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ハイブリッド保守宣言 ——「血」を問わない民族主義と、三層構造の国家OS  作者: えいの
第1部:保守とリベラルの「機能不全」を解剖する

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第1話:なぜ現在の保守は「経世済民」を果たせないのか

 国家という巨大なシステムが地上に存在する究極の目的とは何か。この根源的な問いに対する解答は、東洋の古典的政治理念である「経世済民(世を經さめ、民を救ふ)」という四字熟語の中に明確に示されている。国家という統治機構を安定的に維持・運営し、その領土内に暮らす民草の生命、財産、そして日々の平穏な生活を、物理的かつ経済的に保障し続けること。これこそが、古今東西を問わず国家権力に対して警察権や軍事権という独占的な暴力、さらには徴税権が許容されている最大の根拠であり、政治の第一義である。近代社会契約論の祖であるイギリスの哲学者トマス・ホッブズが主著『リヴァイアサン』において、万人の万人に対する闘争状態(自然状態)を回避するために強力な主権国家が必要であると説いたように、国家の最も重要な機能は抽象的なイデオロギーの実現などではなく、極めて物理的かつ実務的な「国民の生存の保障」にほかならない。

 そして、この国家の連続性と安定性を最も重んじ、先人たちが築き上げてきた共同体の秩序を守り抜くことを至上命題とする思想こそが、「保守主義」であるはずであった。しかしながら、現代日本の言論空間において「保守」や「右派」の看板を掲げる政治勢力、あるいはオピニオンリーダーたちの言説を客観的に俯瞰したとき、我々はある絶望的な現実に行き当たる。彼らは、保守本来の目的であるはずの「経世済民」という実務的機能から致命的なまでに乖離し、国家の土台を自ら掘り崩す自己矛盾に陥っているのである。本論の第一歩として、現在の日本の保守思想がいかにして経世済民の能力を完全に喪失し、機能不全に陥っているのか、その構造的な欠陥を政治哲学と社会学の観点から冷徹に解剖する。

 現在の保守勢力が抱える機能不全の根源は、「感情的ルサンチマン(怨恨)」への過度な依存と、それに伴う政治的想像力の決定的な矮小化にある。本来の保守主義とは、極めて理性的かつ実践的な思想である。近代保守主義の父とされるエドマンド・バークは、『フランス革命の省察』において、人間の理性の限界に対する深い自覚と、長い歴史の試練を耐え抜いてきた「偏見プレジュディス」や「暗黙の知」、すなわち伝統的制度の価値を擁護した。バークにとって保守とは、いかなる変化も拒絶する硬直した復古主義ではなく、共同体を維持するために必要な実務的改修を絶えず行いながら、その根本的な連続性を守り抜くという、高度に知的なメンテナンス作業であった。国家を一つの古い館に例えるならば、雨漏りを修繕し、シロアリを駆除し、基礎のコンクリートを補強し続けるという泥臭い実務の集積こそが保守の真髄である。

 ところが、冷戦構造の崩壊以降、とりわけインターネット空間の拡大とともに台頭した日本の新興保守(いわゆるネット右派やポピュリズム的保守層)は、この「守るべきもの」の維持・構築ではなく、「攻撃すべき敵」の糾弾へとその政治的エネルギーの大半を費やすようになった。彼らの運動原理は、伝統の継承への責任感ではなく、他者への憎悪によって自己の正当性を確認する劣悪な自己愛の表出に成り下がっている。

 この現象を読み解く上で、ドイツの法学者カール・シュミットが『政治的なるものの概念』において提示した理論は極めて示唆に富んでいる。シュミットは、政治の本質を「友と敵の峻別」に見出した。国家の存亡を懸けた極限の例外状態において、誰が味方であり誰が敵であるかを冷徹に見極めることは、確かに国家理性の根源的機能である。しかし、現在の日本の自称保守層が展開している「友敵論」は、シュミットが想定したような国家の生存を懸けた地政学的リアリズムに裏打ちされたものでは全くない。彼らが行っているのは、近隣諸国や国内のマイノリティ、あるいは見解を異にするリベラル派や特定のメディアを、恣意的かつ感情的に「反日」という記号で一括りにし、彼らを非難し、排斥すること自体を目的化する「疑似政治ゲーム(エンターテインメント)」である。

 特定の民族や国家に対するヘイトスピーチまがいの言説や、過去の歴史問題における過激な自己正当化は、一時的なカタルシス(精神的浄化)と不毛な連帯感を熱狂的な支持者にもたらすかもしれない。だが、それは国家の課題を解決する実務的な政策ソフトウェアを何一つ生み出さず、社会に無用な分断と摩擦をもたらすだけである。「誰を憎むか」「誰を攻撃するか」という感情を動力源とする運動は、経世済民という「誰をいかにして救い、豊かにするか」という本来の政治目的から最も遠い位置に存在する。

