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第六話 司馬懿仲達(しばい ちゅうたつ)

洛陽の春は、長く続かなかった。


 後漢末、宮廷では宦官と外戚の抗争が激化し、民の生活は荒れ、都すらも薄氷の上に乗るがごとき不安に覆われていた。


 司馬家は、代々続く学者の家系であった。父・司馬防しばぼうは誠実な儒者であり、清廉の誉れ高く、門下に数多の俊才を抱えていた。その三男こそが、後に魏を支配し、「狼顧の相」と恐れられることになる男――司馬懿仲達しばいちゅうたつである。


 まだ十歳の仲達は、すでに異才の片鱗を見せていた。言葉少なにして理詰め、鋭い観察眼で人の嘘と本音を見抜く力を持っていたが、それを決して表に出さぬ冷静さも備えていた。


 ある日のことである。


 洛陽の郊外にある司馬邸に、ひそかに一人の女官が訪れた。


 その懐には、眠る乳児がいた。小さな、しかし王朝の命運を秘めた一人の赤子。


 「この子が……劉協殿の、妹……?」


 司馬防しばぼうがその小さな命を腕に抱いたとき、女官は深く頭を下げた。


 「はい。王美人様のご懐妊、双子の情報は極秘でした。何皇后の讒言により、双子の女子を生んだとなれば、抹殺、いずれにしても、命を狙われる恐れがあり……」


 「劉協は……混乱の中、今や帝位に最も近い。ならば、この子もまた、命の危機にあるのだな」


 司馬防しばぼうは長い沈黙の末、その子を「司馬家の養女」として迎えることを決めた。


 赤子は、花のように可憐な顔をしていた。


 「この子には“花”の字を与えよう。名を司馬姫劉花しばき・りゅうかとす」


 その日から、司馬防の三男である、司馬懿仲達しばいちゅうたつには「妹」ができた。


 生まれながらに抱えた血の重さと、決して語られてはならぬ秘密を持つ少女――劉花りゅうかは、司馬家で静かに、慎ましく育てられた。


 **


 司馬懿仲達しばいちゅうたつは妹に対して、兄として厳格でありながらも、深い気遣いを見せた。


 彼女が風邪をひけば、医者の処方に必ず目を通し、学問に興味を示せば、書架から年齢に見合った書を選び出して与えた。


 「兄上、この詩は、なんだか少し悲しいです……」


 「それは“離騒”だ。屈原という詩人が、自分の忠が理解されず、川に身を投じた詩だ。花、お前も、時に人の心の陰を知るがいい。だが、流されてはならぬ」


 「……はい、兄上」


 仲達は妹に決して「特別な血筋」を匂わせることはなかった。彼女にとって、自分はあくまで司馬家の一員。皇帝の妹ではなく、司馬姫劉花しばき・りゅうかとして生きていくべきなのだ。


 しかし、時代の風は、その静寂を許さなかった。


 都では、何進将軍が横暴を極めていた。彼は皇帝の外戚として専横を振るい、ついには宦官らに命を狙われ、その死をきっかけに、董卓という巨悪が帝都に入り込む。


 董卓は、少帝の劉弁と何皇后、から、幼き劉協を即位させようと画策しくしていた。

自らを太師として国を牛耳る計画で有った。


 劉協りゅうきょう――すなわち、劉花りゅうかの兄である。一卵性双生児で、顔はうり二つで有った。男と女の双子。


 皇帝が即位したその日、司馬防しばぼうの顔色がわずかに変わった。


 「仲達よ。……お前は、あの子が“誰”であるか、すでに察しておるな」


 仲達は、静かに頷いた。


劉協りゅうきょう献帝様を、兄上にもつお方であると。存じております。」


「されど、本人にそのことは、もちろん、伝えて、おりません」


 仲達は答えた。


 「父上。司馬家は、劉花りゅうかを、実の妹のようにかわいがってきました。彼女がもし“己”ではなく“血”に生きようとした日が来た場合、……それは、彼女の人生を奪うことと同じです」


