元三つ星シェフ、0歳児に転生する。コーヒー1杯のために胡桃割り人形を操って夜の街へ出た結果、伝説になった
「バブー」
訳・コーヒーを、飲ませろ。
生後一週間。俺は真っ白な天井を睨みつけながら、心の底からそう念じていた。
だが口から漏れたのは、意味を成さない喃語だけだった。
「まあ! ねえ貴方、今この子お喋りしたわ!」
「聞いた! 聞いたぞマーサ! 生後一週間で喋る赤ん坊なんて、帝国史上初じゃないか! やはり俺の息子は天才だ!」
覗き込んでくる二つの顔。
美しい女と、髭面の厳つい男。
俺の母親と、父親だ。
(違う。俺は喋ってない。カフェインが切れて呻いただけだ)
当然、伝わらない。
――俺の名前は青田優也。いや、青田優也だった。
銀座の三つ星フレンチ『ラ・ルミエール』でスーシェフを張っていた、二十五歳の料理人だ。
鍋を振って、ソースを詰めて、深夜一時に上がって、コンビニ飯を食う。
そんな毎日の帰り道、不良に囲まれていた野良猫を助けようとして、金属バットで頭を殴られた。
それで、終わり。
新しい包丁のローンだけが、綺麗に残った。
次に目を開けたとき、俺は雲の上のような和室で、ちゃぶ台を挟んでスルメを齧る女と向かい合っていた。
「んぐ、んぐ……ぷはーっ! やっぱこれよねぇ」
緑のジャージ。サンダル。ボサボサの髪。片手にワンカップ。
どこからどう見ても、休日の疲れたおばさんだった。
「はい、貴方は死にました。私は女神ルチアナ。猫ちゃんを助けてくれたお礼に、異世界転生のボーナスステージをあげます」
「はぁ……どうも」
「特典として、ユニークスキル【ネット通販】をどうぞ。地球で売られてるものなら何でも取り寄せられます。Amazonでも楽天でも、業務スーパーの卸サイトでも使い放題!」
悪くない、と思った。
料理人にとって、材料が無限に手に入るというのは、それだけで世界征服に等しい。
「ただし、現地の通貨は必要ですけどね」
「タダじゃねぇのかよ」
「世の中、金ですよ金。……あ、そろそろ時間ですね」
ルチアナが指を鳴らす。足元が光り始める。
「青田優也さん、良い異世界転生を~。あ、向こうに行ったら美味しいコーヒー淹れてね~」
「あぁ。……次はちゃんとした服着ろよ」
そして俺は、生まれた。
文字通り、生まれた。
異世界アナステシア、ルナミス帝国辺境都市ルナハン。
シンフォニア家の長男、リアンとして。
父アークス・シンフォニア。元A級冒険者にして現・騎士団副長。
母マーサ・シンフォニア。元A級冒険者にして元・大賢者。
伝説の英雄夫婦の、待望の第一子。
(……いや、待て。おかしいだろ)
俺は天井を見つめたまま、こう思っていた。
(普通、転生ってのは十六歳くらいの美少年からスタートするもんじゃないのか?
なんで俺は、寝返りも打てねぇところからやり直してんだ)
手足が動かない。首も座らない。視界はぼやけている。
あるのは、二十五年分の記憶と、常識と、プライドだけ。
そして――カフェイン切れによる、猛烈な頭痛だった。
過保護、という言葉がある。
俺は生後一週間で、その言葉の限界値を知った。
「リアン、今日も治癒魔法をかけましょうねぇ」
母マーサの手が淡く光る。
元大賢者の回復魔法が、俺の全身を隅々まで撫でていく。
悪くない。というか、めちゃくちゃ気持ちいい。
極上のオリーブオイルでマリネされて、食材としての質を内側から高められているような感覚だ。
だが、これを一日五回やられると話は変わる。
(傷ひとつねぇんだよ! 俺は今日一日ベッドで寝てただけだぞ!?)
