色が悪かった。

「いえ、大丈夫ですよ」

 心配をさせるわけにはいかなかった。こんなところまで来て体調不良を起こし先輩の手を煩わせるなど、医者の不養生どころの話ではない。選択した仕事すらこなせないなど、自己嫌悪する以前の問題だ。だからルルは手をひらひらと振って、先輩の心手を煩わせまいとぎこちなく笑った。

「少し、酔っただけです」

 そんな無理をしてまで頑張っている自分に。

 まったく、つくづく。

「あー、班長の運転は荒いからねー。しかもこの車のサスペンション、整備部に言ってわざわざ変えさせたヤツなんだよ。いや~流石元暴そ」

「リッタ。その減らず口を閉じないのなら振り落とすわ」

「ごめんなさいすみませんもう黙ります」

 隣から聞えて来た軽口を、班長は目もくれずに叩き落とす。

 だが、どんなに気持ちが悪くても、今ハルから逃げるわけにはいかなかった。逃げる事が出来ればどんなに楽な事かと思う。だが、ルルはそれだけの理由から、逃げ果せようとは思わなかった。

 それはルルの意思だった。“決着も付けずに逃げてはいけない”という、単純な倫理観で図った、動機などとは似て非なるものだ。大切な人を、友達を助けたいという気持ち。欲求。理由なんて、本当はそれだけで充分。その筈なのに、ルルは、本能の赴くままに行動している子供じみた自分がたまらなく嫌だった。頭では分かっていても、なまじ大人である自分がそれを許してくれない。我儘を言うな、これまでに構築された倫理観と状況に従え、と。

 そんな自己嫌悪が加速していく。病んでいるのだろうか。誰かに救い上げて欲しいわけではないが、今は一秒でも早く、ハルに会いたかった。早くハルの下へ行って、この全てのもやもやを笑い飛ばして欲しかった。

 目的の倉庫街は、すぐそこまで迫っていた。ディザスターの侵入があったのが倉庫街にある港なのだから、救護班の目的地が決まるのは自然な流れだった。

「しかし静かですねぇ」

 つい今しがた半ば強制的に沈黙を約束された筈のリッタが、問うように言う。

 確かに、ここまでディザスターの姿が影も形も見られないという事は気に掛かる。いかに巧みなルート開拓が可能であったところで、こうも上手い事足を運ぶのは容易ではない筈だ。だが今は、開拓どころか特別なルートなど、なに一つとして辿っていない。無論隠密性など欠片もない。先程からずっと、街の大通りの真ん中を今と同様、堂々と直進し続けている。

「確かに……」

 車内に、一抹の不信が拡散するのが分かった。今までただ乗り合わせていただけで方方を向いていた総員の意識が一斉にリッタの抱いた掴みどころのない疑念に向く。

「静か過ぎる……」

 助手席の者が、地図を再度見る。もし大きく道を逸れまるで明後日の方向に向かっていたとすればその曰くも解決するが、生憎本部より指示されたルートは正しく守られていた。

 では、このそわそわした空気、如何に解明してくれよう。

「本当に、あいつらが現れたんだよね……? これ、訓練なんかじゃないんだよね?」

 動揺するリッタ。得体の知れないモノは、観測者の恐怖を増幅させる。いつ首を掻かれるか分からない不安がストレスとなり、焦りと苛立ちを煽り、やがて冷静な判断力を失わせる。

「怖いけど、でもそれは、現地に残された人達も同じ筈」

 だが確固たる目的意識と強い意思さえあれば、恐怖は乗り越えられるものだ。特に、理不尽な暴力や理解の及ばない手に対しては、常に前を向いている事で冷静になれる。

 そしてルルには、それがあった。

 そして、相反する気持ちも、彼女は同時に持ち合わせていた。

 

 立場の弱い者を捨て身で守ろうとする大人が多く残っていた事が不幸中の幸いだった。

 プリシアの父であるグローリー牧師を始め、街中から拾って来た足を自由に動かせる人は、少なくとも三十人はいた。

 被災地には、乗り捨てられた自動車やらなにやらがとにかく多かった。避難際、ドアの鍵を開け、エンジンを掛けてゆるりゆるりと発進していたのではディザスターから逃げ切る事は出来ないと皆踏んだのだろう。仮に上手く走り出せたとして、人と残骸で混乱した街中を満足に走る事など不可能だろう。

