第十六話 曹洪子廉(そうこうしれん)
空は灰色に煙り、かつて栄華を極めた帝都——洛陽は、いまや火と灰の墓場と化していた。
朱雀門の楼閣は炎に包まれ、百官が歩いた朝堂の大理石はひび割れ、宮殿の屋根からは崩れた瓦が鈍く地に落ちていた。風は冷たく、灰を巻き上げては地を這うように吹きすさぶ。まるで、この都が死を迎えたことを、天までもが嘆いているかのようであった。
その廃墟の中央に、一頭の黒馬にまたがる男がいた。
身の丈七尺を超える巨躯。膨れ上がった顔に邪気をたたえた眼光。黄羅の大袍の上から甲冑をまとい、腰に佩くは妖剣・斬馬刀。
董卓仲穎。涼州の乱世より上洛し、漢王朝をその手に握った男。
「……これでよい。洛陽の亡霊どもには、永遠の眠りをくれてやる」
そう呟いた彼の声には、哀惜の色は一片もなかった。
焼け落ちた太極殿を背に、董卓は満足げにあたりを見渡す。煙に巻かれた玉座、崩れかけた天子の宮……すべてが自らの意志のままに屈した証。かつての皇帝の威光を、土に還す瞬間であった。
「天子、長安へ遷られる」
その命が下ると同時に、都の民は一斉に追い立てられた。男も女も、老いも若きも。皆、竹笞で叩かれながら、無理やりに行軍へ駆り出される。
「動け! 逆らう者はその場で斬る!」
叫ぶ兵たちの怒声。餓えに倒れる母。泣き叫ぶ幼子を背負う父。無慈悲な炎の余燼が舞うなか、人々は命の残り火を胸に、果てしない道のりを歩いていた。
それは、ただの遷都ではなかった。
都そのものを破壊し、歴史を消す暴挙。
さらに、董卓の命により、王侯貴族の陵墓までもが掘り返された。
「この地に、もはや過去の栄光など不要よ」
掘り出された遺骨は無残にも路傍に晒され、金銀財宝は奪い尽くされた。陵墓の警備兵らも皆殺しにされ、空の棺が風に揺れている。
それは、過去への侮辱であり、天命への反逆であった。
その報せは、黒煙とともに、西へ逃れていた一人の男の陣中に届いた。
曹操孟徳。かつて何進の密命で宦官を討とうとした男。だが何進の死と董卓の上洛により、洛陽から姿を消していた。
ある夜、松明の灯る軍営で、彼は密偵の報を受ける。
「……何? 董卓が、洛陽を……焼き払っただと?」
「はい……太極殿、未央宮、皇陵の数々……すべて火の海となり、民は西へ追いやられております」
「……民までか」
曹操は唇をかみしめた。
「民は、国の根だ。その根を、董卓は踏みにじったのか……」
彼の胸に、怒りが燃えた。かつて洛陽の宮中で見た光景。霊帝の死を前に右往左往する文官たち。何進と宦官の争い。血で染まった玉座。
——あの時、剣を振るえばよかった。
——だが、今こそ。
「孟徳殿」
声をかけたのは、若き騎将・夏侯惇だった。
「これを見てください。董卓の軍に与した者どもの名簿です」
そこには、李儒、胡軫、華雄、徐栄、そして呂布奉先の名もあった。
「呂布……? 丁原の子飼いだったはず……まさか、董卓に寝返ったのか」
「はい、方天画戟を携え、董卓軍の先鋒を務めております」
曹操の表情が一瞬で氷のように冷たくなる。
「ならば……まずは奴を斬る」
松明の火に照らされ、彼の瞳が赤く燃えた。
「俺が立ち上がらずして、誰がこの世を正す?」
彼は剣を抜き、その刃に誓いを刻むように振るった。
「董卓を討つ! 民のため、天のため、そして……漢のために!」
—
その場に居たのは、連合軍の盟主を自負する袁紹本初。
「孟徳、落ち着け。董卓が長安へ逃げたのは策だ。我らが迂闊に追えば、罠に嵌まるのが関の山」
「関の山だと!? 民を焼き捨てるような蛮行を黙って見ていろというのか!」
「現に董卓軍は強大だ。今の我らでは無謀すぎる」
「貴公は……腰抜けか!」
曹操の怒声が、帳の中に響き渡った。
一瞬、空気が凍りつく。袁紹の家臣らが剣に手をかけかけたが、曹操はひるまない。
「ならば、俺は一人でも行く。董卓を追う。正義があるべき姿に戻るまで!」
袁紹が声をあげた。「孟徳、それは謀反にも等しいぞ!」
「それでも俺は行く!」
──
ふと、外から足音が響いた。控えめだが、確かな歩幅。
幕の隙間が静かに開く。
現れたのは、一人の武人。
肩まで伸びる黒髪を後ろで結び、鋭い目には確固たる意志が宿っている。
鋼のような体躯、厳格な面差し——
曹洪子廉。
曹操の従兄弟にして、最も信頼する腹心のひとりである。
