第五話 王允子師(おういんしし)
西暦189年、洛陽――。
霊帝・劉宏の崩御は、後宮と朝廷の両方に激震をもたらした。皇帝の後継者は、長子・肉屋の娘であった何皇后の子である劉弁と、毒殺された王夫人の子で次子の・劉協、ふたりの幼い皇子。しかし、皇帝の死の直前に遺詔は出されなかったため、後継は不透明なままだった。
この混乱の中で、宮中の実権を握る十常侍は恐れた。自分たちが排斥されること、命を奪われることを。彼らは思案の末、ひとつの策を講じた。
「皇子を外へ……一時、避難させるのです」
それは逃亡ではなく、人質の確保だった。もしもの時、二人の皇子を操ることで、政治の主導権を握ろうという魂胆だった。
そしてどさくさに紛れて、後漢第十三代皇帝を何皇后の子である劉弁とし、少帝と呼んだのであった。
これで、少帝を守る、我々、“十常侍”に逆らうものは、誰であろうと、全員が賊軍になる。
“十常侍”は完全に、策略で、制していた。
深夜、洛陽の宮殿裏口から、灯りを消した馬車がこっそりと発進した。馬車には、何皇后の子・劉弁、つまりは、後漢第十三代皇帝である少帝を乗せ、そして、弟・劉協、信頼のおける数名の女官と宦官が同乗していた。
「殿下、どうかご無事で……」
女官がそうささやいたとき、少帝である劉弁は不安げな顔で問いかけた。
「母上は?……母上はどこに?」
誰も答えられなかった。宦官たちでさえ、事の全貌は知らされていなかったのである。
母親の何皇后にでさえ、“十常侍”は全貌を話さず、内密行動であった。密かに、兄何進大将軍の暗殺も同時進行で行っていたのであった。
◇
何進将軍の暗殺経緯は、こうであった。
十常侍――宦官たちの専横を見過ごせず、何進は彼らを一掃することを決意していた。しかし、宦官の庇護者である妹は、兄の決意を頑として受け入れない。
「兄上、それ以上はなりません……。宮中は血に染まります」
兄妹の間に立ちはだかる、国家の運命。
何進は軍を背にしながらも、妹に手を下すことはできなかった。
だが、帝国の腐敗を放置するわけにもいかない。
彼は、冷酷な策士――袁紹の献策を受け入れた。
「地方の諸侯を洛陽に呼び寄せ、軍を結集して一気に十常侍、そして彼らの操るものどもを掃討せよ。世を正すのは今しかない」
呼応するように、董卓ら各地の有力諸侯が都に向かい始めた。
だが――
その矢先、何進は妹・何皇后との面会のため、宦官たちが蠢く宮中の深部へ足を運んだ。
そして、それが彼の最期となる。
襲撃は突然だった。十常侍の手により、彼は警護もろともその場で暗殺されたのだった。
王が斃れ、幕は下りる――そう思われたその直後。
いっせいに大将軍何進の部下の軍団が、宮殿になだれこんだ。
逆上した袁紹・袁術ら軍勢が禁中に突入し、十常侍を討ち果たす。宦官政治の終焉である。
だが、その混乱に乗じて現れた男がいた。
董卓――
馬車で数キロ、山道を進んだところで、事件は起きた。
山道に差しかかった馬車の車輪が、雨に濡れたぬかるみに取られ、馬が驚いて暴れ出す。御者の叫びが響き、馬車は制御を失った。
「危ないっ!」
ガタン、と大きく傾いた馬車は、そのまま崖へ向かって滑り出した。
「うわあああっ!」
どこまでも落ちていく感覚――そして、激しい衝撃。
馬車は崖下の森に転がり落ち、粉々に砕けた。女官と宦官の多くは命を落とし、二人の皇子だけが、倒木と地形の奇跡的な位置関係により助かっていた。
しばらくして、林の奥から一人の山人が現れた。年の頃は六十ほど。腰に斧をさげ、鹿皮の衣を纏っている。