「俺だって用意してあるぞ!」
次は父アークスの番だ。
巨大なボウルを抱えて意気揚々と現れる。
「見ろ! A級時代に狩った『エンシェント・ドラゴンの干し肉』! そして『ベヒーモスの粉チーズ』! さらに冒険者ギルドの金庫に眠っていた『世界樹の雫』だ!」
(何ひとつ赤ん坊に食わせていい単語がねぇ)
男は、それをまとめてすり潰し始めた。
「これを混ぜてミルクにすれば、リアンは最強の男に育つ!」
「まあ、貴方ったらイクメンね」
「いやぁ照れるなぁ。マーサに褒められると、ドラゴンも素手で倒せそうだ」
「うふふ、夜もそのくらい元気ならいいのに」
「よ、よせよマーサ。リアンが聞いてるぞ」
(聞いてるわ。全部聞いてるわ。あとこの匂い、絶対に不味い)
結論から言うと、不味かった。
二十五年の料理人人生で嗅いだことのない、暴力的な獣臭。
舌に乗せた瞬間、脳が「これは食物ではない」と拒否した。
「おぎゃあああ!!(親父ぃ! 素材の格と相性は別物だっつってんだろうがぁ!)」
「おお、元気だな! 美味いか!」
「おぎゃあああ!!(不味いっつってんだよ!)」
「マーサ! リアンがおかわりを要求している!」
伝わらない。
何ひとつ、伝わらない。
愛されている。それはわかる。骨の髄までわかる。
だが、愛と善意で構成された監獄というのは、鉄格子より頑丈なのだ。
(コーヒーが……飲みてぇ……)
母乳は美味い。認める。世界一の乳化と言っていい。
だが俺の脳が求めているのは、あの焦げた苦味と、鼻に抜ける香りだった。
せめて、いつもポケットに入れていたコーヒーキャンディを一粒。
たった一粒でいい。
(……いや、待てよ)
俺はハッとした。
あるじゃないか。あの駄女神がくれた、手切れ金代わりのスキルが。
(出ろ、ネット通販!)
フォン。
微かな電子音とともに、視界に半透明の青いウィンドウが浮かび上がった。
空中に固定された、二十四インチほどのタブレット画面。
そこには、見慣れた地球のECサイトのトップページが表示されていた。
『タイムセール開催中!』『あなたへのおすすめ』の文字が、懐かしい日本語で踊っている。
(出た……! マジであるじゃねえか!)
俺は震えた。
これは希望だ。文明への回線だ。
(検索! 検索だ! 「ドリップコーヒー」……!)
小さな手を、必死に伸ばす。
――届かない。
生後一週間の腕はあまりに短く、そして筋肉の制御が壊滅的だった。
狙ったアイコンをタップしようとしても、腕はふにゃんとあらぬ方向へ空を切る。
UFOキャッチャーのアームの方がまだ信用できる。
そして、画面の右上には、もっと残酷な数字があった。
【チャージ残高:0円】
(…………)
目の前に「翌日お届け」の極上コーヒー豆がある。
だが手は届かず、金もない。
タンタロスの責め苦かよ。
俺は必死に体をよじった。あるはずのない腹筋に力を込めた。
その瞬間だった。
ブリュリュ……。
(……あっ)
未発達な括約筋は、主人の意思とは無関係に、その責務を放棄した。
(違ぇ! 俺が出したかったのは注文であって、そっちじゃねぇ!!)
