第十一話 袁術公路(えんじゅつこうろ)
洛陽――
かつて後漢の栄華を象徴したこの都は、いまや黒煙と沈黙に覆われていた。
曹操孟徳による董卓暗殺未遂。
七星宝剣を振るった刹那、太陽光がその刃を反射させ、董卓の命は僅差で保たれた。だがそれを境に、洛陽は再び恐怖の街となった。
粛清。密告。失踪。
董卓の怒りは、重臣たちに容赦なく牙を剥き、曹操は命からがら都を脱出した。
重苦しい空気が漂う西門の市場に、3人の若者の姿があった。
その中に、理知的な眼鏡の青年・孫有、可憐な白肌の少女・小窓の姿があった。
彼らはもともと、令和日本の大学生だった。
スカウターを開発した天才エンジニア・菅野有道は、孫堅の命で「孫有」として諜報活動にあたっていた。小窓は、生命工学部の俊才。防具の研究で実績をあげ、今は王允邸で暮らしていた。
「この世界の材料は、私たちの世界よりピュアよね。天然の香料も、漢方もそのまま生きてる」
小窓がそう言って、香辛料を手に取る。貂蝉が朗らかに微笑んだ。
「今日は洛陽牛肉湯よ。牛骨とスパイスをじっくり煮込むの。胡麻、蜜、草果、忘れないでね!」
市の人々も、その姿に見惚れていた。
有道、小窓、そして貂蝉。三人の華やかさに、思わず通行人が足を止める。
「視線が……全部、女子に行ってる」
孫有がひそひそと囁く。
「貂蝉さんが歩くたび、風が止まる気がする」
小窓も、柔らかな視線を貂蝉に向けていた。
その傍らでは、貂蝉がわずかに微笑んでいた――「小窓ちゃんが可愛いから。」
だが、その平和な時間は、儚くも終わりを告げる。
その夜。
王允邸の中庭、池のほとり。月明かりの下、老臣・王允がひとり佇んでいた。
その背には、年老いた影の重さがのしかかっているようだった。
孫有が声をかけようとする。だが、小窓がそっと腕を引いた。
「今は……見守ってあげて」
二人は黙って、その姿を見つめた。
風が揺れ、竹の葉が囁く中、王允の口から漏れたのは、誰に向けるでもない独白だった。
「……陛下は、まだお若い……操り人形のように扱われ……この朝廷は……もはや、国とは呼べぬ……」
その言葉には、怒りでも悲しみでもない、ただ深い無力感と哀切が滲んでいた。
「董卓め……この国を私物化し、今や帝すらも……」
孫有の胸に、何かが突き刺さった。
自分たちはなぜここに来たのか。
剣術の力?科学の力?それとも、何かを正すために?
「孫有……有道」
小窓の声が震える。
孫有は、そっと拳を握りしめた。
「王司徒……」
つぶやくようにそう呼びかけた孫有の声は、王允に届いてしまった。
「すみません、夜風にあたっていたら、王司徒を、偶然見かけてしまったもので……」
有道は、静かに言葉を紡ぐ。
その胸に宿るのは剣ではなく、正義の炎だった。
「ここに来た意味。それは戦うことだけではないと思っています。技術でも、剣でもなく——正しき秩序を守ること。それが自分たちの使命だと。」
王允の目が、かすかに見開かれた。
有道は続ける。
「曹操……董卓暗殺に失敗し、今逃亡中と聞いてます。ですが、彼が命を懸けたその志は、決して無駄ではなかったはずです」
王允は、深く目を閉じた。瞼の裏に、かつての都の栄華と、現在の惨状が交錯する。己の無力を恥じ、そして……。
「袁紹将軍、袁術将軍……董卓に追いやられた二人は、どうしているか・・・」
有道は頷いた。
「何進将軍の右腕だった、袁紹将軍。今こそ、その力を借りる時ではないでしょうか。兄弟の袁術将軍も、かつては宦官討伐で共に動いたと聞いております」
「だが……奴らもまた、一枚岩ではない……」
王允は低く唸るように言った。
「袁紹は、志ある男だ。だが、野望もまた大きい。董卓を討たんとするその意志は尊いが、かの者もまた、帝位に対する欲を隠しきれぬ」
