灯花亭の晩餐
どれくらい眠っていたのだろうか。
重いまぶたをゆっくり開けると、窓の外は赤く染まっていた。
沈みかけた夕日が雲の端をほんのり金色に染めている。
それは、不思議と元の世界と同じ色だった。
(……こっちでも、夕焼けは夕焼けなんだ)
少しだけ気持ちがほぐれた気がしたそのとき、
扉の向こうから、こんこん、と軽いノックの音が響いた。
「千早、起きてる?」
扉の隙間から、金髪の少女——エミーが顔をのぞかせた。
「晩ごはん、食べるでしょ? ちょうどいい時間だし」
「……うん。ありがとう」
エミーに案内されて階下の酒場へと向かう。
階段を降りると、ふわっと香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
香辛料と焼いた肉の匂い。グラスの音、笑い声、木の床を踏む足音——
にぎやかな空気が、千早を包み込む。
店内はろうそくの柔らかな光に照らされていた。
石造りの壁には植物のツルが絡みつき、古びた木のテーブルがそこかしこに置かれている。
店の奥では、誰かが腕相撲に夢中になり、手前の席では歌を歌っている酔っぱらいがいた。
(……異世界の酒場って、思ったより人間くさい)
エミーは手慣れた様子で酔っぱらいたちを避けながら、店の隅の席へと千早を案内した。
「ここなら静かだから」
「ありがと。……でも、料理の値段とか、わかんなくて...」
「あー、それなんだけどさ……」
エミーは頭をかいて、少し気まずそうに言った。
「さっきあんたが気絶したの、うちの母さんのせいなんだよね。酔っぱらいにブチ切れて、勢いあまって客ごとドアぶっ飛ばしちゃって。あんたがその犠牲に……」
「あー...」
千早はなぜこの宿で半日以上眠ることになったのかを思いだした。
エミーはニッと笑ってから、続けた。
「だから今日の宿代とごはん、タダにしてって頼んでおいた。気にしないで」
「……ありがとう。ほんと助かる」
お金の心配が減って、千早はほっと息をついた。
「じゃあ、オススメ、なにかある?」
「任せて!ちょっと待っててね!」
エミーはそう言い残して、カウンターの奥へと消えていった。
店の喧騒は続いている。
でも、にぎやかで温かい空気が、なんだか懐かしい。
千早はふと、実家での晩ごはんのことを思い出していた。
家族みんなで囲んだちゃぶ台。テレビの音。お父さんのくだらないギャグ。
(……あれ、なんか泣きそう)
その時だった。
「お待たせー!」
エミーが手に持っていたのは、見覚えのある料理だった。
「え、これ……ハンバーガー?」
「そ!ストーンブルのハンバーガーと、バジリ草のスムージー。うちの人気メニューなんだ〜。父さんが元の世界で一番好きだった料理なんだって。」
(父さん……ああ、エミーの父って、迷い人だったっけ)
皿の上に載ったバンズはこんがりと焼けていて、はみ出したパティからは肉汁が滴っていた。
千早はそっと両手で挟み、かぶりついた。
ジュワッ、と肉の旨味が広がる。
分厚いパティはしっかりと焼かれていて、噛むたびにジューシーな味が舌に広がった。
シャキシャキとした名前の分からない野菜、ソースの甘辛さ。
すべてが口の中で混ざり合って、一口ごとに幸福感が増していく。
「……めっちゃ、おいしい」
バジリ草のスムージーは、ほんのり甘くて、すこしだけ酸っぱい。
喉をすっと通って、体の中に落ち着いていくようだった。
千早は、気がつけば夢中になって食べていた。
ちゃんとしたごはんを口にしたのは、異界に来てから初めてだ。
胃だけじゃない。心まで満たされていく。
「——ごちそうさま」
そうつぶやいた千早の表情は、ほんの少しだけ、やわらかくなっていた。