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元三つ星シェフ、0歳児に転生する。コーヒー1杯のために胡桃割り人形を操って夜の街へ出た結果、伝説になった

作者: 月神世一
掲載日:2026/09/07

「バブー」

 訳・コーヒーを、飲ませろ。

 生後一週間。俺は真っ白な天井を睨みつけながら、心の底からそう念じていた。

 だが口から漏れたのは、意味を成さない喃語だけだった。

「まあ! ねえ貴方、今この子お喋りしたわ!」

「聞いた! 聞いたぞマーサ! 生後一週間で喋る赤ん坊なんて、帝国史上初じゃないか! やはり俺の息子は天才だ!」

 覗き込んでくる二つの顔。

 美しい女と、髭面の厳つい男。

 俺の母親と、父親だ。

(違う。俺は喋ってない。カフェインが切れて呻いただけだ)

 当然、伝わらない。

 ――俺の名前は青田優也。いや、青田優也だった。

 銀座の三つ星フレンチ『ラ・ルミエール』でスーシェフを張っていた、二十五歳の料理人だ。

 鍋を振って、ソースを詰めて、深夜一時に上がって、コンビニ飯を食う。

 そんな毎日の帰り道、不良に囲まれていた野良猫を助けようとして、金属バットで頭を殴られた。

 それで、終わり。

 新しい包丁のローンだけが、綺麗に残った。

 次に目を開けたとき、俺は雲の上のような和室で、ちゃぶ台を挟んでスルメを齧る女と向かい合っていた。

「んぐ、んぐ……ぷはーっ! やっぱこれよねぇ」

 緑のジャージ。サンダル。ボサボサの髪。片手にワンカップ。

 どこからどう見ても、休日の疲れたおばさんだった。

「はい、貴方は死にました。私は女神ルチアナ。猫ちゃんを助けてくれたお礼に、異世界転生のボーナスステージをあげます」

「はぁ……どうも」

「特典として、ユニークスキル【ネット通販】をどうぞ。地球で売られてるものなら何でも取り寄せられます。Amazonでも楽天でも、業務スーパーの卸サイトでも使い放題!」

 悪くない、と思った。

 料理人にとって、材料が無限に手に入るというのは、それだけで世界征服に等しい。

「ただし、現地の通貨は必要ですけどね」

「タダじゃねぇのかよ」

「世の中、金ですよ金。……あ、そろそろ時間ですね」

 ルチアナが指を鳴らす。足元が光り始める。

「青田優也さん、良い異世界転生を~。あ、向こうに行ったら美味しいコーヒー淹れてね~」

「あぁ。……次はちゃんとした服着ろよ」

 そして俺は、生まれた。

 文字通り、生まれた。

 異世界アナステシア、ルナミス帝国辺境都市ルナハン。

 シンフォニア家の長男、リアンとして。

 父アークス・シンフォニア。元A級冒険者にして現・騎士団副長。

 母マーサ・シンフォニア。元A級冒険者にして元・大賢者。

 伝説の英雄夫婦の、待望の第一子。

(……いや、待て。おかしいだろ)

 俺は天井を見つめたまま、こう思っていた。

(普通、転生ってのは十六歳くらいの美少年からスタートするもんじゃないのか?

 なんで俺は、寝返りも打てねぇところからやり直してんだ)

 手足が動かない。首も座らない。視界はぼやけている。

 あるのは、二十五年分の記憶と、常識と、プライドだけ。

 そして――カフェイン切れによる、猛烈な頭痛だった。


 過保護、という言葉がある。

 俺は生後一週間で、その言葉の限界値を知った。

「リアン、今日も治癒魔法をかけましょうねぇ」

 母マーサの手が淡く光る。

 元大賢者の回復魔法が、俺の全身を隅々まで撫でていく。

 悪くない。というか、めちゃくちゃ気持ちいい。

 極上のオリーブオイルでマリネされて、食材としての質を内側から高められているような感覚だ。

 だが、これを一日五回やられると話は変わる。

(傷ひとつねぇんだよ! 俺は今日一日ベッドで寝てただけだぞ!?)

