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第四話 関羽雲長(かんううんちょう)

春の風が北方の大地を撫でる頃、ひとりの壮漢が旅衣をまとい、広野をゆっくりと歩いていた。


男の名は、関羽雲長かんううんちょう


眼光鋭く、長い美鬚をたくわえたその姿は、ただ者ではない威を放っていた。背には一振りの巨刀——青龍偃月刀せいりゅうえんげつとう。その長大な刃は、光を浴びて青白く輝いていた。


彼の立派な顎鬚から「美髯公びぜんこう」と称され、後世には信義と武勇の象徴として神格化され、世界各地の華僑たちによって関帝廟に祀られることになる。特に商売の神として崇敬を集めるのは、彼が篤実で信義に厚かったこと、そして元来が商人であったという背景による。信義とは商いに通じる、という東洋的な価値観が、関羽という人物の名を時代を超えて輝かせたのだった。


しかし、関羽の真価は、ただの武勇にとどまらない。


彼は、叩き上げの武人でありながら、春秋左氏伝をそらんじ、四書五経にも通じていた。粗野で無学と思われがちな兵士上がりの中にあって、関羽の教養は異彩を放っていた。


「義とは、力ある者が弱きを救うためにある……」


そう呟きながら、関羽は旅の目的地、幽州を目指していた。だがその教養と人徳が、かえって儒家の正統なインテリ層からは異端と見られ、軽んじられることもあった。なぜなら、彼が博覧強記の士として語られること自体が、当時の上層知識人にとっては“異例”の扱いだったからだ。