「む、これは……子供か? いや、服装が只者じゃねえな……」
男は、ぐったりとした二人の少年を抱え上げると、慎重に背負って山小屋へと運んだ。
その夜、山小屋では、静かな炎が揺れていた。山人――名は石公という男は、二人の怪我を手当てし、温かい粥を与えていた。
「お前たち……さては、都の坊ちゃんじゃな……?」
―――
一方その頃、洛陽近郊では二つの軍勢が密かに動いていた。
ひとつは袁紹軍。何進亡きあと、副将軍であった袁紹は、後継者争いの渦中で正統性を取り戻すため、二人の皇子の確保を命じていた。
「劉弁殿と劉協殿、必ず見つけねば……!」
袁紹の配下たちは、洛陽周辺の村や山間をくまなく探していた。
そして、もうひとつの軍勢。涼州から進軍してきた董卓軍である。
董卓は、洛陽の混乱を好機と捉え、自らの勢力拡大のために皇子を掌握しようとしていた。
「どちらが即位しても、我が手中にあれば、天下は我がものよ」
董卓は、不敵に笑い、冷酷な命令を下した。
「すべての村を焼いてでも、二人の皇子を見つけ出せ」
部下の華雄将軍が率いる探索隊が森へ入ったのは、それからすぐのことであった。
山小屋では、ようやく目覚めた劉協が、震える声で名乗った。
「……我らは、漢の皇子です……兄上と私は、洛陽から……逃げて……」
山に住む石公は目を見開き、静かに頷いた。
「やはりそうか……今は騒がしい世の中だ。だが安心しな、ここは誰にも見つからん」
だがその言葉を裏切るように、森の奥から馬の蹄音が近づいてきた。
「……来おったか」
石公は素早く斧を取り、二人に囁いた。
「この裏山を登れば、隠し小道がある。そこから抜けて、北へ逃げろ。誰にも姿を見せるな」
「……あなたは?」
「わしはもう長くはない。だが、お前たちには未来がある」
その言葉を最後に、石公は戸口に立ちふさがった。ほどなくして、華雄率いる董卓軍が山小屋を包囲した。
「ここに二人の子供が逃げ込んだという報告がある。差し出せ」
「知らんな。子供なんぞ見とらん」
「ならば、焼き払え!」
石公の叫びが、火に飲まれて消えたとき――
二人の皇子は、夜の山中を必死に逃げていた。
夜が明ける頃、麓の村で袁紹軍の偵察部隊が痕跡を発見した。
「……これは、小さな足跡と、血……!」
しかし、そこへ現れたのは董卓軍の騎馬隊だった。
「遅かったな、袁紹の使いよ。我らが先に見つける」
「董卓め……!」
こうして、劉弁と劉協の命運は、野望と忠誠の狭間で揺れ動きながら、ますます混迷を深めていくのであった。
都・洛陽――
春風が城郭を撫でる頃、この地には血と陰謀の匂いが満ちていた。
霊帝崩御から続く政変は、静かなる波紋ではなく、咆哮と共に都のあらゆる隅々を引き裂こうとしていた。
その日、都の南門から、二つの影がしずしずと入城した。
ひとりは長身で鋭い目をした若者。耳に装着したスカウター型の装置が彼の視界に膨大な情報を送り続けている。
もうひとりは小柄な少女。腕には未来技術が詰め込まれた通信端末「Ywatch」が輝いていた。
孫有と真田小窓――
彼らは、孫堅が密かに育て上げた精鋭諜報部隊「孫諜報」の主力であり、特務命令を帯びてこの都に潜入してきたのだった。
「ここが、王允殿の屋敷か……」
孫有が、木造の重厚な門を見上げてつぶやいた。
小窓がYwatchを操作する。「この位置、東宮に近すぎない? ドローンは使えないね……」
「問題ない。俺たちは表から。堂々と行こう」
孫堅は、都に人脈を持っており、かつての戦友・王允のもとに、二人を預けた。
