第3話:リベラルの「共同体破壊」とグローバリズムの罠
これまで第一話および第二話を通じて、現代の「保守」を自認する政治勢力がいかにして経世済民の土台である国家の供給能力を破壊し、さらには「血統主義」という近代の虚妄に囚われることで、その政治的知性を自壊させてきたかを解剖した。彼らは伝統の守護者を名乗りながら、その実、国家の物理的・文化的基盤を新自由主義の荒波へと無自覚に売り渡す「偽装された破壊者」であった。しかしながら、国家の機能を不全に陥らせ、国民を貧困と分断の淵へと追いやっている病理は、決して右派(保守)の側にのみ存在するわけではない。むしろ、保守の対立概念として自己を位置づけ、個人の自由と多様性、そして人権の擁護を至上命題として掲げる「リベラル(自由主義・左派)」勢力もまた、全く別のアプローチから国家の基盤を解体し、結果として彼らが最も対決すべきはずの「グローバル資本による搾取」に全面的なお墨付きを与えるという、致命的な自己矛盾に陥っている。本章においては、リベラリズムの崇高な理念がいかにして人々を孤立させ、共同体を破壊し、多国籍企業の強欲に奉仕する「有用な愚か者」へと転落してしまったのか、その論理的帰結を政治思想史とマクロ経済学の観点から徹底的に検証する。
リベラリズム(自由主義)の根底を貫く哲学は、「個人の解放」である。十七世紀から十八世紀にかけての近代啓蒙主義に端を発するこの思想は、人間を不合理な宗教的権威、封建的な身分制度、そして強固な村落共同体や家族制度といった「あらゆる因習的な束縛」から解き放ち、自立した理性的な個人を創り出すことを歴史的使命としてきた。基本的人権の確立、法の下の平等、そして個人の自己決定権の拡大など、この思想が近代社会にもたらした功績自体は高く評価されるべきであろう。しかし、アメリカの政治学者パトリック・ディニーンがその著書『なぜリベラリズムは失敗したのか』において鋭く指摘したように、リベラリズムの真の悲劇は、その理念が敵対勢力に敗北したことによってではなく、その理念が「完全に勝利してしまった」ことによって引き起こされたのである。
あらゆる伝統的・共同体的な紐帯から「解放」された個人は、真に自由で幸福な存在になり得たであろうか。現実はその真逆のディストピアを生み出した。家族、地域社会、教会(あるいは氏神の祭祀組織)、職業組合といった、かつて個人を包み込み、市場の冷酷な競争から保護してくれた「中間共同体(防波堤)」が、個人の自由を抑圧する前近代的な悪として徹底的に解体された結果、人々は文字通り丸裸の状態で、グローバル市場という弱肉強食の荒野に単独で放り出されることとなった。社会学者のジグムント・バウマンは、あらゆる固い絆が液状化し、流動的になった現代社会を「リキッド・モダニティ(液状化する近代)」と呼んだ。そこでは、共同体というセーフティネットを失った原子化(アトム化)された個人が、常に自己責任の重圧と孤立の不安に苛まれながら、資本主義の荒波に翻弄され続けている。リベラルが理想とした「しがらみのない完全に自由な個人」とは、冷徹な経済の視点から見れば、いかなる保護基盤も持たず、労働力を安く買い叩くことができる「最も搾取しやすい従順な消費者および労働者」の別名にほかならなかったのである。
この「個人の原子化」という現象は、社会・文化的なリベラル派と、経済的な新自由主義者の間に、恐るべき「悪魔の同盟」を成立させた。政治学者のナンシー・フレイザーは、現代の政治状況を「進歩的ネオリベラリズム(Progressive Neoliberalism)」という概念で鮮やかに喝破している。すなわち、多様性、ジェンダー平等、多文化主義、国境の開放、エコロジーを至上の価値とする「進歩的な文化リベラル(メディアや大学の知識人)」と、労働規制の緩和、自由貿易、金融のグローバル化を推進する「強欲なウォール街やシリコンバレーの多国籍企業」が、水面下で強固な同盟を結んでしまったという歴史的事実である。
一見すると水と油に見える両者であるが、その利害は完璧に一致している。グローバル資本にとって最大の障壁となるのは、「国境という物理的壁」「伝統的な家族観」「地域固有の文化や慣習」といった、市場の均質化を妨げるローカルな防壁である。多国籍企業は、世界中の人間から国家への帰属意識や伝統文化を剥ぎ取り、彼らを均質で没個性的な「グローバルな消費者」へと改造し、同時に世界中から最も安い「労働力」を摩擦なく調達したいと渇望している。ここで、リベラル派のイデオロギーが極めて有用なツールとして機能する。リベラル派が「多様性の尊重」や「国境の壁を壊せ」と声高に叫び、伝統的価値観を「古い差別構造」として批判・解体してくれることは、グローバル資本にとって、国家の主権や労働保護規制を破壊するための最高の「大義名分(倫理的カモフラージュ)」となるのである。
