先の不安
食後の余韻が、胸のあたりにほのかに残っていた。
千早はカップを両手で包み込みながら、深く息をつく。
(お腹いっぱいになるって、こんなに安心できることだったんだ……)
けれど、次に脳裏をよぎったのは、今後のことだった。
この世界での生活が、どれほど続けられるのか。帰る手段が見えない今、「とりあえずの暮らし」をどうにかしなければならない。
「ねぇ、エミリー」
ふと顔を上げると、エミリーが水を飲みながら、こちらに目を向けた。
「ん? どしたの?」
「……今の私って、どのくらいお金持ってるんだろう。ちゃんと数えてなくて……」
そう言って、千早は懐から小さな革袋をそっと取り出した。
中には、この世界で手に入れた硬貨たちがざらざらと入っている。けれど、それがどれくらいの価値なのか、自分ではまだはっきり分からない。
「見てもらってもいい?」
そう言って、テーブルの上に袋を置こうとした瞬間——
「待った!」
エミリーが素早く手を伸ばして、千早の動きを止めた。
いつも元気で朗らかな彼女が、一瞬、真剣な顔になる。
「えっ?」
「この町ね、まあまあ治安はいいけど、だからって絶対に安全ってわけじゃないよ。お金を人前で広げるのは、できれば避けて。変な人、どこに潜んでるかわかんないから」
「あ……ごめん。考えてなかった」
千早は口をすぼめ、急いで袋を引っ込めた。
言われてみれば、異世界に来てからずっと、誰かに頼りっぱなしだった。知らない場所だからこそ、もう少し慎重に動かないといけないのかもしれない。
「机の下とかで、こっそり数えるなら大丈夫。私が見張っててあげるから」
「ありがとう……じゃあ、ちょっとだけ」
千早は袋の口を指で開き、膝の上でそっと中を覗き込んだ。
中に入っていたのは、大小さまざまな硬貨たち。
青年の顔、華やかな女性の顔、そして厳かな表情の老人の顔が彫られている。
(えっと……たしか、あのおじさんが驚いてたのが、老人の顔の硬貨だった。あれが千セントくらい……)
屋台で串焼きを買ったときのことを思い出す。男性が一瞬たじろいだような表情を見せたのは、あの硬貨が高額だったからだ。
(あとは、女性の顔のが100セントで……青年が10セント?)
千早は指先でひとつひとつ硬貨を確認し、心の中でゆっくり数えていった。
「……たぶん、合計で……1350セント、くらいかな」
そっと袋を閉じながら、エミリーに小声で報告する。
エミリーは少しだけ目を見開いたが、すぐにいつもの調子に戻ってうなずいた。
「うちの宿だと、それで素泊まりなら6日ぶんくらい。でも、食事込みにすると……4日が限界かな」
「4日……」
その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
時間がない。ゆっくりしていられるほどの余裕は、自分にはなかったのだ。
「エミリー……」
「ん?」
「なんか、仕事って……ないかな?」
千早が顔を上げると、エミリーはちょっとだけ驚いたように瞬きをして、それからグラスを指でくるくる回しながら考え込んだ。
「うーん……そうだなぁ……たとえば、“狩り”ってのがあるよ。町の外に出て、獣を仕留めて素材を売るの。肉とか毛皮とか、けっこう需要あるし」
「私、きっと追いかけられて終わる……」
千早は苦笑まじりに言った。
森で一人で獣と向き合うなんて、今の自分には絶対に無理だ。
「そっかー……じゃあ、“警備”とか?門番とか夜の巡回とかさ。警棒持って町を見回ったりするやつ」
「……夜の町をひとりで歩き回るって考えるだけで、無理かも……」
エミリーは「むむむ……」と唸りながら、今度は顎に手を当てて考え込んだ。
けれど、次の瞬間、ぱっと顔が明るくなる。
「……あっ、そうだ!ひとつ、ぴったりの仕事がある!」
「え、本当に?」
「うん!町の外にある“ロータの牧場”ってところ。そこ、人手が足りなくてさ、たまにお客さんが『今日も人手がいなくて大変だった〜』って話してるの。体力はそこまでいらないし、仕事内容もちゃんとしてるし、報酬もいいって聞いたよ」
「牧場……牛とか羊の世話ってこと?」
「そうそう。でもね、魔物系の畜産じゃないから安心して!わりと人間向けの仕事だよ。餌やりとか、掃除とか、ちょっとした作業がメイン。慣れれば楽って聞いてるし」
千早は、ほっと息をついた。
武器を持たずに済むなら、それだけでありがたかった。
「……お願い。紹介してもらえるかな?」
「任せて!明日の朝、牧場の人に伝えておくね」
エミリーは胸を張ってにこりと笑った。
その笑顔は、どこか姉のようなあたたかさを感じさせた。
「北の街道をまっすぐ行くと、“ロータの看板”が見えてくるから、それを目印にして。わりと有名な牧場だから迷わないと思うよ。」
「ありがとう、エミリー。ほんと、感謝してる……」
「ふふっ、どういたしまして!!」
——ほんのわずかだけど、未来が見えた。
千早は、明日を迎える勇気を少しだけ手に入れた気がした。