普通の生活
千早は、やわらかな日差しで目を覚ました。
壁に立てかけてある小さな時計に目をやると、短針は八と九の間を指している。
「やばっ!」
跳ね起きた。
今日は仕事初日。集合時間は9時。時計の針は、もう8時半を過ぎていた。
髪も服もそのままに、千早は宿舎を飛び出した。
途中、ちょうど階段を上がってきたエミリーと鉢合わせる。
「起こしに行くところだったのにー!」
エミリーは笑いながら、紙に包んだサンドイッチを手渡してくれた。
「お昼ね。忘れないでよー!」
千早は礼もそこそこにサンドイッチを受け取り、フェストの朝の街並みを駆け抜けた。
通りすがりの屋台からは香ばしい匂い。白い煙。すれ違う人々の声。すべてがまるで夢の中のようだった。
牧場には、ぎりぎりの到着。息を切らしながら門をくぐると、すでに一人の男が待っていた。
犬のような頭に、ぴょこんと揺れる尻尾。
まるで童話に出てくるコボルトのような姿だった。
「おう、お前が新入りだな。寝癖、すげぇぞ」
男はお腹の底から笑いながら、手を差し出してきた。
「オレはロータ。この牧場の主だ。よろしくな」
気さくで、少しお調子者のような雰囲気。けれど、その笑顔はどこか親しみやすかった。
「えっと、千早です。今日からよろしくお願いします……」
千早はぺこりと頭を下げ、周囲を見回した。
草原の向こうには、馬や羊に似た動物たち。けれど、その中には見たことのない奇妙な生き物も混ざっている。
「わたし、どの動物の世話をすればいいんですか?」
そう尋ねると、ロータは牧場の外れを指さした。小さな小屋が丘の上にぽつんと建っている。
「あっこにいる“ラウペ”の世話を頼む。朝晩のエサやりと掃除だけだから簡単さ」
ラウペ——。
千早はその名前に聞き覚えがあった。あの屋台で食べた、鶏肉みたいな串焼き。
じゃあ鶏っぽい何かだろうか。そんなふうに思いながら、ロータの案内で丘を上っていく。
だが、小屋までまだ距離があるにもかかわらず、ロータは途中で立ち止まった。
「……悪いな。ここから先は任せた。オレ、匂いがどうしても無理なんだ」
「匂い……?」
言われた瞬間、鼻を突く異臭が風に乗って漂ってきた。
腐った卵に魚を混ぜたような、刺激的な匂いだった。
千早は顔をしかめながら、恐る恐る小屋へ近づいた。扉に手をかけて、そっと開ける。
中には——
巨大な芋虫のような生き物が、うごめいていた。
ぶよぶよとした体、六つの目。ぬらぬらと動くその姿に、千早の背筋は凍りつく。
「む、無理無理無理……!」
今まで出したことのないスピードで、千早は丘を駆け下りた。
「ロータさんっ!! あれは無理です、無理です、ほんとに無理ですっ!!」
息を切らしながら詰め寄ると、ロータはバツの悪そうな顔で頭をかいた。
「見た目は平気なんだが、匂いがな……あいつら、掃除すれば匂いもマシになるって話だけど、オレはどうもな……」
「私、見た目も匂いも無理です!」
千早は叫ぶように言い返した。だが、ロータはしばらく考えた末に言った。
「じゃあ、こうしよう。給料、倍にする。どうだ?」
「倍……?」
「なあ頼むよ。一週間だけでいいから。誰にもできないんだよ。頼れるのはお前だけなんだ」
真剣な目でそう言われて、千早はしぶしぶうなずいた。
「……じゃあ、一週間だけですからね」
そう言いながら、再び丘を上った。
掃除に餌やり、匂いに慣れるまでが地獄だった。
吐きそうになりながら雑巾を握りしめ、バケツの水を何度も替え、千早は必死で作業に集中した。
ようやく終わった頃には、全身汗まみれ。
エミリーからもらったサンドイッチを開け、口に運ぶ。
「……あ、うま」
香ばしいパンに、シャキッとしたレタスと酸味の効いたソース。
だけど——
「くさっ……」
自分の服に染みついたラウペの匂いに顔をしかめながら、千早は小さくため息をついた。
千早は異世界にきて、普通の生活することの大変さをその身をもって学ぶのであった。