第七話 董卓仲穎(とうたくちゅうえい)
洛陽——後漢の帝都は、春の陽光を浴びながらも、陰に蠢く陰謀の気配を濃くしていた。
霊帝・劉宏が崩御したその日、宮中に涙はなかった。いや、泣いていた者もいたかもしれない。しかしそれは主君の死を悼む涙ではなく、これから訪れる「争い」に備えた、恐怖と警戒の涙であった。
かつて漢王朝を統べた皇帝たちの眠る南陵の風が、帝都の瓦屋根を吹き抜ける。
だがその風は、平穏を運ぶものではなかった。
「大将軍・何進、暗殺された!」
その報せは、雷鳴のごとく都に轟いた。
何進が宦官に殺され、混乱の中、袁紹らが宮中に突入し、十常侍を次々と誅殺していった。
だがその裏で、中常侍・段珪ら数名の宦官が、幼き少帝・劉弁とその弟・劉協(陳留王)を連れ出し、洛陽を脱出していた。
—
その知らせを受けた董卓は、軍を転じて追撃を開始した。
「皇子を連れ去るとは何事か! 宦官ごときに帝の器が奪われてなるものか!」
軍馬は夜を駆け、小平津という渡河地点まで追いついた時、すでに宦官らは力尽きていた。
段珪らは、自害。
その手には血が滲み、劉弁と劉協の衣は乱れ、彼らの頬には乾いた涙の跡があった。
だが、それでも——
「我こそは漢の皇子、陳留王・劉協である」
そう言って、董卓の前に立ったのは弟の劉協であった。
兄の劉弁は、ただ怯え、震えていた。
董卓は二人を助け起こし、馬車に乗せて洛陽へと戻る道すがら、静かに二人と会話を交わした。
「……で、なぜ都を離れたのだ?」
劉弁は答えに窮し、目を伏せた。答えにならぬ言葉をつぶやくばかり。
代わって、弟・劉協が毅然とした声で語った。
「宦官らが何進様の計を知り、先に手を下しました。兄上は引きずられるように宮を離れ、我らは騙されて連れ出されたのです」
その口調は落ち着いており、道理をわきまえ、また状況を正確に伝えていた。
董卓は唸った。
(……この子が、帝にふさわしい)
彼の胸には、ある邪なる企てが芽生えつつあった。
—
洛陽に戻ると、すでに都は阿鼻叫喚の様相を呈していた。
何進の遺骸は晒され、十常侍の首が市に吊るされ、袁紹は手柄の如くそれを誇っていた。
そんな中、董卓は堂々と宮中に現れ、天子の身柄を保護したとして高らかに宣言した。
「少帝・劉弁様は……心労のあまり、政を執ること難し。ここに、弟君・陳留王・劉協様を擁立し、改めて帝と仰ぐことを提案する」
それは、まさに政変であった。
幼帝を廃し、より賢い弟を新帝に据えるという名目で、董卓は実質的に後漢王朝の支配者となることを考えていた。
——
洛陽――王允邸、応接の間。
外では春の夜風が柳を揺らし、どこか焦燥と不穏の匂いを孕んでいた。
だが、屋敷の中では、それ以上に震える静寂が空間を満たしていた。
貂蝉が、そっと進み出た。
かつて花街で捨てられていた彼女を拾い、教養を与え、慈しんだ養父・王允。
その背中に重くのしかかるこの都の腐敗と、政の闇。
誰よりも近くでそれを見てきた少女が、今、胸に秘めた思いを口にする。
「どうか……父上を、お守りください」
その声音は、夜の風よりも柔らかく、だが鋼のように揺るがなかった。
「私はただ拾われた身……父上の憂いを、そばで見てきました……この国の未来が、暗黒に沈むことがあってはなりません」
沈黙。
王允はただ黙って娘の姿を見ていた。目にはうっすらと涙の光が浮かぶ。
その瞬間だった。
客間の奥——
その中に納められていた一振りの刀が、突如として鳴いた。
◇
王允は、孫有と小窓を伴い、客間の奥へと案内した。
霊帝の時代より口伝で伝わる、ある秘宝の封印を解くためである。
それは、「七星剣」。
北斗七星をかたどった破邪の霊剣。
この剣は、ただの武器ではない。
時の天命を見極め、正しき主にのみ力を貸すと伝えられてきた。
祠の扉を開けると、中はひんやりとした空気に包まれていた。
中央の石台には、黒き布で覆われた長い箱が置かれている。
その上には、複雑な呪文と、北斗七星を模した七つの銀の護符がきらめいていた。
王允は静かに手を合わせ、低く唱えた。
「乾為天、坤為地、星辰ここに宿りて、万象を司る。
いま、正しき志を抱く者ここに集う。
天命により、封印を解かん——」
彼が護符に触れると、銀の護符が次々と淡く光りだした。
祠の中に北斗の形をなす光の輪が浮かび上がる。
空気が振動し、孫有と小窓も、思わず息を呑んだ。
石台がゆっくりと開き、中から、
——一本の剣が姿を現した。
刃は白銀に輝き、鍔には七つの小さな星がはめ込まれていた。
鞘に封じられてなお、ただならぬ気を放つ。
孫有は、剣に手を伸ばした。
だが、その瞬間、剣身が微かに震え、低い音を立てた。
まるで、持つべき者を見極めようとするかのように。
王允は言った。
「この剣は、時を見極める。
正しき時が来るまでは、ただの剣に過ぎぬ。
だが、天命が下る時、七星は再び、天に輝くであろう」
孫有は、深く頷き、七星剣をその腕に抱きしめた。
その重みは、単なる鉄のそれではなかった。
未来を賭ける重みだった。
「運命だ。宿命の導きだ……孫有よ、貴殿と七星剣が響き合ったのならば、それは天がこの国を託した証かもしれぬ」
孫有は深く、力強く頷いた。
「王允さん……俺が、あなたを守ります。孫諜報の使命としてではなく、一人の男として。俺と小窓を、書生として、そばに置いてください!」
小窓が驚いたように孫有を見た。
王允は一瞬だけ目を細め、やがて、静かに微笑んだ。
「……わかった。汝らはこの屋敷において、“王府の書生”として生きよ」
貂蝉の表情が緩み、安堵の微笑みが彼女の顔に灯った。
その笑みは、まるで夜空に咲いた花のように儚く、しかし確かに輝いていた。
その時だった。小窓がぽつりと呟いた。
「そういえば……」
彼女の声は、ただの少女のものではなかった。
情報通信に長けた孫諜報の中核を担う技術者の声だった。
「何進将軍が地方から呼んでいた丁原将軍は、今どこに? たしか、洛陽に向かっているって聞いたけど……?」
一瞬で、空気が凍った。
王允の顔が見る間に青ざめていく。
「丁原……まだ洛陽に……? それが真実なら……!」
「今頃、洛陽に到着する頃でしょう……」
「じゃあ、マズいじゃん……! 丁原が来たら……また血が流れる!」
小窓がXwatchを急ぎ操作する。
「移動記録を確認する……丁原の軍、約三万騎、洛陽西門から進軍中! 董卓の親衛隊、南門に布陣済み! もうすぐ衝突する!」
孫有の拳が強く握られる。
「止められるか?」
「今からじゃ……無理……」
七星剣が再び微かに鳴いた。
それは、歴史が揺れ始める合図であった。
夜は静かに深まり、だが確実に、血と策謀の夜明けが近づいていた。
洛陽の空には、奇しくも北斗七星がひときわ鮮やかに瞬いていた。