エックスデーへ①
灰色の部屋。
仕様を呟く独り言。
粗ぶったタイピング音。
硬い革靴の足音。
隅にある扉の向こうから小さな緊張した声とイラつき。
繰り返される電子音がカチャリと止まり、妙に畏まった別人格が喋りだす。
日の差し込まない狭いオフィスに通う日常はまだ続いている。
『そのまま捨てるくらいならあ、あてぃしに欲しいなあって』
頬を赤らめて彼女は言った。
『翔悟ちゃんの命』
あんな事を言っておきながらも五鬼熊は相変わらず会社にいる。
俺との約束を信じているんだろう。いや……俺も同じだ。俺だってあの一夜の事をここで話されたら会社になんていられない。もしそんな事をされたら今頃は俺を横目に噂話をそこらでしてるだろうし、上司に気難しい表情で呼び出されて問題行動だけは起こすなと釘を刺されることになるだろう。
一蓮托生だ、あくまで。
お互い約束を信じてるから、俺達はここにいる。
変わったこともある。
俺の調子だ。
あれから俺は仕事の効率が妙に上がった。まず終電で帰る事がなくなった。正直、絶好調といってもいい。些細なメールで悩むことも減ったし、色々と吹っ切れて思い切りよく仕事を進めることができるようになった。ついでに寝つきも良くなって睡眠の質も上昇。体を動かすようになって肩こりもなくなった。全てが順風満帆。流石に定時に帰れるようになるのは当分先だろうが。
一生分のアルコールを飲んで全部ぶちまけたからか、五鬼熊が慰めてくれたからか、彼女と色々話をして粗末な悩みが吹き飛んだからか。
ともかく五鬼熊のおかげなのは確かだろう。アイツが俺の体に絡まってたしみったれた呪縛を豪快に引きちぎったんだ。
「長谷川。急で悪いけど昨日言ってたヤツ、仕様変わったからすぐ直して。単体問題なかったらそのまま一気に結合まで。もうA環境つかっていいから」
「マジですか。え? 次のバージョンでっていうのは」
「なし。来週頭に本番リリース」
「今週中……って事ですよね」
「そりゃあ当然ね」
「……最優先で取り掛かります」
「よろしく。あと終わったらSTの環境構築とリリース準備も。分からない所は五鬼熊にやり方聞いて」
「……うっす」
有無を言わさぬ差し込み。
終わったと思ってた方向からの強襲に「うっ」と呻きたくなる。
理不尽なのは相変わらずだ。それでも、死にたいと思っていたのが嘘みたいに自分のデスクの居心地が悪くないと俺には思えた。
「参ったな……できれば夜に体力を残しておきたかったんだが」
「何か用事でもあったんですか?」等と耳聡い同僚に勘ぐられた俺は「いや、別に」と惚けて一先ず手を早めることにした。
◇
俺はいとも簡単に夜空を飛んだ。
「あ、やべ」と思う暇もなく、ろくに受け身も取れずに背中から芝生に落ちる。
静かな深夜の公園に俺の悲鳴だけがむなしく響く。
五鬼熊に俺は訓練をつけてもらっていた。
場所は会社の近く。時間はその日の仕事によって変わるが、人通りの少ない時間帯を狙って集まっている。
深夜、誰もいない公園、二人っきり。
もし知り合いにでも見つかったら『密会』と勘違いされそうだが、実際には五鬼熊がひたすら俺をボコボコにする会である。なんとも色気のない話だ。
それが一度や二度ではない。
毎晩だ。
最初の一回こそ五鬼熊の提案だったが、負けん気と運動不足とストレス解消が重なって、気が付けば日常になり始めていた。
くたびれた三十代にしてはよく頑張っている方だが、
「いてて……この訓練、効果はあるのかね……」
「継続は力なり、だよ~」
俺は腰をさすりながらジャージについた草を払い、涼しい顔をした彼女を見上げた。彼女は仕事着のままというハンデ付きだというのに余裕の表情。
「そりゃあそうだけど。五鬼熊に修行つけてもらって一週間ちょっと。毎日手合わせしてるのに、全く歯が立たないどころか何も成長してないんだし……」
短期間で結果を望むのは高望みかもしれない。
だけど自分の変化を何も感じられないのは、惨めだ。
「うーん、気が付かないかなあ」
「分からん」
「もちろん翔悟ちゃんはちゃ~んと成長してるよ~」
「例えば?」
「そうだなあ……ぼけ~っとしなくなった所とか、あてぃしに捕まれる時にちゃ~んと怖がってる所とか、あと背筋もシャキッとしてきてるし、目つきもいい」
「……それって成長なのか?」
「もちろんだよお! 細か~い所を言うと、拳への力の入れ方とか、足運びとか。地味~に良くなってきてるかなあ」
「本当か? 全然変わってない気がするけどな……」
軽くシャドウボクシングをしてみるが、正直全く分からない。
そもそも彼女の訓練の仕方が「こうしてみろ」「ああしてみろ」と一つ一つ動きを教えてくれる物ではない。「とりあえず戦おう」なのだ。バリバリ実践主義である。
だから俺はただ必死に動きを真似したりボコボコにされないように逃げたりしてるだけ。そして結局いつもボコボコにされている。成長しているといわれても何も違いが分からない。実感ゼロだ。
「それにほらあ。今も息が乱れてない」
「言われてみれば……」
ハッとした。
以前はすぐに汗だくだくになって顔から垂れ流していた、五鬼熊の手から逃れるのに必死で。干からびた頃にむんずと掴まれて地面にポイ捨てされるのだ。それが今は少し顔や首に滲んでる程度で澄んでいる。
「無駄な動きが減って、体力もついてる証拠だねえ」
「成長……してるんだ」
「うんうん。中々いい『色』に戻ってきてるねえ」
嬉しい。
思わず顔がにやけてしまうのがを袖で隠しながら立ち上がる。指でわっかを作って遊んでる五鬼熊をよそに、俺は構えた。
「もう一回だ」
そう宣言して、俺はもう一回空を飛んだ。今度は「げ、やば」と頭から地面に落ちていってる事に気付き、どうすることもできなかった。
……五鬼熊は強いな。
薄汚れた星空と、街灯の灯と、見下ろしている美女。
意識が――考えがまとまらなくて、目の前がぐちゃぐちゃに溶け合っていく。
それはどこかあの日の情景に似ていた。
変なキャラクターのマグカップ。
どこまでも回転する黒と白の飲み物が、混ざりあって、濁っていく。
そういえば前に言ってたっけ。
『こう見えてあてぃしは『大魔王』なんだよ~』って。
そりゃ強い訳だ。
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