三日月の陰
プロローグ
ある春の午後、彼の目の前には、銃弾に倒れた母熊の姿があった。
すでに息はないが、
「私の子供に何かあったら絶対許さない!」
というエネルギーを彼は感じた。
母熊と少し離れた場所に、子熊二頭を認めることができた。
まだ生まれて数か月の子熊だった。
この二頭も捕獲することになっていた。
しかし、二頭のうちの一頭が素早く行動を起こした。
草むらに身を隠し、そして姿を見つけられなくなってしまった。
その子熊は額に三日月の模様があり、彼は一瞬それに見とれてしまった。
それはとても美しい模様に見えたのだ。
もう一頭は母親から離れられない様子だったため、捕獲することに成功した。
母熊の体を確認し、今回問題になっていた熊とは別の個体であるということが判明した。
ということは、問題はまだ解決していないということになる。
母熊は詳しく調査することになり、子熊は相談の結果、受け入れ可能な動物園に引き取られることとなった。
しかし、彼の心の中を占めていたのは、捕獲できずに逃してしまった子熊のほうだった。
あの三日月模様が忘れられない。
そんなことを考えながら歩く帰り道、西の空には寂しそうに三日月が浮かんでいた。
第1章 5月(下弦の月)
Ⅰ
ゴールデンウィークに入り、だんだん暖かくなってきた。
私は札幌の動物園のそばで暮らしている。
今日は東京から来ていたボーイフレンドを近くの駅まで送るため、朝早い時間に家を出た。
連休で混んでいるのに、ちょっとの時間でも会いに来てくれたことが嬉しい。
だからせめて、駅まで送って行こうと思った。
今年は比較的雪解けが早くほっとしている。
運転がさほど得意ではない私でも、安心して車を利用することができている。
そんな話をしながら動物園のそばを運転していたときのことだった。
動物園とは反対側の林のほうから黒い影が現れた。
しかも複数。
最初は小さめ、そしてそれを追うように大きめの黒いもの。
「熊じゃない?」
と彼が言う。
関東から来た彼にはとても新鮮だったのか、スマホで撮影し始めた。
そんな呑気なことをしている場合ではない。
私は真剣になった。
その様子を見て、彼もさすがにやばいと思ったらしい。
子熊が車に興味を持ったのか近づいてくる。
「クラクションで脅かせば?」
と彼が笑いながら言う。
「だめだよ。母親の熊を刺激しないほうがいいよ。待って、近づいてくる!怖い!」
「後ろに他の車いないからバックして」
と彼が周りを見ながら言う。
それしか方法が見当たらない。
母熊が子供と車の間に入ってこちらを威嚇するように睨んできた。
少しずつバックする。
そのうち子熊が別のものに興味を示したのか林の中へ戻って行き、母熊も私たちをもう一度睨んでから林に戻って行った。
私たちはあまりスピードを出さずにそこを通過して難を逃れた。
こんなとき、スピードを出すとかえって熊を刺激する、なんてことを聞いたことがある。
そうは言うけど冷静でいるって本当に難しいことだと思う。
東京から会いに来た彼は
「貴重な体験したけど、さすがに怖かった。スマホで録画してる場合じゃなかったね」
と率直な感想を伝えてくれている。
私もこんな経験は初めてだった。
警察に連絡をしたほうがいいのだろうか…。
報告する場合は、熊の特徴をなるべく具体的に言うようにと報道されていたことを思い出した。
額の部分に三日月の模様があったなあと思い出した。
ちょっと珍しい熊かも。
Ⅱ
山にはまだ雪が残っているけれど、少しずつ食べられるものも出てきた。
去年の秋にこぼれたであろう、どんぐりなども時々見つけられる。
私は初めての子育てをしている。
私が生まれてすぐ、私の母は私の目の前で死んでしまった。
二足歩行の生き物がそこにいた。
そして私の兄弟も連れ去られてしまった。
私は必死に逃げて助かったけれど、ここまで生き延びるまでにはお腹を空かせたり、怖い思いをしたりしてきた。
そして母となった。
子供たちには元気に育って自立してほしい。
まずはしっかり食べることだ。
冬のうちは私の母乳だけで育ってきたので、これからは少しずつ色々なものを食べていく。
運が良ければ力尽きた鹿などを食べることもできるけれど、大抵は植物を食べている。
やっと外へ出るようになった子供たちと共に、食べ物を求めて歩いていたけれど、何やら嫌な予感がしてきた。
「男」が私の子供を狙っている。
子供がいると邪魔になるから、「男」は子供を殺そうとする。
自分だって子供だったころがあって、お母さんに守られてきたのでは?と思うけれど。
私は子供たちを連れて山を離れた。
「男」は山を下りて人間や「人間が入っている動く箱」の多い場所には行かない傾向があるから。
私だって命懸けだ。
あの二足歩行の生き物たちは、私たちのことを怖がっている。
私たちだって怖い。
お互い様だ。
でも、子供たちを守るために背に腹は代えられない。
「男たち」のにおい以外にも、他の獣のにおいも感じる。
どうやらここには私たちの仲間を集めて押し込めている建物があるらしい。
私の仲間もそこにいるのかもしれない。
そんなことを感じながら歩いていると、子供たちが何か動くものに興味を持ったようだ。
その中には人間もいた。
子供たちに何か攻撃をされては大変だ。
その物体は子供たちから少しずつ離れてくれているようだが、油断は禁物。
子供たちの前に回って威嚇する。
「うちの子たちに何かしたら許さない」
という気持ちを目で訴える。
そのうち子供が林のほうに興味を示して戻って行ったので、心配になり子供たちの後を追う。
子供たちが好奇心旺盛なことは悪いことではないけれど、今後何が起きるかわからない。
いつも一緒にいて守らなくては。
そして、何が危険で何が安全なのかも教えていかなければならないと思った。
第2章 5月(上弦の月)
Ⅰ
やっと暖かくなり、山菜を採る季節がやってきた。
札幌の5月中旬は私にとって、とても過ごしやすい季節。
いつもは子供たちを母に預けて夫と山へ行く私だけど、少し子供たちも大きくなってきたし、さほど邪魔にもならないので、二人を連れて山に来てみた。
この時期は熊に遭遇する心配もあるので、いつもなら熊鈴を持って行動をしているけれど、うっかり鈴を忘れてしまった。
しかもスマホの充電をするのを忘れたので、ラジオや音楽を流すこともできない。
到着して少し迷ったけど、山奥に入らなければ大丈夫、短時間にすればいいと思って結局山菜採りを始めてしまった。
子供たちは花を見つけたり、虫を見つけたり、とても楽しそうだ。
子供同士で遊んでくれるから、私は子供の相手をしなくてもいいかと思い、山菜採りに集中できた。
数十分してちょっと休もうかと何気なく周囲を見ると、私の呼吸が止まりそうになった。
黒い塊が動いているように見えた。
目が合ったら終わりのような気がした。
私は熊に気付かれないように移動を開始したけど、残念なことに熊と目が合ってしまった。
幸い車はすぐ近くにあり、収穫した山菜をトランクに入れた時には、熊は私の視界から消えていた。
そして車に乗ってから気付いた。
「子供たちを忘れていた!」
と。
普段山に子供たちを連れて来るなんてことがなかったし、二人で遊んでいるから大丈夫という過信があった。
普段から子供を母に預けて遊びに出かけることが多かった私は、子供と外へ行く感覚にあまり慣れていなくて、今日も一人であるという感覚だった。
慌てて車を移動させていると、子供たちがこちらへ歩いてくるのが見えた。
怪我をしているわけでもなく、楽しそうに歩いているのでほっとした。
急いで子供たちを車に乗せて移動を開始した。
後部座席で窓の外を見ていた子供たちが、
「お母さん、あっちを見てみて。熊さんいるよ」
「うちと同じ三人だねえ」