「孟徳様……俺も共に参ります」
その声は、毅然としていた。
曹操は眉をわずかにひそめ、しかしその目はどこか優しげだった。
「子廉……お前には、別の任務がある。俺が戻らぬ時は、王司徒のもとへ。この乱世に義を継ぐ者が必要だ」
曹洪は、幕舎の中心に歩み寄り、膝をついて言った。
「それはできませぬ。孟徳様。かつて、我らが少年の頃、剣を交わし、血を流し、共に誓ったはず……。いかなる乱世にあっても、義を貫くと。あの言葉、俺は今も胸にあります」
◇
十数年前の記憶——
中原・沛国。風の強い日の午後。
田畑を越える小道に、二人の少年が剣を振るっていた。
曹操と曹洪。
二人は伯父の屋敷で共に育ち、昼は書を読み、夜は剣術に励んだ。
時には競い合い、時には支え合い、流した汗と血は、兄弟以上の絆を築いた。
「孟徳、もしこの国が乱れたら、どうする?」
「正すさ。力が必要なら剣を振るう。言葉が必要なら、筆を執る」
「俺はその時、お前と共に戦う。たとえ地獄でも」
その言葉に、曹操は黙って頷いた。
◇
そして今——
曹洪は再びその言葉を口にした。
「孟徳様。地獄でも、俺は共に行く」
曹操は長く息を吐いた。そして静かに、笑った。
「子廉……お前のそういうところが、俺は好きだ」
立ち上がり、七星宝剣を手に取る。
「では共に行こう。運命の刃を振るうのだ」
──
西へ向かう曹操軍、兵一万。
道中、彼らは焼けた村々、野に捨てられた民、食糧を失い彷徨う孤児たちを目にした。董卓が退却の途中、何をしてきたか、その凄惨な爪痕が刻まれていた。
「孟徳様、これは……」
「地獄だ……董卓が地上に作り出した地獄だ。必ず止める。たとえ、我が軍が千になろうとも」
──
数日後、曹操軍は関中の拠点、渭水近くの渓谷・渭陽に到着した。
「ここが董卓軍の足跡か……だが妙だ」
渓谷の中に設けられた小さな城——けいよう城は、もぬけの殻であった。
「罠の臭いがする」と曹洪が警告するが、曹操は突入を決断する。
「敵の尻尾は見えた。今なら追いつける!」
城を越え、部隊が渓谷を抜けた瞬間だった。
ピシィィィ……!
空気を裂く音と共に、左右の崖上から無数の矢が放たれた。
「伏兵!? 囲まれたか!」
どこからともなく姿を現したのは、董卓の軍師・李儒であった。
「愚かなる曹操よ。貴殿が来るのを待っていたぞ」
李儒の指揮の下、山の上からは火矢、毒矢、さらには丸太と岩石が雨のごとく降り注いだ。
「避けろーっ!」
曹操軍は完全に渓谷に閉じ込められていた。
「しまった……これは"袋の鼠"か……!」
兵たちは為す術なく討たれ、逃げ惑う。わずかに出口を求めて駆ける者も、そこに待ち伏せていた伏兵に討たれていく。
李儒は、崖上で笑っていた。
「曹操孟徳、英雄の名も、ここで潰えるか。董卓様への祝賀として、首を持ち帰ろうぞ」
──
曹操もまた、複数の矢を受けて落馬した。
「ぐっ……!」
血を流しながら、懸命に立ち上がろうとする。だが足はもはや動かず、視界は赤黒く染まっていく。
(ここまでか……)
その瞬間、影がひとつ、彼の前に飛び込んだ。
「孟徳様ァァァッ!!」
――曹洪子廉であった。
「子廉……!」
「今、助けます!」
曹洪はその巨躯を盾にし、次々と放たれる矢を身を呈して防いだ。肩に、脇腹に、矢が突き刺さる。それでも、彼は倒れなかった。
「孟徳様! 乗ってください!」
落馬した曹操を背負い、曹洪は必死に谷を駆けた。死の谷間を抜ける道を、僅かな隘路を縫いながら、彼は重傷の曹操を抱えて山陰へと逃れた。
──
数時間後、谷の向こう。かろうじて追撃を撒いた森の中、曹洪は息を切らして倒れ込んだ。
「子廉……!お前……」
「俺は……まだ、死にません……孟徳様を……守り抜く……まで……!」
曹操は、震える手で曹洪の傷を押さえた。
「お前が……いたから、俺は……生きている。これほど、心強いことはない」
曹洪は、かすかに笑った。
──
曹操はこの敗戦を以て、初めて“戦における冷静さ”を知った。
そして、それ以上に、信義と忠誠の真髄を、曹洪子廉という男から学んだのだった。
その夜、満天の星空の下で、負傷した将たちを率いて山奥に退いた曹操は、静かに誓った。
「董卓を討つのは……今日ではない。だが、必ずその日が来る」
その背に、曹洪は深く頭を垂れた。
「その日、俺もまた、共に斬り込みます。孟徳様の剣となって」