「あらあら、リアンちゃん。出たのねぇ、偉い偉い」
二十五歳の尊厳が、清潔なおむつと一緒に丸められて捨てられた。
だが、俺は諦めなかった。
諦めるという選択肢は、二十五歳の俺の辞書から、とっくの昔に削除されている。
(金と、手。……その二つを揃えりゃいいだけの話だ)
厨房でもそうだった。
人手が足りない。時間が足りない。火口が足りない。
だが、無い袖は振れないと嘆いた奴から、順番に潰れていった。
無いなら、作る。
それだけだ。
転機は、生後二ヶ月の夜に来た。
「リアン! 父さんが土産を買ってきたぞ!」
仕事帰りのアークスが、上機嫌でベビーベッドを覗き込む。
その手にあったのは、三十センチほどの木製人形だった。
軍服のような意匠。四角い顎。
どこからどう見ても、胡桃割り人形だ。
「まあ、渋いチョイスね」
「あぁ。本当は男の子だし、流行りの『マグナギア』シリーズでもよかったんだが……さすがに0歳児には早いと思ってな。まずはこの伝統的な人形からだ」
俺は、その人形を凝視していた。
ドワーフ製らしく、関節部には金属が仕込まれている。
可動域は広い。重心も低い。造りが、いい。
(……これだ)
カチリ、と何かが噛み合う音がした。
実はこの一ヶ月、俺は隠れて訓練を続けていた。
この世界には魔力がある。母マーサの治癒魔法を毎日全身に浴びせられているおかげで、俺の中にも十分すぎる量が流れていた。
最初は、窓から入り込んだ枯葉を動かすところから始めた。
次に、綿ぼこり。ハンカチ。木のスプーン。
厨房で五つの鍋と三つのオーダーを同時に回していた並列思考は、そのまま「魔力の多重制御」に転用できた。
これは料理と同じだ。同時に、正確に、無駄なく。
そして、その夜。
(……起動)
俺が念じると同時、ベッドの足元に転がっていた胡桃割り人形が、スッと音もなく起き上がった。
ぎこちなさは、微塵もない。
まるで中に小人が入っているような、滑らかな動き。
人形は俺に向き直り、ビシッと軍隊式の敬礼をした。
(……完璧だ)
俺は、そいつに名を与えた。
(お前の名は『センチネル』だ。歩哨、という意味だな)
センチネルは、もう一度敬礼した。
(さあ、相棒。俺には手が足りない。仕事をしてもらうぞ)
そして俺は、虚空にネット通販のウィンドウを展開させた。
センチネルがベッドの柵をよじ登り、その木製の指先を画面へ伸ばす。
タップ。
――反応した。
画面がスクロールし、トップページから商品一覧へと切り替わる。
(成功だ……!)
残高は相変わらず0円で、購入ボタンはグレーアウトしたままだ。
だが、「手」は手に入った。
あとは、金だけだった。
翌週の午後。公園のベンチ。
柔らかな日差しの中で、母マーサは気持ちよさそうに寝息を立てていた。
元A級冒険者の気配察知があるからこそできる、平和な昼寝だ。
(ゆっくり寝ててくれ、母ちゃん。……センチネル、起動)
乳母車に一緒に乗せられていた胡桃割り人形が、音もなく立ち上がった。
俺は乳母車の中から、センチネルの視界を通して周囲を見渡す。
(作戦名――『落し物の捜索』)
子供が多い公園には、必ずある。
砂場、遊具の下、ベンチの隙間。落として、そのまま忘れられた小銭が。
センチネルは草むらを匍匐前進し、砂場の縁を掘り、滑り台の下に潜り込んだ。
三十分後。
センチネルが持ち帰ってきたのは、泥にまみれた銅貨が三枚だった。
その夜、両親が寝静まった子供部屋。
(チャージ!)