「そういうのは三頭って言うんだよ」
子供たちの会話を聴いてぎょっとした。
あの熊は私たちのことをずっと見張っていたのかもしれない。
次に来るときは鈴を忘れないようにしないと。
スマホも充電しないと。
子供たちに無駄なおやつを持たせておかなくて良かった。
おやつのにおいに誘われて、熊が子供たちに近づいてきたら大変だ。
「熊の赤ちゃんかわいかったよねえ」
「今度はちみつ持って来てあげよう」
という二人の会話に更に仰天した。
「熊ちゃんに会ったの?」
と平静を装って聞いてみる。
「うん。かわいかったよ。犬みたいに見えたよねえ」
「二頭で遊んでたから私たちはじっと見てただけだけど、私たちに近づいてきて、おやつ
がないって思ったのかお母さんのところへ行っちゃったよ」
「熊のお母さんのお顔に三日月の模様あって、かっこよかったよねえ」
という子供たちの話に更に恐ろしくなった。
そんな距離まで子供たちと熊の親子は近づいていたのか…。
もうこの山には行けないなあと思ってしまった。
やっぱ出かけるときは子供たちを母に預けようと思った。
Ⅱ
山菜が美味しい季節がやってきた。
冬の間じっとしていた私にとって、この季節は自分と子供たちに栄養を蓄える大切な時期。
子供たちにはたくさん食べて大きくなってほしい。
いずれは私から離れて自分一人で生きていかなくてはならないのだから、ここで体力をしっかりつけて、立派な体を作ってほしい。
今日もいい天気なので、青々とした美味しい山菜にありつける予感がした。
子供たちは楽しそうにじゃれ合っている。
周りに気を配りながらそんな子供たちを見ていると、何やら嫌なにおいを感じた。
二足歩行の生き物のにおい。
人間が近づいてきていた。
私たちのいるところよりはだいぶ遠くにいるようだから、子供たちが狙われる心配はなさそうだけど、用心したほうがいい。
どうやら私たちと同じ親子らしい。
ただ、ある点が違う。
子供たちが楽しそうに一緒に遊んでいるのは同じだが、母親はそんな子供たちのことなど見ていない。
一生懸命山菜を取っている。
私たちの食糧を取っている。
まあ、あそこなら大してたくさんあるわけじゃないし、私たちを狙ってるわけじゃないから、私が近づきさえしなければ大丈夫だろう。
ふと私の子供たちを見ると、人間の子供に興味を持ったらしい。
そして人間の子供も私の子たちに興味を持ったらしい。
少しずつ近づいている。
ただ、お互い相手を見ているだけのようだ。
何かあればすぐ私が飛んでいけばいいか、と思ってその様子をじっと見ていた。
すると、人間の母親に動く様子があった。
そして私と目が合った。
人間の母親は、そそくさと取ったものを持って去って行った。
自分の子供たちの存在を忘れているのか。
しばらく様子を見ていたが、母親が戻って来ない。
人間の世界では子供を置き去りにしたりするのか。
私なら絶対子供を置いて逃げたりはしないけど。
当然虐待なんてこともしない。
子供たちが立派に野生の社会で生きていけるよう最後まで責任を持って育てる。
人間はそんなこともできないんだろうか。
子供たちは人間の子供のにおいを嗅いでいたようだったが、食べ物のにおいがしないからがっかりしたのか、私のほうを向いた。
こちらへ来るように呼ぶと、子供たちは素直に私の元へやってきた。
人間の子供たちは母親がいないことに気付いたのか、自分たちでなんとか戻ったようだ。
母親は子供たちを忘れたことを少しは反省しているだろうか…。
第3章 5月(満月)
Ⅰ
日中は少しずつ暖かくなってきて、5歳になった娘を外で遊ばせるのも楽しい気持ちになる。
お天気のいい日は、小鳥の声も聞こえる。
私たちは山の近くに住んでいるので、自然がいっぱいの環境で子供を遊ばせることができる。
こういう経験をさせたくて去年引っ越してきたのだけれど、ここ最近熊の出没が心配になってきている。
公園で遊ばせている時も、子供をしっかり見ていなければならない。
今日も娘は楽しそうに砂場で何やら作っている。
時々振り向いて
「ママ、見て!」
と声をかけてくる。
そんな娘が今日はおとなしい。
ある一つのものをじっと見ているように感じた。
その方向を見て私は驚いた。
そこには熊の親子がいたのだ。
こちらをじっと見ている。
近づいてくる様子はないけれど、距離があってもやはりドキドキする。
おそらく娘はその親子を見ているのだ。
そして娘が立ち上がった。
視線は熊に向けたままだ。
声を出して驚かせたら、熊に娘が襲われてしまうかもしれない。
かといって、このままにもできない。
娘が熊に背を向けて私のほうへ走って来たりしたら、熊に追いかけられてしまう可能性もある。
娘を守らなきゃ…。
私は恐怖の気持ちを横に置き、娘のそばまで行った。
そして小さな声で、
「熊さん驚かせたらかわいそうだからあっちへ行こうね」
と耳元で話しかける。
すると娘も空気を読んだのか、
「そっか。小さい赤ちゃんも一緒だもんね」
とうなずいてくれた。
娘の手を繋ぎ、ゆっくり後退する。
熊はまだ私たちを見ている。
子熊が母熊にじゃれついているのが見えた。
子供をかわいいと思うのは、きっと熊も人間も同じなのかもしれない。
母熊の額には三日月が見えた。
とてもきれいだと思った。
人間とトラブルを起こさず、安全に子育てができたらいいのにと思った。
そして私も娘にいろいろ正しいことを伝えられたらと思った。
でもやっぱり熊は怖いかも…。
Ⅱ
子供たちがちょっとずつ大きくなってきた。
二頭でじゃれ合ったり、私にいたずらを仕掛けてきたりしてかわいい。
今日もとてもいい天気で暖かい。
フキを食べながら移動していると、うっかり開けた場所に出てしまった。
そこには二足歩行の生き物、つまり人間がいた。
少し驚いた。
小さな人間がこちらを見ている。
キラキラした目でこちらを見ている。
特に悪さをされそうにないが、油断してはならない。
子供たちがあの人間に興味を示したりしないか不安になる。
そしてその小さな人間の後ろに、それより大きな人間がいた。
どうやら母親らしい。
少しずつこちらへ近づいてくる。
警戒しなくてはならない。
何かされるかもしれない。
でも、その心配は無用だったようだ。
その二人は少しずつ私たちから離れていく。
子供たちに害を与える心配はないようだ。
以前、山で人間の親子を見かけたのを思い出した。
あの母親は子供のことを忘れていたようだったけれど、今日出会った母親はきちんと子供と一緒にいて、子供から目を離さない。
子供を何かから守ろうとするのは、人間も熊も同じことなのかもしれない。
でも、絶対油断はいけない。
人間に近づくことは危険なことだ。
子供たちに教えていかなくては。
そうは思いながらも、食べるものを探すために、子供を殺されたりしないように守るために、いつの間にか危険な場所に入ってしまうこともあるのかもしれない、と思った。
第4章 5月(下弦の月)
Ⅰ
今日はひんやりとした空気の朝だった。
仕事のために早く家を出なければならないけれど、実はこの時間が一番好きだったりする。
車があまり通らない分、町の音、野鳥の声がよく耳に入り、夜明けに花が開く音さえも聞こえてきそうな気がする。
晴天の日は明るくて、私の眼にはまぶしすぎる。
白杖で周囲を探りながら歩いていても、多少は残された視力にも頼っているので、今朝のように薄曇りのひんやりした朝が私には最適なのだ。
今日は燃えるごみの日なので、そろそろカラスもうるさくなるころかなあと思いながら歩いていると、何か黒っぽいものに杖が当たった。
普段はここにそんなものはないので、何かな?と好奇心が湧いた。
でもその好奇心は一気に恐怖へと変貌する。
その黒い塊が急に動き出し、地面を引っかき始めた。
犬?
それとも…もしかして!