 だがそれは、残された人達にとっては大きな希望となった。一先ず脅威の去ったこの区画から、一刻も早く避難船の出入りがある中央区画へと退避しなくてはならない。外が粗方平静になったとはいえ、もうここにディザスターは戻って来ないと思い込む事は出来ない。

「さっきの人達が戻って来たら、外の車で脱出しましょう」

 プリシアの提案に、内部からの見張りを行っていた大人達が一度客席を見て頷いた。不安こそあれ、ここから逃れる事に反対する者はいないようだった。皆いつまでも一定の場所に止まる事を快くは思っていないらしい。

 アリーナの裏手の駐車場は決して大きくないものの、路上駐車も含めるとほぼ満員分の台数の車があった。勿論鍵のない物に乗る事は出来ないが、要するにここにいる大人のほとんどが来場の足に車両を利用しているという事だ。

 入場する際の改札は電気が通電していないためバーが下りたままだが、まあ差し支えなければ突破してしまって構わないだろう。フロントガラス辺りにヒビが入るかもしれないが、まんまと糧にされるよりは遙かに増しだ。そもそも避難船に車を乗り入れる事は出来ないため、どの車もどこかで乗り捨てなくてはならない。

 出て行った大人達が戻る前に、先程の少女の父と共に退避ルートを打ち合わせる。とは言っても主に話し合うのはグローリー牧師と少女の父だけで、ハルもプリシアも全くと言って良いほど話し合いには参加していなかった。

「一応、私も車は動かせるんだけど……」

 ハルの背中に乗り掛かる小さい筈の体が、妙に心に重かった。決して落としてはならないものがある事を今こうして身を持って味わうと、それが如何に複雑で脆いものか痛感させられる。

 大人でさえ御しがたい不安の中にいる子供達の矛先に立ちながら、ハルはぶすっとした表情を作って言った。使える車の数は大人とイコールだ。なればハルの出番は子供達を守る方向に寄って行くのが自然だろう。敢えてハルに運転席を任す手も無きにしも非ずだが、子を持つ母親からすれば、子供を預けるなら同じ女性の方が安心出来るという事だ。尤も、女性といっても子供……しかも、おっちょこさんのハルだが。

「適材適所よ」

 またハブられたと拗ねるハルを、プリシアが優しく宥める。これでは背中の子とどちらが子供か分からない。尤も、そんなハルを日がな一日中眺めている事こそが当のプリシアの生甲斐のようなものであるとも言えるのだが。

 少し時間が過ぎていた。否、遅すぎる。

 先程ハルを差し置いて数人の大人が表の様子を見に行ってから、既に三十分あまりが経過していた。

 偵察といってもそう広く歩き回る事はない筈だ。最早瓦礫と化した街並みをうろうろ歩くのは、誰だって嫌がる。そして多大過ぎるリスクを伴う。地理上は以前と同一の土地であったとしても、こうなってしまっては情景も状況も、なにもかもが変わり過ぎている。帰路を喪失する可能性もある。状況に、精神が耐えられない可能性だってあった。

 全てに絶望した時に持ち出す人の破滅願望は、あらゆる者を巻き込みながら絶望を飽和状態まで増殖させる。

 そう、気狂いとなった人間は、全てをかなぐり捨てて暴走を始める。

「それにしても、遅いわね……」

 プリシアが、エントランスを遠目に、誰にとなく、ぼそりと呟いた。厳密な帰還予定時間を聞き及んではいなかったが、まさかわざわざ欲張って仕事を増やすなどと無茶な事は恐らくはしないだろう。

 子供達は至って静かでいた。あの中に、この子達の親はいなかったのだろうか。誰もがプリシアの視線を心配そうに追ってはいたものの、今にも駆け出そうとする様子を窺わせる事はなかった。