王允、字を子師。かつて孫堅と黄巾賊を平定した武勲を持ち、さらに名門・王氏の血を引く政治家である。
その知略と胆力を孫堅は高く評価していた。
扉を開けたのは、年老いた門番。案内されるまま、二人は応接間へと通された。
そこには、文官の正装を纏った一人の男が、静かに茶を啜っていた。
年は五十を越えたか。白髪交じりの髪に、憂いを帯びた目。威圧感はない。だが、座っているだけで空気を制するような気配がある。
「……ようこそ、孫諜報の皆さん」
王允であった。
「私は王允、字を子師と申します。先帝の時代より、孫将軍には数々の助力を得ております。今、こうして皆さんと対面できたのも、何かの縁でしょう」
孫有は軽く一礼し、小窓も慣れた所作で挨拶を返した。
「では、今の都の状況をご説明しましょう」
◇
「霊帝が崩御された後、宮中では十常侍どもが権力を握り、二人の皇子――劉弁と劉協を人質に取りました。これを正そうと、何進将軍が兵を動かし、董卓を洛陽に招き入れました。だが、結果は最悪でした」
王允の声は低く、しかしひとつひとつの語句が重く響く。
「董卓は劉弁を“保護”すると称してそのまま禁中に侵入し、袁紹、袁術ら何進大将軍の氾濫と罪を着せ追放。現在では実質、天子を人質に取り、自らが実権を握る暴君と化しております」
孫有は顎に手を当て、眉を寄せた。
王允は静かに首を振る。
「実際、洛陽の貴族たちの中には家を捨てて逃げた者もいます。市場は半ば麻痺し、兵による略奪も日常です。……もはや、王朝は死に体なのです」
その言葉の重さに、空気が沈んだ。
王允は少し間を置いてから口を開いた。
「……実は、董卓を討つ策がないかと、考えております。だが、それには“人の心”を操る要が要る」
「人の心?」
「そこで、こちらのほうこそ、孫堅殿の申し入れは、有難く、孫諜報の皆さんに協力して頂きたく考えていたのです。諜報だけでなく、もっと、こう――人を動かす力も必要なのです」
その時、応接間の扉が静かに開かれた。
「お父様、お飲み物をお持ちしました」
その声に、三人が一斉に振り向いた。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
漆黒の髪を垂らし、白い襟元に映える桃色の着物を纏い、まるで絹織物の精霊が現れたような佇まい。
その目には、夜空を映したような深い光が宿っていた。
「ご紹介します。私の義娘――貂蝉です」
息を呑んだのは、孫有だけではなかった。
小窓も、思わずYwatchの映像機能で撮影、音声分析がオフになっていることに気づかないほど、魅入られていた。
彼女の存在は、ただそこにいるだけで空間の意味を変える。
――この少女が、歴史を動かす鍵となる。
孫有のスカウターが微細な脈拍の乱れを捉える。
彼女の微笑みの裏に、何か計り知れぬ“覚悟”を感じ取っていた。
王允は言った。
「今後、ある策を動かすために、彼女がその中心となります。名を……『連環の計』と」
◇
その夜、孫有と小窓は王允の屋敷の一室で、極秘の情報共有を行っていた。
「小窓、Ywatchの接続は?」
「正常。いま、孫堅チャンネルで、孫剣、京子、幸美教授に状況を共有したわ」
「連環の計……貂蝉という存在、聞いたことのある名が、どんどん」
「策の中心は“ひとりの少女”貂蝉。けど……なんて、美人なんだ」
「信じよう。そして守る」
孫有の声には、すでに決意が宿っていた。
都を覆う闇。その中心で、わずかな光が灯った瞬間だった。
それは、やがて董卓を討つ連環の炎へと――燃え広がる火種となる。