第十話 華佗元化(かだげんか)
霧雨に煙る洛陽の街並み。
司馬懿仲達は、妹、劉花のことを、思い出していた。
彼女は元気にしているであろうか。
華佗先生には、迷惑になっていないか。
父の司馬防と仲達の2人だけの秘密である。漏れるはずがない。
物思いにふけりながら、仲達は想いを馳せていた。
かつて栄華を誇ったこの都も、今は宦官と外戚の争いに引き裂かれ、民の暮らしには陰鬱な影が差していた。そんな空気を裂くように、あの日、仲達は司馬家の城門を抜け、郊外へと馬を走らせ、華佗のもとに、妹を預けたのであった。
劉花。
劉協——後の献帝——と同じ顔立ちを持つ、皇帝の双子の妹である。だがその事実は、絶対に知られてはならなかった。帝位を巡る争いに巻き込まれることは必至、いや、存在そのものが命取りになりかねない。だからこそ、司馬懿仲達は、まだ幼い彼女を誰よりも安全な場所へと託すことを決意し華佗に託したのであった。
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華佗元化
本名:華佗、字は元化
出身地:譙郡(現在の安徽省亳州市あたり)
生没年:正確な生年は不明、死亡は建安年間(200年代初頭)とされる
華佗の特徴・業績
伝説的な医術
華佗は内科、外科、鍼灸、漢方薬療法、リハビリ療法に卓越していたと伝わります。特に、麻沸散という麻酔薬を用い、外科手術を施したとされる話は非常に有名であるという。これは、現代医学の「麻酔手術」の先駆けとも言える発想であり、時代を何百年も先取りしていた。
五禽戯の創案
華佗は健康体操「五禽戯」を創案したと伝わります。
これは虎・鹿・熊・猿・鳥の動きを模した体操で、血流を促し、身体の柔軟性を高める健康法として、現代の気功にも影響を与えている。
病に対する鋭い診断力
華佗は望診・聞診・問診・切診(触診)を組み合わせた精密な診療技術を持ち、病気の本質を素早く見抜く天才だったと言われています。
最期
曹操との関係
晩年、華佗は頭痛に悩まされていた曹操に仕えることになります。
華佗は曹操に対し、「開頭手術」(頭蓋を切開して悪血を除去する)を提案しましたが、これを「暗殺を企てている」と誤解され、怒った曹操により投獄、そして殺されてしまったと伝わっています。
このため、中国では「華佗の死=中医学史上、非常に惜しい大損失」と長らく悔やまれてきました。
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司馬懿仲達が向かう先には、名医・華佗元化の隠れ家があった。洛陽郊外の山間、薬草の香りが漂う静謐な地。
「これが……その子か」
華佗は、深い皺を刻んだ顔に厳しい光を湛え、劉花を見下ろした。彼女は怯えた様子もなく、むしろ静かに、真っ直ぐ華佗を見返していた。
「名は?」
「司馬姫劉花」
仲達は即座に答えた。本当の名を名乗らせるわけにはいかない。彼女は、司馬家の養女ということにする。それが彼女を守る唯一の道だった。
華佗は一瞬だけ眼を細め、そして微かに笑った。
「よかろう。だが、我が許に預ける以上、わしのやり方に従ってもらうぞ」
「承知している」
二人は短く頷き合った。言葉は少ない。だが、互いの間に結ばれた信頼は、何よりも確かなものだった。
時は流れ、洛陽の都では奇妙な噂が流れ始めた。
——司馬家には、隠し子がいるらしい。
——しかも、帝に瓜二つの双子の妹だと。
誰が言い出したのかは定かではない。だが、都に渦巻く権力争いと猜疑心は、この手の噂を餌に一層燃え上がる。
「司馬防と息子の司馬懿仲達、反逆を企てているのではないか」
「あるいは、皇帝を差し替えるつもりか」
そんな陰口すら囁かれるようになっていた。
仲達は静かに、しかし確実に動いていた。華佗のもとで劉花を育てつつ、自らは司馬家の内外の立て直しに心血を注いだ。若き日の彼には、すでに冷徹な計算と深い洞察が備わっていたのだ。
その頃、洛陽の宮廷では重大な変動が起きていた。
霊帝・劉宏が崩御し、後継者選びに混乱が広がった末、ついに劉協が擁立されることとなった。
「これより、劉協を皇帝とする」
堂々たる宣言のもと、群臣たちは膝を屈した。だがその裏で、董卓という武人が力を握り、幼い新帝を傀儡として操る構えを見せていた。
戴冠式の日、まだ幼い劉協は、玉座の上で緊張に震えていた。その小さな手が、玉璽を握るとき、誰の目にも見えぬ重圧が彼を押し潰さんとしていた。
「漢室の命運を、余が……」
小さく呟いたその声は、やがて誰にも届かない悲痛な叫びへと変わっていった。
その背後には、すでに剣呑な影が忍び寄っていたのである。
「劉花様、もっと右足に力を入れてください」
華佗の弟子たちは、劉花に基礎的な武術と医術を教えていた。万が一のとき、自らを守り、人を救うために。
薬草の知識、身体の鍛錬、心の鍛え方——
華佗は、劉花に帝室の血筋以上の強さを授けようとしていた。
「余は……余は、人々のために、強くならねばならぬ」
幼いながらも、彼女が生きる道はただ一つ、
——己を捨て、影となること。
それが華佗と司馬仲達が授けた、もう一つの玉璽であった。
ある夜、司馬懿仲達がひそかに華佗のもとを訪れた。
「劉花の成長、目覚ましいものだ。……いずれ、動かねばならぬ日が来る」
仲達の声には、かすかな憂いが滲んでいた。
華佗はただ静かに、夜空を仰いだ。
「星は巡り、運命は流れる。だが、流されるばかりが道ではない」
老医の言葉に、仲達は黙って頭を垂れた。
「この子は、いずれ国を救う力となるやも知れぬ」
遠い星のまたたきが、二人の影を淡く照らしていた。
——そして、劉花は知らぬまま、激動の三国志のただなかへと、運命の歩みを進め始めていたのであった。