政略結婚後、無事に相思相愛になったはずの妻が他の男に首ったけかもしれないと涙目のご主人と、相変わらず夫に夢中な奥さまのお話。
この作品は、『偽りの愛を囁かれた呪い持ちの元令嬢は、安らかな終わりを迎えるため、秘密を抱えたまま孤独な侯爵さまのもとに嫁ぐ。』(https://ncode.syosetu.com/n4269ia/)のヒーロー、アイザックが主人公の物語です。
『偽りの愛を~』は、2023年11月30日より一迅社様から発売されている「私たち、政略結婚(予定)ですよね?~どうやら君を好きになってしまったようだ~ アンソロジーコミック」に収録されております。
単体でも読めるように書いたつもりですが、上記を読了済みでないとわかりにくい部分があるかもしれません。少しでも楽しんでいただければ幸いです。
「浮かない顔だね、シャロン」
「アイザックさま、そんなことありませんわ。急にどうなさいましたの?」
寝台の上で心ここにあらずと言った雰囲気の妻に声をかければ、彼女は慌てたように首を振る。
(やはり、話してはくれないのか)
その可能性はもちろん考えていたが、思った以上に胸が痛む。笑顔を崩さぬように心がけながら、話を切り出した。
「勝手な推測なのだが、もしかしたら何か欲しいものでもあるのではないかと思ってね。倹約家の君のことだから、なかなか言えないのだろう?」
「いいえ、私は……」
「もうすぐ感謝祭だ。遠慮しないでいいんだよ」
「……本当に、よろしいのですか?」
ぱっと表情を明るくするシャロンは美しかった。瞳は潤み、頬は薔薇色に染まっている。そんな顔をされたら、男なら誰だってどんな物だろうが買ってやりたくなるに決まっている。そもそも彼女は滅多に物をねだることがなく、何かあっても周囲のひとのために動くばかりなのだから。だが今回ばかりは、彼女に向かってあえて条件をつけた。
「とはいえ、購入したものをわたしにも見せてくれないか。それさえ約束してくれたら、ドレスでも宝石でも好きなものを買ってくれて構わないよ」
「……そ、それは」
「おや、わたしにも見せられないようなものが欲しいのかな。困った奥さんだ」
我ながら意地悪だとは思いつつ、シャロンを逃がすつもりはなかった。彼女はとても困った顔をしながら逡巡していたが、最終的に買ったものを必ず報告するという約束をしてくれる。心配だった金子の目途がついたからだろう、彼女はどこか安心したように眠りについた。ここ最近寝不足に見えていたのも、やはり勘違いではなかったようだ。
久しぶりに見る穏やかな寝顔を見て確信した。大切な妻には、自分以外に誰か好きな相手――どうにかして金を貢ぎたくなるような男――がいるのだろうと。
***
わたしとシャロンは政略結婚である。お互いにのっぴきならない事情があったがゆえ成り立った婚姻だ。取り繕ってはいたものの、嘘塗れの結婚生活は遅かれ早かれ破綻して家名は地に落ちると思われたし、実のところまさにそれこそを望んでいた。
ところがいつの間にかシャロンの優しさに惹かれ、彼女を愛するようになってしまった。もっと違う出会い方をしたかったと思わないこともないが、我々は子どもにも恵まれ、評判のおしどり夫婦として仲良く過ごしている。それなのにここ最近、シャロンの様子がおかしい。わたしに言えない秘密を抱えていることは疑いようもなかった。
物思いにふけりため息をつく。上の空になったかと思えば、急に何かを思い出したように含み笑いをしている。あげくの果てに、自身の自由になるお金が欲しいと友人たちに話していたというではないか。
相談を受けた女性たちは、「さすがに侯爵夫人が神殿で花売りをするなんてとんでもない」と必死になって止めてくれたようである。そして、何か事情があるのならば素直に夫に相談するべきであると諭してくれたらしい。しかし、待てど暮らせどシャロンから金銭についての相談は出てこなかった。それゆえ、水を向けてみた結果があの会話である。
翌日、シャロンは朝食もそこそこに切り上げると、ああでもないこうでもないと準備に時間をかけたあげく、家人に行き先も告げないまま外に出かけてしまった。今日はお茶会などの招待を受けていないことは把握している。それであれば、彼女の行き先はひとつ、この街にある神殿である。