そう思っていると、右側の車道からクラクションの音がした。
そして
「早く乗って!急いで!」
という男の声が聞こえた。
それと同時に、その黒い塊がうなり声を上げる。
私の内側では軽い葛藤があった。
『これは大型犬か熊だよ。そいつに食われたくない!でも見知らぬ男と密室で二人きりで、そっちも危険じゃないの!どうしたらいいの?』
でも、人間の男ならなんとか白杖で撃退できる可能性も残されている。
私は急いで白杖と残された視力と男の声を頼りに車の助手席に乗り込んだ。
乗り込んだ瞬間、車は猛スピードで走り始めた。
通勤ルートを外しているかもしれないなんてことは、その時には全く考えていなかった。
とにかく無事に熊らしき動物と、この人間の男から逃げることしか考えていなかった。
Ⅱ
今日も子供たちのために獲物を探している。
今迄はタケノコなどが山にあって、食べることに不自由もしなかったけれど、あの二足歩行の生き物たちが、私たちの食糧まで持って行ってしまう。
あの生き物たちは、私たちよりももっと美味しいものを食べているらしいことは、昔母が教えてくれた。
でも、非常に危険な生き物だということも教わっている。
近づいてはいけない、と。
実際母はその二足歩行の生き物、人間に殺された。
私の目の前で。
だから、どんなに食べ物に困っても、山を下りないようにしてきた。
でもさすがに子供たちがお腹を空かせている以上、背に腹は代えられない。
それに、たくさんの「男」が私を狙っている。
自分の子孫を増やそうと、私の大切な子供たちの命を狙っている。
そうなると、子供の命を守るためにも、人間の住む場所へ近づかなくてはならない。
「男」は怖がって人間の領域には近づけない。
臆病者なのだ。
私はそれを知っている。
だから少しずつ子供たちと移動してここまで来た。
いよいよ空腹が訪れた子供たちのために、私は勇気を出して人間の住処へ降りて来たのだ。
何やら今朝はいいにおいがする。
どこかをあされば、子供たちにお土産を持って行けるかもしれない。
そう思っていたけれど、私もお腹が空いてちょっと休むことにした。
しかし、私が気持ちよく寝ていると、何かが私のお尻をつついた。
私の耳はピクリと動いた。
毛を逆立て、周囲を確認する。
振り返ると、あの二足歩行の生き物、つまり人間が何やら細長い棒を持って立っているではないか。
こいつは私をどうにかするんじゃないか、子供たちのところへ帰れなくするんじゃないか。
そんな恐怖を感じた。
慌てて私は相手を威嚇した。
すると更にやっかいな物体が近づいてきた。
けたたましい音を立ててやってきて、そこにいた人間はその物体の中へと消え、その物体は私の前を通り過ぎた。
私は本能のまま、その人間が入った箱のようなものを追いかけていた。
第5章 5月(下弦の月)
Ⅰ
今日は仕事が忙しい。
特に体育の授業では運動会に向けての練習があるため、子供たちをまとめなくてはならない。
小学校の教師になってから3年になり、少しずつ学校行事の進め方などの雰囲気もわかってきたところだ。
私の勤務する小学校は6月第1週に運動会が開催される。
今年は気候が安定しないのか寒くなったり暖かくなったりする。
この不安定な時期をライラックが開花する時期から「リラ冷え」というようだが、今年は特に風邪を引く子供も多い。
体調管理の指導にも気を配り、運動会を迎えたいと思っている。
今年は3年生の担任になった。
まだまだ落ち着かない子供たちをまとめるのは結構ストレスになることもあるが、成長していく姿を見るとその苦労も和らいでいく。
いつものように車を走らせていると、信号待ちをしている私の何十メートルか先で信じられないものが見えた。
最初は黒い塊に見えたが、動き出したのを見て熊だということがわかった。
しかもその熊のそばには白い杖を持った、私と同じくらいの世代の女性が立っていた。
熊が彼女を威嚇しているように見えた。
信号が青に変わった。
私はとっさに彼女のほうへ車を走らせ、急いで助手席のドアを開けて叫んだ。
「早く乗って!急いで!」
と。
彼女はやや迷っていたようだが、状況を理解できたのか、音を頼りに車に乗ってきた。
彼女がドアを閉めた直後、私は車を急発進させた。
バックミラーを見ると、熊が私の車を追って走ってくるのが見えた。
熊は車を追いかけることもあると聞いたことがある。
時速60kmくらいの速さで走れる個体もあるという。
とにかくなんとか熊から逃げなくてはならない。
私はなるべく交通量の多い道路を目指した。
そうなると、熊もそう簡単に追いかけられないと判断したからだ。
ただ、交通量の多い道路は信号も多いし、万が一赤信号に捕まって熊に追いつかれたらやっかいだ。
しかし、運良く青信号が続いて順調だった。
しかも交通量が多い場所を選んだのは正解だった。
気付けば熊はいなくなっていた。
他の車がクラクションなどを鳴らしていたようだったから、その音に驚いたのかもしれない。
熊から逃れるまで私は無言だった。
もちろん彼女も無言だった。
赤信号になったとき、なんとなく助手席の彼女を見たら、私の好みのタイプだなあと思った。
でも、軽いやつだと思われたくないので、会話には気を付けなければならない。
「失礼ですが、目がご不自由なんですね?さっきは熊が現れたので、とっさに声をかけてしまいました。驚かれましたよね?」
とか言ってみる。
すると彼女は
「熊だったんですね。助けていただきありがとうございました」
と静かに答えた。
その後はどこで彼女を降ろしたらよいか確認し、彼女の職場近くの地下鉄駅の入り口まで案内した。
連絡先を聞きたい、せめて名前だけでも知りたい…と思ったが、結局尋ねることなく別れた。
彼女が無事地下鉄駅入り口のエレベーターに乗り込むまでじっと見守って別れた。
もしも縁があればきっとまた会えるだろう。
Ⅱ
私はとにかく人間が入った動く物体を追いかけていた。
ちょっと休憩していたのを何かでコツンとして起こしたうえ、逃げて行くなんて、なんて人間なんだろうと思った。
私は休んでいただけなのに!
私は動くものに反応する。
逃げたら追いかけたくなってしまう本能がある。
本気を出せば追いつける可能性もある。
私は必死で追いかけた。
最初あの物体の数はそんなに多くなかったので、追いつけそうだと思った。
でも、次第に数が増えてきた。
更にはもっと大きな物体、しかも割と背が高いものもやってきた。
どうやら背中に何か荷物を入れているような雰囲気だ。
そして、大きな音で私を威嚇してきた。
その音に驚き、私は逃げ込む場所を探す。
ちょうど林らしきものが見つかったので、そこに飛び込んだ。
もう最初に追いかけていた物体は、私の視界からは消えてしまった。
追いかけるのを諦め、子供たちのところに帰ることにした。
どうして何もしていないのに、こんな目に遭わなくてはならなかったのか。
山に帰って食べるものを探すことにしよう。
第6章 6月(上弦の月)
Ⅰ
6月に入って、だんだん暑くなってきた。
友達と外で遊ぶ時間も多くなった。
ここ最近うちのクラスでは、昇り棒とか木登りとか、とにかく高い場所に行くことにハマってる。
そんな私たちのことを先生は、
「みんなは猿かな?それとも熊かな?」
とか言う。
先生は前に熊に遭ったことがあるみたい。
私たちが運動会の練習を頑張っていた5月くらいに、学校へ来るときに遭って、車で逃げたら追いかけてきたらしい。
学校のそばでそういうことがあったなんてびっくりだけど、うちの学校には来ないだろうなあと思う。
学校はちょっと山に近いけど、さすがにここまでは来ないかなあと思っていた。
学校のグラウンドのそばにプルーンの木が生えている。
私も友達もプルーンを食べたいなあと思っていて、なんとか木登りして取れないかなあと考えている。
たまに木登り得意な男子がプルーンをゲットしたとか言っていて、羨ましいなあと私は思った。
今日も天気がいいから外で遊ぼうかなあと思って、窓の外を見てみた。
まだ誰も外にいないように見えた。
でも、いつものプルーンの木に誰かが登っているように見えた。
黒っぽい洋服を着ていた。
見た感じ、子供には見えないから、誰か大人が登っているのかもしれない。
もしかしてうちの学校の先生が、みんなの真似をして登ってるのかな?と思って、私は窓を開けて声をかけた。
「ねえ。木登りしてるの?そんなところまで登れてすごいねえ!プルーンの実、私も食べたいなあ」
すると、その黒い塊がものすごい勢いで振り返って私を見た。
大きな耳に、ギラっとした目。
赤い舌や鋭そうな牙まで見えた。
そしておでこの辺りにとてもきれいな三日月の模様。
怖いはずなのに見とれてしまった。
どうせ来ないだろうと思っていた熊が現れた。
なんだか怖いはずなのに笑えてきて、
「食べ物なくてここまで来ちゃったの?」
と今度は少し優しい声でもう一度話しかけてみる。
熊は私を睨むのをやめた。
私をただじっと見ている。
でも、人間の私のことを怖がったのか、木を降りてさーっと逃げてしまった。
さすがに帰りは集団下校になり、低学年はお母さんが迎えに来ていた。
あれは先生が見たという熊だったのかな。
Ⅱ
山も森も初夏らしくなってきた。
春には、タケノコやフキなどの山菜があったけれど、だんだん草の根も硬くなってきて、食べるものが少なくなってくる季節が近づく。
特に今年は暑くなるのが早そうな予感。
なんとか子供たちに食べさせなくてはならない。
春より体重も増えて、子供たちはやんちゃになってきた。
食べる量も増えてくる。
二頭でじゃれ合って遊んでいることもある。
まだまだ私にくっついてくる甘えん坊のところもある。
まだ生まれて一年も経っていないのだから当たり前だけれど。
そんなかわいい我が子を餓死させるわけにはいかない。
ここ最近になって、やっと「男」が諦めてくれて、私たち親子を追いかけたりしなくもなって、ゆっくり母子だけで生活できるようになったけれど、食べることだけは切実な問題になっている。
あまり安全とは言えないけれど、子供たちを連れて山を出てみた。