 司馬防は、目を伏せた。わが子ながら、その洞察と将来の予測展望、推察眼に戦慄する。


 だが、悲劇は別の形で訪れる。


 ある晩、宮中に仕える学者・楊彪ようひょうが、司馬邸を訪れた。


 司馬防の旧友であり、共に儒学を語り合った誠実な人物だったが、その夜の語らいの中で、司馬防は思わず禁じ手を犯した。


 「……この子は、王美人の娘なのだ。陛下の双子の妹である」


 楊彪の顔が凍りついた。


 「司馬殿、それは……!」


 「君だからこそ、話したのだ。口外するな、頼む」


 楊彪ようひょうは頷いた。だが、心に火種は残った。


 この国を憂い、忠義を貫こうとする学者にとって、皇統の血を引く者の存在は、理想を託す希望でもあった。


 そして――噂は、ほんの小さな漏れ口から、じわじわと広がっていく。


 **


 数年後。


 司馬懿は、家の門の前にたたずむ一人の兵士の影を見つけた。董卓配下の者か、あるいは王允おういんの密偵か。もしくは、董承とうしょうの密偵か、どちらにせよ、ただの通りすがりではない。


 夜、仲達は父と向き合った。


 「……父上。すでに花の素性は、外に漏れております」


 「……王允おういんもしくは、董承とうしょうの一味であろうか。だが、彼らは、もとから、皇室の側近である。董卓政権を疎ましくおもっての情報収集では……」


 司馬懿は、静かに言った。


 「どうあっても、私が守ります。司馬姫花姫は、我が妹です。皇帝の双子の妹ではない。たとえ、この命が尽きようとも、その秘密は誰にも渡さぬ」


 そして、仲達は翌朝、妹を屋敷から遠く離れた清涼山の庵へと送り出した。


 「兄上……どうして、急にこんな……」


 「この家には、もう安全がない。すまない……だが、必ず迎えに行く」


 馬車の奥、泣きそうな目で手を振る少女に、仲達は微笑みを返した。


 それが、初めての嘘であり、最も苦い約束となった。


 洛陽の都は、すでに火薬の匂いに包まれていた。


司馬懿仲達しばい ちゅうたつとは

名前:司馬懿しばい

あざな仲達ちゅうたつ

生没年:179年~ 251年

出身地:豫州河内郡温県(現在の河南省焦作市温県)

後漢末~三国時代を生きた武将・政治家・軍略家であり、最終的に魏の実権を握った人物です。

彼の子孫が建国したのが、三国時代を終わらせた「しん」王朝(司馬炎による晋の建国)です。


▸人物像

非常に聡明で冷静沈着、慎重な性格。

若い頃から才能を認められていましたが、「才能がありすぎる」として身を慎んでいた節もありました。

もともと儒学に優れた文人であり、法学・経済にも通じていましたが、

同時に戦略・軍事にも抜群のセンスを発揮します。

忠誠心と野心の狭間で揺れる複雑な人物でもありました。


▸主なエピソード

曹操に仕える

若い頃から「天下の奇才」と目され、曹操に仕えることになります。当初は「油断ならない男」と警戒されつつも、重用されるようになります。


曹丕そうひの補佐役に

曹操の死後、その息子・曹丕が帝位に就く際に重要な役割を果たします(魏の建国を裏で支えた)。


諸葛亮(孔明)との戦い

蜀の丞相・諸葛亮が魏への北伐を開始すると、その最大の対抗者として立ちはだかりました。

特に「街亭の戦い」では蜀軍の馬謖を破り、諸葛亮を撤退に追い込みます。


高平陵のこうへいりょうのへん

晩年、魏の政権内部で実権を握っていた曹爽一派をクーデターによって一掃、自ら魏の実権を掌握します。これによって、魏は司馬一族の支配下に置かれ、彼の孫・司馬炎によって晋が建国される流れを作りました。


▸後世での評価

三国志演義では、やや「奸臣(かんしん=裏切り者)」的に描かれることもありますが、

正史ではむしろ「有能だが慎重すぎた人物」「天下を見据えた知将」として描かれています。


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