「まあ、もうすぐ帰って来ると思うよ」

「どうして?」

 暢気に構えるハルに、プリシアが問う。尤も答えなど分かり切っているようなものだった。大方いつも通りの。

「なんとなくだよ」

「やっぱりね」

 本当に状況にそぐわない暢気な軍人を前に、なんとなく、溜め息が出る。

 少なくとも、呆れから来る溜め息ではない事は分かっている。

「シオン、大丈夫かしら……」

 そんな中、プリシアが、ハルの最大の関心事であろう人の名を持ち出した。

 家に一人で待つとはいえ、人があのシオンだ。そう滅多に逃げ遅れたりなどという事はしないだろう。プリシアとしてもそれは分かっていたが、それでも、簡単に拭える不安ではない。寧ろあのシオンだからこそ、周囲にお節介を焼いて怪我などしてはいないだろうかと思うと、一層心配にもなる。

 プリシアがシオンの名を口にした途端、ハルの顔に一瞬苦味が走った。

 忘れてなどいなかったが、今は、敢えて気に留めていなかったのだ。

 生粋のお姉ちゃんっ子であるハルなら、本当はなによりも先に姉の安否が気掛かりになる筈だった。だが、今回の発端がプリシアのいる一帯だった事もあり、ここではその事は先ず置いて、ルルさえ置いて駆け付けた。プリシアの事を考えている間は、ハルがいうのも少し可笑しな話だが、シオンの安否については放任出来た。

 だがここに来て、姉の事を最優先に出来なかった口惜しさが思い出したように背中を抉り出した。

 喜怒哀楽をころころと顔に見せるハルだが、哀と怒の、負の表情だけは極端に表沙汰にする事はあまりなかった。嫌な気持ちは心の中だけに留めておけば、それが自分の感情になる事はないというのがハルの信条だからだ。同時にそれは心身共に掛かる、大きな負担にも繋がるが。

 とはいえふとした拍子に、九腸寸断の感情を、こうして表に出す事があった。そういう時は大抵決まって哀の色が含まれている。なにかしら、強く悲しい事があった時に見せる表情だ。ハルがこうした顔を見せるとき、プリシアは、決まって向かい合ってその頭を撫でてやっていた。ハルは期待に逸れず甘えん坊である。優しく頭を撫でられれば、それにまるで犬のように懐いて来る。貧欲なハルは大げさに甘えてみせたりはしないものの、眼を瞑り、静かにその胸に頭を預けて来る。だが状況が状況だ。幼い子を背負っていなければ、ここに辿り着いた時のように全身でプリシアに甘えに行きたかったに違いない。

 少し、疲れたのかもしれない。

 走ってここまで辿り着き、慣れないお姉さん役を買って出てくれたのだ。もしかしたら、そこに姉の情報が入ってきた事で処理要素が途端に増し、隠していた疲労感が一遍に押し寄せて来てしまったのかもしれない。

「ハル」

 少し、悪い事をしたか。プリシアは子供を抱いていた腕を片方、そっとハルの髪に通した。さらさらした、柔らかな髪。でも今は、脂汗が滲んでとても湿っぽくなっていた。

「ハルも、こっちにおいで」

 この中ではお姉さんでも、まだまだ子供と言える年頃だ。だが軍式には耐えて来た。ならば仲間も上司もいないここでは、ハルはただ一人軍人として積極的に戦わなくてはならないと、そう思っている。だがそれは年端も行かぬ女の子がするべき事ではない。子供の盾になるのは、いつの時代も大人でなければならないのだ。