センチネルが銅貨を画面に掲げると、それは光の粒となって吸い込まれていった。
【残高:300円】
(……三百円)
銀座なら、コーヒー一杯も飲めない金額だ。
だが俺は、震えるほど興奮していた。
これは、地球とのパイプが開通したという意味だ。
三百円で買える、最も有用なもの。
俺が選んだのは、『万能ナイフ(果物用)』。ステンレス製、刃渡り十センチ。税込み百十円。
送料は女神特典で無料だった。
(ポチッとな)
ポンッ、と軽い音を立てて、目の前に小さな茶色の小包が現れた。
(来た……! 現代日本の物流、恐るべし)
センチネルに開封させる。
安っぽい、しかし正確に研がれた刃が、月明かりを弾いた。
(アナステシアの鉄より不純物が少ない。切れ味は上だ)
俺はナイフの柄を外し、庭で拾った樫の枝に固定した。
全長四十センチ。人形サイズで言えば、堂々たる薙刀である。
(隠せ。母さんに見つかったら没収される)
センチネルは、クローゼットの下の隙間に、それを深々と隠した。
暗闇の中で交わされる、赤ん坊と人形の無言の乾杯。
残り九千九百円分の夢まで、あと少しだった。
資金を増やす手段は、すぐに見つかった。
深夜の公園。街灯の下で、少年たちが声を張り上げている。
「行けぇ! クラッシュさせろ!」
「逃げるなよ、卑怯だぞ!」
地面に置かれた三十センチほどの人形たちが、拙く剣を振り合っていた。
ルナミス帝国で大流行中のホビー、『マグナギア』。魔力で人形を操って戦わせる、子供の遊びだ。
賭けられているのは、小遣いの銅貨。
だが、その目つきは大人のギャンブラーと変わらない。
(動きに無駄が多い。重心移動もなってねぇ)
俺は茂みからテーブルの脚をよじ登り、ガタッと音を立てて中央に立った。
「な、何だ? 胡桃割り人形?」
「操者がいないぞ!? どこだ!?」
センチネルは無言のまま、ポケットから銅貨を一枚取り出し、チャリンとテーブルの中央に弾いた。
「はんっ! 舐めやがって。たかが胡桃割り人形が、俺のカスタム・ウォーリアーに勝てるわけねぇ!」
少年が、鎧を着込んだ重装型の人形を構えさせる。
ルールはバトルロイヤル。フィールドは公園全体。
(――さて、下拵え《プレップ》といくか)
俺はまず、走った。
正面から殴り合わない。それが料理人の流儀だ。
火加減が強すぎるなら、鍋を火から外せばいい。
相手が重いなら、こちらは軽く動けばいい。
センチネルは滑り台の階段を駆け上がり、頂上に陣取った。
「卑怯だぞ! 降りてこい!」
「引きずり下ろしてやる!」
重装型が階段に足をかけた瞬間。
ツルッ。
「うおっ!?」
階段のステップには、あらかじめ薄く油が塗ってあった。
厨房の床がなぜ滑るのか、俺は嫌というほど知っている。
転倒し、腹を晒した重装型に、上から薙刀を突き立てる。
ズドンッ。
「俺のウォーリアーがぁあああ!?」
三分後。
テーブルの上には、俺の前に積み上がった銅貨が二十枚。
(……二千円。悪くない)
センチネルは銅貨をかき集めると、少年たちに向かってビシッと敬礼をした。
「ま、待て! お前、誰なんだよ!」
答えるわけがない。
闇に消えていく木製人形の背中を見送りながら、少年は呆然と呟いた。
「……なんだよ、あいつ」
その夜からルナハンの子供たちの間で、こんな噂が流れ始める。
――夜の公園に、操者のいない胡桃割り人形が出る。
――そいつは、負けない。
そして、その日は来た。
生後三ヶ月の昼下がり。
父アークスは騎士団の演習。母マーサは、庭の奥で洗濯物を干していた。
子供部屋にいるのは、俺一人。
ミシッ。
一階のリビングから、床板の軋む音が聞こえた。
(……母さんか? いや、違う)
俺は耳を澄ました。