「袁術に至ってはなおさら……。曹操、劉表を囲い込み、政敵を排除する袁紹を憎み、公孫瓚と手を組んでまで対抗した。もはや、同じ志を持つ者とは言い難い」
それでも、孫有は視線を逸らさなかった。
「王允さん、袁術とは、どんな男ですか、詳しく知りたいです」
―
袁術。
汝南袁家――四代に渡り三公を輩出した、華やかなる名門の出身。
だが彼の歩んだ道は、決して名門らしい品格に包まれたものではなかった。
若き日の袁術は、豪放磊落にして義侠心に溢れ、周囲の士人たちからも一目置かれる存在だった。孝廉に推挙されると、中央や地方の官職を歴任し、早くから政界で頭角を現した。だが、その裏で彼の胸に燃え上がっていたのは、欲――それも、ただの地位や名誉ではない。
「我こそが、天命を受けし者なり」
それは、後漢王朝の腐敗を目の当たりにした時から、袁術の心に芽生えた炎であった。
洛陽にて、大将軍・何進が宦官に殺されるや、袁術は同族の袁紹とともに剣を抜き、宦官たちを斬り伏せた。血煙立ちこめる宮廷で、彼は正義を掲げる剣士であった――その時までは。
だが、董卓が権力を握ると、袁術はその強大な暴威を前に都を逃げ出す。南陽へ逃れたその地で、地盤を確保し、袁紹とはまたちがった目論見で洛陽を狙っているのだった。
―
王允の説明に、孫有が口を開いた。
「それでも、希望の火は、絶やしてはなりません。董卓の専横を許せば、国は完全に闇へ堕ちます」
風が、音もなく吹き抜けた。洛陽の空を舞う一枚の瓦が、静かに地に落ちた。
王允は、しばし沈黙ののち、深く頷いた。
「……その通りだ。そなたの言葉に、老臣、心を動かされた。袁氏の力を借りよう。そして、再び……この朝廷に光を」
だがその頃、曹操は、すでに動いていた。
彼は、故郷・譙へと戻っていた。董卓暗殺に失敗し、命からがら逃げ延びた彼は、父・曹嵩のもとで再起の策を練っていた。
曹操――その名は、後の世に「奸雄」とも「英雄」とも称される男。
彼の家系は、名家中の名家。遠祖に夏侯氏の血を引き、漢の名宰相・曹参の末裔とも言われる。
父・曹嵩は太尉まで上り詰めた人物であり、朝廷内にも広い人脈を持っていた。
「父上、私は董卓を討ちます。必ず」
静かに語る曹操に、父は一瞬、目を閉じた。
「……それは並の道ではない。袁紹や袁術、劉表らと手を結ぶことも必要だろう。だが、曹家の名を汚すような真似だけはするな」
曹操は深く頷いた。
「曹家の名に恥じぬよう、私の剣は、正義のために振るわれるべきです」
董卓暗殺に失敗し、都を脱出した若き曹操は、その傍らには、智謀の士、陳宮という参報を得ていた。
陳宮。
後に曹操の運命を揺るがす知謀の士である。
「陳宮。我が志を、天に示すときが来た」
曹操は、懐から文を取り出した。それは、皇帝・劉弁より密かに託された密勅であった。董卓の暴政を糾す、大義の檄文を添え、各地の英傑に呼びかける。
「天、正しき者に力を貸す。董卓は、帝を脅し、私腹を肥やす奸臣にして賊。今こそ、義をもってこれを討つべし」
筆を執り、曹操は檄文を書き記した。
「董卓、天を欺き、君を殺すのも同然。このままでは、漢の威光は失われる。義士よ、起て」
その文は、風に乗せられた怒涛の火の粉のように、四方へと散っていった。
北では、汝南の名門・袁紹がそれを受け取った。彼は眉をしかめ、唸った。
「帝の命とあらば……董卓を討つは、我が家門の責務」
幽州の公孫瓚は、馬上にて檄を読み、拳を固めた。
「曹操……見どころのある男だ。義に殉ずるは我らの誇り。白馬義従、今一度、戦陣に立たん!」
長江の南では、孫堅文台が手紙を読み、静かに頷いた。
「孫有、小窓、たちと、洛陽で落ち合える日が来たようだな。漢室のために、命を懸ける。それが我ら孫家の道――」
「孫策、幸美教授いくぞ!孫権は、留守をたのむぞ!」
こうして、帝の名のもとに、反董卓の狼煙が各地で上がり始めた。