「も、もー。恥かしいよ、シスター……こ、子供の前でとか…………」

 もじもじと動き顔を真っ赤にしながらも、ハルは、プリシアの腕にゆっくりと抱き込まれようとして……。

「逃げろ!」

 刹那、アリーナのエントランスが破られた。

 客席にいる者、方方の窓際で見張る者、そして、会場の隅で脱出ルートを模索していたグローリー牧師と少女の父親全てが、切羽詰まった男の声に、動作を合わせた。

「早く! 裏手から出ろ! 真っ直ぐこっちに向かって来るぞ!」

 エントランスで大きな声を張っているのは、先程、調査に出る旨を伝えた男性ではなかった。もっと小柄で、頭髪の少ない太っちょの男性だった。

 男性は年齢特有の濁声を響かせながら、客席の真ん中を駆け抜け、ステージに掛け登るとそのまま裏手の搬入口へと消えて行った。

 後に、ほんの少し、静寂が残る。だがそれはあっという間に崩壊した。

 一人の婦人が悲鳴を上げた。エントランスの窓を見張っていた痩せっぽちの中年の婦人だ。婦人は窓に背を向けると身を振って駆け出した。

 だが次の瞬間にはその窓ガラスが内側に向かって弾けた。巨大な管のようなものがアリーナに真っ直ぐ侵入し、もたつく婦人の背中に突き刺さった。

 なにが起こったのかなど、推測する余裕はなかった。ハルはあまりに一瞬の出来事に「えっ」と息を吐くのが精一杯だった。だがここまでディザスターの形状を目視し続けて来た以上、これから先なにが起こるか、想像出来ないわけがなかった。

 肌に泡が立つ。ひいと肝が上がった時にはもう手遅れだった。

「みんな見ちゃダメ! シスター!」

 咄嗟に、プリシアを求める。二人掛かりで子供達の前を、視線を、全身で以って遮る。

 あれが、人間が上げる声なのか。

 どちらにせよ、最期の方は断末魔というよりほとんど咆哮に近かったように思える。雑巾が悲鳴を上げれば、きっとああなろう。現に婦人は全身を絞られるように乾いた叫びを上げ続け、アリーナにいる人間に向かい懸命に手を延ばしていた。

 その間、声を出す者はなかった。ただ静かに、干物になっていく婦人“だった物”を、皆呆然と眺め続けていた。そうするしかなかった。

「……ぅ」

 婦人の気配が消えた後、猛烈な嘔吐感がハルの胸を襲う。

 アリーナの壁が粉微塵に砕かれ崩壊する。大ホールの静寂が一瞬で混乱に生まれ変わった。ある者は崩落に巻き込まれ、ある者はしとしとと涙を流し始める。そこに大人も子供も関係ない。皆等しく平等に、捕食者のいる猟場の中央に、肉を担いで投げ出された。

 蚊型のディザスターの巨躯が、ぬうとアリーナにその姿を現した。

 真っ先に逃亡を始める大人達は我を忘れていた。そんな中、掻っ攫うように拾われて行く子供達は皆往々に泣き叫び、大人の腕にしがみ付く。走れない老人は走る事も出来ずその場に倒れ込む。阿鼻叫喚の中嘔吐した者もおり、床に付けた頭を、我先にと暴走する人間に踏み抜かれ絶命した。冷静な思考を維持している者はいなかった。ハルやプリシアとて例外ではない。ただ分かるのは、運良く親に連れられた子供は良いとして、しかしハルとプリシアの下には残された子供達が残っているという事だけ。

 そんな中で唯一、グローリー牧師と彼の近くにいた建築家の父親だけは互いに目配せする事である程度の平常心を保つ事が出来ていたようだった。二人は逃亡の激流に呑まれぬよう、縫うようにして客席があった場所まで辿り着いた。客席など、暴れ牛のようになった人々に破壊され、最早見る影もなくなっていたが。

「レレナ!」

「ぱぱぁ!」

 元より大人しい少女は激しく声を上げる事はなかった。その代わりにしゃくり泣きながら、父を呼び続けていた。そこに父親が駆け付ける事によって、少女は表情を一変させる。今度は父の大きな胸に抱かれながら、安心からか、大声で泣き叫んだ。

「ありがとうね、お嬢さん達」

 そう言うと、彼は少女と共に数人の子供を連れ、群衆の波に消えて行く。グローリー牧師との打ち合わせで決められた人数……よりも明らかに多くの子供を連れて、裏の駐車場に向かって走り出したのだ。その中には、ハルの背中に圧し掛かっていた子供も含まれていた。その子が別れ際に振った手を、ハルは永劫忘れられないだろう。