母さんの足音は、もっと軽やかでリズミカルだ。父さんの足音は重いが、鎧の擦れる音がする。
この音は、土足だ。
慎重に、しかし無遠慮に歩き回る、男の足音。
しかも、二人。
(……空き巣かよ)
恐怖は、不思議となかった。
あったのは、自分の厨房に土足で入られた料理人の怒りに近い、冷たい感情だった。
(センチネル、起動)
意識を切り離す。
視界が切り替わり、木の指先の感覚が戻ってくる。
俺は薙刀を担ぎ、ドアの隙間から廊下へ滑り出た。
階段の下。
二人の男が、リビングの棚を漁っていた。
「おい、急げ。旦那は演習で夕方まで帰らねえが、女房がいる」
「へへ、元A級の家だぜ? 金目のもんがゴロゴロしてらぁ」
男の一人が、飾り棚から何かを摘み上げた。
「おっ、金のネックレスか。こりゃいい値がつくぞ」
プチッ。
センチネルの中で、何かが切れる音がした。
――それは、母さんの宝物だ。
『パパが初めてのお給料で買ってくれたのよ』
そう言って、少しだけ得意げに、少しだけ照れながら、俺に見せてくれたものだ。
赤ん坊の俺に。どうせわからないと知りながら。
(……ふざけやがって)
この家は俺の城で、厨房で、聖域だ。
相手は大人が二人。武器は短剣。
こちらは、身長三十センチの木の人形。
だが、迷いは一切なかった。
(お前ら、俺の家に入ったことを後悔しろ)
俺は、まず「仕込み」から入った。
厨房の鉄則は、火を入れる前に準備を終えること。
センチネルは音もなく階段を降り、廊下の絨毯の下に、瓶の中身をぶちまけた。
銅貨で買った、業務用のサラダ油。二百八十円。
次に、廊下の角に身を潜め、コツン、と壁を叩いた。
「……あ? 今、何か音がしなかったか」
「気のせいだろ」
「いや、聞こえたって。上か?」
男の一人が、短剣を構えて廊下に踏み込んでくる。
(そうだ。来い)
三歩目。
ズルッ。
「うおっ!?」
油に足を取られた男が、盛大に体勢を崩した。
その瞬間、俺は跳んだ。
男の顔面めがけて、袋の中身を全力でぶちまける。
一味唐辛子。業務用。九十八円。
「ぎゃああああ!? め、目がッ、目がァ!!」
香辛料というのは、使い方を間違えれば凶器になる。
俺は厨房で、それを何度も見てきた。
悶絶して膝をつく男。その手首を、俺は薙刀で正確に薙いだ。
ザシュッ。
「ぎっ!?」
短剣が床に落ちる。腱には届かせない。武器を落とさせれば十分だ。
「な、なんだ!? おい、どうした!」
もう一人が駆けつけてくる。
そして――足元の油を、見なかった。
ズルッ、ドタドタドタッ!
男は油の上を滑り、そのまま階段の手すりに激突し、頭から転げ落ちた。
鈍い音。それきり、動かなくなる。
残った一人が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、必死に周囲を見回した。
「な、なんだよ……誰だよ……ッ!」
その男の視線の先。
廊下の真ん中に、身長三十センチの胡桃割り人形が、血のように赤い唐辛子を纏って立っていた。
その手には、月光を弾く薙刀。
カツン。
人形が、一歩前に出た。
「ひっ……」
男は短剣を拾おうともせず、後ずさりした。
「ひ、人形が……人形が動いて……ッ!」
カツン。カツン。
「く、来るな……来るなァ!!」
男は絶叫し、玄関へ向かって走り――そして、油で滑って自分から派手に転倒した。
俺は男の胸の上に飛び乗り、薙刀の切っ先を、その喉元にピタリと当てた。
男の目に映っていたのは、木でできた無表情な顔だったはずだ。
だが、そいつは腰を抜かして、失禁して、こう叫んだ。
「た、頼む……助けてくれ……ッ!」
(それはこっちの台詞だ)
俺は薙刀の柄で、男の顎を的確に打ち抜いた。
――上等の食材ほど、無駄なく捌く。それが料理人だ。