「俺だって用意してあるぞ!」

 次は父アークスの番だ。

 巨大なボウルを抱えて意気揚々と現れる。

「見ろ! A級時代に狩った『エンシェント・ドラゴンの干し肉』! そして『ベヒーモスの粉チーズ』! さらに冒険者ギルドの金庫に眠っていた『世界樹の雫』だ!」

(何ひとつ赤ん坊に食わせていい単語がねぇ)

 男は、それをまとめてすり潰し始めた。

「これを混ぜてミルクにすれば、リアンは最強の男に育つ!」

「まあ、貴方ったらイクメンね」

「いやぁ照れるなぁ。マーサに褒められると、ドラゴンも素手で倒せそうだ」

「うふふ、夜もそのくらい元気ならいいのに」

「よ、よせよマーサ。リアンが聞いてるぞ」

(聞いてるわ。全部聞いてるわ。あとこの匂い、絶対に不味い)

 結論から言うと、不味かった。

 二十五年の料理人人生で嗅いだことのない、暴力的な獣臭。

 舌に乗せた瞬間、脳が「これは食物ではない」と拒否した。

「おぎゃあああ!!(親父ぃ! 素材の格と相性は別物だっつってんだろうがぁ!)」

「おお、元気だな! 美味いか!」

「おぎゃあああ!!(不味いっつってんだよ!)」

「マーサ! リアンがおかわりを要求している!」

 伝わらない。

 何ひとつ、伝わらない。

 愛されている。それはわかる。骨の髄までわかる。

 だが、愛と善意で構成された監獄というのは、鉄格子より頑丈なのだ。

(コーヒーが……飲みてぇ……)

 母乳は美味い。認める。世界一の乳化と言っていい。

 だが俺の脳が求めているのは、あの焦げた苦味と、鼻に抜ける香りだった。

 せめて、いつもポケットに入れていたコーヒーキャンディを一粒。

 たった一粒でいい。

(……いや、待てよ)

 俺はハッとした。

 あるじゃないか。あの駄女神がくれた、手切れ金代わりのスキルが。


(出ろ、ネット通販!)

 フォン。

 微かな電子音とともに、視界に半透明の青いウィンドウが浮かび上がった。

 空中に固定された、二十四インチほどのタブレット画面。

 そこには、見慣れた地球のECサイトのトップページが表示されていた。

 『タイムセール開催中!』『あなたへのおすすめ』の文字が、懐かしい日本語で踊っている。

(出た……! マジであるじゃねえか!)

 俺は震えた。

 これは希望だ。文明への回線だ。

(検索! 検索だ! 「ドリップコーヒー」……!)

 小さな手を、必死に伸ばす。

 ――届かない。

 生後一週間の腕はあまりに短く、そして筋肉の制御が壊滅的だった。

 狙ったアイコンをタップしようとしても、腕はふにゃんとあらぬ方向へ空を切る。

 UFOキャッチャーのアームの方がまだ信用できる。

 そして、画面の右上には、もっと残酷な数字があった。

 【チャージ残高:0円】

(…………)

 目の前に「翌日お届け」の極上コーヒー豆がある。

 だが手は届かず、金もない。

 タンタロスの責め苦かよ。

 俺は必死に体をよじった。あるはずのない腹筋に力を込めた。

 その瞬間だった。

 ブリュリュ……。

(……あっ)

 未発達な括約筋は、主人の意思とは無関係に、その責務を放棄した。

(違ぇ! 俺が出したかったのは注文であって、そっちじゃねぇ!!)