 そしてそんな中、父親の顔を知らないハルは、別れ際の父と少女の姿を見て、不謹慎にも羨望を覚えていた。

「さあ、プリシアにハルちゃん。二人とも、早く子供達を連れて逃げるよ」

 茫然自失とし掛けていたハルとプリシアを、グローリー牧師の柔和な声が引き起こした。

「プリシアはこの子達を。ハルちゃんは、こっちの子をお願いね」

 振り返るわけにはいかなかった。ディザスターによる捕食は、未だ続いている。今振り返っては、子供達にあの光景を見せ付ける事になる。あれは、一生の傷を心に残す。それだけはなんとしてでも避けなくてはならなかった。

 壁になりながら、子供達の手を握る。残った子供は決して多くない。両手に余るようでは、逃げるのは難儀だったであろう。一重に、唯一冷静だった建築家の男性のお陰だ。

 ハルとプリシアは子供達の眼を見やった。ここから逃げるのだ。そう告げるべく、しっかりと、眼差しで刻み付ける。

 泣き喚く子供達を引き連れグローリー牧師が走り出す。二人もそれに続き、裏手を目指して走る。子供の手だけは離すまい。もし今それを手放そうものなら、それは、この子達を裏切る行為になる。ハルの手の中にある小さな男の子の手は小刻みに震えていた。怖いと、眼を見なくともそれが伝わって来る。ならばどれ程の苦境にあっても、眼下で必死にもがく命だけは絶対に死守せよと自らの肝に命ずる。無自覚的に強まった握力に、男の子の表情が少し強張る。あっと上げた声に気付きハルはその手を緩めた。過度な弛緩だった。

 崩れ出した天井に潰されるのを避けて、まにまに走る。その退路はほぼ一直線だったように思う。だがしかして劣悪となった足場は清冽な流れは許さず、ハルは散乱した瓦礫に何度も足を取られそうになった。だがハルが手を握り続ける男の子の足はその苛酷な環境にあっという間に悲鳴を上げた。大きな瓦礫を前方に蹴っ飛ばし、歩調が崩壊すると壮大に転げた。

 するりと消えた手の感触に振り返ると少年は三歩程向こうで突っ伏して泣いていた。すぐに駆け寄って再びその手を握る。

「大丈夫!?」

 声を掛ける。焦りを抑え、脇に手を入れて置き上がらせた。怪我がないのは幸いだが、それを差し引いても全く足りない状況に、ハルは戦慄した。

 転倒した子供という恰好の獲物を、最も有能な捕食者は見逃さなかった。

 ディザスターと、ハル。捕食者と、人類の楯。その視線が交錯する。

 その瞬間、幕は、切って落とされた。

 遥か後方から聞こえた、絹を切り裂くような悲鳴の大合唱を采にして。

 

 舞台裏から躍り出る。狭い裏口は使わずに、開いていた大口の左右のシャッターからプリシア達は脱出した。だがそれが安全な退路ではなかったのだと知らされたのは、地面を踏んで本当にすぐ。甲高い悲鳴を上げる右手の子供を抱き締める暇もない。

「っひ……」

 惨状と激臭に、プリシアの心は呑み込まれた。誰がディザスターは一匹だけと言ったのか。行動が迂闊だったとしても、失策の落とし前たるその現実はあまりにも過酷だ。

 駐車場は、待ち構えていたもう一匹の蚊型ディザスターの魔手によって、血染めの沼へと変貌していた。

 全ての人が、殺されていた。潰され、血を吸い上げられ、爆散した車両の破片に切り裂かれ、はたまた、引き摺り回されて。捕食というにはあまりにも悲惨な惨殺の現場が、まるでそこらの石ころのように安っぽく転がっていた。

 誰の見立てが甘かったのだろうか。誰が悪かったのか。そこから逃げ出す術さえも、プリシアには分からなかった。なんとかしなくちゃ。そう考えるも、その実なにも考えてなどいなかった。直接的な死。その恐怖。初めて遭遇するあまりにも無遠慮に執行される終末達を前に、一市民のプリシアの思考などが回る筈もなかった。

 ただ、立ち尽くす。逃げるなら、右か、左か。はたまた踵を返して引き返すべきか。

 どれも無意味に思えた。事実、ディザスターを前にしての自足での逃走など、あれらが手を伸ばすだけで簡単にはたき落とされる。迫り来る外敵に対し、攻められない、逃げられない。

