第十三話 公孫瓚伯珪(こうそんさんはくけい)
長江の支流、湘江の水面を、白く厚い朝靄が覆っていた。
その中を滑るように進む一艘の軍船——帆の紋は、白地に赤い炎を模した「呉」の旗印であった。
その甲板には、江東の猛将・孫堅。その脇には、長男の孫策、そして未来から来た孫諜報の切り札・山中幸美教授の姿があった。
「幸美教授のZwatchは、Xwatch、Ywatchといつでも連携……?」孫策が尋ねる。
「ええ、可能よ!」幸美教授が答えた。
「スカウターも、3台目、あるから、孫策、あなたが付けて」
「呉の地を守るため、頑張るよ。ありがとう。幸美教授。敵は董卓だけではない。孫家の根を断たれぬよう、全方位で、各将軍の動向に注目しなければ・・・」
孫策の眼差しは、靄の先に見えぬ洛陽を見据えていた。
―――
孫剣は、小さな丘の上に腰を下ろし、川を眺めていた。公孫瓚軍の野営地から少し離れた場所。幽州の冷え込んだ朝に、彼の心は温まることなく、どこか遠くの水音に寄り添っていた。
その傍らに、京子が立っていた。白の軍衣に身を包み、微かな陽光を背に受けて佇む姿は、まるで霧の中に浮かぶ幻のようだった。
「孫剣……剣人」
京子は、そっと呼んだ。
「……京子。Zwatchの通信、まだ呉とは繋がらないみたいだ」
孫剣は手首のZwatchに視線を落とした。幸美教授が設計した、進化型多機能端末。その画面には、ぼんやりとしたノイズのような表示が映るだけだった。霧の干渉か、それともこの時代の地磁気か。まだ完全な安定通信は難しい。
「でも、大丈夫よ。幸美教授も一緒にいる。孫策くんも強い子だし、あなたのスカウターで『武力91・統率100』って出てたんでしょう?」
「うん……けど、董卓軍は動いてる。洛陽から長安へ都を遷して、軍を再編中って噂もあるし……何より、呂布がいる」
孫剣の言葉に、京子の眉がかすかに動く。彼女もまた、呂布を脳裏に思い返していた。あの巨大な方天画戟、人の身を超えた猛将の存在は、確かに脅威だった。
「……でもね、私は信じてる。あなたも、幸美教授も、そして孫策くんも。それに……父上って、あんなに熱くて真っ直ぐな人でしょう?」
京子は微笑みながら、弟の肩に手を置いた。
その温もりに、孫剣はふと顔を上げる。朝靄の向こう、ゆっくりと日が昇り、川面が金色に揺らめいていた。
孫剣は小さく頷く。現代から来た自分たちが、この時代の歴史に何を残せるか。それは、ただ戦うことだけではない。情報、連携、そして絆——それが、孫諜報の信条だった。
「公孫瓚将軍に、伝えないとな。洛陽奪還の戦に動く時、呉と連携できなければ……」
孫剣の目が鋭くなる。だが京子は、静かに笑って応えた。
「大丈夫。Zwatchがある。Xwatch、Ywatch、Zwatch……私たちが未来で培った技術は、きっと過去の戦を変えるわ」
「……うん。なら、俺は、父上たちの分も、ここで踏ん張る。絶対に無駄にはしない」
ふたりは、肩を並べ、朝靄の晴れゆく川面を見つめた。遠く、東南の方角——江東から、微かな光が差すように感じられた。
やがて、Ywatchに微弱な通信波が灯る。孫剣がそれに気づいた瞬間、京子の端末にも、小さな音が鳴った。
《……孫策より、孫剣へ。こちら湘江。無事、孫堅軍と進軍中……幸美教授も健在。スカウター3台目、配布完了。Ywatch連携、洛陽入り後連絡す——》
孫剣と京子は、顔を見合わせた。
それは、まるで霧を割って届いた、未来への希望だった。
―――
船室に戻ると、孫堅は静かに話し始めた。
「これから我らが合流する連合軍の盟主——袁紹本初という男だ。もとは何進将軍の副将であり、後漢の名門中の名門の出身だ」
孫策が腕を組み、眉をしかめる。
「だがあやつは、自分が名門だという自負が強すぎる。軍の結束より、自らの威信を重んじる男だ。慢心があれば、全てが瓦解しかねん」
孫剣も腕を組み、低く唸った。
「つまり、敵は外にも内にもいる、ってことか」