山の近くには、人間の子供が集まっている場所がある。
よく建物の中や外で声が聞こえる。
その建物のそばにいくつか木が生えている。
もしかしたら、そろそろ実が成っていたりしないかな?と、試しに行ってみた。
すると、甘酸っぱいにおいがした。
子供たちには、草むらに隠れて待つように言い含め、まずは私が偵察に行った。
思ったとおり、美味しそうな実が成っていた。
子供たちに食べさせられるかもしれない!と思い、私は夢中で木に登った。
私は実を取って、子供たちがいる草むらのほうを見た。
子供たちが木の下に来てくれたら、この実を落として食べさせることができると思った。
子供たちを呼ぼうと思ったとき、背後から人間の声が聞こえた。
もちろんなんて言っているかはわからないけれど、私に話しかけているらしいことだけはわかった。
驚いて振り返ると、その人間の子供も私の存在に驚いたようだった。
ここまで来て、この実を持って帰れないなんて!と思った。
だからつい睨みつけてしまった。
するとその人間の子供は優しい目つきになって、また何やら声をかけてきた。
私はそっと口の中に実をいくつか放り込み、子供たちの待つ草むらへと急いだ。
安全な場所に移動してから、口から集めてきた実を出して子供たちに与えた。
初めて食べる味だったようだ。
「お母さん美味しいよ」
「お母さんは食べないの?」
子供たちがそんなことを言いながら、あっという間に食べてしまう。
とりあえず、少しでも食べさせることができて良かった。
しばらくあの建物の周りには行けない。
そう思った。
第7章 7月(新月)
Ⅰ
札幌の6月から7月は、小学生の宿泊学習の時期に入る。
私が働いている「ライラック自然の森の家」は、自然の中で様々な活動ができる。
夏は様々な植物と触れ合ったり、アスレチックを体験したりできる。
冬は雪の素晴らしさを楽しむイベントを準備している。
特に7月に入ると順番に小学生の宿泊学習の予定が入る。
6月にはその準備もある。
でも困ったことが起きた。
監視カメラに何度も黒い影が映るようになった。
どうやら熊のようだ。
しかも親子。
人を襲ったわけでもないし、ただここを通り道にしているようだが、利用者との遭遇で被害が出て、無駄に熊を駆除するというトラブルだけは避けたい。
そういえば、宿泊学習に来る小学校の敷地にも熊が出たという話を聞いた。
一週間施設を閉鎖して様子を見た。
問題ないと判断して明日から開けられる!と思った矢先、また熊の親子がカメラに映った。
いつ開けられるか、猟友会や札幌市に相談し、結局もう一週間閉鎖を延長せざるを得ない状況だった。
閉鎖している間に、必要な場所には電気柵を設置、熊が潜むことができそうな林を伐採するなど、様々な工夫をした。
その後は安心して利用者を案内することができたが、利用者の皆さんには、熊鈴を使ってもらい、飲食した後のゴミを持ち帰るようお伝えした。
ちょっとのゴミでも、熊にとっては素晴らしいご馳走になってしまうからだ。
とにかく何事も被害がなく、施設を開けられることになって良かったと思った。
Ⅱ
子供たちに木の実を食べさせてから何日かの間、私たちは人間のいるところにはなるべく行かないようにした。
あの人間の子供は優しく話しかけてくれたけれど、みんながそんな風に優しいとは限らない。
でも、人間の周りには食べられそうなものが色々あることは確かなことらしい。
最近は山のほうにも、どんどん人間の家が増えてきて、私たちの住む場所も狭くなり、その分食べるものも減ってきたように思える。
それなら、ちょっと危険でもそっとあちこち歩いて食べ物を探すしかない。
私と子供たちはあちこち歩いた。
なるべく林に身を潜めて移動した。
急に人間と遭遇するのはやはり怖いことだ。
子供たちを危険な目に遭わせられない。
通りやすい道というものはあって、ついつい毎回そこを通過してしまう。
でも、ここ最近よく歩いてきた道に変化が現れた。
私たちの身を隠せそうな林が昨日までは見えていたのに、今日にはなくなってしまっていた。
人間が壊してしまったのかもしれない。
ここを通るのも安全ではないのかもしれない。
またどこかで美味しそうな木の実を見つけられたらいいなあと思った。
もう少し山より下に降りてみようか…。
人間があまり動かない夜なんかに…。
第8章 7月(上弦の月)
Ⅰ
「ライラック自然の森の家」がやっと安定して使えるようになったかと思ったら、またしても困ったことが起きた。
観光客としてきた親子連れが、施設より少し奥を見てくると言って山のほうへと向かって行った。
なんとなく嫌な予感がした。
「様子を見てきてくれないか?」
と上司から言われ、私はその親子を追いかけた。
するとかなり遠い距離ではあるものの、熊の親子らしき動物の動く様子が見えた。
観光客の親子の中の子供がおやつを地面に並べている。
しかもハニービスケットときた。
「熊ちゃん食べてくれるかなあ」
と母親まで呑気に言っている。
更に父親はカメラまで準備している。
熊が手からおやつを食べてくれることを期待しているのか。
そして熊がこのビスケットを食べる様子でも撮影するつもりなのか。
このおやつにあの熊の親子が気付いてしまったら大変なことになる。
数年前、餌付けされた熊が人間に近づきすぎた結果、駆除されてしまうという残念な出来事があった。
このおやつに気づいたら、あの親子熊も同じ道を辿るのではないか。
まだあの熊たちは人間に危害を加えていない個体なので、そんな思いをしたくはない。
私は急いでその親子に注意を促した。
「別にいいじゃない。かわいいし」
などと母親のほうは呑気な口調で言っていたが、父親のほうが少し大人だったのか、
「子供を喜ばせたくてつい気が緩んでしまいました。私たちが帰った後大変なのは地元のみなさんですよね。申し訳ありませんでした」
とおやつを片付けてくれた。
この様子を見て、施設内でのルールを今一度見直すことも必要だと思った。
また、野生動物に餌付けをした結果、駆除したくないのに、犠牲になる野生動物が出てしまうということも、しっかり周囲に伝えるべきだと思った。
それが人間と野生動物の命を守る大切なルールだと改めて感じた出来事だった。
Ⅱ
相変わらず食べ物を見つけようと、子供たちとあちこち歩く日々が続いている。
今日もとてもいい天気で、子供たちは楽しそうにじゃれ合っている。
私はその様子をゆったり見ている。
ふと何やらいいにおいがすると感じた。
子供たちもそれを感じたのか、私のそばにやってきた。
「何かいいにおいするね」
「甘いにおい」
「どこだろうねえ」
一緒にそのにおいのするほうへ向かってみる。
もちろん慎重に。
すると二足歩行の生き物が何か並べている。
それがもしかして美味しいものなのか…。
いやいや、そう簡単にあちらへ行くことはできない。
もう少し様子を見よう。
そう思って観察していると、またまた一人増えた。
何やら話をしていたかと思ったら、その並べたものたちを回収して行った。
あれはいったいなんだったのか。
回収されたとたんに、あのいいにおいも消えてしまった。
人間たちがいなくなった後、そっとそこへ行ってみた。
かすかにあのにおいが残っていた。
少しでも屑が落ちていないか探してみたが、美味しそうなにおいだけ残して、存在はなかった。
においだけで空腹を満たせるなら、こんな危険なことなんかしないのに…と思った。
そして、こういうにおいを嗅いだせいで、なおさら美味しいものが恋しくなる私たちだった。
第9章 7月(十六夜の月)
Ⅰ
7月も下旬になると、札幌も暑い日が続くようになった。
私が子供のころは、こんなに暑い日は続かなかったものだ。
地球の温暖化が影響しているのかもしれない。
今年も庭のブルーベリーが成り始めた。
毎年妻がこのブルーベリーでジャムを作っている。
ただ、近年はヒグマが住宅街に現れ、家庭菜園の野菜などを荒らしていくトラブルも増えているため、市の職員からは、そろそろブルーベリーの木をどうにかするようにと言われている。
妻の楽しみを奪うようなことはしたくないが、仕方ないと思っている。
今朝も散歩に出る前に、庭のブルーベリーを見ておこうと思った。
昨日見たときに、そろそろ実を収穫できそうだと思ったからだ。
しかし。
何かおかしい。
昨日あんなにあったブルーベリーの実が半分くらいなくなっていたのだ。
昨日最後に見たのは夕方だ。
さすがに野鳥が夜この木に止まってあんなにたくさんのブルーベリーを食べるとは考えにくい。
ふと足元を見ると、普段あまり見ないような足跡を見つけた。
しかもそれは大きいものと小さいものがあるように見えた。
更に、ブルーベリーの木のところどころに何か引っかけたような痕跡があった。
そこで私は、先月孫の小学校にヒグマが出たことを思い出した。
両親が仕事だということもあり、私が代わりに迎えに行った。
まさかそのヒグマではないか…と思った。
すぐに110番通報し、足跡を確認してもらった。
小さいものは8cm、大きいものは13cmあったようだ。
どうやらヒグマの親子らしい。
このことがわかった時点で妻は、
「またヒグマが来たら怖いから今日中に木を処分しましょう。今日中に」
と言い出した。
「もちろん、今残ってる実はあなたが全部収穫してよ。今日中にね!」
と言い添えることも忘れない妻だった。
作業をする前に思った。
ブルーベリーのことに限らず、廃棄処分するものを何でも外に放置することは色々な意味で良くない。
熊を誘うことばかりではなく、自然破壊や野生動物と人間の関係の変化にも繋がる。
知り合いの業者に頼んで作業を手伝ってもらうことにしたが、「今日中に」という妻の強硬な命令には少々グッタリした気分の私だった。
Ⅱ
暑くなってきた。
山からいただいている草などは、春に美味しく食べ、今は余った野草を食べている。
時にはザリガニや虫なども狙って食べる。
子供たちは川の水で遊び、じゃれ合うようになってきた。
私はその様子を見ながら、この近くで何か美味しいものが手に入らないかと考えてしまう。