 嗚呼、なるほど。

 これは、人類が敵わないわけだ……。

 忘れていたわけではない。ただ、改めて実感する。思い知らされる。戦う力のない者の、立ち向かいようのない壁に。

 プリシアの目の前に、何か大きな塊が飛んで来た。地面に叩き付けられたなにかは弾け、彼女の爪先に、赤い飛沫が飛び散る。

 水気の多い、それでいて硬質なそれは、彼女と“眼を合わせたまま”ぴくりとも動かなかった。蚊が人の旋毛を突き、貫通させ、口吻の先で砕いたアスファルトの破片によって切り裂かれた人間が、胴から上だけを転がして来たのだ。

 恐怖など、とうに超越していた。

 ――――……これは、しらないひと――――。

 立ち尽くす中、ただ、呆然と、それだけ。

 自分が連れて逃げた子供達など、泣き出す事さえ忘れて顔を青く染めていた。中には気を失い、或いは失禁する子もいた。だがプリシアはそれを見てもなにも出来ない。彼女も、精神を保ち続けるだけで精一杯だったのだ。大人とはいえ未だ多感な十代の彼女に、この責はあまりにも過重だった。

 超過された恐怖はなんの感情も生み出さない。あって精々絶望だろう。そこからの情緒は人それぞれだろうが、プリシアの場合は悲しみが代行して現れた。深い悪夢と終末の漠然とした狂想曲に触れた心は、自身を蝕む事に疲れ、やがて彼女の目尻を濡らす。あまりに多くの死が。理不尽で、不確かな災厄をもたらした現実が。

 子供達は、いよいよ声を上げて泣き出した。

 ディザスターが反応する。ゆっくりと捕食活動を停止して、頭の半分程もある赤い透き通った二つの複眼で、プリシア達を見下ろす。

「っ!」

 息を呑む。呼吸が呑まれる。その大きな眼球に睨まれれば、忽ち呑み込まれてしまう。

「みんな、こっちよ! 走って!」

 形振り構っていられなかった。今日一の声を張り上げて、誰にと無く言い放つ。

 プリシアが選んだのは。ホールへの戻り道。厳密な道などないが、生還へのルートという意味では一つの選択肢であり、また道である。

 プリシアの一声で、全ての子が走り出したわけではなかった。腰が抜けて動けなくなってしまった子。ただ単純に、あまりにも怖くてプリシアの言葉を全く聞いていなかった子。

 そして、その全てを助ける事は出来ないと、プリシアは分かっていた。

 すぐに走り出す子供。少し遅れて走り出す子。膝を引きながら必死に逃げる少女。

 プリシアはその最後の少女を助けるために、自らそこに向かった。

「歩ける?」

 少女はゆっくりとプリシアを見上げ、差し出された両腕にしがみ付いた。プリシアを見詰める、焼いたように真っ赤になった目が、少女がどれ程の恐怖を感じたかを物語る。

 少女はプリシアの胸に飛び込んで、吐き出すように泣き出した。

「ごめんなさい……ごめんなさい……!」

 少女の謝罪の意が、プリシアには当初理解出来なかった。だが、子供達の児玉のきっかけになったのがこの子の声だったと思い出すと、途端に合点がいくようになる。

 私が泣き虫だから。我慢出来なかったから、と。

 少女は、こうなった全ての責任が自分にあると感じているのだ。

「良いの、良いんだよ……大丈夫だから、ね?」

 少女の肩を、静かに深く抱き寄せながら、プリシア。

「ほら、見て?」

 少し少女の身体を離すと、覗き込むように自分の顔を見せる。

「ずっと我慢してたけどね、ほら……お姉ちゃんも……泣いてるんだよ」

 悲しみの涙が、少女の瞳に映る。

「あなたが泣いてくれたから、お姉ちゃんも泣けたんだよ?」

 怖くて仕方がなかったというプリシアを見て、少女はようやく激しく泣くのを止めた。

「お姉ちゃんも、泣き虫……」

 どうしようもなく怖かったら、悲しかったら、泣けば良い。感情を表に出す事。それが本当は正しい。感情を押し殺して、気丈に振る舞って、大人になった気になって、いったいなんの意味があるのか。どうしてそれが大人なのか。