もともとこの地の神殿は、シャロンにとっては第二の実家のような場所だ。彼女は一時期神殿に厄介になっていたことがあり、神官たちとも仲が良く、周辺には彼女が友人として接している平民女性もたくさん住んでいる。だが、以前はこれほどまでの頻度で神殿に出かけることはなかった。一体なぜ、彼女は神殿に出かけているのか。それがわたしにはわからない。
「父上、何をなさっているのです。聞きたいことがあるのであれば、母上に直接お話をお伺いすればよろしいのでは?」
「それが一番よいことくらいわかっている。できないから、こうやって悩んでいるのだ」
馬鹿馬鹿しいといわんばかりの冷めた目で、息子が指摘してくる。息子よ、お前はまだ幼いからわからないのだ。愛するひとに捨てられるかもしれないと思った時に、面と向かってそれを確認できるほど大人は強くはない。
「だから、真相を確かめるために母上を尾行すると? そういうことをやっていると、本当に母上に嫌われますよ」
「だが、これしか確認する方法がないではないか」
「そもそも、人間には言葉があるでしょう。これがこの街の領主であり、かつての神官長候補だったなんて、信じたくありませんね」
「放っておいてくれ」
「仕事が溜まっております。お早い帰宅をお待ちしております」
「嫌味か」
神殿には連絡を入れないまま、彼女の後を追って出かけることにする。辛辣過ぎる息子が呆れたようにこちらを見つめていたが、もはやわたしに大人としての余裕や親としての威厳が残されているはずがなかった。
***
予想通り、シャロンは神殿で馬車を降りた。御者も心得ているらしく、目立たぬ場所にとまっている。出迎えに来た若い神官に向かって、彼女は小走りに近寄っていく。乙女のように輝く瞳は、雄弁にその恋心を語っているようで吐き気まで催してきた。
「領主さま、どうなされましたか?」
「いや、大丈夫だ。申し訳ないが野暮用がある。ひとりにしてくれ」
わたしの様子に不信感を覚えたのか、顔馴染みの神官に声をかけられた。とはいえ、元神官の現領主。わたしに意見ができる人間がいるとするなら、神官長くらいなものだ。そのまま重い足取りでふたりの後をつけた。通路はどんどん細く、複雑になっていく。奥へ、奥へ。気がつけば、辺りは一般人の立ち入りが禁止されているエリアになっていた。一体、どこへ行こうというのか。
疑問に思いながらついていった先で見たものは、神殿の宝物庫だった。重々しい扉を開くと、待ちきれないようにシャロンが駆け込む。やがて、聞いたこともないような甘い歓喜の声が響き渡った。
「嬉しゅうございます。この日をどんなに夢見ていたことか」
「どうぞ落ち着いて。お静かになさいませ」
「ああ、どうして黙ってなどいられましょうか」
「今まで我慢してきたぶん、堪能してくだされ」
小さく漏れ聞こえる妻の歓声、そして甘い吐息。頭に血が上り、目の前が真っ赤になったような気がした。
愛というのは不確かなもので、信じればたやすく裏切られる。それは、前領主だった父が使用人の母に手を出し、自分を孕ませたにも関わらず屋敷から追い出したことから骨身に染みている。だが、シャロンはそんなわたしに愛することの幸せを教えてくれた。彼女はわたしにとって希望であり、生きる意味そのものだ。誰がそんな彼女を汚したのか。
聞こえた声は三種類だ。シャロンと、先ほどの神官。そしてもうひとりの男。やはり出迎えに来たのはあくまで手引き役だったのだろう。ならばこの部屋の奥に、本命とやらがいるということだ。この手で息の根を止めてやる。
「シャロンはわたしの妻だ。今すぐ彼女から離れてもらおうか!」
勢いよく飛び込んだ宝物庫の中にいたのは、目を丸くしたシャロンと、わたしのことを子どもの頃から面倒みてくれている神官長、そして顔を引きつらせた若手神官だった。
***
「ずいぶんとお怒りのようだが、どうしたのかね」