野草などは食べ尽くしてしまいそうだ。
今年は気候のせいか、果実が思ったより育たないようだ。
雨が降らないせいかもしれない。
ちょっと子供たちと出かけてみるか…と思い立った。
と言っても、明るい時間は人間に見られる可能性が高いので、行動を起こすのは暗くなってから。
以前、美味しい木の実を子供たちに持って行けたこともあり、そっち方向を目指してみた。
甘酸っぱいとてもいいにおいがした。
子供たちが甘えた声を出す。
人間に聞かれてはまずい。
私は子供たちを軽く睨み、声を出さぬよう命じた。
甘酸っぱい木の実は、人間の家のそばにあった。
人間が来ないうちに食べたほうがいい。
夜中だったからか、人間はやって来ない。
子供たちは美味しそうに食べている。
私もこの甘酸っぱい実を堪能した。
あまり長くいるのも良くないと思い、そろそろ帰ることにした。
残しておけば、また隙を見て食べに来られる。
明るくなる前に子供たちと共に山に帰った。
私たちは美味しいものが手に入ると、その場所をしっかり覚えている。
食べることはとても大切なことだ。
数日してからまた食べに行ったが、残念ながらあの甘酸っぱい実が成る木はなくなっていた。
とても残念だった。
人間が気付いて切り倒したのかもしれない。
さて、これから私たちは何を食べに冒険しようか。
山に食べるものがないなら行動を起こすしかない。
せめて子供たちだけには食べさせてあげたいから。
第10章 8月(上弦の月)
Ⅰ
8月に入り、暑い日が続いている。
私たち夫婦は、数組の夫婦と共同の畑で野菜を育てている。
そろそろトウモロコシの収穫の時期がやってくる。
夫は仕事の疲れを言い訳に、なかなか畑に行きたがらない。
でも収穫の時期になると人が変わったように行動的だ。
今日、早速行こうということになった。
知人のトウモロコシ畑が熊に荒らされたという話が舞い込んできたからだ。
うちの畑までやられては大変と思ったらしい。
娘が私たち夫婦を心配して熊除けスプレーを買ってくれた。
登山などのときにはレンタルもできるらしい。
スプレーの値段は私が思うより高くて驚いたけれど、射程距離9mと書かれていたので安心だ。
鈴やラジオも持参して畑へ行き、トウモロコシの無事を確認する。
そして今のうちにと収穫を始めた。
熊が来そうにないのでラジオを止め、野鳥の声を聞きながら作業をしていると、斜め前のほうからカサカサ音が聞こえた。
何と藪から熊が出てきたのだ。
しかも親子。
驚きのあまり、全身が固くなってしまった。
まさか自分が熊に遭遇するなんて夢にも思っていなかったからだ。
母熊の額にはきれいな三日月模様があって一瞬見とれた。
でも見とれている場合ではない。
まあまあ近い距離の藪だったので危険だ。
少し離れた場所で収穫作業をしていた夫は、熊の存在に驚き、その場に固まって動けなくなっている。
そこでふと思い出した。
スプレーの存在を。
すぐに使えるようにベルトで固定していたので、そっと外す。
ストッパーも外してある。
手が震える。
いざとなると動けないものだ。
なんとか自分を奮い立たせ、母熊の鼻を狙ってスプレーを噴射した。
見事命中した。
母熊が驚いて藪の中へ逃げて行き、子熊も母の後を追って行った。
風下にいた私は、このスプレーの唐辛子のようなにおいをまともに受けて目と鼻が痛くなった。
風上に向かって噴射したら自分も被害を被るというのは後になってわかったのだけれど、とにかくその時はそんなことを考えてもいられなかった。
「熊スプレーって本当に通用するんだなあ」
と夫が笑いながら言っている。
男なら、自分がスプレーを噴射して妻を守ってくれてもよかったのではないか。
本当に頼りにならない人だ。
このスプレーをまともに浴びたらどうなるんだろう。
不審者撃退に使えるかもしれないと本気で思った私だった。
Ⅱ
暑い日が続き、山を歩いていても、木を登っても十分な食糧が手に入らない。
お腹がいっぱいにならない。
子供たちにも何かを食べさせたい。
そう思ってあちこち歩いていると、あるとき美味しそうなものがたくさんある場所を見つけた。
そこで私たち親子は「トウモロコシ」と出会った。
子供たちも美味しそうに食べている。
久しぶりに十分食べさせることができたと思った。
おそらく探せばまだこんな場所はあるだろう。
そう思って今日も子供たちと散歩しながら「トウモロコシ」を探す。
見つけたと思って飛び出すと、二足歩行の生き物がいて驚いた。
子供たちは何が起きたのかすぐわからなかったようで、きょとんとしていた。
風向きが変わってしまって、人間のにおいに気付くことができなかったらしい。
その直後、鼻を切り裂くような変なにおいが飛んできた。
どうやら人間が私に何か仕掛けてきたらしい。
それに驚き、私は反射的に逃げた。
子供たちが一緒にいるか心配だったが、とにかくここからは遠ざかったほうがいい。
山に戻ると、後ろに子供たちがいることを確認してほっとした。
まだあのにおいが鼻に残っているような気がする。
子供たちも私に近寄って来ない。
相当変なにおいなのだろう。
いったいあれは何だったんだろう。
せっかく「トウモロコシ」を見つけたのに、しばらくあそこには行けない気がした。
でも、食べ物を探すことだけはやめるわけにいかない。
次はどこに行こうか…。
第11章 8月(満月)
Ⅰ
お盆が終わったというのに、暑い日が続いている。
こう暑いと厨房での作業も時々さぼりたくなる。
でも、こんなに暑くても、ラーメンを食べに来る人は多い。
5年前この場所に、「ラーメンどんぐり」を開店した。
割と山の近くで、坂があったり、交通アクセスが不便な場所ではあるが、少しずつお客さんが増えて嬉しい。
ラーメンを食べた後、緑や野鳥のさえずりを感じて散歩などできるというのが魅力だ。
ただ、物価高騰の影響で、ラーメンを安く提供することが難しくなってきている。
こうなったらスープで勝負しようと決めて、ここ最近は店を閉めてからも、遅い時間まで店でスープ作りをしている。
うちの店は煮干しなどを使ったスープなのだが、豚骨を使用したスープも取り入れてみようと決めた。
そのため、様々なパターンのスープを試してみている。
今夜も21時に店を閉めた後、スープ作りをしていた。
気付くと裏のほうで何か音が聞こえた。
時計を見るともう0時を過ぎていた。
この店は裏のほうに倉庫があり、そこに肉や野菜などを保存する大きめの冷蔵庫や冷凍庫がある。
デザートに出すアイスクリームなども保存している。
そちらのほうから音が聞こえた気がした。
もしかしたら今日鍵を閉め忘れたのかもしれない。
冷凍チャーシューなど盗まれては大変だ。
私は音を立てないように裏の様子を見に行った。
空に浮かぶ満月がやけに明るいと感じた。
残念なことに倉庫が開いていた。
やはり鍵を閉め忘れていたのだ。
そっと覗くと、何か黒い塊のようなものが動めいていた。
しかも獣のにおいがした。
ヒグマだと思った。
私は静かにその場を去り、厨房に戻って衝動的行動に出た。
試しに作っていた豚骨スープを自分で運べるくらいの鍋に移し、ヒグマの背後に近づき、背中めがけてぶちまけた。
スープはそこそこ熱かったと思う。
火傷すると思う。
それに、そんなことをしても、返り討ちに遭う可能性もあった。
そんなことも考えずに行動していた。
ヒグマは一瞬うめいたかと思うと、振り返って私を威嚇してきた。
額の部分に三日月模様が見えた。
「変わったヒグマだなあ」
「豚骨スープじゃなくて熊骨スープにしたらどうなるかなあ…」
と思いつつ、そんなのんびりしてもいられない。
急にこちらへ来るかもしれない。
ヒグマはスープが熱かったのか、驚いたのか、そのまま逃げて行った。
後ろには子熊もいたようだった。
スープをぶちまけた部分を掃除しなくてはならない。
ヒグマが動いていたのは、チャーシューなどを入れていた大きな冷凍庫の中だった。
狙われたのはチャーシューではなく、ラーメンの後のデザートに出すアイスクリームだった。
スープなど撒き散らしたりせず、そのまま冷凍庫のドアを閉めてしまえば良かったのかもしれない。
ヒグマは冬に逆戻りしたと思って冬眠してしまうだろうか。
いやいや、冷凍庫にずっと入れたままにしておいたら、永眠させることになったかもしれない。
なんてくだらないことを考えてしまった私だった。
Ⅱ
最近食べ物を求めて子供たちと歩いていると、遠くから何かいいにおいがしているなあと感じる。
そのにおいを辿って、人間のうろつく場所までうっかり降りてきてしまった。
人間と遭遇するのは危ない。
明るい時間はやめておこう。
そう思って暗くなってから行動を開始した。
いいにおいの原因となっている建物を見つけた。
爪を使って開けられる場所はないか探してみる。
運良くなんとかその建物に入ることに成功した。
中に入ると更にあちこち四角く大きなものがある。
一つ一つ爪などで開けて確認してみる。
その中の一つからとてもいいにおいがした。
私たちの好きな甘いにおいだ。
肉の塊もあるようだったが、私たち親子は迷わずその甘いにおいのものを探し当て、久しぶりに美味しく食べた。
今のところ人間もいないようなので、少し力を抜いていられた。
しかし、そんな時間を覆す出来事が起きた。
急に背中に何か刺激を感じ、痛み始めた。
振り返ると二足歩行の人間が何かを持ってこちらを睨んでいる。
私は驚いて相手を威嚇したが、とにかくここは子供たちの安全のために逃げることにした。
山に帰ってから、子供たちが私の背中をぺろぺろと舐めてきた。
「お母さん、いいにおいする」
「お母さんのお背中美味しい」
と。
私は痛くてたまらなかったけれど、されるがまま。
人間の世界で作られているであろう、何か美味しいものの味を子供たちは味わっているのだろう。
自分も舐めてみたいが、自分の背中を舐めることができないのが少し残念だ。
あのまま逃げなければ、私は人間の食べ物の材料にされていたかもしれない。
私の骨や肉を使った料理ってどんな味がするかしら?