「あらあら、リアンちゃん。出たのねぇ、偉い偉い」

 二十五歳の尊厳が、清潔なおむつと一緒に丸められて捨てられた。

 だが、俺は諦めなかった。

 諦めるという選択肢は、二十五歳の俺の辞書から、とっくの昔に削除されている。

(金と、手。……その二つを揃えりゃいいだけの話だ)

 厨房でもそうだった。

 人手が足りない。時間が足りない。火口が足りない。

 だが、無い袖は振れないと嘆いた奴から、順番に潰れていった。

 無いなら、作る。

 それだけだ。


 転機は、生後二ヶ月の夜に来た。

「リアン! 父さんが土産を買ってきたぞ!」

 仕事帰りのアークスが、上機嫌でベビーベッドを覗き込む。

 その手にあったのは、三十センチほどの木製人形だった。

 軍服のような意匠。四角い顎。

 どこからどう見ても、胡桃割り人形だ。

「まあ、渋いチョイスね」

「あぁ。本当は男の子だし、流行りの『マグナギア』シリーズでもよかったんだが……さすがに0歳児には早いと思ってな。まずはこの伝統的な人形からだ」

 俺は、その人形を凝視していた。

 ドワーフ製らしく、関節部には金属が仕込まれている。

 可動域は広い。重心も低い。造りが、いい。

(……これだ)

 カチリ、と何かが噛み合う音がした。

 実はこの一ヶ月、俺は隠れて訓練を続けていた。

 この世界には魔力がある。母マーサの治癒魔法を毎日全身に浴びせられているおかげで、俺の中にも十分すぎる量が流れていた。

 最初は、窓から入り込んだ枯葉を動かすところから始めた。

 次に、綿ぼこり。ハンカチ。木のスプーン。

 厨房で五つの鍋と三つのオーダーを同時に回していた並列思考は、そのまま「魔力の多重制御」に転用できた。

 これは料理と同じだ。同時に、正確に、無駄なく。

 そして、その夜。

(……起動)

 俺が念じると同時、ベッドの足元に転がっていた胡桃割り人形が、スッと音もなく起き上がった。

 ぎこちなさは、微塵もない。

 まるで中に小人が入っているような、滑らかな動き。

 人形は俺に向き直り、ビシッと軍隊式の敬礼をした。

(……完璧だ)

 俺は、そいつに名を与えた。

(お前の名は『センチネル』だ。歩哨、という意味だな)

 センチネルは、もう一度敬礼した。

(さあ、相棒。俺には手が足りない。仕事をしてもらうぞ)

 そして俺は、虚空にネット通販のウィンドウを展開させた。

 センチネルがベッドの柵をよじ登り、その木製の指先を画面へ伸ばす。

 タップ。

 ――反応した。

 画面がスクロールし、トップページから商品一覧へと切り替わる。

(成功だ……!)

 残高は相変わらず0円で、購入ボタンはグレーアウトしたままだ。

 だが、「手」は手に入った。

 あとは、金だけだった。


 翌週の午後。公園のベンチ。

 柔らかな日差しの中で、母マーサは気持ちよさそうに寝息を立てていた。

 元A級冒険者の気配察知があるからこそできる、平和な昼寝だ。

(ゆっくり寝ててくれ、母ちゃん。……センチネル、起動)

 乳母車に一緒に乗せられていた胡桃割り人形が、音もなく立ち上がった。

 俺は乳母車の中から、センチネルの視界を通して周囲を見渡す。

(作戦名――『落し物の捜索』)

 子供が多い公園には、必ずある。

 砂場、遊具の下、ベンチの隙間。落として、そのまま忘れられた小銭が。

 センチネルは草むらを匍匐前進し、砂場の縁を掘り、滑り台の下に潜り込んだ。

 三十分後。

 センチネルが持ち帰ってきたのは、泥にまみれた銅貨が三枚だった。

 その夜、両親が寝静まった子供部屋。

(チャージ!)

 センチネルが銅貨を画面に掲げると、それは光の粒となって吸い込まれていった。

 【残高:300円】

(……三百円)

 銀座なら、コーヒー一杯も飲めない金額だ。

 だが俺は、震えるほど興奮していた。

 これは、地球とのパイプが開通したという意味だ。

 三百円で買える、最も有用なもの。

 俺が選んだのは、『万能ナイフ(果物用)』。ステンレス製、刃渡り十センチ。税込み百十円。

 送料は女神特典で無料だった。

(ポチッとな)

 ポンッ、と軽い音を立てて、目の前に小さな茶色の小包が現れた。

(来た……! 現代日本の物流、恐るべし)

