第四話
――――心のどこかで、少しばかり引っかかっているその【何か】。
「もし、俺達がこの島で出会っていなかったとしたら、この島に俺以外の同世代のやつがいたとしたら……」
どうだっただろうか。
意味のない仮定とわかっていても、それでもどうしても考えてしまうのだ。
あたかもこの仮定こそが、俺達の愛情の詳細を明らかにするうえで、最も本質を捉えた考え方であるようにも思えてしまって。
そこに、どうしても頭の中で答えを導き出しておきたくなってしまう。
「俺もあいつも、結局は手ごろな異性がたまたま近くにいたからこういうことになってしまっただけで……本当は、島の外に出たら何かが、何かが致命的に、変わっていたんじゃないだろうか……」
果たして俺は、それでも自信をもって彼女だけを愛したと言えるだろうか。
それほどまでに、俺は彼女の事を想っているのだろうか。
この感情は、果たして彼女とこれから添い遂げるにふさわしいものなのか。
この気持ちに名前が付く前に、そんな大事な決断をしてしまっていいのだろうか。
それ以前に、彼女は俺と添い遂げたいと思ってくれているのだろうか……。
これは間違いなく、俺の心中を支配している【不安】という名の感情の渦。
だからだろうか、結局は俺がこの島を離れたいとは思えず、ただそれとは対照的にどこか名状し難い焦りを感じているのも……。
何より冴香のことを、一人の女性としてちゃんと見てやれていないということも……。
「……結局、俺はただ逃げてるだけなんだろうな」
何かが変わるのが怖くて、でもその【何か】を変えなくちゃいけなくて……。
そんな葛藤に、どうしようもないくらいに足をすくまされている。
「……あいつも、俺と同じだと良いな」
俺はこの弱さをあいつと共有できればどれほど楽だろうと思いながら、そう小さく呟いた。
その瞬間――――
「きっと、同じだと思うよ」
突然後ろから聞き覚えの声がある声が聞こえてきた。
それは鈴の鳴るような、まるで俺の心を溶かし込むような綺麗な音色。
ともすれば、この海の、その寄る波の音色よりも涼やかな声だった。
俺は、思わずはっと振り返ってその声がした方を見上げる。
「ごめんね、最初から……全部聞いちゃった」
振り返った俺の顔と目が合うなり、そう言ってどこか申し訳なさそうにこちらに笑いかけてくるその女性。
どこか茶目っ気も感じさせるその言い様に、否応なしにこの胸が跳ねる。
そう、俺がこんな風に心をかき乱されるのは、いつだって【あいつ】にだけだった。
故に、当然ながらこの女性こそが、今俺の心中を支配している当の【あいつ】――――
俺の唯一の幼馴染であり、長い黒髪の美女【青庭冴香】だった。
「ほんと、ごめんね?本当は盗み聞きなんてするつもりはなかったんだけど……その、私の名前、呼んでたから……」
「あ、ああ、そうだな……」
「それに、片想いがどうとかも……」
「マジかよ……」
「うん……」
「それで、冴香は同じだと思うって言ってたけど、それは――――」
「うん」
まただ。
俺の意思に反して、どこか胸の辺りが騒がしくなる。
静寂が痛い。
苦しい。
だけど、この時間に、どうしても淡い期待を抱いてしまう。
その一方で、当の冴香は、そんな俺の心中を知ってか知らずか、いつも通りのあっけらかんとした様子ではっきりとこう言いきった。
「私も……君が好きかもしれないって」
「……それは、また随分と唐突だな」
「そう?これだけずっと一緒にいたんだもん。同じ時、同じ思いに悩んでいても、何もおかしくはないんじゃない?」
「……」
にへらっと笑う冴香から、俺は思わず、顔を反らしてしまう。
顔が熱い。
とてもじゃないが、今この顔を彼女に見られるわけにはいかないと。
そう思える程、自身の顔がまるでゆでだこのように赤くなっていることを自覚する。
先ほどまではああもうだうだと悩んでいたのに、我ながら少し単純すぎるだろう。
そうやって自分で自分に呆れていると、冴香が、今度は少し申し訳なさそうに苦笑を浮かべた。
「……けど、ごめん。やっぱり自分でも、少し整理のつかないところはあるの。その、結局は私も、ただおさまりのいいところで妥協してるだけなんじゃないかなって……」
「そっか……」
それは本来、喜ぶべき本音の吐露ではなかったのかもしれない。
それでも俺は、そんな彼女の本音を聞いて、本当の意味で少しほっとしていた。
それは、ともすれば彼女から聞くことのできた【好き】という言葉よりも、ずっと自然に、この胸にすとんっと落ちてきた言葉だったからだ。
だから思わず、少し強張っていた頬も緩んでしまう。
だって、ずっと不安だった。
彼女が俺と全く違う気持ちを抱いていたらどうしようかと。多分それが、俺にとって一番つらいことだから。
だけどその可能性はなくなり、しかも今確かに、お互いの悩みが分かり合えたことで、俺達は少しだけそのつながりをきちんと深め合えそうな予感がしてきている。
「……なあ」
「……?」
そして気づいたときには既に、俺は彼女に声をかけていた。
「これからは、一緒に考えていかないか?」
「一緒、に?」
「ああ、そうだ。俺達がお互いのことを本当はどう思ってるか、とか……そもそも恋愛の好きって何なのか、とか他にもいろいろ。俺達が、いつも通りを失うのが怖くて逃げ続けてきたもの全部、これからは、二人で考えてみないか?」
「……っ」
精一杯の勇気を振り絞って告げてみた俺の言葉に、一瞬目を丸くして黙り込む冴香。
しかし――――
少しして、その様相は冴香のらりくらりとした雰囲気すら凌駕するほどに、一気に様変わりする。
「……うん、そうしよっか、里津君」
次の瞬間にはどこか嬉しそうに、されど、どこか強い意思を感じさせる声音でそれだけ言って頷いた冴香。
そんな彼女の、言葉にできない程の可憐で魅力的な、貞淑な笑み。
その長い黒髪を、さらさらと潮風にたなびかせる。
俺の瞳の中を支配するのは、まさに高嶺の花の美女。
その、冴香のあまりにも秀抜した美貌。
今思えば、俺はこの時初めてその【本当の美しさ】に気が付いたのだと思う。
だって、俺はこの時、本当にどうしようもないくらいに目を奪われてしまっていたのだから。
それはこの愛情の詳細を明らかにするのに、あまりにも十分すぎた。
俺はこの瞬間、目の前の幼馴染の女性を……自分の最初で最後の伴侶であり、一切の疑いようもなく初恋の人なのだと、そうようやく自覚出来たのだから。