——数年前、関羽がまだ故郷を離れたばかりの頃。


ある寒村にて、義を貫いたがために官憲に追われ、山間の寺に身を寄せていた時期があった。


寺の老僧は、口数こそ少なかったが、武芸に通じており、毎朝の勤行の後には木剣による形を教えてくれた。関羽は無言でそれを繰り返し、雪の日も雨の日も、己を鍛え続けた。


ある日、老僧が小さな倉を指さした。


「お前に、この刀を託そう。これは昔、胡人こじんの将が献上したものでな。長すぎて使い手がいなかった。だが、お前なら振るえる」


関羽がその箱を開けたとき——


そこにあったのは、漆黒の鞘に収められた一振りの巨刃だった。


「名は、青龍偃月刀せいりゅうえんげつとう


その名を聞いた瞬間、関羽の胸に、確かな鼓動が走った。


刃を引き抜くと、月光のような輝きが刃先に宿る。持ち上げるだけで全身に重みがかかるその刀を、関羽は無言で構えた。


一閃。


木立が風もなく揺れた。


「……これこそ、我が道を切り拓く刃」


それ以降、関羽は青龍偃月刀せいりゅうえんげつとうを片時も離すことはなかった。


桃園の誓い


桃園にて義を結び、乱世に旗を立てる


 時は後漢末。腐敗した宦官政治と貴族たちの私利私欲により、国は乱れ、民は飢え、いたるところで反乱の火が上がっていた。


 その最たるものが、張角率いる「黄巾党」の叛乱――黄巾の乱である。


 ――この世に、正しき義はもはやないのか。


 天下が叫びをあげるその時、ある地方の村に、一人の青年がいた。


 劉備りゅうびあざな玄徳げんとくという。


 靴や草履を編んで生計を立てる貧しき身ながら、彼は心に一つの志を抱いていた。


 「この世を正す。漢王朝を守る。それが、わが生の意味である」


 その志に導かれるように、二人の男が、彼の前に現れる。


 一人は関羽かんう、字を雲長うんちょう。赤き顔に長い髯を持ち、眼光鋭く、だが物静かで義を重んじる男。


 もう一人は張飛ちょうひ、字を益徳えきとく。豪快にして短気、だが誰よりも情に篤く、民を想う心に満ちていた。


 三人は偶然に出会い、すぐに互いの心に深く通じ合った。


 ある日、春の陽光に包まれた郊外の桃園にて、三人は義兄弟の契りを結ぶことを決める。


 その日、桃の花は咲き誇り、風に乗って花びらが宙を舞う。まるで天が、彼らの誓いを祝福しているかのようであった。


 酒を酌み交わし、三人は共に天を仰いで、誓った。


「我ら三人、姓は異なれども、心を同じくし、兄弟の契りを結ぶ」


「生まれし日は違えども、願わくば、同じ日に死なんことを!」


 劉備りゅうびが長兄、関羽かんうが次兄、張飛ちょうひが三弟と定め、契りの杯を交わす。


 桃花の中に響くその声は、まるで乱世に鳴り響く雷鳴のようだった。


 その日から、三人は血よりも濃き絆で結ばれた。


 やがて、黄巾の乱が全国に拡大し、漢王朝が出した討伐のげき文に応じ、劉備は村中の志ある者たちを集め、義勇軍を結成する。


 その数、およそ五百余人。


 粗末な甲冑と槍を手に、それでも三人の志は誰よりも強く、兵たちの士気は高かった。


 劉備は、出陣にあたり村人たちにこう語った。


「我らは、漢のために戦うのではない。民のために戦う。民の安寧を取り戻すことこそが、真の義である!」


 その言葉に、兵たちは声を上げ、刀を天に掲げた。


 そして、三人は初陣を迎える。


 黄巾党の本拠、冀州きしゅうの戦場にて、三兄弟は先陣を切り、敵の本陣へと突撃した。


 関羽は青龍偃月刀を振りかざし、十人を越える黄巾兵を斬り倒す。


 張飛は蛇矛を旋回させ、荒れ狂う猛牛のごとき勢いで敵陣を突き崩す。


 劉備は馬を駆け、軍を鼓舞しながら、誰よりも先に矢の雨をかき分けて進んだ。


 「我ら三人、生死を共にすると誓った! 一人でも倒れれば、義に背く!」


 叫ぶ張飛に、関羽が静かに頷く。


 「ならば、その誓いを証すために、この戦、我らが勝つ!」


 初陣にして、三人の名は一躍、各地に知れ渡った。


 そして、この「桃園の誓い」から始まった三兄弟の物語は、やがて国を割る大河のような戦乱の渦を駆け抜け、三国の礎となってゆく。


 これは、ただの義勇兵の旗揚げではない。


 漢を救う志士たちの、正義の始まりであった。


関羽の逸話


千里単騎行せんりたんきこう


「二君に仕えず。義兄を求めて、万里を越える」


曹操そうそうのもとに一時身を寄せた関羽。劉備の妻子を守るために敵陣に留まるという、忠と現実の間で苦渋の決断をする。だが、劉備の居所を知ると、すぐに曹操に別れを告げ、馬「赤兎馬」に乗り、わずかな従者を連れて旅立つ。


この「千里の旅路」では、敵方の関所をいくつも通過せねばならず、五関を突破して六人の将を討ち取ったとも言われる。


これは関羽の忠義の象徴として、もっとも名高い逸話の一つである。




▸赤壁後の荊州守備


「義に厚く、策にも長ける」


赤壁の戦いの後、関羽は劉備軍の一員として荊州の守備を任される。南荊州は孫権との係争地でもあり、微妙な政治バランスが必要とされるが、関羽は見事にこれを管理。


関羽の名声と実力によって、敵軍は攻め込むことをためらったという。諸葛亮からの信頼も厚く、「関羽一人あらば荊州に憂いなし」と称された。



青龍偃月刀せいりゅうえんげつとう


「関羽といえば、この武器」


関羽が愛用したと伝えられる巨大な曲刀。重さは約八十二斤(約25kg)とも言われるが、彼はそれを軽々と振るい、戦場を駆けたという。


「斬った者の血を受けて、刀身が青く染まった」とも言い伝えがあり、「青龍偃月刀」という名が付いたともいう。


実際の遺物としては確認されていないが、関羽の象徴として絵画・演劇・武術の世界において広く登場する。



▸ 曹操との別れと義の証


「恩を受けても、忠は変えず」


一時、曹操に厚遇され、多くの財宝と称賛を受けた関羽。しかし、それは劉備がいなかった一時のこと。


「恩は忘れず、忠は二心なし」として、曹操に別れの書簡を送り、主君・劉備のもとへ戻った。


この「義」と「礼」に満ちた行動は、敵であった曹操すらも関羽を称賛し、「惜しい男を失った」と嘆かせた。



三国志、それは、関羽が主役、という人もいるのは、義の男の、以上の理由である


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