私はまだそんなに年を取っていないから、ちょっとは美味しいかな?なんてことを考えながら、そのまま寝てしまった。
第12章 8月(立ち待ちの月)
Ⅰ
山の近くのラーメン店に熊が出たという通報を受けた。
「熊を見かけた場合は最寄りの警察に連絡をしてください」
というような情報をテレビやインターネットで知らせているからか、最近このような電話が増えていて、私たちの仕事も熊関連のリサーチをする場面が増えてきた。
「熊らしき動物がいた!」
という情報もよく寄せられる。
ここ最近住宅地に熊が出没したという報告が増えている中で、熊がラーメン店の倉庫を襲撃したという話にはちょっと驚いたような、ある意味当然のような気がした。
だいたい大切な食材を保存している倉庫の施錠をしないこと自体が信じられない。
早速猟友会の方と現場に行き、足跡を確かめてみる。
大きめの足跡は13cm、他の足跡は9cm以下だったことから、親子熊であるということがわかる。
店主の話によると、熊たちはしきりにアイスクリームを食べていたらしい。
そして、母熊の特徴に驚いた。
額の部分に三日月の模様があるということ。
珍しい個体だと思った。
この熊はあちこちで発見されていたらしい。
今回ラーメン店を狙ったことから注目されることとなった。
三日月を英語で「crescent moon」ということ、そして足のサイズが13cmであるということから、「Crescent moon Bear 13」、それを略して「CB13」と名付けることとなった。
しかし、捜索を始めた途端にCB13は姿を現わさなくなった。
あの店主の攻撃が効いたのかもしれない。
しばらく様子を見ることとなった。
念のためアイスクリームの箱に付いた唾液のDNAを解析することになった。
今後の動きに注意したい。
Ⅱ
あの夜、いいにおいにつられて人間のエリアに入った後、私の背中はしばらく痛かった。
子供たちはひたすら私の背中を舐めている。
「お母さんの背中いいにおい」
「お母さんの背中美味しい」
幸せそうな子供たちだ。
私自身は自分の背中がどんなに美味しいのか確かめられず残念だ。
それに、あの甘い食べ物の味が忘れられない。
「お母さん、また何か食べたい」
「あれ美味しかったなあ」
やはり子供たちは呑気だ。
かなり危険な目に遭ったというのに。
きっと人間たちは私たちを探している。
そんな気がした。
背中の痛みが少し良くなったらまた出かけてみよう。
今度はうまくやろう。
人間に見られないように…。
第13章 9月(新月)
Ⅰ
開店準備のために店に行って驚いた。
窓ガラスが割れていた。
しかも、酒のにおいが店内に充満していた。
違和感を感じ、店内を調べる。
すると、最近完成して売り始めた「熊酔い」という酒の瓶の何本かが割れていた。
更に、窓に向かって血の付いた足跡が続いていることを発見した。
よく見ると、人間の足跡ではなく、何か獣の足跡のように見える。
しかも、ジグザグに左右に移動したような足跡だ。
更に、動物の毛も落ちている。
ここ最近、熊が出没しているとニュースで報道されている。
近所のラーメン店も襲撃されたと話題になっていた。
もしかしたらその時の熊ではないかと想像してしまった。
三日月模様のある熊なのだろうか。
うちの酒を飲み、熊なのに「千鳥足」になって帰ったのだろうか?
よりによって「熊酔い」を飲むとは、なんて素晴らしいことだろう。
うちの酒を飲んで、その獣はどう感じたのだろう。
そんなことを考えている場合ではなさそうだ。
通報したほうがいいかもしれない。
Ⅱ
背中の痛みも少しずつ落ち着いてきた。
そろそろ子供たちのために何か食べられそうなものを探す必要がある。
と言っても、今年は私たちの大好きなどんぐりが不作らしい。
十分にお腹を満たせる量ではない。
二足歩行の生き物がいる場所へは行きたくないが、子供たちのために穴場を探す必要がある。
私は子供たちが眠った後、そっと出かけてみた。
人間に会わないためには、夜暗い時間帯に行くのがいいようだ。
とにかく空腹だった。
何か食べられたらと思い、いつもの警戒心よりも食べることへの誘惑が勝ってしまい、見つけた建物に入ってみた。
今回は建物の一部を破壊して入ってみた。
でも、選択ミスだった。
ここには食べ物はなかった。
たくさんの瓶が並んでいた。
前足を引っかけていくつかの瓶を倒してしまった。
すると、変わったにおいの液体が零れ落ちた。
私は喉が渇いていたので、こぼれた液体を舐めてみた。
美味しい。
最初はそう思ったけれど、飲んでいるうちに喉が熱くなってきた。
そして、なんだかクラクラしてきた。
目が回る感じがしたので、とにかく子供たちの元へ帰らなくてはまずいと思った。
右へ左へ、わけのわからない歩き方をしながら元来た道を歩き、なんとか子供たちの元へ帰った。
着いたらほっとしたのか倒れこむ。
「なんか変なにおいするよ」
「お母さん、大丈夫?」
子供たちが私を覗き込む。
そのころには頭まで痛くなってきた。
あの得体のしれない液体はなんだったの?
