第九話 曹操孟徳(そうそうもうとく)
嘲笑が、玉座の間に冷たく響いた。
「この国に、余の治世に不要な憂いは、存在してはならぬ」
董卓の声は、酒に濁った喉から搾り出されたとは思えぬほど、異様な威圧を含んでいた。その膨れ上がった体躯は、絹の長袍の下で震えているようでもあり、しかしその目は、確信に満ちた殺意で満たされていた。
傍らには、修羅の如き男——呂布奉先。漆黒の甲冑に身を包み、腰に佩いた方天画戟が、今か今かと血を求めて唸っている。赤兎馬はその外で蹄を鳴らし、主の怒りを感じ取っていた。
玉座の下、震えあがる重臣たちは、ただ沈黙することしかできなかった。誰一人として董卓の言葉に異を唱える者などいない。いや、異を唱える余地すら、この洛陽の空には存在していなかった。
死んだように淀んだ空気。民は目を伏せ、口を閉ざした。
李儒が、進み出た。絹の袖を整え、低く頭を垂れる。
「お任せください。すでに調合は済んでおります」
白磁の盃の中で、澄んだ液体が静かに揺れている。それは酒でも水でもなく、李儒の冷徹が液体となったものだ。にこやかに、その手を添えて、彼は言った。
「すべて、静かに終わるでしょう」
◇
その夜、何皇后は息子の寝顔をじっと見つめていた。
幼き皇子・劉弁。いずれ天子となるはずだったその少年の頬に、母はそっと手を伸ばす。寝息は穏やかだったが、その穏やかさがいつまでも続くとは思えぬ夜の気配が、彼女の胸を締めつけていた。
扉が静かに開いた。
李儒が現れたとき、何皇后はただ不審に眉をひそめただけだった。
「……何の用ですか」
「皇后様、お疲れでしょう。今宵は一服の薬湯をお持ちしました。心を安らげると、太医も申しておりましたゆえ」
盃が差し出された。そこには、濁りなき透明の液。
何皇后はふと、それを見つめた。ふいに胸の奥に、黒い冷気が宿る。李儒の眼には、光がない。ただ任務を果たすだけの冷たい鏡が、そこにあった。
「……これは……」
盃が床に落ちた。砕けた陶器の音と共に、彼女の体も崩れ落ちる。
「劉弁……私の子……!」
その声も、壁を越えることなく消えた。
そして、劉弁。母の最期の叫びに気づくことなく、別の間で李儒の手の者により、静かに毒を盛られた。
夜が明ける頃、玉座の継承者は、すでにこの世にいなかった。
◇
董卓は笑った。
「よいぞ、李儒。これで、我が治世に影はない」
「左様でございます。これよりは、献帝ただ一人。御しやすく、御しきれぬ者は残っておりませぬ」
呂布が、無言で立っていた。その鋭い眼光が、すでに人の目ではなかったことに、誰もが気づいていた。
だが、一人だけ——影のごとき男が、まだその夜を歩いていた。
王允の屋敷。風が吹きすさぶ洛陽の一角に、その若者は現れた。
黒衣の衣に身を包み、長剣を背負い、髪を後ろで一束に結った姿。目は鋭く、炎のように揺らめいていた。戸を叩かず、忍ぶように屋敷へ入ると、王允が驚きの表情を浮かべた。
王允邸では、灯りの下で二人の女が厨房に立っていた。
貂蝉と、現代から来た研究者・真田小窓。ふたりは気が合ったのか、朝から市場で買い出しをし、豚肉と野菜を煮込んだ中華料理に取りかかっていた。
「小窓ちゃーん、椎茸、薄く切った方が香りが出るのよ〜」
「はーい、了解です、貂蝉さん」
そんな穏やかな時間のなか、ふと背後のスカウターが反応を示した。
「……これは」
孫有が、隣室でふとスカウターを覗き込んだ。
【スカウター画面】
曹操孟徳
武力:92 知力:92 政治:99 魅力:92 体力:89 統率:99
※群雄割拠の世に現れし若き英傑。後の魏王。
孫有は思わず息を呑んだ。
「これが……あの、曹操か……」
ただ者ではない。気迫、眼光、歩く気配すらも、時代の風を変える者のものだった。
やがて、王允の書斎にて、二人の男が向かい合った。
「王司徒……董卓を討つ時が来た。民を救うため、もはや猶予はない」
冷徹な語気。だが、その底には民を想う熱があった。
王允は沈黙の末、杯に酒を注ぎ、静かに頷いた。
「孟徳、そなたほどの若者が、そこまで言うとは……その覚悟、偽りなきか?」