 センチネルに開封させる。

 安っぽい、しかし正確に研がれた刃が、月明かりを弾いた。

(アナステシアの鉄より不純物が少ない。切れ味は上だ)

 俺はナイフの柄を外し、庭で拾った樫の枝に固定した。

 全長四十センチ。人形サイズで言えば、堂々たる薙刀である。

(隠せ。母さんに見つかったら没収される)

 センチネルは、クローゼットの下の隙間に、それを深々と隠した。

 暗闇の中で交わされる、赤ん坊と人形の無言の乾杯。

 残り九千九百円分の夢まで、あと少しだった。


 資金を増やす手段は、すぐに見つかった。

 深夜の公園。街灯の下で、少年たちが声を張り上げている。

「行けぇ! クラッシュさせろ!」

「逃げるなよ、卑怯だぞ!」

 地面に置かれた三十センチほどの人形たちが、拙く剣を振り合っていた。

 ルナミス帝国で大流行中のホビー、『マグナギア』。魔力で人形を操って戦わせる、子供の遊びだ。

 賭けられているのは、小遣いの銅貨。

 だが、その目つきは大人のギャンブラーと変わらない。

(動きに無駄が多い。重心移動もなってねぇ)

 俺は茂みからテーブルの脚をよじ登り、ガタッと音を立てて中央に立った。

「な、何だ? 胡桃割り人形?」

「操者がいないぞ!? どこだ!?」

 センチネルは無言のまま、ポケットから銅貨を一枚取り出し、チャリンとテーブルの中央に弾いた。

「はんっ! 舐めやがって。たかが胡桃割り人形が、俺のカスタム・ウォーリアーに勝てるわけねぇ!」

 少年が、鎧を着込んだ重装型の人形を構えさせる。

 ルールはバトルロイヤル。フィールドは公園全体。

(――さて、下拵え《プレップ》といくか)

 俺はまず、走った。

 正面から殴り合わない。それが料理人の流儀だ。

 火加減が強すぎるなら、鍋を火から外せばいい。

 相手が重いなら、こちらは軽く動けばいい。

 センチネルは滑り台の階段を駆け上がり、頂上に陣取った。

「卑怯だぞ! 降りてこい!」

「引きずり下ろしてやる!」

 重装型が階段に足をかけた瞬間。

 ツルッ。

「うおっ!?」

 階段のステップには、あらかじめ薄く油が塗ってあった。

 厨房の床がなぜ滑るのか、俺は嫌というほど知っている。

 転倒し、腹を晒した重装型に、上から薙刀を突き立てる。

 ズドンッ。

「俺のウォーリアーがぁあああ!?」

 三分後。

 テーブルの上には、俺の前に積み上がった銅貨が二十枚。

(……二千円。悪くない)

 センチネルは銅貨をかき集めると、少年たちに向かってビシッと敬礼をした。

「ま、待て! お前、誰なんだよ!」

 答えるわけがない。

 闇に消えていく木製人形の背中を見送りながら、少年は呆然と呟いた。

「……なんだよ、あいつ」

 その夜からルナハンの子供たちの間で、こんな噂が流れ始める。

 ――夜の公園に、操者のいない胡桃割り人形が出る。

 ――そいつは、負けない。


 そして、その日は来た。

 生後三ヶ月の昼下がり。

 父アークスは騎士団の演習。母マーサは、庭の奥で洗濯物を干していた。

 子供部屋にいるのは、俺一人。

 ミシッ。

 一階のリビングから、床板の軋む音が聞こえた。

(……母さんか? いや、違う)

 俺は耳を澄ました。

 母さんの足音は、もっと軽やかでリズミカルだ。父さんの足音は重いが、鎧の擦れる音がする。

 この音は、土足だ。

 慎重に、しかし無遠慮に歩き回る、男の足音。

 しかも、二人。

(……空き巣かよ)

 恐怖は、不思議となかった。

 あったのは、自分の厨房に土足で入られた料理人の怒りに近い、冷たい感情だった。

(センチネル、起動)