もうあのにおいのするものは飲まないと決めた。
今度こそ子供たちのために何か見つけたい。
とにかく今夜はもう無理。
第14章 10月(新月)
Ⅰ
この時期の札幌の夜は肌寒いと感じる。
北海道出身の夫はそう感じないようだけれど、四国出身の私は肌寒く感じてしまう。
私は夫と二人、久しぶりに夫の実家に帰省している。
病気がちな私の母を想って、夫が私の実家近くで暮らすことを承知してくれたのだ。
札幌の実家へは時々帰るようにしている。
夕食を終えた後、夫が何か揚げ物が食べたいと言い出した。
「こんな時間に?」
と思いながら、夫の両親の前で揉めたりするところを見せるのも気まずいので、
「じゃあコンビニで何か買ってきます」
と言って出かけた。
夫の実家マンションは割と山のほうに近い。
夜はとても静かに感じる。
コンビニで、から揚げやポテトなどを買って帰りを急いだ。
肌寒いとなんだか夜は心細い。
早く帰りたいと思った。
たまに来ているとはいえ、私にとっては地元ではないのだから。
なんてことを考えて歩いていると、後ろのほうで生き物が呼吸するような音がした気がする。
振り返るのが怖い。
振り返らずに歩調を早めると、その音がもっと近づいてきたように思える。
そっと振り向いてみる。
すると、街頭の明るさで見なきゃ良かった、という光景を目にした。
黒い生き物が見えたのだ。
大きめの一頭と、小さめの二頭。
マンションはもう目の前だ。
慌てて私は走り出す。
急いでマンションの引き戸を開けて、マンションのオートロックの暗証番号を押す。
手が震える。
このマンションは、暗証番号を3回間違えると鍵が開かなくなるシステムになっている。
黒い生き物がドアのところにきて体当たりする。
そう簡単にドアは壊れないと思うけど、爪を引っかけてドアを引っ張られたら終わりだ。
慌てているせいで、2回入力に失敗する。
もう間違えられない。
こういうときこそ落ち着かなくては。
そうは思うけど焦ってしまう。
ジワジワ嫌な汗が出てきた。
なんとか3回目でロックを解除することができた。
自動ドアが開く。
急いでエレベーターのほうへ走る。
上ボタンを連打する。
こんなときに限ってエレベーターは10階にいる。
「早く!」
と叫んでいた。
その時、黒い生き物がマンション入り口のドアを引いて中に入ってきた。
自動ドアはロックを解除しないと開かない。
私を見た黒い生き物は自動ドアを前足などで叩いたりしている。
何度かやるうちにドアの一部が割れる音がした。
恐ろしい。
「来ないで!」
と叫んでいた。
その時、やっとエレベーターが下に降りてきた。
私は急いで飛び乗り、エレベーターの閉めるボタンを連打し、「3」のボタンを押した。
3階に到着して呼吸を整えていると、エレベーターの下のほうから、
「ガン!ガン!」
と音が聞こえて驚愕した。
どうやらあの黒い生き物が自動ドアを割ってマンション玄関に入ったようだ。
私は急いで非常ボタンを押して、家の中に助けを求めた。
夫と両親に事情を話すと
「どうして走って逃げたりするんだよ。熊は逃げるものを追いかけるんだぞ」
「たぶんその買い物のにおいにつられてきたのよ。あなたどうしてその買い物を置いて逃げなかったの?この際、から揚げなんてどうでもいいのよ」
「非常ボダンもいいけど、早く警察に知らせたほうがいいんじゃないのか?」
と口々に言われた。
あんな怖い思いをしたのに…。
元々札幌に住んでいる夫と両親には常識でも、四国出身の私は熊に出会うことなんてめったにないので、とっさに逃げてしまった。
一体これからどうなるんだろう。
早く帰りたい。
Ⅱ
季節も廻り、食べるものも少なくなってきた。
このころは木の実なんかもあったりするのだけれど、今年はあまり量が多くない気がする。
または、私たちの仲間が増えたから、それぞれが食べる量も少なくなってしまったのかもしれない。
これでは冬眠までに十分食べることができないかもしれない。
子供たちもお腹を空かせている。
人間の世界へ踏み込むのは怖いことだとわかっていても、人間の家の外にある木の実や野菜など、食べられそうなものを見つけたい。
前に飲んでしまった得体のしれない液体のことを思い出すと、人間の世界へ行くことが拒まれたがしかたない。
暗い時間帯なら大丈夫かもしれないと思った。
子供たちと一緒に出掛けてみることにする。
子供たちと歩いていたら、何かいいにおいがする。
私も子供たちもかなりの空腹。
そして、冬眠に向けてしっかり食べたいという気持ちも強くなっていた。
そのにおいのほうへ歩いてみる。
すると、人間が歩いているのを見かけた。
どうやらにおいはそこから来ている。
あまり近づくのは危険だ。
でも、あのいいにおいには負けてしまう。
子供たちと一緒にそのにおいを追いかけてしまった。
すると人間がこちらの存在に気付いたようだ。
一度こちらを振り向き、いきなり走り出した。
走るものを追いかけるのは私たちの習性。
そして、いいにおいのその食べ物をどうしても食べたいと思った。
その人間は建物の中へ入った。
私もひるまず追いかける。
体当たりしても入れない。
前足で叩いてみたりもする。
そして、爪を引っかけて引っ張ると、それが開いて中へ入れた。
でも、今度はまた壁があり、透明だけれど開かない。
体当たりしたり、前足で叩いたりする。
その間に人間がいなくなってしまいそうだ。
あの美味しそうなにおいのものが欲しい。
体当たりするとそれが割れて中へ入れた。
でも、気づいたらあの人間がいなくなっていた。
どうやら四角い入れ物の中に入って消えたようだ。
私はそこに入ればあの食べ物が手に入ると思い、そこをまたしても叩いてみる。
そうこうしていると、けたたましい音が鳴り響く。
子供たちが怯えている。
さすがの私もここにこれ以上いるのは危険だと感じた。
空腹で、あのにおいの食べ物を逃すのは本当に惜しいけれど退散することにした。
お腹が空くとイライラするって本当なのかも。
もっと慎重に行動する必要がありそうだ。
第15章 10月(上弦の月)
Ⅰ
ここ何か月か、同じ熊が人間と遭遇しているという情報が市役所のほうに入っている。
夏にラーメン店を襲撃した額に三日月模様のある「Crescent moon Bear 13(CB13)」であるということがわかってきた。
ラーメン店のアイスクリームの箱、酒店に落ちていた血痕や獣の毛、そしてマンションに入り込んだ熊の毛のDNAが全て一致している。
またアーバンベアが増えたか…と思った。
CB13が住処にしていそうな山が、ヘアトラップから判明したようだ。
「ヘアトラップ」とは、森林に杭を装着し、熊が自分の存在を主張して、木に体をこすりつける行動、「背擦り」を利用した罠のこと。
杭には有刺鉄線が付いており、そこに熊の毛が付く仕組みになっている。
採取した毛のDNAを解析し、熊の生息状況を調べることができる。
そこからCB13の存在がわかったらしい。
今のところ人身被害は起きていないが、今年春から度々住宅地に現れているようなので、危険個体のグレーゾーンにいたようだ。
さすがにマンションまで人を追いかけて来ては、今後どうなるか心配になってきた。
CB13を捜索するチームを作ることになり、なぜか市の職員である私もそこへ入ることになった。
『さほど動物のことに詳しくないのに…』とか、『山に捜索とかマジだるい…』とか思っている私だが、上司に言われたらやるしかない。
今日はハンターの方、警察の方と共に山に入っている。
今夜から天気が崩れるとのことで、行くなら今しかないということになったのだ。
多少風が強かったが、とりあえずまだ悪天候にはなりそうにない。
一応雨具も準備してきた。
私も注意深く地面を見ていたが、あまりよくわからない。
ハンターの方がついに熊の足跡を見つけたようだ。
サイズを測り、親子の熊であること、サイズが13cmほどのものが含まれていることも発覚。
早速その足跡を追いかける。
私たちは風下にいたため、うまくいけば熊に気づかれずに済むかもしれないと思った。
そんな発言をするとハンターの方は
「そう簡単なものじゃありませんよ」
と言う。
私はそっと溜息を吐く。
早く帰りたいと思った。
そうこうしているうちに風が止んだ。
すると50m先の藪が揺れた。
みんな息を詰めて藪を見る。
風がないのに藪が揺れるはずはない。
そこに熊がいるのかもしれない。
注意深く様子を伺う。
しばらく観察していたが、それから藪が揺れることはなかった。
しかし、想定外のことが起きた。
私のスマホが大音量で鳴った。
熊を驚かせないようマナーモードにするように言われていたのに、うっかり忘れていたのだ。
その音に反応したのか、藪から子熊が出てきた。
そこにいた誰もが騒然となる。
そしてその子熊を守るように母熊も出てくる。
よく見ると、額に三日月模様がある。
私たちを睨みつけている。
「ここから先は近づくな!」
と威嚇するように母熊はこちらを見ている。
子供を守る母の顔だ。
私は恐ろしさで固まってしまったが、念のため持ってきた熊除けスプレーをしっかり握りしめた。
他の人たちがどんな行動をとっているか把握できないほど心に余裕が持てなかった。
「見つけたぞ!」
と警察の方が叫ぶ。
その声にハンターの方が
「静かに」
と注意する。
その声に驚いたのか、子熊が逃げて行き、CB13も子熊を追って逃げて行く。
私たちもその方向を目指す。
「だいたいあんたがスマホをマナーモードにしないからこうなるんだ」
と警察の方に叱られ、ひたすら謝罪するしかなかった。
足跡は続いていたが、あの三頭がどこへ隠れたのか全くわからなくなってしまった。
あちこちに熊が隠れることができそうな林もあり、やみくもに捜索するのも危険な感じがする。
「止め足を使ったかもしれないな」
とハンターの方が言う。
「止め足」について質問すると、「野生動物が足跡による追跡をかく乱するために、後にできた足跡を踏むように一定の距離を後退して、足跡のつかないほうへ跳ぶ行動」だということを教わった。
もっと勉強しておけば良かったと反省する。
これからどうするか思案していると、雨粒が下りてきた。