声をかけてきたのは、神官長だった。彼はわたしにとって父親のような存在だ。まさか彼が妻を篭絡しようとしていたというのか。新婚時代、行き違いにより家を出たシャロンを保護してくれていた彼が? そんなまさか。ではやはり、手引き役だと思っていた男こそがシャロンの恋のお相手だったのか。はっと気がついて辺りを見回せば、いつの間にか件の男は姿を消していた。
「神官長、隠し立てはやめていただきたい。わたしは、シャロンの心を奪った憎き男を八つ裂きにしてやると決めているのだ。さっさとここに連れてきてもらおう」
「旦那さま、いけません! そんなことをしては、世界の宝が失われてしまいます」
ほとんど声を荒げたことのないシャロンが、強く反対してくる。世界の宝だと? 今どき流行りの美形なのかしらないが、彼女は目の前に夫が現れてなお、あの男を庇うつもりなのか。
「シャロン、君はわたしよりもその男が大切なのだね。家族を捨ててまでも、一緒になりたいと?」
「アイザックさま、一体何をおっしゃっていらっしゃるのでしょう?」
我が妻はこんなに演技がうまかったのか。困惑した表情で自分を見上げるシャロンは、初めて出会ったときから今も変わらず清らかで美しい。あの男への愛は純愛だとでも? そうであれば、嫉妬している自分の方がおかしいのかもしれない。彼女にとって自分ではなく、相手の男こそが運命なのだとしたら、ここは潔く身を引くべきなのか。
けれど、わたしは愛する妻を他人に譲れるほど寛容な男ではない。離縁など絶対に認めるつもりだってないし、どんな手を使っても相手と別れさせてやる。もうわたしのことなど興味がないと言われても、みっともなく無様にはいつくばって愛を乞おう。同情でもいい、彼女のそばにずっといさせてほしい。
「全部、知っている。本当のことを話してほしい」
「な、なにをおっしゃっているのか……」
「申し訳ないが、君の友人たちから話を聞いている。金が必要だったのだろう?」
驚いたように目を丸くし、シャロンが下を向いた。
「そう、だったのですね。……わかりました。すべて、お話いたしますわ。ずっと黙っているのは難しいと、私もわかってはいたのです」
「怒っているわけではない。感情というのは、自分の理性では制御できないことはわたしが一番理解している」
素直に教えてもらっていたところで、わたしはきっと嫉妬の炎を燃やし、まともな会話も成り立たなかっただろう。観念したように、シャロンが目をつぶり小さく息を吐いた。そして、テーブルを指さす。
「申し訳ありません。私は神官長さまより、これらを譲ってもらうお約束をしていたのです」
何を言われているのか理解できず、わたしは固まった。
***
「これは?」
「アイザックさまの姿絵です」
「ずいぶん昔のものだな、懐かしい」
テーブルの上に置かれた姿絵は二枚。一枚は神殿に入ったばかりのまだ幼い自分、もう一枚は、異母兄が亡くなって侯爵家に呼び戻される直前に描かれたものだ。魔力の保持のために伸ばしていた髪の毛がこうやって見ると神官らしいなとひとごとのように考えてしまった。
神殿では、信者向けに定期的に神官の姿絵が売られていることは知っていた。自分で言うのもおかしな話だが、それなりに見目の整った神官は市井の女性たちから人気がある。還俗するまで結婚はできないから、役者などよりも健全という理由で夫公認のもと応援できるらしい。
売り上げは神殿の予算としてさまざまなことに使われているため、姿絵の販売は今でも禁止してはいない。だが、かなり古いわたしのものをどうしてシャロンが購入しようとしているのだろうか。そもそも、わたしのものはもう在庫がなかったはずだ。人気のある神官は死後も姿絵が作成される場合があるが、わたしの場合は為政者となったため、さすがに何かあった際に責任が取れないから手を引いたのだろう。
「以前に神殿に息子を連れてきた際に、神官長さまからお伺いしたのです。アイザックさまが神殿に来られた頃のお姿に息子がそっくりだと。きっとこれから先、アイザックさまによく似た凛々しい青年になるだろうと。それを耳にしてから、昔のアイザックさまの肖像画を見たいと思ったのですが、屋敷には私たちが結婚してからのものしか残っていなかったのです」