例えば、リベラル派が普遍的人権という理念に基づいて「移民の無制限な受け入れ」や「外国人労働者の権利拡大」を主張するとき、彼らは自分たちが進歩的で人道的な運動をしていると信じて疑わない。しかし、マクロ経済学と経世済民の実務的な観点から見れば、これがもたらす現実は極めて残酷である。経済史家カール・ポランニーは、その名著『大転換』において、人間(労働)、自然(土地)、貨幣を単なる「商品」として扱う自己調整的市場のフィクションが、いかにして社会そのものを破壊するかを警告した。リベラル派が「人権」や「多様性」という美しい言葉で国境の開放を賛美する裏側で進行しているのは、まさに人間の「架空の商品化」と「グローバルな労働市場の完全競争化(底辺への競争)」である。
言語も文化も生活水準の前提も全く異なる大量の労働力が、安価な賃金で国内市場に流入すれば、需要と供給の法則により、必然的に国内労働者の賃金は下方に押し下げられる。資本家はより安い労働力へアクセスできるようになり莫大な利益を得るが、地域社会には言葉の壁や文化摩擦、インフラへの負荷、治安の悪化といった社会的コスト(外部不経済)が一方的に押し付けられる。米国の政治学者ロバート・パットナムが膨大な実証研究(『孤独なボウリング』等)で明らかにしたように、無秩序な多様性の拡大は、短中期的には地域社会における「社会的信頼」を劇的に低下させ、人々を物理的にも心理的にも孤立させる。労働組合や地域コミュニティという「資本に対抗する抵抗の拠点」を失った労働者は、ただ低賃金で使い潰されるだけの交換可能なパーツへと転落していく。現代のリベラル派は、自らの純粋なイデオロギー的潔癖さを満たすために、経世済民の最後の砦である「国民経済の防衛線」を喜んでグローバル資本に売り渡してしまったのである。
さらに、リベラル派の機能不全を決定づけているのが、彼らの「マクロ経済政策に対する無理解」と「実体経済の放棄」である。本来、一般大衆を市場の暴力から守り、格差を是正し、共同体を維持するためには、国家による強力な財政出動(インフラ投資と再分配)が不可欠である。世界中のまともな主権国家であれば当然のように実行する「不況期には政府が積極的な投資を行って総需要を創出し、国民の雇用と賃金を守る」というオーソドックスな経済政策を強力に推進することこそが、かつての左派(社会民主主義者)の最大の責務であったはずだ。
しかし、現代のリベラル派の多くは、このマクロ経済の実務から完全に逃避し、主流派経済学の「緊縮財政論(均衡財政主義)」という虚構の枠組みに保守派と全く同じように絡め取られている。彼らは福祉の拡充や弱者救済を主張しながらも、「その財源は富裕層や大企業への増税で賄うべきだ」という税収制約のパラダイムから一歩も出ることができない。デフレ不況下において、政府自らが国債を発行して経済のパイ(総需要)そのものを拡大するという「高圧経済(High-Pressure Economy)」的な発想を持たないため、彼らの政治運動は必然的に、縮小していくパイ(限られた税収)を社会のどのマイノリティ集団に優先的に配分するかという「アイデンティティ・ポリティクス(属性の政治)」による不毛なパイの奪い合いへと矮小化していく。
LGBTQの権利拡大、特定のマイノリティへの配慮、環境保護主義(脱炭素など)、あるいは言葉狩りやキャンセル・カルチャー。確かにこれらは個別のイシューとしては議論されるべきテーマかもしれない。しかし、国家の物理的な供給能力が衰退し、地方のインフラが崩壊し、労働者の実質賃金が低下し続けるという「国民全体の生存の危機」を前にして、現代のリベラル派はマクロ経済政策という根本的な解決策(底上げ)を提示できず、重箱の隅をつつくようなポリティカル・コレクトネス(政治的妥当性)の追求にのみ血道を上げている。これでは、国民の広範な支持を得られるはずがない。「抽象的な権利や言葉狩りには熱心だが、我々の明日のパンや雇用を守るための経済政策(物理的な供給能力の維持)には全く無関心な都市部エリート層の道楽」。これが、現代のリベラルに対して一般大衆が抱く冷徹にして極めて正確な評価である。