男が伸びたのを確認してから、俺は落ちていた金のネックレスを拾い上げ、飾り棚の元の位置に、丁寧に戻した。
そして、玄関の呼び鈴の紐を思い切り引いた。
カラン、カラン、カラン。
「――え? 誰かしら?」
庭から母さんの声が近づいてくる。
(任務完了。撤収だ)
俺は階段を駆け上がり、クローゼットの下に薙刀を隠し、ベビーベッドの脇に座り込んだ。
意識を肉体へ引き戻す。
重く、温かく、そして不自由な体が戻ってくる。
「……あー」
ベビーベッドの中で、俺は思い切り欠伸をした。
直後、階下から母さんの絶叫が響き渡った。
その日の夜。
シンフォニア家のリビングには、騎士団の詰所から呼ばれた騎士たちが集まっていた。
「……で、賊は二人とも玄関先で伸びていたと」
「そうだ。一人は階段から落ちて頭を打っていた。もう一人は顎を砕かれていた」
父アークスが、腕を組んで唸る。
「マーサ、お前がやったんじゃないのか」
「私は庭にいたのよ? 呼び鈴が鳴って戻ったら、もうあの状態だったの」
騎士の一人が、報告書を読み上げた。
「賊の供述ですが……」
言いにくそうに、彼は咳払いをした。
「『人形にやられた』と」
「……は?」
「『三十センチくらいの木の人形が、槍を持って歩いてきた』『唐辛子をかけられた』『喉に刃を突きつけられた』……以上です」
沈黙。
「……薬でもキメてたんじゃないか、そいつ」
「同意見です、副長」
結局、賊の証言は「錯乱による幻覚」として処理された。
当然だ。誰が信じるものか。
だが、その場で一人だけ、真顔になっていた人物がいた。
母マーサだ。
彼女は飾り棚の前に立ち、金のネックレスをじっと見つめていた。
「……ねえ、貴方」
「どうした」
「このネックレス、賊が触ったはずなの。指紋も残ってる。……なのに、ちゃんと元の場所に戻されてるのよ」
アークスが眉をひそめる。
「泥棒が、盗んだものを戻すか?」
「戻さないわ。……誰かが、戻したのよ」
マーサはネックレスを手に取り、ゆっくりと胸元で握りしめた。
そして、二階へ上がり、ベビーベッドを覗き込んだ。
俺は、寝たふりをしていた。
「……リアン」
母さんの手が、そっと俺の頬に触れる。
「守ってくれたの?」
(……)
冗談のつもりだったのだろう。
彼女は自分で言って、自分で小さく笑った。
「ふふ、まさかね。ごめんね、変なこと言って」
だが、その声は少し震えていた。
(――そうだよ、母ちゃん)
俺は答えられない。
だから代わりに、小さな手を伸ばして、母さんの指を握った。
「……っ」
母さんは、しばらく動かなかった。
その夜、父アークスが子供部屋に入ってきて、俺の枕元に何かを置いた。
「リアン。賊の捕縛には懸賞金がかかっていてな。うちで捕まったから、その金が入ってきた」
銀貨が三枚。
「お前の守り金だ。……いつか、お前が本当に欲しいものを買うときに使え」
男は、髭面をくしゃりと歪めて笑った。
「今日はよく眠れなくてすまんな。父さんが、ずっとここにいてやるから」
(……ありがとよ、親父)
俺は目を閉じた。
深夜二時。
父さんは、俺のベッドの脇で、椅子に座ったまま盛大なイビキをかいていた。
(……仕方ねぇな)
俺はセンチネルを起動し、枕元の銀貨三枚を拾わせた。
(チャージ)
【残高:30,600円】
三万円。
銅貨拾いから始まった男が、ついに手にした軍資金だ。
俺は、ゆっくりと画面をスクロールさせた。
高性能グリス。カーボンシート。精密ドライバー。ミニ四駆のモーター。
買いたいものは、無限にあった。
だが、俺が最初にカートへ入れたのは、それではなかった。
『ドリップコーヒー 3パック / 398円』
『陶器のマグカップ(小) / 680円』
『ミニケトル / 一二八〇円』
(ポチッとな)