「ああ、それはそうだろう。還俗した後も、肖像画を描く必要を感じなかったからな」
普通の貴族の子どものようにあの屋敷で生まれ育っていたら、年代ごとの肖像画が残っていただろうが、生まれる前に母が屋敷を追い出されているのでそんなものあるはずがないのだ。
「私も昔のアイザックさまを見たかったと、次に神殿に出かけた際にこぼしていたら、神官長さまが宝物殿にアイザックさまの姿絵が飾られていると教えてくださり、特別に見せてもらったのです。それから、もう夢中になってしまいまして」
「それが欲しくて、金策に走り回っていたのか?」
こう言ってはなんだが、たかが姿絵だ。それほど貴重なものとは思えない。じろりと横目でついにらんだわたしに、神官長は困ったように頬をかいていた。
「神官長さまは、決してわたしにふっかけてきたわけではありません。むしろ、私の手元にあるほうが姿絵も幸せだろうと言ってくださいました。ですが、神殿の経営というのはとてもお金がかかります。同時にこの姿絵は枚数も少なく、出回っていないせいで価格が高騰してしまっているのです。ご厚意に甘えて無料で譲っていただくにははばかられるくらいに」
「手に入るだけありがたいという代物なのか」
「はい。ただ、それだけの金額をなかなかご用意できず、少しずつお支払いしているところでした。昨日のお話で、残りのお金をお支払いする目途が立ったと本日はお伝えに来たところだったのです。何も言わないままでしたから、怪しまれても仕方がなかったと思います。ご心配をおかけして本当に申し訳ありません」
必死になって頭を下げるシャロンに、素朴な疑問が湧き上がる。なぜ彼女は、ここまで姿絵の件をわたしの耳に入れたくなかったのか。
「悪いことなどしていないのに、どうして秘密にしたかったのか聞いても?」
「それは、恥ずかしいからですわ。神官になることを決められたときはまだ幼く、生活のためであったと以前にアイザックさまにお伺いいたしました。また修業に励んでおられた時期に、ご実家の都合で呼び戻されたとも。アイザックさまにとって、人生でもかなり大きな節目に当たります。それなのに、私がただ可愛らしいから、美しいからという理由でかつての姿絵を求めているということをご存じになれば、きっとご気分を害するだろうと思ったのです」
「いや、聞かせてくれてありがとう。この際だから、わたしも謝らせてほしい。わたしは、君がわたしではない誰かに夢中になっているのだと思って、嫉妬していたのだ」
「まあ、アイザックさま。私は結婚してからずっとアイザックさま一筋ですわ。これらの絵姿を求めたのも、私の知らない時代のアイザックさまのことを見ていたかったからなのです」
頬を染めてはにかむ妻を見て、わたしは素晴らしい女性を娶った幸運を神に感謝するとともに、自分の思い込みと視野の狭さを反省した。
不意に息子の言葉を思い出す。
――人間には言葉があるでしょう――
まずは自分の気持ちを言葉にしてもっと伝えなくてはな。姿絵を大事にしてくれることは嬉しいが、かつてのわたしばかりを愛でられるのは寂しいとも。
もしや彼女は、長い髪が珍しいのだろうか。光魔法を得意とする神官は、魔力保持のために髪を伸ばす傾向にある。短髪のままでいる神官長が珍しいくらいだ。それくらいで彼女の関心を引けるならと、再び髪を伸ばしてみるのもいいかもしれない。
とはいえ、まずはわたしのくだらない嫉妬に巻き込んだことを、神官長に詫びねばならない。
ところがその旨を神官長に伝えたところ、意外にも楽しそうに笑われてしまった。
「儂は悪いこととは思わないよ。アイザック、君は子どもの頃から何でも我慢してばかり。ようやっと人間らしくなったようで何よりでしょう」
「……ありがとうございます」
「家族なのだから、ふたりはもっと言いたいことを言いあいなさい。思いやりはもちろん必要だけれど、素直な気持ちを伝えられるのは健全な関係だからこそ」
シャロンとの結婚を決めたとき、神官長が顔を綻ばせていたのは荒んでいたわたしを見かねていたからだったのかもしれない。わたしたちはふたりして神官長に頭を下げ、先ほどとばっちりで殺意を向けてしまった若手神官への謝罪を言伝てた上で、そそくさと屋敷に戻ったのだった。