 意識を切り離す。

 視界が切り替わり、木の指先の感覚が戻ってくる。

 俺は薙刀を担ぎ、ドアの隙間から廊下へ滑り出た。

 階段の下。

 二人の男が、リビングの棚を漁っていた。

「おい、急げ。旦那は演習で夕方まで帰らねえが、女房がいる」

「へへ、元A級の家だぜ? 金目のもんがゴロゴロしてらぁ」

 男の一人が、飾り棚から何かを摘み上げた。

「おっ、金のネックレスか。こりゃいい値がつくぞ」

 プチッ。

 センチネルの中で、何かが切れる音がした。

 ――それは、母さんの宝物だ。

『パパが初めてのお給料で買ってくれたのよ』

 そう言って、少しだけ得意げに、少しだけ照れながら、俺に見せてくれたものだ。

 赤ん坊の俺に。どうせわからないと知りながら。

(……ふざけやがって)

 この家は俺の城で、厨房で、聖域《サンクチュアリ》だ。

 相手は大人が二人。武器は短剣。

 こちらは、身長三十センチの木の人形。

 だが、迷いは一切なかった。

(お前ら、俺の家に入ったことを後悔しろ)

 俺は、まず「仕込み」から入った。

 厨房の鉄則は、火を入れる前に準備を終えること。

 センチネルは音もなく階段を降り、廊下の絨毯の下に、瓶の中身をぶちまけた。

 銅貨で買った、業務用のサラダ油。二百八十円。

 次に、廊下の角に身を潜め、コツン、と壁を叩いた。

「……あ? 今、何か音がしなかったか」

「気のせいだろ」

「いや、聞こえたって。上か?」

 男の一人が、短剣を構えて廊下に踏み込んでくる。

(そうだ。来い)

 三歩目。

 ズルッ。

「うおっ!?」

 油に足を取られた男が、盛大に体勢を崩した。

 その瞬間、俺は跳んだ。

 男の顔面めがけて、袋の中身を全力でぶちまける。

 一味唐辛子。業務用。九十八円。

「ぎゃああああ!? め、目がッ、目がァ!!」

 香辛料というのは、使い方を間違えれば凶器になる。

 俺は厨房で、それを何度も見てきた。

 悶絶して膝をつく男。その手首を、俺は薙刀で正確に薙いだ。

 ザシュッ。

「ぎっ!?」

 短剣が床に落ちる。腱には届かせない。武器を落とさせれば十分だ。

「な、なんだ!? おい、どうした!」

 もう一人が駆けつけてくる。

 そして――足元の油を、見なかった。

 ズルッ、ドタドタドタッ!

 男は油の上を滑り、そのまま階段の手すりに激突し、頭から転げ落ちた。

 鈍い音。それきり、動かなくなる。

 残った一人が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、必死に周囲を見回した。

「な、なんだよ……誰だよ……ッ!」

 その男の視線の先。

 廊下の真ん中に、身長三十センチの胡桃割り人形が、血のように赤い唐辛子を纏って立っていた。

 その手には、月光を弾く薙刀。

 カツン。

 人形が、一歩前に出た。

「ひっ……」

 男は短剣を拾おうともせず、後ずさりした。

「ひ、人形が……人形が動いて……ッ!」

 カツン。カツン。

「く、来るな……来るなァ!!」

 男は絶叫し、玄関へ向かって走り――そして、油で滑って自分から派手に転倒した。

 俺は男の胸の上に飛び乗り、薙刀の切っ先を、その喉元にピタリと当てた。

 男の目に映っていたのは、木でできた無表情な顔だったはずだ。

 だが、そいつは腰を抜かして、失禁して、こう叫んだ。

「た、頼む……助けてくれ……ッ!」

(それはこっちの台詞だ)

 俺は薙刀の柄で、男の顎を的確に打ち抜いた。

 ――上等の食材ほど、無駄なく捌く。それが料理人だ。

 男が伸びたのを確認してから、俺は落ちていた金のネックレスを拾い上げ、飾り棚の元の位置に、丁寧に戻した。

 そして、玄関の呼び鈴の紐を思い切り引いた。

 カラン、カラン、カラン。

「――え? 誰かしら?」

 庭から母さんの声が近づいてくる。

(任務完了。撤収だ)