 ではなぜ、彼らはこれほどまでに「敵の糾弾」に固執するようになったのか。その心理的メカニズムは、フリードリヒ・ニーチェが『道徳の系譜学』において看破した「ルサンチマン(怨恨・嫉妬・無力感)」の概念によって完全に説明がつく。一九九〇年代のバブル経済崩壊以降、日本は長きにわたる経済的停滞(いわゆる失われた三十年)に陥り、国民の多くが実質賃金の低下、非正規雇用の増大、そして将来への不安という構造的な無力感に苛まれることとなった。高度経済成長期のような「明日は今日より豊かになる」という経済的な成功体験に基づく健全な国家の誇りを喪失した大衆は、それに代わる手軽なプライドの拠り所を渇望した。

 スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットは『大衆の反逆』の中で、「自らに特別な要求を課すことなく、ただ周囲と同じであることに安堵する大衆」の恐るべき凡庸さと傲慢さを描写した。経済的な停滞の中で自己実現の道を絶たれた現代の大衆にとって、自らの努力や研鑽で何かを構築し、社会に貢献することで誇りを得るよりも、生来の「血統」や「日本という国家属性」に無条件に同一化し、他者を貶めることで相対的な優越感を得る方が遥かに容易かつ魅力的であった。すなわち、現代日本のネット空間や街頭で吹き荒れる排外主義的なナショナリズムの正体とは、経済的・社会的な停滞に対する構造的な無力感が、外部の他者(あるいは内部の弱者)に対する攻撃性へと変換された「ルサンチマンの処理装置」にほかならないのである。

 このルサンチマンに基づく感情的ナショナリズムが、国家の「経世済民」をいかにしてスポイルする(台無しにする)のか。そのメカニズムは極めて論理的かつ冷酷である。政治的エネルギーと社会の関心が「反日認定」や「歴史認識の文化闘争」という劇場型の消費に向けられるとき、国家の土台を維持するための地道な「実務」は完全に放置される。政治家や言論人は、大衆のルサンチマンを煽り、勇ましい言葉で他国を非難しさえすれば「愛国者」としての喝采を浴び、選挙で票を得ることができる。その結果、高度な専門知識と緻密な計算を要するマクロ経済政策の立案、老朽化したインフラの計画的更新、労働市場の改善、先端技術への投資といった、国家の生存に関わる地味な実務に取り組むインセンティブを完全に失うのである。

 他者をどれほど声高に罵倒したところで、朽ちゆく地方の橋やトンネルが修繕されるわけではない。マイノリティを排斥したところで、少子高齢化によって縮小する地方経済が潤うわけでも、労働者の実質賃金が上昇するわけでもない。彼らは「日本を取り戻す」と声高に叫びながら、その足元で日本列島という物理的な国土が崩壊していく現実から完全に目を背けているのである。

 真の保守主義であるならば、抽象的なイデオロギーや記号的な愛国心(国旗への敬礼や歴史認識の自己正当化)よりも先に、国民生活を支えるための物理的な力、すなわち「モノやサービスを持続的に生み出す力(供給能力)」を何よりも重視しなければならないはずである。豊かな農地とそれを耕す高度な技術、安全な水と電気を辺々まで届けるインフラストラクチャー、世界市場で戦える製品を生み出す工場とサプライチェーン、そして何より、それらを担う健全で豊かな労働者たち。これら三次元の物理的現実における供給能力の蓄積と維持こそが、国家の真の国力であり、安全保障の絶対的な要である。

 国家が存亡の危機に立たされるのは、帳簿上の数字や財政赤字が悪化した時などではない。巨大地震や未曾有のパンデミック、あるいは地政学的な軍事衝突によるシーレーン(海上交通路)の封鎖といった危機的状況下において、国民を救うための食料、エネルギー、医薬品を自国内で生産・分配できなくなった時である。したがって、郷土を愛するということは、その土地の物理的基盤と経済的基盤に対して不断の投資を行い、そこに暮らす人々の生活を物心両面で豊かに保つことと同義でなければならない。

 しかし、現実の日本の保守層はどうであろうか。彼らは「日本を守れ」と叫びながら、国家の物理的供給能力を徹底的に破壊する政策に対して全くの無批判、あるいは積極的な賛同者となっている。一九九〇年代以降、保守を自任する政権は「既得権益の打破」や「市場原理の導入」という新自由主義ネオリベラリズム的なスローガンを掲げ、郵政、水道、電力、農協に至るまで、国家の供給能力を支えてきた地域のインフラや共同体をグローバル資本へと売り渡す構造改革を推進してきた。採算に合わないという理由で地方の公共事業は極端に削られ、土木建設業者は次々と倒産し、重機を操る熟練の技術者は業界を去った。農業従事者は市場競争の荒波に放り出され、先祖代々受け継がれてきた農地や山林は外資に買い叩かれている。