このリベラルの病理を、日本における「経世済民」の物理的基盤という文脈から読み解くと、彼らの無自覚な破壊性がより鮮明になる。日本のリベラル派の多くは、都市部の大学やメディアに拠点を置き、地方の農山村や土木建設業といった第一次・第二次産業を「遅れた古い体質」「補助金漬けの既得権益」として冷笑的に見下す傾向がある。彼らはグローバルな環境基準(過度な脱炭素化など)を無批判に礼賛し、それが地方の工場やインフラ産業にいかなる物理的打撃を与えるかという実務的な想像力を完全に欠如させている。地方のムラ社会のしがらみや、神社の祭祀(祭り)、消防団といった中間共同体を「個人の自由を束縛する封建的な悪」として解体することを進歩だと信じているが、いざ大規模な自然災害が起きたとき、倒木をチェーンソーで切り払い、重機で土砂を退け、炊き出しを行って命を救うのは、彼らが馬鹿にしてきた地方の建設業者であり、農協であり、泥臭い共同体のネットワーク(物理的な供給能力)である。リベラル派は、自らの命を物理的に支えている土台そのものを「リベラルではないから」という理由で破壊しているのである。
彼らのこの致命的な過ちの根本原因は、「時間の連続性」に対する圧倒的な想像力の欠如にある。リベラル派が最も忌み嫌うもの、それは「歴史」と「伝統」という名の連続性である。彼らは歴史を「克服されるべき過去の野蛮と差別の記録」としてしか認識できず、空間的にも時間的にも過去から切り離された「現在」のみを生きる存在として個人を定義する。しかし、国家や郷土とは、単なる空間(現在の居住地)ではない。それは過去から未来へと連なる先人たちの莫大な労働、インフラ整備、そして死者たちへの祭祀が蓄積された「時間的インフラストラクチャー」である。
すべての人々をルーツを持たない流動的な「地球市民」へ改造しようとするリベラルの試みは、人間から「過去の死者(先祖)から命のバトンを受け継ぎ、未来の生者(子孫)へと責任を持って手渡す」という歴史的連続性の自覚を根こそぎ奪い取る暴挙である。過去に対する責任を持たず、未来に対する義務も負わない「完全に自由な個人」は、必然的に「今だけ、金だけ、自分だけ」という新自由主義的価値観に完全に同期する。リベラリズムの理念は、彼らが意図するしないに関わらず、国家という連続的な共同体を解体し、日本を「グローバル資本が草刈り場とするための無国籍の荒野」に変えるための最も強力なブルドーザーとして機能しているのである。
個人の自由や権利は、それ自体が空中に浮遊して存在しているわけではない。権利とは、それを保障し、守り抜くための強靭な国家権力と、豊かな供給能力(実体経済の力)、そして人々が互いを同胞として認識し助け合う「共同体の紐帯」があって初めて実体化するものである。これら物理的・精神的なインフラ(国家や郷土)を破壊しながら「人権」や「多様性」だけを叫ぶのは、建物の柱と土台をダイナマイトで爆破しながら、空中に美しい壁紙を貼ろうとするような狂気である。
これまで第一部(第一話から第三話)を通じて明らかにしてきたように、現在の政治空間を支配する「二つの勢力」は、経世済民という国家の本来の目的において完全に破綻している。血統主義とルサンチマンに囚われ、緊縮財政で自国の首を絞める「偽りの保守」。そして、個人の解放と多様性を叫びながら共同体を解体し、マクロ経済政策を放棄することで結果的にグローバル資本による搾取の片棒を担ぐ「機能不全のリベラル」。どちらのイデオロギーを選択しても、行き着く先は国家の物理的な供給能力の喪失であり、日本民族という歴史的連続性の死である。我々は、この不毛な右派と左派のシーソーゲームから永遠に脱却しなければならない。
真に必要とされているのは、既存の政治的枠組みを根底から覆す、全く新しい次元の国家設計論(国家OS)である。血統という近代のレイシズムを徹底的に排斥しながらも、文化と連続性の受容によって強靭な共同体を防衛し、そして世界標準の真っ当な経済政策によって国家の物理的供給能力を最大化する。この一見すると矛盾する要素を完璧な論理の糸で縫い合わせたアーキテクチャこそが、次部より解き明かす「三層構造」である。感情論を排し、冷徹なる実務と「万物神聖化」の哲学によって構築される、次世代のための「神の国」の統治計画がいよいよ幕を開ける。
【引用文献・資料】
・パトリック・ディニーン『なぜリベラリズムは失敗したのか』(渡辺靖訳、白水社、二〇一九年)
・ジグムント・バウマン『リキッド・モダニティ――液状化する社会』(森田典正訳、大月書店、二〇〇一年)
・ナンシー・フレイザー『古いものは死にゆき、新しいものは生まれ出ることができない――「進歩的ネオリベラリズム」の終焉と新たなポピュリズムの台頭』(『現代思想』二〇一七年三月号、青土社)
・カール・ポランニー『大転換――市場社会の形成と崩壊』(野口建彦・栖原学訳、東洋経済新報社、二〇〇九年)
・ロバート・D・パットナム『孤独なボウリング――米国コミュニティの崩壊と再生』(柴内康文訳、柏書房、二〇〇六年)
・クリストファー・ラッシュ『エリートの反逆――現代民主主義の病い』(渡辺京二・森崎敏彦訳、新評論、一九九七年)