 俺は階段を駆け上がり、クローゼットの下に薙刀を隠し、ベビーベッドの脇に座り込んだ。

 意識を肉体へ引き戻す。

 重く、温かく、そして不自由な体が戻ってくる。

「……あー」

 ベビーベッドの中で、俺は思い切り欠伸をした。

 直後、階下から母さんの絶叫が響き渡った。


 その日の夜。

 シンフォニア家のリビングには、騎士団の詰所から呼ばれた騎士たちが集まっていた。

「……で、賊は二人とも玄関先で伸びていたと」

「そうだ。一人は階段から落ちて頭を打っていた。もう一人は顎を砕かれていた」

 父アークスが、腕を組んで唸る。

「マーサ、お前がやったんじゃないのか」

「私は庭にいたのよ? 呼び鈴が鳴って戻ったら、もうあの状態だったの」

 騎士の一人が、報告書を読み上げた。

「賊の供述ですが……」

 言いにくそうに、彼は咳払いをした。

「『人形にやられた』と」

「……は?」

「『三十センチくらいの木の人形が、槍を持って歩いてきた』『唐辛子をかけられた』『喉に刃を突きつけられた』……以上です」

 沈黙。

「……薬でもキメてたんじゃないか、そいつ」

「同意見です、副長」

 結局、賊の証言は「錯乱による幻覚」として処理された。

 当然だ。誰が信じるものか。

 だが、その場で一人だけ、真顔になっていた人物がいた。

 母マーサだ。

 彼女は飾り棚の前に立ち、金のネックレスをじっと見つめていた。

「……ねえ、貴方」

「どうした」

「このネックレス、賊が触ったはずなの。指紋も残ってる。……なのに、ちゃんと元の場所に戻されてるのよ」

 アークスが眉をひそめる。

「泥棒が、盗んだものを戻すか?」

「戻さないわ。……誰かが、戻したのよ」

 マーサはネックレスを手に取り、ゆっくりと胸元で握りしめた。

 そして、二階へ上がり、ベビーベッドを覗き込んだ。

 俺は、寝たふりをしていた。

「……リアン」

 母さんの手が、そっと俺の頬に触れる。

「守ってくれたの?」

(……)

 冗談のつもりだったのだろう。

 彼女は自分で言って、自分で小さく笑った。

「ふふ、まさかね。ごめんね、変なこと言って」

 だが、その声は少し震えていた。

(――そうだよ、母ちゃん)

 俺は答えられない。

 だから代わりに、小さな手を伸ばして、母さんの指を握った。

「……っ」

 母さんは、しばらく動かなかった。

 その夜、父アークスが子供部屋に入ってきて、俺の枕元に何かを置いた。

「リアン。賊の捕縛には懸賞金がかかっていてな。うちで捕まったから、その金が入ってきた」

 銀貨が三枚。

「お前の守り金だ。……いつか、お前が本当に欲しいものを買うときに使え」

 男は、髭面をくしゃりと歪めて笑った。

「今日はよく眠れなくてすまんな。父さんが、ずっとここにいてやるから」

(……ありがとよ、親父)

 俺は目を閉じた。


 深夜二時。

 父さんは、俺のベッドの脇で、椅子に座ったまま盛大なイビキをかいていた。

(……仕方ねぇな)

 俺はセンチネルを起動し、枕元の銀貨三枚を拾わせた。

(チャージ)

 【残高:30,600円】

 三万円。

 銅貨拾いから始まった男が、ついに手にした軍資金だ。

 俺は、ゆっくりと画面をスクロールさせた。

 高性能グリス。カーボンシート。精密ドライバー。ミニ四駆のモーター。

 買いたいものは、無限にあった。

 だが、俺が最初にカートへ入れたのは、それではなかった。

 『ドリップコーヒー 3パック / 398円』

 『陶器のマグカップ(小) / 680円』

 『ミニケトル / 一二八〇円』

(ポチッとな)