 それをいったい誰が攻めよう。なぜ、攻められよう。気持ちにわがままになって、なにが悪いのか。

 最後に笑い合っていられれば、それで良いじゃないか。

 ディザスターが動き出した。

 プリシアは少女の肩を、もう一度抱いた。

 一番痛いのは、私が、お姉ちゃんが全部受けて上げるから――。

 だから怖いのなんか知らないで、最後まで、せめてあなただけでも笑っていてと、プリシアは、笑んだまま目を閉じる。

 プリシアの背中を突き刺す槍の先端が迫る。命を啜ろうと、誰彼構わず狩ってきた口吻が、平等に終わりを落とそうと、真っ直ぐに移動して――

 瞬間、閃光と戦塵が横殴りの風を追い越してディザスターを巻き込んで行った。

 轟音と髪を乱す突風に思わず眉間が縛られる。

「な、なに……?」

 プリシアの腕の間から、少女も視線を上げた。

 少女からは、なにも見えない。しかしプリシアの目は、閃光を追い掛ける事が出来た。

 一対の羽。筒状の脚部。流線形のシャープな体躯。

「フェアリー……?」

 人類の反攻の萌しが、そこにいた。ホールを急襲していたディザスターを引き離し、遥か彼方の半壊した倉庫に叩き付ける。

 大質量の激突を受けた壁が木屑のように砕ける。スチロール板を槌で壊すように、頑強な筈の倉庫を破壊しながら妖精がディザスターの背中を削り込む。

 如何な偶然か、フェアリーのパイロットは、訓練生でありながらこの緊急事態に現地招集を受けたイリア・アリアであった。

「っ……!」

 断続的に襲い掛かる強い衝撃に、バイザーの下でイリアの表情が僅かに崩れる。普段のイリアはあまり表情を変えない。だがフェアリーの生み出す衝撃は、容易に人の特性を引き剥がし、内面を向き出させる程のエネルギーをコックピット内で渦巻かす。

「…………はぁぁぁぁッ!」

 ゼロの間合い。それは密着を意味する。突き付けた右腕のライフルの銃口はその通りディザスターと密着している。

 真横からディザスターを薙ぎ倒したのは、周囲の生存者に気を取られて好機を潰す事を恐れたから。ライフルの轟音は、至近距離で放てば人の鼓膜を破る事もある。

 だがイリアは、その引き金を、引いた。容赦なく引いた。倉庫の外壁に擦り付けてもディザスターは無傷だった。物理法則が働く以上、奴らは傷付かない。

 だがこのライフルは、その現実を破壊出来る。

 人類の剣が、咆哮する。外敵を生ゴミのように破壊するまで、何度も、何度も、何度も、いつまでも。イリアが引き金を引き続ける限り、従来の軽機関銃のそれに匹敵する、秒間七百発という速度で延々と“実在しない弾”をばら撒き続ける。一撃ごとに、人間から奪った赤と、不気味な緑色の体液が混ざり合い、噴き出す。返り血を浴びた妖精は、美しいエメラルドのゴーグルアイを粘液質で穢す。腕から始まり全ての四肢へ伝播し、やがて全身で釣りを受け取った頃、酷く長々しい、時間にして僅か十数秒後、ディザスターは遂にその生命活動を完全に停止した。

「はあっ、はあっ、はあっ……!」

 暗がりのコックピットの中で、イリアの荒く短い息が断続的に吐き出される。

 生き物を意識的に殺したのはこれが初めて……だった。

 目の前に転がる死体。これも一応、生き物だと加算すると……。

「そう、天敵……これは天敵……! 人類の…………天敵…………!」

 天敵。つまり、生態系に属し、人類より三角形の上位に鎮座する連中だ。

 敵でも、それでも、生物に変わりない。

 罪悪感が湧くのは、なぜだろう?

 目の前の巨大な生物が、人類を捕食する生態系の上位生物である事に変わりはない。だがそれは、あくまでディザスターが人類より強者の立場にいる場合にのみ成立する理屈だ。ではそこに、この場の結果論を持ち込んでみよう。

 負けたんだから、実はディザスターの方が弱かったんじゃないか?