孫堅は重く頷いた。
「加えて、袁紹の従弟・袁術公路。あれはさらに厄介だ」
幸美教授が端末を膝に置いたまま、首を傾げる。
「袁術って、どんな人なんですか?」
「傲慢で乱暴、小心者のくせに威張り散らす。後に自らを皇帝と名乗り、民を苦しめる暴君に堕ちる男だ」
孫策が顔をしかめた。
「まったく、関わりたくもないな、まったく、英雄はいねーのかよ」
「いる、その一人は公孫瓚殿だ。」
「私が説明するわ。」幸美教授が言った。
——公孫瓚伯珪
公孫瓚は、中国後漢末期の武将・軍閥の一人であり、混乱の時代を駆け抜けた群雄の一人として名を刻んでいる。字は伯珪。遼東の豪族出身で、北方の騎馬民族とたびたび交戦したことから「白馬将軍」として名を馳せていた。
公孫瓚は若き頃、洛陽の太学で学び、後に「文武両道の俊才」として知られるようになった。学問では儒学に通じ、特に儒教的な忠誠心や礼節を重んじた。一方で、武勇にも秀で、特に北方異民族である匈奴や烏桓との戦いにおいて数々の功績を挙げた。白馬に跨り、精鋭部隊を率いて戦場を駆ける姿は人々の畏敬の的となり、「白馬義従」という騎兵部隊の伝説的存在を築いた人物であった。
霊帝の治世末期から混乱が続く中で、公孫瓚は河北地方で勢力を伸ばしていたのだ。
―
幸美教授は、三国志のおたくだった。
そのとき、靄の向こうに廃都・洛陽の姿が現れた。瓦礫に埋もれた宮殿、すすけた瓦、煤にまみれた塔。都の面影はもうどこにもなかった。
——帝の都は、火と暴虐に焼かれていた。
孫堅軍は上陸し、王允の邸に身を寄せていた孫有、小窓と再会する。孫策は久しぶりに孫有と肩を組み、未来から持ち込んだZwatchを見せながら語った。
「洛陽の情報共有を、ありがとな。 いよいよ董卓追悼の連合軍の始まりだ」
孫有は頷き、小窓も「幸美教授、会いたかった~」と言って、大喜びだ。
やがて、彼らは白と朱の旗が並ぶ、連合軍の本陣へと向かう。
本陣中央。紅色の大幕の下、金の甲冑を身にまとった男が高座にいた。袁紹本初。その右に曹操、左に袁術公路。
孫堅らが入るや否や、袁紹が声を荒らげた。
「呉の田舎者ども、ようやく来たか! 帝都が焼け落ちるのを眺めていたのか!」
「洛陽に来るのに、どれだけ日がかかった? 江南では牛でも引いてるのか?」
袁術がにやけて言った。
その言葉に、孫策の眼が吊り上がった。
「誰に向かって口をきいている。貴様らが董卓を止められなかったから、こうなったのだろうが!」
腰の東科帯長剣に手をかけたその瞬間——
「剣を引け、策!」
孫堅の叱責が、天を裂くように響いた。
「ここで怒りを爆発させても意味はない。敵は董卓だ。忘れるな」
孫策は、黙って柄から手を放す。京子がそっと手を添えた。
袁紹は鼻を鳴らし、軽蔑の眼差しで言った。
「よかろう。ならば、先鋒を任せよう。口先だけでないこと、見せてもらうぞ」
孫堅は、即座に頭を垂れた。
「御命、承知した」
—
その夜、孫家の陣営では火が灯り、地図が広げられた。
「汜水関——董卓が築いた最初の防衛線。これを破らねば、都奪還は叶わぬ」
孫策が地形図を示す。
「峡谷を正面から攻めれば、必ず迎撃される。湿地帯では騎兵も動けない」
孫策が身を乗り出した。
「裏手の山道から奇襲するのはどうだ? 俺と幸美先生で斥候を出す。Zwatchで地形もスキャンできる」
「情報分析、任せて」
幸美教授が端末を操作し、地形の三次元マッピングを投影する。山道の隘路、敵の補給路、伏兵の位置が浮かび上がる。
孫策が頷く。
「この谷を使えば、敵の背後を突ける。だが問題は——」
「華雄だな」
孫堅が重く口を開く。
「董卓軍最強の猛将。剛力無双。正面からでは危険だ」
「ならば、なおさら奇襲を決めるしかない」
孫策が鋭く目を光らせた。
「孫家の名にかけて、俺が突破口を開く」
「よかろう」
孫堅は、すべてを見透かすような眼で、みなを見つめた。
「明日、進軍する。孫家の力を、天下に示すのだ」