 ポン、ポン、ポン。

 三つの小包が、床に現れた。

 センチネルが、慣れた手つきで包装を解いていく。

 三十センチの人形が、自分と同じくらいの大きさのケトルを運ぶ様は、なかなかシュールだった。

 水を注ぐ。

 湯を沸かす。……といっても電源がないので、俺は魔力でケトルの底を温めた。

 母さんの回復魔法を毎日浴びた甲斐があった。

 やがて、湯気が上がる。

 ドリップバッグをマグカップに引っ掛け、俺は――センチネルの手を借りて、そこに湯を落とした。

 の、の、の。

 中心から、外へ。

 最初は蒸らす。二十秒。豆が呼吸する。

 その瞬間だった。

 ふわり、と。

 異世界の子供部屋に、コーヒーの香りが立ち上った。

(…………)

 俺は、動けなかった。

 銀座の裏口。深夜一時の夜風。

 ポケットから取り出したキャンディ。噛み砕いたときの、あの苦味。

 全部、思い出した。

「……ぁ」

 ベビーベッドの中で、赤ん坊の目から、勝手に涙が溢れた。

 三ヶ月だ。

 三ヶ月かかった。

 動けない体で、金もなくて、言葉も通じなくて、それでも。

(帰ってきたな、俺)

 もちろん、生後三ヶ月の肝臓でカフェインを摂るのは自殺行為だ。

 俺は指先に一滴だけつけて、舌に乗せた。

 苦い。

 どうしようもなく、苦い。

 最高だった。

 残りは、センチネルに運ばせて、窓辺に置いた。

(――ほらよ、駄女神。約束だ)

 あのジャージ女は言った。

 向こうに行ったら、美味しいコーヒーを淹れてね、と。

 俺は窓の外の月に向かって、心の中で敬礼した。

(不味かったら承知しねぇぞ。淹れたのは、三つ星のスーシェフだからな)

 そして俺は、目を閉じた。

 ――翌朝。

「あら?」

 母さんが、窓辺の空になったマグカップを見つけて首を傾げていた。

「なあにこれ。……変ね、うちにこんなカップあったかしら」

 カップの底には、飲み干されたコーヒーの跡と、なぜかスルメの匂いが微かに残っていた。

 俺はベビーベッドの中で、声を上げて笑った。

「きゃっきゃっ!」

「まあ、リアンったら、今日はご機嫌ね!」

(当たり前だろ。開店初日に、常連客がついたんだ)

 金は稼げる。

 手は、もうある。

 地球という無限の食材庫と、この世界を繋ぐ回線も通った。

 寝返りすら打てない、生後三ヶ月。

 だが、俺の厨房は、たった今オープンしたのだ。

 ――これは、動けない赤ん坊が、動く人形と一杯のコーヒーで、世界の扉をこじ開けていく物語である。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 元三つ星シェフが赤ん坊に転生して、ネット通販と胡桃割り人形だけで成り上がる話でした。

 少しでも「面白い」と思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると、とても励みになります。

 ――さて。

 この短編は、実は連載版の「はじまり」の部分です。

 この後リアンは、

 ・胡桃割り人形を魔改造して人形競技『マグナギア』に参戦し、貴族のお坊ちゃまを完封し

 ・地球の調味料で異世界の食卓に革命を起こし

 ・簿記1級の知識で悪徳商会を法廷レベルで論破し

 ・過保護すぎる元A級両親の英才教育に殺されかけながら

 1歳、2歳、3歳……と、順調に「最強の子供」へと育っていきます。

 本編はこちらからどうぞ!

▼『元三つ星シェフ、最強の0歳児になる。【ネット通販】で地球の物資を取り寄せ、夜な夜な胡桃割り人形を操って無双中〜過保護な元A級両親の英才教育が凄すぎて〜』

https://ncode.syosetu.com/n3956lr/

 現在、第十七章まで公開中です。

 この短編を気に入っていただけた方なら、きっと楽しんでいただけると思います。

 それでは、本編でお会いしましょう。

  月神世一

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