天井の見えない朝
四月二〇日。
朝のニュースは淡々とした声で、それを告げていた。
――今朝、○○拘置所で死刑が執行されました。
死刑囚は、二〇二二年に起きた神津一家殺人事件の犯人として――
テレビ画面には、事件当時の住宅街の映像が流れている。ぼかされた家。赤いランプ。規制線。それらはすべて、もう三年前の出来事だ。
俺はフライパンの上で卵が弾ける音を聞きながら、テレビから目を逸らした。半熟の目玉焼きにカリカリのベーコン。少し焦げたトーストにバター。朝は時間がないくせに、こういうところは手を抜きたくないのだ。牛乳をコップに注ぎ、砂糖を二杯。牛乳の底で、砂糖が溶け残ってじゃりじゃりと音を立てる。
「……うまぁ」
思わず声が漏れる。呑気だなと自分でも思う。
――極めて残虐な犯行であり、決して許されるものではありません。
テレビの向こうで、誰かがそう言った。
これってもし冤罪ならどうなるんだろな。
ピピピ、とスマホのアラームが鳴る。
「って、やば……」
そんなこと考えてる場合じゃない。今日は初出勤なんだ。遅刻だけは絶対にできない。
「遅刻して申し訳ございませんでした」
二十分遅れの初出勤。店長は怒るどころか、困ったように笑った。
「大丈夫だよ。遅れた分は仕事で返してくれればいい。これからよろしくね、涼介くん」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなった。
ここは《バンビーニ》。
昔ながらの洋食屋でどこか懐かしい匂いがする。味は一級品で下手な高級店よりもよっぽど美味い。そして店長は孤児院も経営しており、昼と夜の合間にはこども食堂も開いている。
「神津、今日死刑だったらしいな」
カウンター席の客の声が耳に入った。
「あの一家殺したやつだろ。そりゃ当然だよ」
俺は何も言わず、皿を拭く。
せっかくの食事の時間に、殺すとか死刑だとか、美味しくなくなると思うんだけど。
「彼も孤児院育ちだったらしいね」
調理台の向こうで、店長が静かに言った。
「だからって、許されるわけじゃないけど」
油の弾く音だけが、しばらく店内に残った。それよりも俺はハンバーグを焼く店長の手つきを、無意識に目で追っていた。手際がいい。それだけじゃない。
……何が違うんだろ。
「そんなに見られると緊張するな」
店長が笑う。
「すみません。なんか違和感があって」
「このハンバーグは、あのお客さん用なんだよ。
セロリアレルギーがあるからね」
なるほど、と思った矢先
「こっちは妊娠中のお客さん用。火入れを少し長めにしてる」
気づかないわけだ。同じ料理でも中身は少しずつ違う。それに気づく人は、きっと多くない。それでも工夫をするのはきっと愛なんだろうな。
仕事が終わり、看板を片付けるために店の外に出ると、空はすっかり暗くなっていた。春の夜はまだ少し冷えていた。
「今日はありがとうございました」
エプロンを外しながら、俺は店長に頭を下げた。
「初日であれだけ動ければ十分だよ」
「いえ、まだまだです」
そう言いながら、店の前に視線をやる。
店の前に、小さな男の子が立っていた。
ランドセルを背負ったまま、足踏みしながら辺りを見ている。
――あれ。
俺は男の子のほうへ一歩近づいた。
「どうかしたのかな?」
声をかけたのは、すぐ隣に来ていた店長だった。
店長が屈んで、目線を合わせる。
「お母さん、まだ来なくて……」
「そっか。寒いよね。お店中入るかい?あったかいよ」
男の子は一瞬だけ迷って、それから小さく頷いた。
「おじさん、ありがとう」
店長は男の子の肩に軽く手を置くと、
俺のほうを見て言った。
「もう上がっていいよ。今日はここまでで」
「大丈夫ですか?」
「うん。すぐ迎えも来るだろうし」
それならと俺は看板を壁に戻し、閉まりかけた扉のほうへ声をかけた。
「お先に失礼します。今日はありがとうございました」
「お疲れさま。また明日」
そう言って、店長は男の子と一緒に店の中へ入っていった。店の明かりが、歩道に長く伸びる。
その光を背にして歩き出したとき、
なぜか足取りが少しだけ重く感じた。
初日で気を張っていたせいだろう。
立ちっぱなしだったし、疲れてもいる。
それでも、数歩進んだところで、
自分の歩幅が、どこか落ち着かないことに気づいた。
——誰かに見られている、というほどじゃない。
ただ、一人のはずなのに一人じゃない気がする。
立ち止まってみる。だが何も変わらない。
後ろにも、周りにも誰もいない。
街灯の下を抜けた。
影が足元に伸びて、すぐに消えた。
ただそれだけだ。
なぜか胸の奥に、わずかな引っかかりが残る。
気に留めるほどでもないのだが。
「……疲れてるな」
小さく息を吐いて、俺はそのまま歩き続けコンビニに向かった。今日はさすがに疲れから自炊する気力はなく、弁当と牛乳を買った。
袋を提げて歩きながら、ふと歩調が乱れた。
靴底がアスファルトに引っかかっただけだろう。
そう思って、そのまま歩き続ける
アパートに着き、鍵を開ける。
弁当を食べ、風呂に入ると、肩の力がようやく抜けた。今日一日の出来事が、湯気の向こうに溶けていく。今日は特別なことは何も起きた訳ではない。
ただ、胸の奥にわずかな引っかかりが残った。
理由は思い当たらない。疲れているだけだなんだろう。
風呂から上がり寝る準備を済ませ電気を消し、布団に潜り込む。眠りに落ちる直前、
部屋の空気が少しだけ静まった気がした。
気のせいだろう。
そんなこと思ってると、意識が途切れるように眠りについていた。
「……ってない」
どこからか、声が聞こえた。
「俺はやってない。やってないんだ」
何度も、何度も。
必死で、縋るような声。
誰なんだ。
そう思った瞬間、目が覚めた。
天井が、見えなかった。
そこにあったのは――
眠っている、俺自身だった。