***
別々に出かけたわたしたちが同じ馬車で自宅に戻ると、笑みを浮かべた息子が出迎えてくれた。帰宅時間を伝えていなかったのにタイミングよく現れたことから察するに、息子は妻の悩みもわたしの行動もすべて把握し、どれくらいの時間帯に帰ってくるかまで予想していたに違いないのだ。頼もしくはあるが、まったく子どもらしくないその手際の良さが末恐ろしい。だが、妻はにこにこと礼を言うばかりだ。
「まあ、ありがとう。実はね、とても素敵なものを家族への感謝祭の贈り物として用意できたのよ。週末の夜が楽しみね」
「はい、楽しみにしています」
シャロンが着替えのために自室に移動すると、息子の笑みは一気に冷ややかなものへと変わった。母親が大切な気持ちは理解できるが、父親をゴミクズのように扱わなくても良いのではないだろうか。同じくらいとは言わずとももう少し優しくしてもらっても、罰は当たらないと思う。
「父上は、本当に愚かですね。何よりも家族を大切にし、誰よりも父上のことを愛している母上のことを、浮気をしているかもしれないと疑うなんて」
「反省している……」
「口では何とでも言えますからね。今後はきちんと行動で示してもらわねば」
それほど甘いものを好まないはずの息子が、嬉々としてお茶の準備をしている。シャロンが喜びそうな焼き菓子がテーブルに並べられていたので、好みをよく把握していると感心していると鼻で笑われた。それくらい本人に聞かなくてもわかる必要最低限の情報らしい。
「母上、お茶の時間にいたしましょう。今日のおやつは、調理長に頼んで僕もお手伝いをした特別な一品ですよ」
シャロンを迎えに行った息子の声が聞こえる。妻の返事はこちらには聞こえない。だが息子の目線に合わせつつ、楽しそうにおしゃべりをしている様子が目に浮かんできた。さきほどの息子は凍てついた瞳をしていたが、母親の前ではきっと天使のように優しい笑顔を浮かべていることだろう。
ちなみに妻だけでなくわたしの好物でもある焼き菓子だが、わたしに振る舞われることはなかった。シャロンはそれに気がついたが、すぐに息子が制したのだ。
「父上は、健康のために甘味を控えていらっしゃるそうなので」
にこやかに話す息子だが、これは明らかに妻を疑ったわたしへの罰なのだろう。しおしおとなりながら紅茶に口をつけたところ、猫舌のわたしには熱すぎる温度で悶絶する。日頃はわたし用に適温でふるまわれているのだが、妻を疑ったことに息子だけでなく使用人たちも腹を立てていたらしい。
その後、妙にぎこちないわたしと息子のやり取りを見たシャロンは、「もう反抗期が始まったのでしょうか。ですが、自分の気持ちを素直に表現できるのは健全な証とお伺いしましたものね」と何か納得したように頷いていたが、わたしはうまく答えることができなかった。
***
それから数十年後、かつて息子に向けられたような冷たい眼差しを再び向けられることになる。
「髪が薄くなったような気がする。いや、気のせいか?……」
「おじいちゃま、準備できた?」
「いや、これは神官時代と同じように髪を伸ばしているから薄く見えるようなだけで……。同世代の男性陣に比べれば薄いということはなく……」
「ねえ、おじいちゃま。一応言っておくけれど、外出前にその謎の海藻エキスを頭にかけたら今日のお出かけは中止になっちゃうからね」
ようやっと手に入れた東の島国の秘薬を取り上げられ、仕方なく孫娘に従った。
「まったく、おじいちゃまはおバカさんね。おばあちゃまが、髪の量や髪の長さでおじいちゃまのことを嫌いになるはずがないでしょう。おばあちゃまは、おじいちゃまがおじいちゃまだから、好きになったのに。どうしてわからないのかしら」
愛するシャロンそっくりの幼い孫娘は、かつてわたしを責めた息子そっくりの呆れ顔でわたしを叱ってくる。こんな未来が待ち受けているなんて、このときのわたしはまったく想像もしていないのだった。
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