ポン、ポン、ポン。
三つの小包が、床に現れた。
センチネルが、慣れた手つきで包装を解いていく。
三十センチの人形が、自分と同じくらいの大きさのケトルを運ぶ様は、なかなかシュールだった。
水を注ぐ。
湯を沸かす。……といっても電源がないので、俺は魔力でケトルの底を温めた。
母さんの回復魔法を毎日浴びた甲斐があった。
やがて、湯気が上がる。
ドリップバッグをマグカップに引っ掛け、俺は――センチネルの手を借りて、そこに湯を落とした。
の、の、の。
中心から、外へ。
最初は蒸らす。二十秒。豆が呼吸する。
その瞬間だった。
ふわり、と。
異世界の子供部屋に、コーヒーの香りが立ち上った。
(…………)
俺は、動けなかった。
銀座の裏口。深夜一時の夜風。
ポケットから取り出したキャンディ。噛み砕いたときの、あの苦味。
全部、思い出した。
「……ぁ」
ベビーベッドの中で、赤ん坊の目から、勝手に涙が溢れた。
三ヶ月だ。
三ヶ月かかった。
動けない体で、金もなくて、言葉も通じなくて、それでも。
(帰ってきたな、俺)
もちろん、生後三ヶ月の肝臓でカフェインを摂るのは自殺行為だ。
俺は指先に一滴だけつけて、舌に乗せた。
苦い。
どうしようもなく、苦い。
最高だった。
残りは、センチネルに運ばせて、窓辺に置いた。
(――ほらよ、駄女神。約束だ)
あのジャージ女は言った。
向こうに行ったら、美味しいコーヒーを淹れてね、と。
俺は窓の外の月に向かって、心の中で敬礼した。
(不味かったら承知しねぇぞ。淹れたのは、三つ星のスーシェフだからな)
そして俺は、目を閉じた。
――翌朝。
「あら?」
母さんが、窓辺の空になったマグカップを見つけて首を傾げていた。
「なあにこれ。……変ね、うちにこんなカップあったかしら」
カップの底には、飲み干されたコーヒーの跡と、なぜかスルメの匂いが微かに残っていた。
俺はベビーベッドの中で、声を上げて笑った。
「きゃっきゃっ!」
「まあ、リアンったら、今日はご機嫌ね!」
(当たり前だろ。開店初日に、常連客がついたんだ)
金は稼げる。
手は、もうある。
地球という無限の食材庫と、この世界を繋ぐ回線も通った。
寝返りすら打てない、生後三ヶ月。
だが、俺の厨房は、たった今オープンしたのだ。
――これは、動けない赤ん坊が、動く人形と一杯のコーヒーで、世界の扉をこじ開けていく物語である。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
元三つ星シェフが赤ん坊に転生して、ネット通販と胡桃割り人形だけで成り上がる話でした。
少しでも「面白い」と思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると、とても励みになります。
――さて。
この短編は、実は連載版の「はじまり」の部分です。
この後リアンは、
・胡桃割り人形を魔改造して人形競技『マグナギア』に参戦し、貴族のお坊ちゃまを完封し
・地球の調味料で異世界の食卓に革命を起こし
・簿記1級の知識で悪徳商会を法廷レベルで論破し
・過保護すぎる元A級両親の英才教育に殺されかけながら
1歳、2歳、3歳……と、順調に「最強の子供」へと育っていきます。
本編はこちらからどうぞ!
▼『元三つ星シェフ、最強の0歳児になる。【ネット通販】で地球の物資を取り寄せ、夜な夜な胡桃割り人形を操って無双中〜過保護な元A級両親の英才教育が凄すぎて〜』
https://ncode.syosetu.com/n3956lr/
現在、第十七章まで公開中です。
この短編を気に入っていただけた方なら、きっと楽しんでいただけると思います。
それでは、本編でお会いしましょう。
月神世一