また風も吹いてきた。
「しょうがない。今日はもうやめとこう。雨がひどくなるとやっかいだ」
とハンターの方が言い、すぐに下山した。
初めて野生の熊と遭遇し、私は正直恐怖を感じた。
この捜索チームから抜けられたらいいのになあと密かに思ってしまった。
その後悪天候が続き、熊の捜索ができなくなった。
このまま冬を迎えてしまうのだろうか。
Ⅱ
体に感じる風を、さほど冷たいと感じているわけではないものの、少しずつ冬眠に向けて準備をしなくてはならないと思うようになった。
私たち親子以外にも、食べ物を探す親子や、単独の「男」などもこの山にはいると思う。
私はとにかく自分の子供のことだけを考えている。
そして子供のために私も食べていかなくてはならない。
今日は風が強く、においを感じようとしてもなかなかうまくいかない。
天気が崩れるのかもしれない。
その前に何か食べておく必要がありそうだ。
子供たちと落ちているどんぐりなどを食べながら歩く。
疲れたのか子供たちが藪の中で寝転がっている。
私も一休み。
休んでいると、あんなに強く吹いていた風がある程度収まった。
すると何かいつもと違うにおいを感じる。
人間のにおいだ!と思った。
子供たちに動かないよう指示しようと思ったら、好奇心旺盛なあの子がムクッと起き上がる。
そのせいで藪が動いてしまった。
子供を制止し、黙って待つ。
人間のほうからいなくなってくれることを期待する。
しばらくすると、何やら変な音が聞こえてきた。
子供たちはその音に興味を示したのか、驚いたのか、反射的に藪の外へ出てしまう。
これはまずいと思い、私も飛び出す。
思ったとおり、私の視界に二足歩行の生き物たちがいくつか見えた。
私は子供たちの前に立ち、威嚇するように睨みつける。
これ以上私たち親子に近づいてほしくない。
子供のころのあの怖い音を急に思い出した。
子供をあんな目に遭わせることはできない。
そう思いながら睨みつけていると、今度は二足歩行の生き物が何か大きな声で叫んだ。
その声に驚いた子供たちが逃げて行く。
私も彼らの後を追って行く。
親子がはぐれるわけにはいかない。
どんなことをしても人間につかまってはならない。
ある程度走って距離を置いた後、注意深く自分たちの足跡を確認し、藪の中に身を隠す。
そうしているうちに雨が降ってきた。
どうやら二足歩行の生き物たちは雨のおかげで諦めたようだ。
安心した。
この雨はしばらく続くのだろうか。
雨が落ち着いたら、今度こそ冬眠に向けて動き出そうと決めた私だった。
第16章 10月(有明の月)
Ⅰ
秋になって朝と夕方は寒く感じるようになった。
来月には雪が降るかもしれない。
「雪が降ってしまう前に旅行したらどうか」と子供たちが提案してくれた。
子供たちが、私の75歳の誕生日のプレゼントだと、夫と私に九州旅行をプレゼントしてくれたのだ。
秋は天気が不安定で心配もあったけれど、行ってみることにした。
ちょっと心配なのは、我が家の裏玄関のドア。
鍵が壊れている。
私たちの家は山に近い場所にあるため、そう簡単に人は来ないだろうと思った。
取られて困るものもあるわけじゃなし、気にしないことにする。
やってくるとしたら、かわいい動物たちくらいかしら?と思うほど。
なので、裏玄関以外の施錠をしっかりとして旅行に出かけた。
九州には友人もいるため、移動の心配もなく、旅行を十分に楽しんでいた。
しかし、毎日の天気予報を見て心配になった。
豪雨予報が出ていた。
しかも珍しいことに札幌を通過する。
私の家のことが心配になった。
土砂崩れや浸水によって、きっと我が家は巻き込まれてしまう。
心配しながら数日が経過した。
そして娘から電話が来た。
「大変だよ。札幌では珍しく山のほうで土砂崩れがあったみたい。うちも危ないかも」
と。
今帰ってもどうにもならないし、その前に飛行機が止まっている。
落ち着いたら帰ってみることにしようと思った。
裏玄関の鍵が壊れていることを思い出した。
そこから水や土砂が入っているかもしれない。
床上浸水なども心配だ。
うちそのものの作りが古いので、風で窓ガラスが割れたりしているかもしれない。
子供たちからは、そろそろ引っ越して、娘か息子の家のそばで暮らすよう言われていた。
これをきっかけに引っ越そうか。
そんな気分になった。
とにかく雨と風が止むのを待とう。
Ⅱ
二足歩行の生き物たちと出会った直後から雨が続いていた。
あまりにも雨がひどいので、私たち親子もあちこち行けずにいた。
今日は少し雨が止んだ隙を狙って、子供たちと食べ物を求めて歩く。
ある建物を見つけた。
ラッキーなことに、建物の一部が開いた。
私たちの住む山側が開いたので、あちこち歩かずに済んだ。
中の様子を確認する。
音にもにおいにも異常はないようだった。
どうやら人間はいないようだ。
早速中へ入る。
建物の中をいろいろ探す。
歯や爪を使っていろいろ物色する。
そのうちまた雨が降ってきて、風も強くなってきた。
人間もいないようだからしばらくここにいることに決めた。
しばらく建物の中を見ていたら、最初に入ってきた場所にいいものがあったのだ。
ついに見つけた。
四角い箱の中に、いいにおいのものを。
久しぶりのご馳走。
子供たちは嬉しそうだ。
ちょっと冷たいなあと思いながらも、その冷たい食べ物のにおいと味に喜びを感じてしまう。
私も久しぶりに美味しい食糧にありついたという幸福感。
子供たちと共に食事を楽しんでいると、想定外のことが起きた。
先ほど入ってきた場所から大量の土砂や大きな岩が流れ込んできたのだ。
食べ物に夢中になり、わずかな石の音や、地面から上がってくるにおいに気づくことができなかったのだ。
更にその土砂や岩の影響で、この建物が子供たちのほうへものすごい速さで傾いてきた。
私は慌てて子供たちのほうへ回り込み立ちはだかる。
岩と共に潰れた建物が私の首の辺りまで落ちてきた。
さすがに重たい。
動こうとしても動けなくなった。
そして、岩や建物の一部が私の体に刺さったせいで、あちこちから血が出ている。
私の体は硬いほうなのに、こんな場合勝つことはできないのかもしれない。
子供たちが心配して私のそばに寄ってくる。
私は子供たちに
「ここは危険だから、雨が止んだらあなたたちだけでも逃げなさい」
と言う。
子供たちはとても心細そうだ。
でも、ここに子供たちをいさせるわけにはいかないと思った。
また建物が壊れるかもしれない。
岩が落ちてくるかもしれない。
そう思ってはいたものの、私はどう頑張っても動けない。
子供たちはどうしても私から離れようとしない。
どれだけ時間が流れたかわからない。
何日も経過していたように思える。
そしてついに私の意識も朦朧としてきた。
相変わらず子供たちは私のそばを離れない。
薄目を開けて子供たちを見ていた私は思った。
『初めての子育てをして、私はいったい何を子供たちに教えられただろう。人間は危険なのに、「男」から逃げるために、食べ物を見つけるために結局人間の近くに行ってしまった。最も危険だと教えなければならなかったのに…』
と。
私のお母さんは目の前で二足歩行の生き物に殺され、兄弟は連れ去られた。
私は逃げたけど、ここまで生き抜くのも大変だった。
色々教わる前にお母さんがいなくなってしまったから、私から子供たちにも教えられることが不十分だったかもしれない。
ああ、もっといろいろ伝えることがあったのに…。
もう教えてあげられない。
守ってあげられない。
ここから私は動けない…。
ごめんね。
本当に…ごめんね…。
そう思うと悲しくなった。
私がいなくなった後、子供たちは生きていけるだろうか。
そして、あの時目の前で命を落としたお母さんが恋しくなった。
愛する子供たちと母を想って、私はついに目を閉じた。
まぶたの裏に母の顔が浮かび、耳の内側には子供たちの私を求める声だけが最後まで響いていた。
エピローグ
11月になったばかりのこの日、彼は警察から連絡を受けて山に向かっていた。
10月の大雨による土砂災害で、特に山周辺の家は被害を受けていた。
周囲の状況を確認していた消防団のほうから警察に
「ある家に熊のような動物を見かけた」
との連絡だった。
息があるかどうかも確認されていないため、彼は警察と共にその家へ向かった。
崩れ落ちてきた土砂の影響で、家の一部も破壊されており、室内も岩やガラスの破片が散らかっていた。
注意深く様子を見てみると、黒い塊が見えた。
どうやら熊のようだ。
しかも成獣だ。
そして、そのそばで何か動くものが見えた。
二頭の子熊だった。
弱々しいながらもこちらを威嚇している。
「お母さんに近寄らないで!」
と言っているようだったが、子熊も衰弱しているのか、さほど威力を感じなかった。
よく見ると、母熊の体のあちこちに傷があった。
周囲には血痕が散らばっている。
首は子熊のほうを向いていた。
もしかしたら土砂や岩から子供たちを守ったのかもしれないと彼は思った。
そして彼は驚いた。
母熊の額には美しい三日月模様があったのだ。
間違いなくCB13であり、数年前彼が捕獲できなかったあの子熊だったのだ。
「おまえだったのか…」
彼はじっとCB13を見つめてしまった。
そして、数年前別個体と誤って仕留めてしまったCB13の母熊と、捕獲されたもう一頭の子熊のことも思い出していた。
なんとも言えない気持ちになり、彼は胸に手を当てた。
完全にCB13が息絶えていることを確認した後、子熊も含めてこの家からCB13を運んだ。
子熊の行く末についてはそう簡単に決められそうにない。
おそらくCB13親子は、食べ物を求めて人里へ降りてしまった「アーバンベア」だ。
子熊をこのまま山へ放すことが得策かどうか簡単に決断することもできず、だからと言って処分できるかどうかも決められない。
人間と熊の本当の意味の共存とはどのようなものか、それぞれが問題意識を持たなくてはならないのかもしれないと彼は思った。
全ての作業を終えたころには、19時を過ぎていた。
一人歩く帰り道、彼は空を見上げた。
あの夜と同じように、西の空に寂しそうに三日月が浮かんでいた。
その三日月の光と、CB13の額の三日月が重なり、彼はそっと溜息をついた。