「この命は、もはや天に預けました」
そう答えると同時に、曹操は懐から一振りの剣を抜いた。
鍔に七つの星を刻み、銀の糸のような文様が刃を這う。
「これは……七星宝剣」
王允の眼が見開かれた。
「まさか、道教に伝わる、北斗七星の力を宿すという……」
「洛陽の道士・張璠より授かりました。これは天命です。董卓を討つ者として、私が選ばれたのです」
その声には、孤独と誓いが滲んでいた。
「……あれを討たねば、この国は本当に終わる。だが、呂布……あの男をどうにかせねば」
「呂布……策を講じねばならぬ」
「一人、娘がおる。貂蝉という。あの男の心を、惑わせることができるかもしれぬ」
曹操は静かに頷いた。
「頼みます、王司徒」
こうして、運命の謀略が始まった。
都・洛陽。
玉座のある未央宮には、まだ朝の光が淡く差し込んでいた。白壁がその光を受け、乳白色に輝きはじめる頃——一人の男が、ゆっくりと影のように歩を進めていた。
曹操孟徳。
短躯ではあるが、その背に宿すものは天をも裂く鋭気であった。彼の黒衣は風もないのに揺れていた。懐には、一振りの剣。かつての恩師・盧植から秘かに託されたという、北斗の力を象る七星宝剣——それを携えていた。
今日こそ——暴君董卓を討つ。
心の内に幾度となく言い聞かせ、孟徳は玉座の間の入り口に立った。鼓動が強く鳴る。だが、その表情には一片の迷いもなかった。
「この一刀、我が命を捨ててでも——未来のために」
ゆっくりと扉を押し開けると、そこには広大な静寂が広がっていた。玉座までの廊下を、董卓はただ一人、悠々と進んでいた。呂布はまだ姿を見せぬ。李儒もいない。
今だ。
孟徳は一歩、また一歩と距離を詰めていく。足音は絨毯に吸われ、彼の存在すら風に溶けていた。懐の剣の柄に指をかける。
「……董卓」
その名を呼ぶでもなく、心で呟いた瞬間——
——きらり。
その白壁に据えられた一枚の大鏡。
朝日を受けて、まばゆい光が放たれた。
それは、曹操の黒衣を、そして手の動きを如実に映し出した。
董卓が振り返る。咄嗟にその目に飛び込んだのは、懐に剣を忍ばせた男の姿。
「何奴っ!」
重く響く怒声。
孟徳は刹那、剣を引いた。そして次の瞬間には、地に膝をつき、深く頭を垂れていた。
「これは……董将軍に献上する宝剣にございます」
「北斗七星を宿す、七星宝剣にございます」
……静寂。
董卓の眉がひくりと動く。だが、その巨体は曹操のもとへ歩み寄り、無遠慮にその剣を奪い取った。
重量感のあるそれを手に取り、輝きに目を細めた董卓は、にやりと笑った。
「ふむ……良い剣だ。我にふさわしい」
その言葉には、確かな自己満足と奢りが含まれていた。
曹操はその隙を見逃さなかった。
「恐悦至極にございます。将軍にこそ、ふさわしき剣」
そう言って一礼し、その場からゆっくりと後ずさる。そして、背を向けぬように下がりながら、慎重に、慎重に廊下を離れていく。
振り向けば、命はない。
呂布の目はごまかせぬ。李儒の策も読めぬ。
孟徳は、薄明の闇の中を、汗をにじませながら歩いた。
やがて、宮門が見えた。
脱出路。
——命は、繋がった。
◇
城外。黄土が渦を巻く道を、黒き影がひとつ、馬を走らせる。
その表情に後悔はなかった。ただ、唇をかみ締め、拳を強く握る。
「今はまだ時機ではない。だが、次こそは……必ずや」
風は止んでいた。
だが、曹操の胸には、燃え盛る嵐が生きていた。
それは——英傑としての宿命の炎。
◇
その夜、王允は屋敷で震えていた。
「孟徳は……失敗したか……」
誰にも言えぬ重みが、胸を締めつける。
そこへ、戸が叩かれた。
「誰だ……!」
答えはなかった。だが、戸の隙間から滑り込んできた一枚の札——
《次こそは、必ず》
その筆跡に、王允は目を見開いた。そして、静かにうなずいた。
「孟徳……お前のその意志が続く限り、この国はまだ——死なん」
星の見えぬ夜空。だが、雲の向こうには確かに光がある。
英傑たちの志は、今もそこにあるのだ。
——こうして、歴史の歯車は、再び静かに、だが確かに動き出す。