 効率化の名の下に共同体のセーフティネットが解体され、人々がバラバラの「個」として市場に放り出され、非正規雇用という名の調整弁に引き下げられる社会において、いったいどうやって「伝統」や「郷土愛」、あるいは「歴史的連続性への畏敬」を維持できるというのか。伝統や文化というものは、人々が同じ土地に定住し、経済的なゆとりと将来への安心感を持って初めて世代を超えて継承されるものである。国家のインフラストラクチャーを削り落とし、国民を貧困化させておきながら、同時に「愛国心を持て」「伝統を守れ」と説教することは、建物の柱を自らノコギリで切り倒しながら、屋根の上の瓦を一生懸命に磨き続けるような狂気の沙汰である。

 ここで想起されるべきは、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーが『職業としての政治』において説いた「心情倫理」と「責任倫理」の峻別である。ヴェーバーは、己の信条や動機の純粋さのみを絶対視し、自らの行動がもたらす現実的な結果に対して責任を負わない態度を「心情倫理」として退け、政治家たる者は、いかに意図が純粋であろうとも、その行動がもたらす現実的な帰結に対して冷徹に責任を負う「責任倫理」を持たねばならないと説いた。

 現代の排外主義的保守や構造改革を礼賛する保守は、まさにこの心情倫理の極致を体現している。彼らはインターネット上で勇ましい愛国的な言葉を吐くことで、あるいは「既得権益」とレッテルを貼った古い組織を叩き潰すことで、「日本の誇りを守った」「国家を改革した」という心地よい自己満足に浸っている。しかし、その足元で現在進行形で起きている地方経済の崩壊、インフラの老朽化による災害対応能力の喪失、そして技術継承の断絶という致命的な「結果」に対しては、何一つ責任を負おうとしない。彼らは、日本の誇りを守るという名目で、日本が生き残るための物理的な手足を自ら切り落としているのである。

 彼らがこのような構造的矛盾から逃れられない最大の理由は、国家運営の実務における「世界標準の真っ当なマクロ経済政策」という基本ソフトウェアを完全に喪失している点にある。世界中のまともな主権国家であれば当然のように行う「不況期には政府が積極的な財政出動を行って需要を創出し、国民の雇用と賃金を守る」「国土のインフラは数十年単位の計画を持って定期的に維持・更新する」という極めてオーソドックスな経済運営を、日本の保守は「財政規律」や「自己責任」という虚構のイデオロギーのもとに放棄してしまった。国家の供給能力を維持するための実務的手段を自ら手放した彼らには、もはや大衆のルサンチマンを煽るポピュリズムしか、政治的求心力を維持する手段が残されていないのである。

 結論として、現在の日本において「保守」の看板を掲げている勢力の大半は、経世済民を果たすための国家OSとしては完全に機能不全に陥っている。彼らは「排外主義的な感情論」に酔いしれることで知的な政策論争から逃避し、世界標準の真っ当な経済政策を放棄することで、自国の物理的な供給能力と共同体を自らの手で破壊し続けている。特定のマイノリティを反日と認定して溜飲を下げる行為は、国家を豊かにするためのいかなる実務的価値も持たず、政治を不毛な文化闘争へと貶めるだけである。これはもはや保守主義などではなく、単なる「復古的装飾を施した市場原理主義とルサンチマンの野合」に過ぎない。

 我々が真の意味での経世済民を果たし、この日本という共同体を未来へと継承していくためには、既存の右派が陥っているこの自己矛盾から完全に決別しなければならない。感情的なイデオロギー論争を排し、国家の生存を規定する物理的現実に向き合う冷徹な知性を取り戻す必要がある。しかしながら、この国家の破壊に加担しているのは、何も保守(右派)だけではない。次話においては、保守の対立概念として自己を位置づけ、個人の自由と権利の擁護を至上命題とする「リベラル(左派)」がいかにして機能不全に陥り、結果としてグローバル資本による共同体破壊の片棒を担ぐ「有用な愚か者」へと成り下がってしまったのか、その論理的帰結を徹底的に解剖する。

【引用文献・資料】

・トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』(水田洋訳、岩波文庫、1992年)

・エドマンド・バーク『フランス革命の省察』(半澤孝麿訳、みすず書房、1989年)

・カール・シュミット『政治的なるものの概念』(長尾龍一訳、岩波文庫、2007年)

・フリードリヒ・ニーチェ『道徳の系譜学』(中山元訳、光文社古典新訳文庫、2009年)

・ホセ・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(神吉敬三訳、ちくま学芸文庫、1995年)

・マックス・ヴェーバー『職業としての政治』(脇圭平訳、岩波文庫、1980年)


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