 もしこれが前提としてあったとしたら、イリアがやった事は、ただの虐殺に変わる。

 尤も、そんな屁理屈が罷り通っていてはいつまで経っても正解には辿りつくまい。だがそう思っていても、思っていなくても、イリアは自分の行為が虐殺と変わらないのではないかと思えて仕方なかった。銃口を身体に押し付けて、相手が死ぬまで弾丸を注ぎ続けたのだ。浴びた返り血が滴る自分の乗っているこれが、妖精だのといった小奇麗な存在にはとてもではないが見えそうにない。

 敢えて呼び捨てるのなら、良く似合うのは殺戮兵器か……良くて精々、超殺虫兵装、といったところだろう。

 そんな気持ちの悪さが手に焼き付いていた。昆虫を握り潰した感覚が、手元のスフィアインターフェイス越しに伝わって来たようだった。

 ただ虫を殺した時とはまるで違う。かと言って、経験こそないが殺人の感傷ともまた違うと思う。

“生き物を殺害した”という後味の悪い事実を握り締める血のような感触。冷たく硬質なスフィアインターフェイスに触れていても手首に、肘に、肩に、胸に、それは纏わり付いた。

 イリアの荒い息遣いは収まらなかった。鎮静化するどころか、時間当たりの呼吸回数は輪を掛けて増え続けていた。しかしイリアはその大袈裟な吸引動作から自身が過呼吸を起こしているのではないかと気付き、即座に両手を口元に当て、ほんの僅か、対処する。

 一体倒したという、安堵か。達成感か。それとも、不快感を拭おうと焦燥に駆られての愚行だったのか。

 とにかく、イリアは、スフィアインターフェイスから両手を離してしまった。

 右脇のレーダーが不快な警告音をかき鳴らす。イリアの息が詰まる。ぎょっとして振り向く。レーダーには数体の巨大な生体反応があった。

 間違いない。ディザスターだ。仲間が殺された事に反応して、至急駆け付けたという事か。

「そんな……こいつらはもう、中央に向かったんじゃ……!」

 中央からここまでは、飛ばしても最低数分から十数分は掛かる。最速のフェアリーでさえそれなのだ。この型のディザスターにしても、それ相応のスピードが出せるなどというデータは存在しない。

「待ち伏せ? いや…………」

 ならば、もっと早いタイミングで現れる筈だ。若しくは、待ってでもいたのか。イリアが気を緩め、確実に包囲出来るこの時を。

「っ……!」

 半球体のレーダーに映る光点が凡そ均等な距離を保って方々に広がって行く。丁度レーダーの中心を軸に衛星のように……イリアを包囲していく。

「不味い――!」

 勘に耳を貸して飛んだ。真上に向かいフェザースラスターを全開で吹かす。

 刹那、間があって。屈むような姿勢制御を経て、イリアのフェアリーは飛んだ。

 跳ねるような感覚。フェアリーが顔面から大気と激突する。だが衝撃は発生しない。残りの荷重負荷は全てイリアに掛かった。

 一瞬前まで足場だったコンクリートが、ディザスターが射出した火球によって赤熱化し、破砕していた。熱源センサー曰く、加速のために余剰装甲を排したフェアリーの外装では、あの火球に触れるだけで患部を瞬時に蒸発出来る。それだけの熱量。そんな熱線兵器を文字通り唾液のように吐き出す生物が、自分を抹殺せんと、陣形を組んでいる……。

 未だ素人で、実戦経験など白紙状態の、自分を。

 イリアは、自分が震えているのを感じた。武者震いであれば良かった。強者として自分を信じられるのならば、立ち向かっても良かったのかもしれない。

 だが、その信じられる自分は、ここにはいない。

 熱源センサーが、更なる火球の接近を警告する。

「――――!」

 自機を包囲するように、足元から、二つ。三つ。四つと増えていく。

 避け切れるか。

「やるしか……!」

 出来なければ、ここで死ぬ。だから、文字通り、命を賭けて――。

「やるしかッ……!」

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